虹越え5−1−2 血を吐くような思いで、命令を受け入れた。 だが、それも有利が幸せであってくれるなら良いと思っていたのに…。 彼を支え、育む人々は自分以外にも大勢いるのだからと…そう自分に言い聞かせていたのに。 彼は、決してコンラートを諦めなかった。 どれほど有利を否定する言葉を吐いても、 目の前で有利以外の者を《王》と呼び、従う姿を見せつけても… その真っ直ぐな瞳をコンラートに向け続けた。 そしてコンラートが漸く眞魔国に戻ってきたとき、有利は一言もコンラートを責めなかった。 『あんたが帰ってきてくれただけで、それでいいんだよ…』 向日葵のような笑顔で手放しで喜び、少し大人びた表情で肩を叩いてくる有利に、コンラートは飢えていた心を癒された。そして、文字通り精勤することで己の不在がもたらした当然の疑いや不審を払拭しようとした。 有利の傍に在っても不自然でないだけの立場を再び手に入れるために、コンラートは必死だったのだ。その為に有利の護衛の立場を大シマロン行きによる不在時と同様、ヨザックに任せていた。 コンラートは…有利がどんな思いで自分を信じ続けていたのか…それが、恨むより…憎むよりもずっと辛く、心を切り刻むものであったか…本当の意味で理解してはいなかったのだ。 『お疲れさん、しっかり休んでくれよ?あんたは無茶ばっかりするからな』 長期間にわたる危険な業務をこなして帰還した時、晩餐の席で有利は暖かい労いの言葉を掛けてくれた。 背筋を伸ばし、凛と佇むその所作はまた一段と大人びて見えて、眩しいような…名付け親としては少し寂しいような心持ちで見つめた。 実際、ギュンターはコンラート不在の間どれほど有利が精勤したか賞賛したし、グウェンダルも良い働きだったと保証した。 ただ…何か言いたげに扉の前で佇み、警護にあたるヨザックの表情と、硬い印象のヴォルフラムの様子…双黒の大賢者の射るような視線…そして、有利の面差しが大人びただけではなく、窶れたのではないかという懸念がコンラートの心に幾ばくかの影を投げかけた。 『なぁ…俺、ちゃんと良い王様やってたんだぜ?あんたもそろそろ血盟城に腰落ち着けなよ。あんたが大シマロンに行ってた事情はきっちり国内に流布してるし、俺だってもう執務から逃げて遊びに行ったりしないからさ』 朗らかに告げられたその言葉は嬉しかったが、その時のコンラートにはまだまだ自分の働きは不十分であると感じられた。 あるいは、許されて眞魔国に戻り…晴れて有利のために行動できること自体に喜びすぎて、浮かれていたのかも知れない。 有利自身がどんな想いで自分を待っていたのか…その事に気付いていなかったのだ。 『いえ…陛下、まだ俺の働きはとても十分とは言えません。特に十貴族を納得させ、陛下の傍にお仕えすることを首肯させるためには幾つか実績をあげておかねばならないでしょう』 『ふぅん…そっか……。じゃあ、大変だろうけど、頑張ってくれよ?』 肩肘をついて残念そうに呟きはしたが、有利は淡々と受け止めているように見えた。 ただ…少し咳き込むと、《用足しだ》と告げて部屋を出た。 しかし…部屋を出て暫くの後、咳き込む音を聴覚の端に捉えたコンラートは不吉な予感を覚えて、弾かれたように席を立った。 おそらく、その場に居合わせた者達は同時に同じ行動をとっていたように思う。 自分は何か大切なことを忘れているのではないか… 本当に大切なものを、見逃してはいないか? 漠然とした不安に胸を締め付けられながら、咳き込む音のする部屋を探し出して扉を開き…コンラートは血染めの有利の姿に心臓を凍らされた。 有利は…血を吐いていた。 吐瀉物の混じる暗赤色の血は消化管からの出血であることを伺わせ、事情を弁えているらしいヨザックとギーゼラとが傍に控えて、血に汚れた主の顔や手を濡れたタオルで拭い、鳩尾(みぞおち)の辺りに手を翳している。 有利の顔は苦痛に歪み、蒼白に変じた皮膚には冷や汗と涙が伝い…鉤状に強張った指が握り潰してしまいそうな強さで二の腕を掴んでいる。 『ユーリ…っ!』 『ウェラー卿…君は部屋を出てくれないかな?』 駆け寄ろうとするコンラートを止めたのは、殆ど会話を交わしたこともない大賢者であった。 有利と同じ双黒を有し、年の頃も同じと聞いていた秀麗な少年は、凍るような眼差しに明らかな怒りと…嫌悪を示してコンラートを睨み付けた。 『俺に不審を抱かれるのは仕方ありませんが、どうか今だけでもご容赦下さい!』 『君は馬鹿か?』 端的すぎる言葉がコンラートを突き放す。 『僕はね、そんなことを言ってるんじゃないんだよ。君が敵国に渡っていた事情についてはよく知っている。何しろこの国の最高権力者の指示だったわけだし、状況的にも君に拒否する事は不可能だったろう。だけどね…僕が怒っているのは君のその鈍さに対してだよ。全く…どうしてそうも鈍感になれるものかな?渋谷が今の姿を見られたくない相手が、君以外にいるって言うのかい?』 『俺には…見られたくない?陛下は…それほどに俺にお怒りに?』 『張り倒してやりたいね…こんな奴を渋谷は血反吐を吐くほど大切に思ってるなんて…』 もう説明してやる気力もないと言いたげに、ふぃ…と顔を逸らすと、村田は醒めた面差しのまま有利の傍に膝をついた。しかし…彼のその表情とは裏腹に、どれほど有利を心配し、彼の様子に胸を痛めているかは手に取るほど伝わってきた。 『コンラート…陛下は、あなたが眞魔国に帰還してからずっと…本当に、本当に…執務に精勤しておられたのですよ。あなたが大シマロンで単独行を余儀なくされたのは、《俺が不甲斐ないせいだ》と仰って…《俺が腹芸の一つも持ってる男だと思ったら、事情があるんだって事を知らせてくれた筈だ》と…。《だから、俺はあいつが安心してこの国に居られるように、ちゃんと王様業やってくよ》と仰って……』 ギュンターが沈痛な面持ちで語る言葉はあまりにも正鵠を射ていて…コンラートは言葉もなかった。 確かに、もしも有利が腹蔵に何でもしまえるような男であれば、危険を伴うとはいえ敵国に潜入させた重要な駒を君主として利用しない手はない…コンラートとしても全体的な戦略構築の為に、即座に情報を送っていたに違いない。 だが、有利の性格から考えて…そんな事情を知らせるのは不可能だった。 知れば、有利はコンラートを駒として使うどころか、どんな危険を冒してでも取り戻すべく行動してしまっただろう。実際、知らせてはいなかったにもかかわらず、有利はコンラートを諦めることが出来ずに危険に身を投じてしまった。 『あいつは国の英雄なのに、俺のせいで浴びなくても良い泥を被って…大シマロンでも《裏切り者》のレッテルを貼られてどんなにか苦労したろうと…とてもとても気にされて…。どんどん窶れていかれるというのに、決してあなたに伝えてはいけないと…心配を掛けるからと……』 『最初は胃の痛みで食べ物が採れない程度だったのですけど…次第に胃壁の損傷が激しくなって、吐血されるようになったんです。隠れて血を吐かれていて…私とグリエ・ヨザックにだけは、《治さなくちゃ仕事の効率悪いしね》と打ち明けて下さったのですが、一定期間経過すると、またもとの状態に戻られるのを繰り返しておられました。神経性の胃炎が潰瘍に発展してしまったようです』 もう涙で曇って前が見えない状態のギュンターを、養い子であるギーゼラが冷静に補足する。 『ごめんな…コンラッド。俺…ちゃんとやってくつもりだったのに…みっともないトコ見せちゃったな…』 ギーゼラの治療で幾分痛みが治まったのだろうが、懸命に笑顔を浮かべようとするのが酷く哀れで…コンラートは思わず駆け寄って手を握ると、その冷たさと…細くなってしまった指の感触に戦慄した。 『無理に喋らないでユーリ…笑顔だって無理に作らなくて良い…苦しかったら、苦しい顔をして良いんだよ?』 汗で額に張り付く前髪を掻き上げてやれば、細くなった面差しの中で…そこだけは変わらずくりっとしたドングリ目が見開かれ、戸惑ったような色を浮かべた。 『でも…あんた、俺が笑ってる顔が好きだって言ってたじゃないか。俺が笑ってると安心するって…』 臓腑が攣縮して…脳を鷲づかみにされるような心地がした。 そんな言葉を守るために、この人は《苦しい》ということすら口にすることなく独りで耐えていたというのか? そうさせたのは誰だ…。 ああ…それを知っていなければ、コンラートは迷うことなくその対象を切り刻もうと決意したに違いない。 だが、そうすれば有利がより深い絶望に駆られるであろうことをコンラートは知っていた。 そうさせたのは紛れもなく…コンラート自身なのだから。 『ユーリ…俺は、どうしたら良かったのでしょうか?あなたをこんなにも苦しめたのは…俺なんですか?俺は、あなたに誰よりも幸せになって欲しいのに…俺のすることは何時だってあなたを傷つけてばかりだ』 『うーん…傷つけるっつーか…。あんたのやろうとしてることは、ごくごく真っ当な大人の行動だろ?俺だってそこんトコはよく分かってたんだ。でも、やっぱ身体の方がついてこなかったみたいだなぁ…』 有利は残念そうに顔を顰めると、ちぇっと舌打ちした。 その仕草が年相応に少年らしいものだったものだから…久しぶりにみせる彼らしい所作に、酷く安心したと…後日ヨザックなどは語っていた。 『……寂しかったのかなー。子供みたいでゴメンな?王様らしくしようって思ってたんだけど、どうも今の俺じゃ無理だったみたい。いつかは本当にちゃんと大人になるからさ…もーちょっと待ってくれる?』 コンラートに抱えられて安心したのか、有利はぺろっと舌を出すと…今度は本当に素のままの顔で笑った。 結局、グウェンダルからの厳命で有利には3日間の絶対安静が申し渡され、コンラートも次の指令を与えられることなく有利の介護に専念した。 その間、有利はとても幸せそうで…穏やかで、グウェンダルなどは休暇を伸ばしてやりたい想いにセーブを掛けるのに必死の様子だった。 * * * 「あの日の恐怖と後悔を忘れてはいないのに、それでも俺はあなたの意向を無視して暴走しそうになる。《この方が効率が良い》と思えば、笑顔を浮かべて平気な顔をして…残酷なことも出来るんですよ」 「…」 「おそらく…猊下自身、同じ事をなさった自覚があるから…余計に俺の事が腹立たしいのでしょうね」 「あー…創主とのこと?」 確かに、何の説明もなく有無を言わさぬ状況に追い込まれたことに対して文句の一つも言いたいことはある。だが、有利にはその事でどれほど村田が苦しんだか知っている。 今更有利が責め立てなくても、十分に彼は報いを受けていると思うのだ。 だが…それはコンラートとて同様だ。 有利は、すぅ…と深く息を吸い込むと、大きく伸びをしてからくるりとコンラートに向き直った。 その面にはこの日最後の陽日が照り映え、燃えるような柑橘色の固まりとなってコンラートに向かい合う。 「コンラッドは、あんたがする事で俺が傷つくのが怖くなっちゃったんだな」 「…そうですね。そして、あなたが傷つくと分かっていても同じ事をしてしまいそうな自分に心底嫌気が刺すんですよ」 「…なぁ、コンラッド。俺たち、同じ様な馬鹿な失敗をしてるって気付いてる?」 「ユーリ?」 山々の狭間に夕日が消え入りると、景色は明るさを含んだ薄蒼色に染まり…ちかちかと瞬いて街灯にあかりが点る。すると、ほわりと仄かな光を纏うようにして有利が微笑んでいることに気付いた。 あの日、無理に作り上げた笑顔とは異なる…気負いのないその表情は、有りの儘の自分を受け止めて自然体で居るように思えた。 「あんたが一人ぼっちで大シマロンに行っちゃって…そんで、帰って来てくれたときに嬉しくて…でも、同時に凄く怖かった。ちゃんと王様やってないと、またあんたがどっかに行っちゃうんじゃないかって、怖くて怖くて…出来ることを精一杯やんなきゃっ…て、凄く焦ってた。でもさ、それはあんただけのせいじゃなくて、俺のやり方がまずかったのもあるだろう?なんつっても、一番いけなかったのは、周りの人たちにも…自分にも、正直じゃなかったことだと思う」 自虐するのではなく、今ならその事を冷静に受け止める事が出来る。 「俺は、俺が持ってる能力以上に周りの人に認めて貰いたくて…あんたに認めて貰いたくて、背伸びしてたんだ。でも…本当じゃないことを取り繕おうとすると、自分にも周りにも凄く迷惑掛けちゃうよな。そういうときに、限界の一歩手前で《ゴメンなさい、もう無理です!》ってギブアップするのは、実はとっても大事なことなんだと思う。そうじゃないと、結局限界越えてどうにもこうにもなんないところでいきなり倒れちゃうと、周りの人は《自分のせいだ》って、傷ついちゃうもんな」 コンラートはただ黙って、じ…っと有利を見つめていた。 もたつきながら…何度か同じ内容を行き来しながら、それでも懸命に考えをまとめて、何とか想いを伝えようとする愛し子の言葉を、一言も聞き漏らすまいとするように。 「俺はもっと早く、あんたに《会いたい》って言えば良かったんだ。それか、俺の方から会いに行けば良かったんだ。あんただって…あんたが《そうしたい》って強く思うからには必ずそれ相応の理由があるんだから、無理に押さえつける事は出来ないんじゃないかな?うん…やっぱ、俺たちって結局やりたいようにやっちゃうタイプなんだから、お互い自分に不正直にはなれないんだよ。だから…」 これは言ったものか言わないものか言い倦(あぐ)ねるようにしていたが…やがて意を決したように面を上げると、有利は真っ直ぐにコンラートを見つめた。 「俺、あんたのこと信じてるから。だから…限界を超えないところまでは、自分で信じた道を進んでよ。そんで…あんたが選んだ道に罪悪感を覚えたりしないでくれ」 「ユーリ…ユーリ……っ!」 堪らずに抱きしめると、腕の中で有利はくすくすと笑みを零した。 「あんた、いま感動してるだろ?でも、ちゃんと話は聞けよ?いま俺が言ったことはあんただけ好きにして良いって話じゃないんだぜ?俺だって好きにするんだからな」 「そうですね…あなたも自分の思うままに行動すると結構…好き放題動きますよね…」 「そーだぜー?俺、あんたが何やっても、何処に行っても、絶対追いかけるからな?《俺がついてくるかも知れない》ってコトを前提にして行動しろよ?」 「…それはまた……《勝手に動くな》と言われることよりも大きな制動ですね」 そんな発想をしてしまえば、自分が捨て置いたバナナの皮や、暇つぶしに棒で掘った地面の穴のことまで気に掛かりそうだ。 「さぁ、帰ろうぜ。腹が減ってると人間も魔族もろくな考えが浮かんでこないもんだよ。旨いもん食って、楽しいこと考えようよ」 「ええ…そうですね」 名残惜しげに有利の身体を離すと、コンラートは宵闇の深まっていく街の中で浮かび上がる学生服の…そのほっそりとしたシルエットを背後から眺めた。 『この方は、俺を信じて下さる』 そのことは純粋に嬉しい。 自分はその信頼に応える自信があるし、信じていて欲しいとも思う。 だが…同時に酷く不安にもなるのだった。 『この方は、信じすぎる…』 結果的に村田も、水蛇の上様も、白狼族の高柳鋼も、紅色の蝶も信じ抜いたことで彼の味方となった。だが、それはあくまで結果論に過ぎない。 今後、有利が信じたものが手酷く…決定的に彼を裏切るような事態が起こったとき、彼はそれでもその対象を信じ抜こうとするのだろうか? 『我ながら心配性だとは思うんだが…』 名付け親の苦労性は止まらない。 おそらく、それは彼を取り巻く人々全ての懸念事項でもあるのだろうが…。 |