虹越え5−2−1 4月の第3水曜日、離退任式に合わせるようにエルンスト・フォーゲル教諭の臨時採用が決定し、既に話題の人であった彼は熱狂をもってこの高校に受け入れられた。 「エル先生ーっ!あたし、この本の訳文を自分なりに考えてみたんですけどぉ…休み時間とか放課後に助言頂けません?」 「私お料理とか得意なんですー。良かったら、明日お弁当作ってきましょうか?」 4限目の授業が終わるやいなや、3年7組の教室内でも引きも切らず女生徒達が押しかけ、エルンストに話しかけてきた。 「凄いなぁー。みんなパワフルと言うか…」 有利も興味はあるのだが、あの人垣を越えてまで話しかける元気が出ない。 「でもさ、ちょっと不思議だよね。コンラッドも先生も同じ顔で雰囲気も似てるのに、コンラッドはあそこまで囲まれたことないよね?」 「立場の違いもあるだろうけどね。ウェラー卿は警備員な訳だし」 『渋谷専用という感じがひしひしと伝わってくるし…』 とは流石に言わず、村田健は律儀に有利の話に乗ってやった。正直、彼にとってはどうでも良い話題なのだが、《ウェラー卿腹黒説》を提示して気まずくなった日の夜更け、有利が電話をくれたことが彼の心証を暖かいものにしていた。 電話の向こうで、最初は何を言って良いのか分からない様子でとりとめのないことを喋っていた有利だったが、ほろりほろりと心に思うことを明かし、村田に伝えてくれたのだ。 村田が有利に対して行ったこと(創主に向かって突き飛ばしたことや、地球に強制送還される可能性を黙っていたこと)は、以前にも話したとおり気にするような事ではないのだと…。 村田が常に有利の身を案じてくれていることは、よく分かっているし感謝もしているが、そのことで村田が傷ついたり、心配しすぎて疲れてしまうのが心配だと…。 不器用で整理のつかない言葉の数々は、それでもどんな花束よりも鮮やかに村田の心を満たし、穏やかな心地にさせてくれた。 「何?お前等もあの先生に興味津々なわけ?」 「そりゃそうだろ?あれだけそっくりじゃあ、別に知り合いでなくても気になるだろうし、有利にとっては名付け親さんに関連した話なわけだし」 椅子に逆さまに座って、後ろの席の村田に話しかけていた有利の所へ黒瀬と会澤もやってきた。この二人、あまり仲は良くないのだが、どちらもわりと同じタイミングで有利に話しかけようとするため、気がつけば一緒にいることが多い。 『渋谷にメロメロにされた気の毒なクラスメイト』 と、二人まとめて村田に定義づけされているとは知るよしもない…。 「しかし、本当にそっくりだよな。どこかで血が繋がってたりしてね」 「どうかなぁ」 黒瀬の言葉に曖昧な返事を寄越すものの…有利としては、流石にそれはないと断言できる。 これが眞魔国であれば愛の狩人ツェリ様の落とし子という可能性が色濃く示唆されるところだが、流石の彼女も地球まではその食指を伸ばしてはおるまい。 「私の話かな?」 「あ、先生」 女生徒の垣根を越えて自分から興味の対象が近づいてきたものだから、黒瀬も有利も少し慌ててしまう。村田の方は流石と言うべきか、鷹揚に構えてゆったりと余裕のある微笑みを浮かべていたが…。 本日もエルンスト・フォーゲル教諭は細いストライプの入った、仕立てのよい濃紺のスーツに身を包んでいる。淡い水色のシャツに映える漆黒のネクタイには、小さいが純度の高そうなエメラルドのタイピンが取り付けられており、一見して金回りが良いか…少なくとも身につける物には気を配っているだろう様子が見て取れた。 「いえね。あんまりコンラート・ウェラー氏と先生が似ているものですから、何処かで血が繋がっているんじゃないかと噂していたところなんですよ」 「そうだね。あんなに似ている親族の話は聞いたことがないけれど、もしかすると遠縁という可能性もあるよね。コンラート君の出身はアメリカと聞いたけど、何州なのかな?」 「ユタ州だっけ?」 「えーと…」 有利が口籠もってしまう。 偽証していることについてあまり詳しいことを聞かれたくない…。 「そうだ。良かったら昼食を一緒にとらないかい?折角だからこの学校についても色々聞きたいし」 「え?俺たち食堂に行くんだけど、それでもいいですか?」 「勿論」 「あ、じゃああたし達も一緒に!」 結局、人の垣根ごと移動することになってしまった。 * * * 食堂についてそれぞれのメニューにありついて暫くの事…。 エルンスト・フォーゲル教諭を取り囲む人の群れは、眼前で展開された光景に目を見開いていた。 「渋谷君、頬にソースがついているよ」 「え、どこ?」 日替わりB定食の生姜焼きをぱくついていた有利は、エルンストに指摘されて頬を擦ってみたが、残念ながらそれは反対側の頬であった。 「違うよ…こっち……」 エルンストはくすりと苦笑すると、しなやかな指先で有利の華奢な顎を捉えると、身を屈めて頬を嘗め上げた。 き(ぎ)ゃぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっっっっっ! どんがらがっしゃーーーーーーーんっっ! 「いいいいいいい……今今今……」 「な…嘗め嘗め嘗め…………」 黒瀬と会澤は完全に箸を取り落とし、腰を半ば椅子から上げた中途半端な姿勢で顔色を青くしたり赤くしたりして狼狽え、村田は村田で眼鏡のフレームをくい…っとあげると、何を考えているものか…不穏な笑みを浮かべてエルンスト教諭を睨め付けている。 周囲の生徒も、女生徒を中心に喜色とも驚愕ともつかない黄色い声を上げ続けていた。 『うっわぁ〜……また、えらい教員がやってきたもんだな……』 生徒が取り落としそうになったカレー皿を器用にキャッチしてやりながら、ヨザックは鋭く舌打ちした。元上官に似た風貌の男に、彼も一見したときには普通に驚いたものだが…この行動を見るに至っては、元上官よりもたちが悪いのかと戦慄せざるを得ない。 正直、コンラートのことは有利を挟んで現在複雑な心境にあるとはいえ、元もと命を掛けても惜しくはない男だと評価しているし、その想いを有利への恋心が上回ることはないと自覚している(有利自身が何かの拍子にヨザックに靡いてくれればまた別だが…そうなったらそうなったで自分は興ざめするのではないかという気がする)。 よって、コンラートが有利を独占する分には、心にちくりと刺す物を感じるとはいえ…特に異論はない。 しかし、相手が顔だけ似ている赤の他人となれば話は別だ。 『エロ教員にはお仕置きが必要かな?』 カレー皿を生徒に返し、指についたルーを嘗めつつ腰に隠し持った暗器に手を掛けていると…校門からどうやって聞きつけたものか、神速の勢いで駆けつけたのは警備員、コンラート・ウェラー氏であった。 「何かありましたか!?」 コンラートは有利の姿を目に止めるや、頬に掌を添えて呆然としている彼の元にひた走った。 「…先生に、ほっぺた嘗められた……」 「………なんですって?」 有利の発した言葉にぴくりと片眉を跳ね上げると、コンラートは笑顔の中にも人が射殺せそうな眼光を浮かべ、自分と同じ顔を睨(ね)めつけた。 しかし、顔の造作が一緒なら肝の太さも似てくるのか、エルンストの方は気にした風もなく…さらりと爽やかな笑顔を浮かべている。 「失礼、丁度ハンカチの持ち合わせがなかったものでね」 「ハンカチがないと、男子生徒の頬を嘗めるという教育方針なのですか?」 「我が家ではそうだね。うちに小さい子供が居るもので、その習慣が出てしまったようだ」 銀縁眼鏡越しの微笑みは梢を渡る風のように爽やかで、その声も滑らかに響いて耳朶に心地よい…が、その内容を理解するや…今度は女生徒が先程とは全く異なるベクトルで絶叫した。 「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」 「え、エル先生っ!けけけけ…結婚なさって……」 「してますよ。ほら、結婚指輪もこの通り。子供も、可愛い娘が一人います」 左手の薬指を提示し、更に胸元のポケットから茶革のカード入れを取り出すと、その中から一枚の写真を取り出した。そこに映っていたのは大変愛らしい…十歳程度の年頃と思しき、白いワンピースに身を包んだ少女の姿であった。 まるでビスクドールのような肌と繊細な顔立ちの少女は、咲き始めた白薔薇の蕾のように清楚な印象である。艶やかな黒濡羽の長髪が小作りな顔から腰まで伸びており、その辺りは奥さんに似ているのかと推測される。 ただ、惜しむらくは写真が眠る姿を写したものであることか。 折角だから瞳の様子も確認したいところだ(それでも、息をのむほど美しいのに違いはないが)。 「うわ…すっげぇ美少女!」 思わず、頬を嘗められたことも忘れて有利は写真を手に取った。 「とても可愛らしいだろう?でも…結構お転婆でね。食事の時も色んな所にソースや何かをくっつけてしまうんだ。まぁ…それをああやって嘗めてあげるのもとても楽しいんだけどね。君を見ていたらうちの子と同じくらい可愛いものだから、つい家にいるような気がしてやってしまったよ…習慣とは怖いものだ…」 「そっかぁ…俺、この子みたいに可愛くはないけどさ、習慣じゃあしょうがないよね。ゴメンね先生。俺、変に吃驚し過ぎちゃったね」 『信じるなよっ!!』 得心いったように頷く有利に、その場にいた有利の関係者は全身心中で叫んだ。 『うちでの習慣なんて言ったって、相手は小学生と男子高校生だぞ!?娘のほっぺたを嘗める癖があったとしても、普通は男子高校生にはやんないだろ!?』 『あの顎を捉える動きは妙に手慣れてるだろう!?』 『どんな理由があったにしても、ユーリのすべらかな頬を嘗めるというだけで万死に値するでしょう!?』 周囲の困惑なぞ何処吹く風。有利の方はもうすっかり屈託なげにエルンストに話しかけている。 「娘さん本当に可愛いね、先生!」 「そう…君の目から見てもそうかな?」 ふわりと微笑むと…銀縁眼鏡越しではややきつめに見える眼差しが優しく解れ、琥珀色の瞳に銀の光彩が煌めく。そんな表情をすると本当にコンラートに似ているものだから、有利はすっかり警戒心を失って、親しげな笑みを浮かべた。 「さ…それはそうとして、食事がさめてしまうよ?みんな食事再開といこうか」 エルンストは何事もなかったように着席すると、いっそ見事なほどの落ち着きぶりで優雅に昼食を食べ始めた。キツネ饂飩をすすり込む仕草までが上品なのは、いっそ笑えるほどだ。 有利もつられて生姜焼きに箸を戻そうとしたところに、勤務に戻ろうと踵を返したコンラートがそっと近寄って耳元に囁きかけた。 「ユーリ…あの男に気を許さないでください。何か普通ではない感じがします」 「…え?」 聞き返そうとしたときには既にコンラートは離れていて、訳を聞く事は出来なかった。 * * * 日直の日誌を担任教師に届けて有利が教室に帰ってくると、生徒達はみんな帰るかクラブ活動に行ってしまったのか、いくらか荷物は残っているものの人の気配はなかった。 有利は自分の机に戻ると、何となく椅子に座って頬杖をつき…瞼を伏せてある人の事を思った。 『グレタ…』 出会ったのは、エルンストの娘と同じくらいの年頃だった。 荒んだ目をして…酷薄な養い親を満足させるために、自ら望んで有利を暗殺にきた娘…。 それが、これほど愛おしい存在になるなど、あのとき誰が想像したろうか? 過酷な運命を受け入れて…強くしなやかに育っていく彼女の成長を見守る事に、有利は本当の子供に対するそれに等しいだけの想いを注いできた。 だが、コンラートがこちらの世界に渡ってきた時、眞魔国での彼女は既に十代半ばの娘盛りに成長していたという。 有利が眞魔国に帰るのが少々遅れても、ヴォルフラムやギュンター、グウェンダルといった生粋の魔族達は、風貌的には大した変わりもなく有利を迎えてくれるだろう。だが、人間の娘であるグレタだけはそういうわけにはいかない。いや、グレタ以外の…人間である友人達…ヒスクライフやフリンといった人々も、どれだけの時をその精神と身体に刻んでいる事だろうか? 『土の要素を手に入れるのに、どのくらいかかるんだろう?…て、いうか…本当に四大要素を手に入れれば眞魔国に帰るだけの力を手に入れる事が出来るのかな?』 久しぶりに不安な気持ちで有利の瞳が揺れる。 水と風の力を手に入れた事で、コンラートの存在をこちらの世界に定着させる事が出来るようになって…火の要素の時にはコンラートと恋仲になって身体を合わせたりと様々な事件が連発したものだから、冷静になってそのことを考えているような時間がなかった。 『あー…駄目だ駄目駄目……一人でそんな事考えてると、ろくな事ないよな』 深く息を吐いて頭を振るっていると、がらりと音がして教室の扉が開かれた。 「渋谷君?…どうしたんだい。君が一人でいるなんて珍しいね」 教室に入ってきたのはエルンストであった。今日は初夏を思わせる陽気であったせいか、昼まで着込んでいたスーツの上着を脱ぎ、ネクタイこそ締めているものの、洒落たデザインのYシャツを袖まくりしているので少し砕けた様子だ。 「えー?そりゃ俺だって一人の時くらいあるよ。先生こそどうしたの?」 一人で物思いに沈んでいるなんて、我ながら似合わない事をしていた自覚があるものだから、少し挙動不審に席を立つ。 「私は忘れ物をしてね…ああ、ここにあった」 エルンストは教卓の中を探ると、彼のものらしい教科書と指導書を手に取った。 「教壇に立つのは久しぶりでね。教科書も変わっているから予習が必要なんだ」 ぺろ…と舌を出して瞳を細めれば、普段が上品な男なだけに子供っぽくてちょっと可愛いと感じてしまう。 『コンラッドもこういうシャツ姿が意外と似合うんだよねー…』 眞魔国では軍服を、地球では警備員服をきっちりと着込んでいるコンラッドだが、自室にいるときには流石に上着を脱ぎ、シャツの襟元も着崩してリラックスしている。その、《装甲》のような装いを解いて《日常》の姿を見せてくれること自体が、自分を特別に思ってくれている事の証明のように感じて心が弾むし、単純に《格好良いな…》とも思う。 『特に…ネクタイをシュルっと解いて、指先で襟元をェ(くつろげ)る仕草が男っぽいっつーか、色っぽいつーか…とにかくイイんだよな…』 思い出し笑いを浮かべて瞳を閉じていたものだから、有利はエルンストが接近していた事に気づかなかった。 「何か楽しい事を思い出していたのかい?」 『なんか…近いんですケド……』 息が触れんばかりの位置で机に腕を乗せ…にこりと微笑むエルンストに、有利は昼間囁かれたコンラートの言葉を思い出した。 『ユーリ…あの男に気を許さないでください』 確かに少し変わった男だとは思うが…一応は教員で、しかもコンラートとよく似た風貌の男を警戒するのは、有利にとってはなかなかに難しい相談であった。 「え…と。そうだ、先生があんまりコンラッドに似てるからさ、何か不思議で…」 「そうだ…確かに私も不思議だよ…なんだが、奇妙な縁を感じるね。渋谷君…よかったら週末にでも彼と一緒に私の家に遊びに来ないかい?」 「え?先生の家に?」 「ちょっと奥まったところにあるんだが、君の家まで迎えに行くから行き帰りは心配しないでくれ。君達がきてくれれば娘も気が晴れるかもしれないし」 「…ん?娘さん、なんか嫌な事でもあったんですか?」 エルンストの瞳を掠める寂寥の色に、有利は気遣わしそうな表情を浮かべる。 「…とてもお転婆な娘だったんだが…先月、重い病気にかかって寝込んでしまってね。学校にも行けないものだから、退院して自宅療養にはいってからも学校に行けないせいもあって塞ぎ込んでいてね…私と同じ顔をした男性が遊びに来てくれれば、面白がって喜ぶんじゃないかと思うんだよ」 「え…病気に?」 学校なんて元気なときには行くのも面倒なものだが、寝込んだりして行けなくなると急に寂しくなるものだ。有利は殆ど寝込んだ事などないが、眞魔国に長期間いたときなどは無性に学校生活が恋しくなった覚えがある。 「そっかぁ…」 眉を寄せて瞳を潤ませてしまった有利に、エルンストはそっと…意味ありげな微笑みを浮かべるのだった。 |