虹越え5−1−1








 霧の中で蠢く影が、哀しげに…苦しげに呟く。

 影は悲痛な口調で切々と言葉を綴る。

 もう駄目だ。

 もう…これ以上は保(も)たない。

 何とかしなくては…。

 ああ…どんな手を使ってでも、

 どんな危険を冒してでも

 《器》を手に入れなくてはならない。

 そうでなくては…

影の中で、琥珀色の瞳が闇い決意を込めて瞬いた。










T 獅子二人








「松林先生、大丈夫だったのかなぁ?」
「ちょっと復帰は無理でしょー…。いま、大急ぎで新しい先生探してるらしいよ?」
「えー…でも、この中途半端な時期にすぐに見つかるのかなぁ?授業とかどうなるんだろ…」

 春霞の漂う校門の前…登校時に囁き交わす少女たちの声に、有利は心配そうに眉を寄せた。

 松林えり子先生はこの学校の英語教師なのだが、3日前、心臓に抱えていた持病が突然悪化して緊急手術と当面の入院を余儀なくされていた。確か剥離した心臓の僧坊弁が、脳血管に詰まって塞栓を起こしたらしい。

 4月もやっと半ばにさしかかる頃…新しいクラスで、しかも青嵐学園との合併騒動もあり…落ち着かない状況下での教職員の病欠に、生徒たちは必要以上に動揺しているようだった。

「マツバヤシ先生はお気の毒でしたね。俺もなるべく迅速に対応しようとしたのですが…後遺症が残ってしまわれたそうで…申し訳ない」
「んーん、あんたの対処はすごく的確だったってお医者さんも褒めてたらしいよ?それに、現場に駆けつける速度が尋常じゃないって驚いてたなー。流石コンラッド!」

 コンラートは松林先生が脳梗塞を起こして倒れるなり、ほんの数秒で駆けつけたのである。

 ちなみに松林先生が倒れたのは有利のクラスであり、その際、有利が叫び声を上げたのはいうまでもない。

 …コンラートが超高速で駆けつける理由など有利絡みに決まっているのだが、黒瀬や篠原が微妙な表情を見せる中、有利はひたすら純真に英語教諭を介抱した名付け親の手腕に感嘆していたのであった。

「それにしても、新しい先生見つかるのかなぁ?青嵐の先生も英語は手薄だって話だし…」

 青嵐学園の校舎爆破事件で重軽傷を負ったうちの二人の英語教師であり、彼らはあと2ヶ月は入院が必要な怪我らしい。

 その時…校門脇に銀灰色のアウディが横付けにされ、ゆっくりと窓の硝子が擦り降りていった。

「失礼…こちらの学校の駐車場には何処から入ったらいいでしょうか?」

 車窓から顔を覗かせて問いかけてきた男は流暢な日本語を操ってはいたが、その通りの良い低音には何処か異国めいた響きがある。顔の造作の方はといえば、これはもう明らかに西洋系の人間と知れる、白皙の端正な面差しであった。

「え…?」

 問われた側の有利は一瞬息を呑み、コンラートも微かに片眉を上げた。

 男の態度に不審な点はない。

 ただ、有利とコンラッドが戸惑っている理由は男の方にも瞬時に理解できた。

 彼もまた、目を見開いて驚きを瞳に表していた…何故なら、男とコンラートとはあまりにもその容貌が相似していたからである。

 強いて言えば男の方が年長に見えるが、それもせいぜい30代に入るか入らないかというところで、後半にまで達することはあるまい。こちらで詐称しているコンラートの年齢(40歳…)を上回ることはないだろう。

「これは…驚いたな……ドッペルゲンガーかと思った……」

 思わず…といった風情で男は車外に出ると、まじまじと眼前のコンラッドを観察した。

 男は濃紺の仕立ての良いスーツに身を包み、流石にコンラートに比べれば幾分細身なものの、何かスポーツでもしているのだろう、均整の取れた体躯は何時でも俊敏に動けそうな律動感を伴っている。髪はややコンラートよりも長めだが、髪質や色自体は極めて近いものであり、少し刈り揃えればそっくりになるだろう。

「凄ぇ…目まで一緒だよ?コンラッドみたいな目の人が他にもいるなんて…不思議」

 有利はぽかんとしたまま、信じがたい光景に瞠目した。

 男はフレームの細い銀縁眼鏡を掛けており、その薄硝子に隔てられた琥珀色の瞳の中では、コンラートに酷似した銀色の光彩が煌々と瞬いて男の興奮を物語っている。

「ドッペルゲンガーか…幸い、お互い命は保全されているようですね。ところで、もしかしてあなたはこちらで教鞭を執られることになったエルンスト・フォーゲルさんですか?」

 《まみえると命を奪われる》という自分のそっくりさん話に苦笑しつつコンラートが話を振ると、エルンスト・フォーゲルはすぐ我に返って爽やかな笑みを薄目の唇に閃かせた。

 そんな仕草までが似通っているものだから、見守る有利はきょろきょろと二人の男を見比べてしまう。

「ああ、これは失礼。名乗りもせずに…私の名は確かにエルンスト・フォーゲルです。正式採用になるかどうかは今日の面接次第ですが…ほぼ内定しているとのお話ですので、私が余程へまをしなければ、こちらで暫くお世話になることになるでしょうね。同じ顔のよしみでよろしくお願いします…ええと…」
「俺はコンラート・ウェラーと申す者で、こちらの高校で警備員を務めております。以後お見知りおきを」

 秀逸した相似美形の外国人同士が流暢な日本語で会話を交わす様はなんとも不思議な光景だ。まるで吹き替え映画を見ているような気がしてくる。

 この不思議な光景に誘われたように、早速他の生徒達…この学校の生徒も青嵐から来た生徒も、一様に周囲を取り巻き始めた。

「この学校の先生になられるんですかぁ?」
「あ、もしかして英語?松林先生の代員として来られるんですか?じゃあ、あたし教えて貰えるんだーっ!」
「やーっ!超嬉しい!学校の行き帰りでしか会えなかった超絶美形さんのお顔を1時間みっちり見つめられるのね!?」
「光栄ですが…教科書の方も眺めて貰えると教員としては有り難いですね」

 眼鏡のつるを微かに指先で引き上げながら、くすりと微笑むその表情は実に大人っぽく美麗なもので…少女達の喉からは反射性に黄色い歓声が沸き上がる。

「きゃあああっ先生ったら素敵っ!」

「エルンスト・フォーゲルと申します。エルンストか、エルと呼んで下さい。…いや、正式に採用もされていないのに図々しいかな?」

 茶目っ気を帯びた笑みにも少女達の瞳はキラキラと輝く。

「採用してくんなかったら校長室に直談判に行きます!みんなで血判状をとって直訴に行きます!」

『土一揆でも始めそうな勢い…』

 傍で聞いている有利は少女達の勢いに、正直引いてしまう。

「ああ…もうこんな時間ですか、皆さんもそろそろ教室に入らないとHRに間に合わないのでは?」
「あ、本当だーっ!じゃあ、エル先生またねっ!絶対ここに就職してね!」 
「ええ、楽しみにしていますよ。今日の面接が上手くいくことを祈っていて下さい」

 少女達が歓声をあげながら駆け出すのに、エルンストは優雅に手を振った。

「早速大人気ですね」
「いえ…あなたに似ているから、きっとみんな親しみが湧くんでしょう。それに、とても珍しいことでしょうからね」

 コンラートの賞賛にも嫌みなく謙遜するエルンストに、有利も興味深げな眼差しを送る。

「じゃあ俺も行くね、コンラッド。エルンスト先生も就職、上手くいくと良いね!多分、俺…あ、渋谷有利って言いマス。俺のクラスも教えて貰えることになるだろうから、テストはお手柔らかに!」
「渋谷君か、よろしくね」

 にっこりと柔らかな表情を浮かべて差し出された手を釣られて握り返すと、ほんの微かな時間…エルンストの目が興味深げに細められた。

 それは本当に一瞬のことであり、有利は全く気付かなかったのだが…コンラートに何かを察知させるには十分なものであった。 



*  *  *




「ウェラー卿にそっくりな教員だって?」
「うん、凄っげぇ似てんの。顔立ちとか風貌とかもなんだけど、ちょっとした仕草なんかも妙に似てんだよね。俺、吃驚しちゃった」
「ふぅん…」

 1限目終了後の休憩時間。馥郁とした春風がそよぐ教室の中は、エルンスト教諭の話で大盛りあがりであった。

 この騒動に、周囲の事共にあまり興味を抱かない村田健が珍しく問いかけてきたものだから、これも珍しく大賢者に説明をするという立場に立たされた有利は、面映ゆいような心地で朝の遣り取りを説明してやった。

「確かに…奇妙なことだね。腹の黒さまで似ていたらどうしようかな?」

 漆黒の瞳を眇めて皮肉げに呟く村田に、流石に有利がむっとして抗弁した。

「村田…お前に言われちゃうとコンラッドが気の毒になってくるよ。第一、コンラッドは別に意地悪じゃないだろ?」

『それは渋谷に対してだけだよ……』

 村田と、傍で聞いていた黒瀬とが同時に同じ感想を抱いた。

「それは、僕については掛け値無しに意地悪だと言いたいわけかい?」
「え?あ…うぅ……ゴメンなさい……」

 謝っても否定しないあたり、意地悪だという認識は覆らないらしい。

「でもさぁ…何で村田はコンラッドに厳しいの?コンラッドが村田になんかしたこととかないだろ?なのに…なんかっつーと村田ってコンラッドに対する風当たりきつくない?」

『俺なら色々されてるけどね…』

 これには黒瀬だけが心の中で独白する。

「僕に直接にはね…だけど、恨みは少しあるかな?」
「何もされてないのに恨んでるの?何で?」

 真っ直ぐな眼差しを受けて、流石の大賢者も少々言を濁す。搦め手に対しては一枚も二枚も上手の切り返しを行える彼も、直線方向に向かってくる有利に対しては対応が甘くなりがちである。

「ま…そこは色々だよ。確かに、直接彼のせいというわけでもないしね。少し…八つ当たりなのかもしれないけど」 
「そうだろ?コンラッドは悪くないよな!」

 こくこくと頷いて笑顔を閃かせれば、鮮やかな夏空を思わせる爽快な表情が浮かび…村田は眩しい日差しを直接目に受けたように瞳を眇める。

「君ってさぁ…ウェラー卿のこととなると贔屓の引き倒しになるよね」
「えー?んなこたねぇよ。あいつのギャグの寒さだけは俺、客観的に評価してるつもりだよ?」
「あれは寒さの恕限度を越えてるからだろ?それ以外に彼の嫌なところとかないの?」
「んー…」

 考え込んでしまった有利は、暫し考えた後に…ぽつりと一言だけ零した。

「俺のために…勝手に命かけちゃうトコかな……」

『…惚気?』

 耳を欹(そばだ)てていた黒瀬はかくりと肩を下げるが、村田の方は口元に拳をあて、かり…と並びの良い前歯を立てた。

「そうだね…僕も、彼のそういうところを一番嫌悪するね」
「嫌悪って村田…」

 聞き捨てならない…吐き捨てるような言葉に引っかかりを覚えて、その理由を問おうとしたのだが、高校の休憩時間がそんな深刻な話を堪能できるほどの長さを保持するはずもなく、無情に鳴り響く鐘と、教員の開ける扉の音とが強引に会話を断ち切った。

 結局…その日は間が悪くて村田と話の続きをすることは出来なかった。



*  *  *




「今日は何だか妙な日だったなぁ…」
「俺のそっくりさんの話ですか?」

 コンラートの勤務時間が終わるのを待って帰路につくと、鮮やかな夕日に照り映え柑橘色に染まった有利が、ふぅ…っと長めの息を吐いた。

 学校からマンションに向かう細い上り坂は人通りが少なく、時折自転車に買い物袋と子供を積載した母親が勢いよく下っていく程度だ(なので、人通りがないのに気付くと時々そっと手を繋いだりしている)。

「うん、それも朝から吃驚したんだけど…なんか村田がさ、珍しくそのそっくりさんに興味持ったかと思ったら、あんたに対しても妙なことを言い出して…今日はなんか気まずくなっちゃったんだ」

「猊下が俺に?…なんて言ってらしたんです?」
「んー…聞きたい?怒んない?」
「……怒りたくなるような内容なんでしょうか?」
「あのさ…あんたとエルンスト先生がそっくりだって話したら、《腹の黒さまで似ていたらどうしようかな》って…」
「腹の黒さですか…」

 くすくすと苦笑するコンラートは特に怒ってはいないようだったので、有利はほっとしたように息をつく。

「えへへ…まぁねぇ…確かにコンラッドってポーカーフェイスだから色々思ってることを隠したりはしてるだろうけど、意地が悪いのとは違うよな?」
「どうでしょうね…意地悪とは違うかも知れませんが、俺は結局自分のことしか考えていないのかも知れませんよ?」
「…え?」

 あまりにもさらりと言われたものだからつい聞き流しそうになったが、含まれる語彙の不穏当さに気付くと足を止めてしまう。

「猊下が俺を嫌われる理由は分かるような気がしますよ。俺たちは多分…似ているのだと思います。同族嫌悪ってやつでしょうか?お互い、目的のためには手段を選ばないタイプですからね。自分自身嫌悪していても、生き方を変えることが出来ない…だから、猊下を見ていると時折辛くなることがありますね。ああ…俺も見える目を持つ者にはああいう風に見えるのかな…と」
「…なんで?」

 自嘲するようなコンラートの言葉に有利は上手く言葉が見つからず…もどかしそうに唇を噛むと、地団駄を踏むようにして、くー…っと呻くような声を上げる。

「なんで…なんでそんな風に言うんだよ」
「ユーリ?」

 漸く絞り出した声は何だか泣きそうな震えを帯びてしまい、鼻の奥につん…と痛みさえ感じて身を震わせていたら、コンラートに優しく背を撫でつけられた。

「コンラッドは…村田だって…優しいじゃないか。何時だって俺のこと心配してくれて、自分のことより人のことばっか優先しちゃうくらい、優しいのに…。そりゃ、性格とかタイプとかはあるかもしんないけど、なんでそんな風に自分を卑下するようなこと言うんだよ!?」
「…ユーリ……俺も猊下も自己中心的な男なんですよ。あなたのためと言いながら、《あなたがして欲しいこと》よりも、《自分がしてあげたいこと》を主軸として行動してしまう。…そのことが、あなたを既に苦しめたことがあったでしょう?」
「大シマロンに…行ったこと?でも…あれはしょうがないじゃないかっ!だって、眞王の命令だったんだろ?」
「確かに命令は受けました。しかし…決断し、従うことを決めたのは俺です」

 暮れていく陽が眩しいほどの鋭さでビルの谷間から伸びてくると、後背から陽を受けるコンラッドの姿は鮮やかなシルエットを成し、その表情を隠してしまう。

「俺は失った腕の代わりが欲しかった。腕を失ったまま…たとえあなたのお傍に在ることが出来ても、あなたをお護りするに足らぬ技量で厳しくなっていく情勢を迎えることに耐えられなかったからです。なんとか大シマロンに潜り込み、禁忌の箱が眞魔国に危険を与える前に処分してしまいたかった…。しかし…だからといって主君たるあなたの許しも得ず、単独行で解決しようとしたのは俺の傲慢に過ぎません」
「コンラッド…」




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