虹越え5−3−1







「ユーリ!」
「渋谷っ!」
「坊ちゃん!」

 突然変貌した少女の奇行に驚きはしたものの、そのことで反応が送れるほど油断しているつもりはなかった。しかし、射出されるようにして飛び出していったコンラートの身体は、空しく霧を掻くだけであった。

「何…!?」

 幾ら霧が絡みつくほど濃厚に垂れ込めたとはいえ、ほんの数歩先の空間には有利がいるはずなのに…どれほど進んでも大地には芝草と降り積もる花弁があるばかりで、有利の痕跡も伺う事が出来ない。

 空間を操られていると悟ったコンラートは素早く背後に目を向けるが、そこにはエルンストはおろか、村田とヨザックの姿すらない。

 彼らしくもない失態に舌打ちするが、コンラートは慌てて動き回るような愚は犯さなかった。

 腕に巻いていた綾紐に命じて妖(あやかし)の日本刀…《凍鬼》を現出させると、す…と腰を落として抜き身にした剣を中段に構える。

『必ず動きはある。そこを見逃すな』

 有利を求めて暴れ回りそうな自分の心に制動を掛け、コンラートは待った。
 大気が動く、その瞬間を。



*  *  *  




「猊下!」
「…!」

 ヨザックは飛び出そうとする村田の肩を掴むと、自分の背後に護り込んでエルンストに向き直った。有利の事も心配だが、こちらはコンラートが何とかするだろう。今の自分の仕事は、第一には双黒の大賢者の身の保全をはかる事。第二には、この妖しすぎる教員の意図をはかる事だろう。

「あんた…何の真似だ、こりゃあ?」

 手首を軽く捻れば暗器である短剣が3本現れるが、実際問題としてこれがどれ程の役に立つかは分からない。ヨザックも訓練としては土の要素の使い手であるグウェンダルと戦った事もあるが、エルンストは土だけでなく気象条件を操れるようだ。今、目の前にいると思っている姿も、作り出された蜃気楼である可能性が高い。

「言っただろう?私は朧月を助けたい…そのためには、渋谷君の助けが必要なのだよ」
「目的は確かにそうなんだろうさ…だが、あんたはあの人の良い坊ちゃんにどれほど嘘をついた?あんだけまっすぐな子供に、何をさせる気だ!?」
「嘘…ね。確かに私は全てを話してはいないよ。だが、いくらあの子が素直な良い子でも、自分の精神が封印されて、肉体が朧月の物になると分かれば嫌がるだろう?だから、仕方がないんだよ」
「な…っ!」
「最初からそのつもりだった…てわけか」

 悪びれた風もなく、いけしゃあしゃあと言い放つ男にヨザックは声を失い、村田は眼鏡のフレームを押し上げながら呟く。毒気が放射線状に滲み出るような気配を漂わせて。

「そこまでして恋人を…肉体を持つ者として固着させたいんですか?」

「ああ…それこそが、かねてからの私の願望なのだよ。最初は妖怪の血を捧げたが、君達にも説明したとおり…これは上手くいかなかった。だから私は、各地の高校や大学を回って朧月の器となるべき人物を捜していたのだよ。まさか…適合する者が男の子だとは思わなかったがね。それも…魔王等という肩書きと、不思議な運命を背負った子だとはね…。だが、あの子はとても可愛らしい子だね。本当に素直で、無邪気で…すぐに私の事も信じてくれた。それに、幸いにして私は彼の恋人たるコンラート・ウェラー君にもよく似ている事だし、これから眠って貰う事になる彼の意識もそれほど違和感なく受け入れてくれるのではないかな?そういった面でも渋谷君と朧月とは、上手くとけ合えると思うよ」 
「その結果、恋人の姿形が変わっても…持つ性質が変わってしまっても、あなたは良いと言うのですか?」
「ああ…彼女が彼女でいてくれるなら、私はかまわないよ」

『あなたがあなたでいるのなら…』

 期せずして、コンラートと似た意味の言葉を口にしたエルンストに村田は苦笑する。
 コンラートに対して含むものを持つ彼であっても、この言葉の重さがどれ程異なるかは重々承知している。

 彼は…コンラート・ウェラーという男は、魂の底の部分からそうと信じる言葉を、誓願のように口にしたのだ。
 だが、目の前のこの男は…そうではない。
 そんな筈はないのだ…。

「嘘つきだね、先生…」

 絶対的不利に立つはずの少年がクスッ…と、毒のある笑みを漏らすのに、エルンストは眉根を顰めた。
 彼の漆黒の瞳が、妙に力を持ち続けていることも気にくわなかった。
 彼は大切な友人を…《王》たるべき少年を失って、もっと焦ってしかるべきなのだ。

「これも嘘かい?君は余程私を嘘つきに仕立てたいらしいな」
「気づいているのだとすれば無益だと思うし、気づいていないのだとすればあまりにも愚かだと思いますよ?先生、あなたは自分の恋人が変わっていく事に耐えられずにその精神を眠らせたんじゃないのですか?」

 ぴくり…と、エルンストの片眉が跳ねる。

「僕も妖怪や精霊といったものにそれほど詳しいわけではないので憶測ですけどね。本来、血…いや、生身の身体から出る体液によって穢されることのない植物の精霊が人と交わると、その精霊は性質を変え、本来の意識を留める事が出来なくなるのではないですか?そういう民話を僕はいくつか知っていますよ」
「民話だって…くだらないお伽噺を教科書のようにでも思っているのかい?」

 嘲笑するようにエルンストが吐き捨てるが、村田は我が意を得たりとばかりにパンッと手を叩いた。

「教科書!まさにそうです。お伽噺の中には様々な有益情報が隠されているものですよ。ある者にとっては退屈な書物でも、見る目を持つ者には大きな存在意義を持つ…その点では実に教科書というものに酷似していますね。ねぇ先生…朧月がおかしくなったのは本当に、妖怪の血を捧げてからですか?本当は…あなたと肉体的に結びついたときから、既に朧月はおかしくなっていたのではないですか?」
「憶測で物を言うのが実に得意な子だね。だが、実証を伴わない仮説は妄言と断定されても仕方ないよ?」
「常に論述とはまず仮説の上に成り立つものですよ。勿論、裏付けも必要ですが、僕は今…十分にその裏付けを貰っていると思いますね。あなたのその反応で…」

 くすくすと嘲笑する村田に薄寒さを感じつつも、ヨザックは感心しきりであった。

『坊ちゃんとはまさに対極の存在でらっしゃる。疑い、揺さぶりを掛ける事で相手の真意を確かめようとしているわけだ』

 直線に懐に飛び込んできて心を開かせる有利とは、まさに対照的な存在である。
 だからこそ彼らは並び立ち、互いを必要とするのかもしれない。

「あなたは肉体を求めるあまり恋人の気を触れさせてしまった事に耐えられなくなって、その魂だけを渋谷に取り込もうとしているのではないですか?そして…そんな事で自分の飢えが満たされない事を知っていて…渋谷にまるで恋人にでもするような対応を見せたんだ。渋谷の身体を使う事に朧月が拒絶を示せば、その精神を封じて、代わりに渋谷の精神を覚醒させるつもりだったのでしょう?そしてせいぜい、お涙ちょうだいの演技で《朧月の魂を持つ君を愛したい》とでも言うつもりだった?」
「……」

 エルンストはゆっくりと立ち上がると、凄まじい眼光を湛えて村田を睨め付けていた…が、すぐにその姿は霧に取り込まれ…
 ヨザックと村田とは、お互いしか確認できない世界に取り残された。

「やぁ、凄いですねぇ…あの根性悪の妖怪をやりこめちまうなんて!流石は大賢者様!」
「僕にはアレが精一杯さ。あれで、あのセンセイ様が少し焦って事に臨んでくれるとありがたいんだけどね。あとは渋谷に任せるしかない」
「どうも俺の頭は回りきらないんですが…猊下はあの男の目的というか…そこに至る手段に察しがついてるんで?」
「さっきのやりとりで大体察しはついたよ。やはり、あの男は本人も言うとおり力業では渋谷の身体や精神をどうこうする事は出来ないんだ。このご大層な演出は、渋谷自身にウェラー卿よりも自分を選ばせるための段取りなんだよ」
「隊長を見限ってあの先生を選ばせる?んな事出来るんですかね」
「彼は出来ると信じているようだね。単なる彼の希望というだけでなく、そう思わせる事に対しては妙に自信があったのが気になるな…。あの男は、ある程度相手の記憶を読めるんじゃないかな?特に自分のテリトリーに引き込んだときにはその能力が高くなるんだと思う」
「するってぇと…坊ちゃんのトラウマにでもつけ込むつもりでしょうかね?創主のやり口に似てますね」
「そうだね…だが、渋谷はその創主にも勝ったんだ。それが、地球の単なるはぐれ妖怪にやられてちゃ帳尻が合わないだろう?」
「そうですね…後は、坊ちゃんを信じますか…」
「ああ…」

 ヨザックは油断なく辺りの気配を伺うと、コンラートと同様…一瞬の変化にも対応できるように腰を落とした。



*  *  *




『ここ…どこ?』
『俺…何してたんだっけ?』

 何か思い出さなければならない事が…やらなくてはならない事があったように思うが、どうにも思い出せない。

 辺りは茫洋たる霧に包まれ、見渡す限り人影も物陰も見て取る事は出来なかった。

「ユーリ…」

 慕わしげな柔らかい声に呼びかけられて初めて、自分の名前を思い出す。
 渋谷有利。それが自分の名前であった。

 そして、声を掛けてくれたのはコンラート・ウェラー。
 有利はコンラッドと呼んでいる、大切な…とても大切な人だ。

「コンラッド!ここ何処だろう?俺…何でこんな所にいるんだっけ?」
「ユーリ…」

 駆け寄るが、コンラートの陰は淡い陰影のままで、走っても走ってもその姿に触れる事が出来ない。しかも、呼びかけてくる声はどこか悲しげなものに変わっていく。

「ユーリ…俺は、行かなければなりません。あなたを置いて…」

 言われた言葉を脳が理解するまでに…どのくらいかかったのだろう?
 大脳辺縁系や視床がそのことを感情としてとらえるまでには、少なくともそれ以上の時間がかかったように思う。

「どう…して?」

 記憶がどぅ…っと、音を立てて蘇ってくる。

 大シマロンでの事…創主を倒した後、地球に強制送還されてどれ程自分が孤独だったか…それを…あの体験を…もう一度味わえと、コンラートは言っているのだろうか?

 きっと、彼なりの理由があるのだろう。
 だが…離ればなれになるのはもう嫌だ。

「じゃあ、俺…ついていくからな!約束しただろ!?あんたは好きにして良いけど、俺だって好きにするから…絶対ついて行くって!」
「無理ですよ…あなたでは無理です。どうかここにお残りください。さようなら…ユーリ…」
「う…嘘つき!コンラッドの嘘つきっっ!!嫌だからな、俺…絶対ついて行ってやるんだからな!」
「渋谷君…」

 泣き崩れそうな身体を、そっと背後から包み込んでくる腕があった。
 大好きな人と同じ声と、同じ感触を持つ…エルンスト・フォーゲルだと分かる。

 そのことを理解する頃にはコンラートの陰は薄れ、気配が失われてしまう。

「辛いかい?」
「………辛い」

 泣きそうなのに…涙が出てこない。
 こんなにそっくりな人に抱かれているのに、有利は泣く事が出来ない自分が不思議だった。

「先生…離して……俺、コンラッドを追いかけるんだ……」
「彼が望んでいなくても?」
「……っ!そうだよっっ!!あいつがどう思おうが、嫌がろうが…俺はもう我慢しないって決めたんだ!絶対について行くんだ!!」
「無理だよ。ほら…君はもう動く事も出来ないじゃないか」

 エルンストの拘束が解かれると、力を失った有利はくたくたとその場にしゃがみ込んでしまう。

「先生…」
「可哀相に…コンラート・ウェラー君に去られた事で、君はこんなにも傷ついていたんだね。もう、独りでは何をする事も出来ない。泣く事も、食べる事も、眠る事も…もうどうでも良いいよね?」
「………」

 身体が重く、意識は更に鈍り…どんよりと泥のような感覚しかない。
 耳元で囁きかける声は愛しい人と同じ声で…残酷な現実を突きつけてくる。

「もう…終わりにしないか?その身体を投げ出して、意識を飛ばしてしまわないか?そうしたらとても身体が軽くなるよ。もう、なにものにも傷つけられたりしない…。私が絶対に護ってあげる」
「何も…」
「そう、何も感じなくなるんだよ。そうしたらその身体はいらなくなるだろう?そうなったら…その身体を私の大切な人にくれないか?」
「大切な人…朧月さん?」
「そうだよ…私の、大切な大切な人…彼女に、君の身体を委ねてくれないか?そうしてくれたら私はとても救われるし…君は二度と何者にも傷つけられない」

 何者にも傷つけられない…。
 そうしたら、こんな…心を無茶苦茶に切り刻まれるような痛みから逃れられる?


 急に…有利は自分がしゃがみ込んでいる場所が、薄汚れたコンクリートの上だということに気づいた。


 じりじりと…ひりつくような陽光に背中を灼かれている。
 暑い…
 なんて暑いんだろう?

 肌に絡みつく大気は噎せるほどに熱く…耳にはけたたましい蝉の声が響いてくる…。

『ここは…』 

 無機質なコンクリートの床
 錆び付いた鉄柵
 嘘くさいほどに真っ青な空が、頭上にのしかかる。

 ここは…普段は鍵がかかっていて登る事が出来ないのに、偶然施錠忘れがあったのか入り込むことが出来た…15階建てのビルの、屋上。

『昨日は、俺の誕生日だったんだ』

 17歳の誕生日だった。


 この日を迎えるまで、有利は儚い希望を持っていた。
 もしかしたら、誕生日に何かの奇跡が起こって眞魔国に帰れるかもしれない。
 コンラートに、会えるかもしれない。

 根拠のない願望だと分かっていても、その日までは夢見ることを止める事が出来なかった。
 そうでもしないと、一日一日を生きていく事が出来なかった。
 退屈で平凡な日常生活の繰り返しに、耐えられなかった。

 しかし期待した分、何も起こらなかった誕生日への絶望は深かった。
 気がつけば柵から身を乗り出し、遙か下界の人々を見下ろしていた。

 ほんのちょっと身体を浮かせれば、有利の身体は宙を舞う事だろう。

『これは…あの日……今日?』

 これが思い出なのか、現実なのか…その境界が次第に曖昧になってくる。
 鉄柵に触れてみた。

 熱い…。
 火傷をしそうな温度と、剥がれたペンキの端が掌を物理的に刺激してくる。

『もう、いいんだよ…』
『楽になって良いんだ』
『苦しいことも、悲しいことも、何も感じなくなる…』
『全てを委ねて、そこから飛んでごらん?』
『鳥のように自由になれる…』

 大好きな声が、自分を誘う。

 なのに…有利はきゅ…っと眉根を寄せた。


「……だ…………」


『何?』

 期待するような声が、受諾を確認するように重ねてくるが、かそけき声は次に放たれたときには少し大きく…


「……嫌、だ…」
「…何?」

 更に放たれたときには、怒濤の勢いで喉奥から迸った。


「…嫌だっ!」





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