「獅子執事」−9









 《ルッテンベルクの一味》と呼ばれる連中が何者であるのかと問われれば、大抵の者が《夜盗》と答える。
 ただ、多少なりとも好意的に見る者であれば《盗賊狩り》と形容してくれるかも知れない。

 かつては眞魔国に於いて捨て石同然に結成された《ルッテンベルク師団》…の、なれの果て。更に正確に言えば、《ルッテンベルク師団》の数少ない生き残りを中心として、眞魔国から出奔してきた混血が合流した集団であるので、時折、副師団長たるグリエ・ヨザックなどは自嘲を込めて《家出息子ども》と呼んでいた。

 彼らは別段、今でも眞魔国を憎んでいるわけではない。だから、居づらくなって出奔したとはいえども、それでは人間の国家に仕えようと言う者はいない。純血魔族が混血に対して示す差別意識よりも、人間の魔族に対する嫌悪の方が遙かに強烈だから、彼らが望んだとしても仕えることなど不可能だったろうが。

 それでは何故彼らが《家出息子》の立場に甘んじているかと言えば、ある時期、《ルッテンベルク師団》の生き残りが危険分子として強く警戒されていたからである。
 それは決して、彼らが犯罪行為に手を染めていたからでも、国家に対する反逆の意図を示していたからでもない。彼らはただ疑われていただけなのだ。

『あの連中はウェラー卿コンラートの死に対する報復として、戦いを挑んで来るに違いない』

 ただその疑いの為だけに、彼らは国を出ざるを得なかったのだ。



*  *  *


 

 今から約二十年前の眞魔国歴3991年、血盟城の中庭で国家的英雄として崇められたウェラー卿コンラートが謀殺された。死体は発見されなかったが、大地を染め上げた夥しい血と、深手を負ったまま大きな池に落ちたという状況から見て、遺体はそのまま水路に流され、死肉は魚と水底の虫どもに食い散らかされたのだと考えられた。

 王都の、それも権力の枢要たる血盟城の直中で発生した事件であるにもかかわらず、この事件は実行犯の処分だけで終わってしまった。《ウェラー卿コンラートに個人的な恨みを持つ、一部純血貴族による凶行》で済ませようとしたのである。
 
 コンラートの死を知った魔王ツェツィーリエは、臣下達の前で狂乱しだ。

『あの子が疲れているのに働きすぎて眠らないと聞いたから、少し休ませてあげようと思って眠り薬を飲ませたのに…っ!ああ、そのせいであの子が永遠の眠りに就いてしまうなんて…っ!』

 美しさを保つことが至上命題の女王ではあっても、息子に対する愛情だけは真実のものであったのだろう。髪を掻き乱し、我を忘れて泣き叫ぶ姿は哀れを誘い、同時に、正直すぎるその物言いは人々に疑念をかき立てさせた。

『眠り薬を飲ませれば良いなどと、陛下を唆(そそのか)したのは一体誰なのか?』

 疑問系の形をとりながらも、誰もがその答えを知っていた。
 摂政フォンシュピッツヴェーグ卿シュトッフェル。この男が、《ルッテンベルク師団》の奇跡的な勝利の後、年をおうごとに混血達が力を付けることも、コンラートの発言権や肩書きが増強されていく事も、強く憂うていたのは周知の事実であった。
 
 ツェツィーリエの長子フォンヴォルテール卿グウェンダルなども、強く確信していた一人であろう。彼は憤りを込めて伯父に詰め寄り、罵ったが、《証拠もなく伯父を責め立てるとは何事か》とせせら笑われるだけだった。戦場に於ける武勇や純粋な政治能力では優れた資質を持つ甥の怒り、こと宮廷術を中心とした権謀術策に長けた伯父にとっては幼気な子どもが駄々をこねているのに等しかったようだ。

 実際問題として、あれほどあからさまで強引な方法を採ったにもかかわらず、シュトッフェルは一切自分に繋がる証拠を残さなかった。実行犯達は幾重もの網の先端を握らされていたに過ぎず、誰一人としてシュピッツヴェーグ筋に連なる指示者をしめすことが出来なかったのである。

 シュトッフェルは《品の良い》純血貴族など恐れはしなかった。グウェンダルがどれほど個人的に伯父を憎んだところで、育ちの良さと母たるツェツィーリエへの愛情に阻まれて、超法規的な方法でシュトッフェルに対峙することなどない。理性の網が彼の精神を常に捕らえているからだ。感情の激しやすいヴォルフラムにしたところで、シュトッフェルの同胞たるフォンビーレフェルト卿ヴァルトラーナに頭を押さえられていて、個人的に動かせる兵力など持ってはいない。

 シュトッフェルが恐れるのは、こういった理屈が通じない連中だけだ。
 《ルッテンベルク師団》の生き残りを中心とする混血魔族の勢力。彼らは現在、一時的にではあっても国の英雄として純血魔族から一目置かれるようになっており、特に、コンラートの死に対する同情もあって、表だって庇いはしなくとも、秘密裏にであれば助力しようという勢力もある。彼らが捨て身になって、ただ報復の為だけにシュトッフェルを狙ってくれば、流石に防ぎきれないかも知れない。

 そこでシュトッフェルはまず、彼らを分散させることにした。《功績に応じた昇進》という名目で名の知れた士官級の連中を、自分の息が掛かった部隊に散らばらせた挙げ句、無茶な任務に就かせて闇に葬ろうとしたのである。

 この時グリエ・ヨザックが思い切った行動に出なければ、シュトッフェルの思惑は成就していたに違いない。

『俺たちが上官と仰ぐのは、ウェラー卿コンラート唯一人!』

 ヨザックは辞令を伝える兵士に向かって高らかにそう告げると、愛馬に跨り数人の仲間と共に姿を消した。そして様々な方法で混血仲間達に呼びかけ、辞令に応じることなく自分の元に集うように呼びかけた。

『ウェラー卿コンラートは死んでなどいない。必ずどこかで生き延びて、機会を伺っている』
『再び現れるであろうウェラー卿コンラートと共に在る為に、無為な戦いで命を失うな!』

 その結果、100人程度の混血魔族がそれぞれに眞魔国を出奔し、シマロンと眞魔国の境にある、国境が不明瞭な山岳地帯に結集することになった。彼らはそこに一応の本拠地を置くと、《盗賊狩り》を始めた。こういった国の支配が行き渡りにくい領域では盗賊団が横行し、村落の人々は自衛に四苦八苦しているから、魔族であれ人間であれ、盗賊団を退治してくれる存在であれば雇わざるを得なかった。収穫間際の田畑を蹂躙され、女達を犯され、奪われるくらいなら、収穫の3割を渡すという厳しい条件であっても飲んだ。中には眞魔国の正規軍に通報して、盗賊は駆らせつつ、報酬も支払わずに済むようにと画策した者も居たのだが、巧みに兵を動かしたヨザックは一度として仲間を捕縛されたことがない。更に、自分たちを都合良く使おうとした村落の蔵を夜間襲撃で暴き、3割どころか9割方の収穫を奪い取っていった。

『種籾と女達には手出ししなかったんだ。感謝されこそすれ、恨まれる筋合いなんてねぇや』

 そう嘯くヨザックではあったが、数回このような事件が発生したことで、彼らに恨みを持つ者達からは《夜盗》との不本意な呼称を与えられるに至った。

 ともあれ、《ルッテンベルクの一味》は年をおうごとに勢力を増し、新たな出奔者も取り込んで頭数を増やしていくと、一網打尽にされないよう複数の地に拠点を設けて、女達を中心とする農作物班を住まわせ、複数の遊撃隊で出稼ぎ的に盗賊狩りや、報復の夜盗行為を繰り返している。シュピッツヴェーグ軍を中心とする《討伐部隊》に幾度か拠点を潰されたが、その度に最小限の被害に留めて逃走を繰り返し、半ゲリラ的な生活を続けている。

 そのうち、彼らの中には食い詰めた辺境地の純血魔族や人間の孤児なども流れ込んできて、そこで恋に落ち、子どもが産まれるようになってきた。決して裕福とは言えない環境ではあったが、人間世界は勿論のこと、眞魔国に比べても格段に差別の少ないこの生活は、人々の心の支えとなっていた。
 


*  *  * 




「副師団長殿、あんたいつまで《副》でいるつもりなんだ?」

 そんな問いかけを正面切ってグリエ・ヨザックに向けられるのは、限られたメンツでしかあり得ない。血のように紅い瞳を持つアリアズナ・カナートも、このような発言を許される数少ない男だ。重複する過去と同じ痛みを抱える者だけが、ヨザックの精神に触れることを赦されている。
 アリアズナはアルノルドの戦いで生き残った数少ない面子であり、現在の一味の中でもヨザックに次ぐ地位を得ている男だ。

「うちの大将が見つかるまでさ。俺ぁ、頭(かしら)ってのは向いてねーからな。一時的にこの座についちゃいるが、奴が帰ってきたらとっとと遊撃的な部署につきてーんだよ」

 触れることを赦しはしても、それによって浸食される気はないらしく、ヨザックの返答も相変わらずだ。
 ぐびりと喉を鳴らして強い蒸留酒を瓶ごと傾けると、常人ならば噎せるような酒精が喉を灼いて臓腑に流れ込んでいく。横から瓶を奪ったアリアズナも遠慮無く口を付け、残された半分ばかりをあっという間に飲み下してしまった。それでも、ザルと言うより枠に近い酒豪二人は、微かに目尻を染めただけで次の瓶に手を付けた。何しろ、遠慮容赦なく酒を飲める機会など、一味の中の上層部に当たる彼らであってもこのような《仕事》の帰路に限られているのだから、ついつい酒が進んでしまう。

 ヨザックとアリアズナは無事に終わった盗賊狩りの成果を喉で味わいつつ、最も大きな本拠地であるトルパへの帰路にあり、野営の火を焚きながら酒を組み合わしている。不寝番の兵士達は彼らに気を使ってか少し距離を置いており、兵士達の眠る組み立て式のパオも少し離れているから、二人の会話は夜風と虫たちしか聞いていない。

 彼らを《兵》と呼ぶ時、多少なりとヨザックは面はゆさを感じる。仕える国を持たず、盗賊紛いの生業を続けている自分たちが世間からどう見られているかを熟知している彼にとって、自分たちを《軍隊》と見なすのは滑稽だと思う。けれど、どこかに残った意地が軍隊としての規律を維持させていた。

 ああそうだ。全ては意地なのだ。あの男が生きていると信じているなんて自分自身に言い聞かせるのも、長年続いた習慣に過ぎないと知っている。知っていているからこそ、アリアズナにその欺瞞を追求されるのが疎ましかった。
 だから、わざと意地悪な口調で話を逸らす。

「そんなことより、あのカールとかいうガキは抱いてやったのかい?」
「馬ー鹿。あいつまだ子どもだぜ?鶏ガラみたいな身体、どーやって抱くっつーのよ。折れちまいそうで怖ぇーよ」
「何年もウリやってたんだろ?」
「売ってねーよ、奪われてたんだ。あいつの意志なんざ関係なく、な…」

 アリアズナは犬歯の目立つ口元を歪めると、ギロリと血の色の瞳でヨザックを睨み付けた。焚き火に照らされた髪もまた真紅だから、顔立ちは整っているのにどこか悪魔めいた雰囲気が漂う。

 ちなみに、カールというのは人間の盗賊団の中で男娼のように扱われていた孤児だ。戦いの中で右往左往していたところをアリアズナが救ってやったらえらく感謝されてしまって、痩せこけたその身体を雛鳥のように擦りつけてきて《アリアリさん》と呼び、慕ってくる。その瞳に男娼特有の阿(おもね)るような色があれば嫌悪を込めて突き飛ばしてやるのだが、精神発達遅延なのか性格的なものなのか、どこかぽんやりとした少年には邪気がなさ過ぎて無碍にも出来ない。結局、仕事帰りに菓子だ玩具だと土産をやったりするものだから、ますます懐かれて困っている。

「そんなら尚更さ。下劣な連中にケツを掘られ続けてきたってんなら、余計、好いた男に抱いて欲しいもんだろ?」

 普段は快活な男なのに、アリアズナは深々と眉間の皺を深くしてヨザックを睨む。その皺を見ていると誰かが思い出された。いっとき、ヨザックを雇ってくれたフォンヴォルテール卿グウェンダルだ。彼は公然とヨザック達を庇うことはないが、お庭番を介して有益な情報を流してくれる。代わりに、ヨザックもまた自分たちにしか知り得ない人間世界の情報をグウェンダルに流していた。

 彼がヨザックとそのような繋がりを持っているのは、ただ情報が欲しい為だけではないと思う。見返りなどなかったとしても、きっと彼はある程度の配慮を示してくれたことだろう。あの情の深い男は、ヨザックと同じ男の存在を悼んでいるのだから。

『《悼んでいる》なんて俺が言っちゃ拙いな』

 ヨザックは軽く頭を振る。効いていないようで、強い酒精が少しは脳に影響しているのかも知れない。それ以上に、いつになくしつこくアリアズナが絡んでくるせいもあるが。

「…つまんねーことで俺を煙に巻こうとするのはよせよ、ヨザ」
「その名で呼んでくれるなよ」

 今度はヨザックの方が苦笑する。親しい友人の何人かは時折、ヨザックをその愛称で呼んだが、アリアズナの声質はある男の声を彷彿とさせるので、呼ばれるとギクリとしてしまう。

『背格好が似てるせいかねぇ』

 ヨザックと同じくらいの背丈だが、アリアズナは少し線が細い。鍛えられたしなやかな身体はムキムキというよりは鞭のようで、瞳や髪の色味などは全く違うのに、薄暗い場所だとシルエットがやたらと《あいつ》に似ていた。

「あいつが生きていたとして、20年姿を現さないんだぜ?それ相応の事情があるんじゃねぇの?だとしたら、いい加減あんたが頭領張ったって良いじゃねぇか」
「20年これでやってきたからこそ、余計に今更だろが」
「そうは言うがよ。俺は…あんたが副師団長って呼ばれるたび、否応なしにあいつが居ないことを思いしらされんだよ。俺のセンサイな心根にちったー配慮しろよ」

 アリアズナは拗ねたような声を漏らすと、抱えた膝の上に顔を伏せる。大きなナリをして、随分と子供じみた真似をするものだとは思うが、だからこそ正直な想いなのだとも分かる。

「お前だって、俺に配慮しろよ」

 苦笑するヨザックはというと、こちらも似たような想いで《副》を冠した肩書きに拘り続けている。《副》をとって自分が頭領に収まったら、その瞬間から自分の中でウェラー卿コンラートの存在が消えてしまうのではないかと思うと、酷く恐ろしかった。

 生きている頃にはそこまでの執着を示したことはないが、内心ではあの男に依存しきっていたのだと思う。どんなに困難な状況でも、あの男さえいれば乗り越えることが出来ると信じていた。困難には全て理由があって、乗り越えればもっと大きな何かを得られると希望を持てた。
 
 逆を返せば、あの男が居ないのだということを受け入れてしまったら、全てのことに意味が無くなってしまうではないかと思えてしまう。こんな風に眞魔国を出奔して、何十年も辺境で暮らしていることが、物凄く馬鹿馬鹿しい茶番劇なのではないかと疑ってしまう。自分の選択や人生を否定されることは、ヨザックのように肝の据わった男にしても、そう簡単に受け入れられるようなことではなかった。

「師団長を置くってんなら、俺以外の奴を据えな」
「テメーが生きてる限り、他の奴は嫌だ」

 やっと顔を上げたと思ったら、アリアズナはやっぱり子どもみたいに唇を尖らせている。騎兵隊突撃隊長として先鋒を務める勇猛果敢な男なのだが、稚気を覗かせる時には妙に可愛らしい。

「じゃあ、俺が生きてる限り師団長はあいつで在り続けるさ」
「頑固者」

 返答はアリアズナとは違う方向から聞こえた気がしたが、きっと風のせいだろうと受け流し、ヨザックは苦笑しながら窘めた。

「お前もな」
「へ?」

 何故かアリアズナがきょとんとして小首を傾げている。ごく自然に会話は成立していたと思うのだが、一体何が疑問なのだろうか?

「いや…だから、同じ事を何度も忠言してくるお前だって頑固者だろ?」
「そりゃ認めるが、今の突っ込みは俺じゃねぇぞ?」
「は?」

 今度はヨザックが小首を傾げる番だ。筋肉隆々としたヨザックがそういう仕草をすると、アリアズナとは違って筋肉の山がもっこりと動くようになるが、こちらも変に愛嬌がある。

 その肩が、後ろからぽんっと叩かれた。

「……っ!!」

 ズサ…っ!!

 瞬発的に身を逸らして、すぐさま抜刀したヨザックとアリアズナだったが、正直度肝を抜かれた。幾ら強い酒を呑んでいて、自陣の中でリラックスしていたにしても、背後を取られた上に直接触れさせるところまで油断した覚えはない。

『何者…っ』

 風に吹かれた焚き火が、ゴァ…っ!と逆巻いて火花を散らすと、侵入者の姿が闇の中にぽかりと浮き出される。

 その姿に、今度こそ二人は度肝を抜かれた。

「な…」
「な、な……っ…」

 ぱくぱくと喘ぐように口を開閉することしかできない自分たちを客観的に見る余裕など無かった。経験不足の若造を窘める世代に入ったはずの彼らだが、何しろ相手が悪かったし、タイミングも最悪だ。 

 今まさに話題に載せていた男が、彼らの前に佇んでいる。
 妙に軽やかな笑顔を浮かべて。

「よっ」

 にっこりと邪気のない笑顔を見せて微笑む男は、引き締まった白皙の肌に、均整の取れた体躯の持ち主であった。生成のシャツによれた幅広のベルトを掛け、色褪せた茶色いボトムをブーツに突っ込んだ姿は平凡な旅人然としていたが、見間違う筈などない。

「こ…」
「コンラッド…っ!?」

 ようよう口にした言葉が、自分の耳に入ってくるのが信じられない。誰かが耳打ちした言葉のように、その名前には現実味がなかった。

 正直、怖い。

 その怖さは一体何処から来るものなのかと考える中、強い風に煽られて焚き火が揺れる。光源が不定なせいでコンラートの姿が揺らぐと、ヨザックは泣きそうな声を上げた。

「あんた…あんた、これで嘘だとか言ったら…酷すぎるぜっ!」

 あまりにも長い間待ち続けていた男だから、余計に、微かな希望を与えておいてもぎ取られるのが怖い。そう言うことなのだろう。

 普段の剛胆さが信じられないくらい怯えた顔を見せるヨザックに、コンラートは困ったように手を伸ばした。

「触れても良いか?ヨザ」
「触れても、て……」

 触れた指先に、自分でもおかしくなるくらいびくりと震えた。どれだけビビっているのか。
 そわりと触れた皮膚は冷たかったが、それでも死者のそれでは無いと知れる。覚えのある剣ダコの擦れと、その合間に覗く肌の細やかな肌理に、どぅっとヨザックの腹に込みあげてくるものがある。

 熱くてうねるような塊は、体躯の中から弾け出しそうなくらいに暴れ回り、ヨザックの心を掻き乱した。泣き叫びながら抱きつきたいような…それでいて、喚きながら殴りつけたいような衝動の中で、ほっとしたような顔をしてコンラートの腕が背に回される。

「ああ…本当にお前だ、ヨザ」

 耳朶に響く声は低いのに、どこか甘い響きを持っている。がっしりと抱きしめられた腕の感触と、仄かにかおる爽やかな香気が、情動を直裁に揺り動かした。

「ぅ…あ……あーっ!」

 声にならない咆吼が、唸るように喉を突く。噛みつくような激しさでがっしりとコンラートを抱きしめ返したヨザックは、強引に毟られる。どうするのかと思ったら、コンラートは今度はアリアズナを抱きしめようとした。

 けれど、アリアズナは怯むようにコンラートの手を押しのけようとする。

「俺はあんたに抱きしめて貰う価値なんかねぇ。色んな理屈つけても…俺は、あんたが生きてるなんて結局、信じちゃいなかったんだから…」

 泣きそうな声だった。会話の内容をコンラートがどこまで聞いていたのかは分からないが、きっとそんな会話をしてしまったこと自体が彼を責めるのだろう。

「信じて無くて当たり前だ。20年も俺が生きてて、それでいて連絡一つ取らないなんて世迷い言を信じられる奴が居るもんか。ヨザのも、単なる意地だよ」

 《ははは》と屈託無く笑うくせに、良く聞くと発言内容は辛辣だ。こんな所も、間違いなくこの男がウェラー卿コンラートであることを指し示している。

「どんだけ意地悪なモノの考え方だよ」
「正鵠を突いているだろ?」
「…違いねぇけどさ」

 ふんっと鼻で笑ってコンラートの胸板を叩くと、強引にアリアズナの肩を引き寄せてやった。そうでもしないと意地っ張りなこの男は、永遠にコンラートと抱きしめ合うことなど出来ないだろうと思ったし、触れてみることではじめて実感出来ることもあるだろうと思ったのだ。

 案の定、右肩を抱かれたアリアズナはすぐに声を詰まらせ、小さく震えていたかと思うと…ぼろぼろと涙を零し始めた。それが恥ずかしいのか、悔しそうに唇は歪ませていたけれど。

「生きてる…畜生。あんた、生きてんのか…っ!ホントに…ホントに……っ!!」
「ああ…生きているよ。済まなかった…そして、ありがとう」

 コンラートはヨザックを見やると、もう一方の腕を伸ばして抱き寄せた。

「俺なんかを信じて、仲間を率いてくれて…」

 コンラートの瞳には涙は無かった。けれど、潤んだ瞳の奥には尽きせぬ想いが溢れていると知れる。

「馬ー鹿。唯の意地だ」
「貫けば、それが真実だよ。少なくともお前の意地がなければ、眞魔国の混血兵は根絶やしにされていたかも知れない。ありがとう」
「…畜生。テメェ、やっぱり偽物なのじゃねぇのか?そんなに素直だったかよ?」
「20年ぶりの逢瀬だ。多少の報償はいるだろう?」
「言葉で済ます気だな?」
「なんなら口吻くらいはしてやるが」
「いらねぇよ馬鹿!」

 ゲラゲラ笑いながら乱暴なくらいに肩を叩いてやれば、アリアズナも釣られたように噴き出して、腹を抱えて笑い出した。その様子に驚いたのは不寝番を務めていた兵士達である。

「え…?え?一体どこから入って…」
「閣下のお知り合いですか?」

 そういえば、ここ十数年の間に眞魔国を出奔した連中は殆どコンラートの姿を知らないのだ。突然自陣に現れた男が何者なのか分からず、普段は飄然としている上官が涙ながらに抱きしめ合っている姿に、感動する前に不気味さを感じてしまうらしい。

「知り合いもなにも、お前らの上官じゃねぇか」
「…は?」

 ぱかんと大口を開けた若い兵士が、意味を汲み取るのにはかなりの時間が掛かった。
 まじまじとコンラートの姿を見つめる間に《まさか》と言う形に口が動き、そして数秒の後、神格化され伝えられた《師団長》の容姿が思い起こされる。

「ま…さか……」

 ごきゅりと喉を鳴らして、兵士が唾を飲み込む。
先程までの自分たちを棚に上げて、ヨザックはおかしそうに笑い声を上げた。

「そのまさかだ。師団長閣下のお帰りだよ!」


 わぁああああああああ……っ!!
 
 
 狂喜とも悲鳴ともつかない声を上げて兵士が尻餅をついたのを、責められる者は誰もいなかった。
 


*  *  * 




 コンラートはすぐさま本営に連れて行かれ、そこで手荒い歓待を受けることになった。彼を神格化している若手は勿論、控えめにきらきらと瞳を輝かせて控えていたのだが、幾人かの顔見知りは爆発するような喜びをそのままぶつけてきた。

「テメェ〜っっっ!!会いたかったぜコンチクショーっ!!」
「うわぁああん…っ!閣下、閣下ぁああ〜〜っ!!」

 歓声・罵声・嬌声・絶叫が轟き渡り、笑い顔のままズヒズヒと鼻水を啜り上げる一同がやっと落ち着いてきたのは、もう夜も明けようかという頃だった。

「やれやれ、やっと人心地ついたか?漸く事情を説明出来るよ」

 ほっと息をついたコンラートは、まだ声や身体が震えている連中を無理矢理に座らせると、頭巾を被った小柄な二人を招き寄せた。その所作が不思議なほど丁寧なことに、人々は漸く《あれ?》という顔をした。ヨザックとアリアズナがコンラートわ連れてきた時からその二人はいたのだが、あまりにも驚きすぎていた為に今の今まで存在を失念していたのだ。

 考えても見れば、20年ぶりに姿を現したウェラー卿コンラートも不審だが、パオに入って尚、頭巾を被ったままの人物というのは怪しすぎる。

「この連中は何なんだ?」
「この《方々》、だ」

 にっこりと微笑みながらも、口調と態度には有無を言わせぬものがある。20年ものあいだ姿を眩ませていたことと、何か関わりがあるのだろうか?

「お騒がせして申し訳ありません。坊ちゃま、猊下、どうぞ頭巾をお取り下さい」

 呼びかける言葉の丁寧さと、耳慣れぬ呼称に驚く隙もなく、一同は再び驚嘆の坩堝に叩き込まれた。

「う…」
「ひ…」
「はぅ…っ!?」

 コンラートを目にした時とは異なり、誰も二人の姿を知るものは居なかった。いや、眞魔国…いや、全世界を探しても、これほど見事な《双黒》を目にした者など誰もいないに違いない。

 そう、彼らの目の前に佇んでいたのは対の黒真珠とでも呼ぶべき、麗しの双黒だったのである。
 
「なんと…」
「見事な…っ!」

 パオの隙間から射し込み始めた曙光に映し出された瞳と髪は、安らかな夜闇を切り取ったように純粋な黒であった。もともと眞魔国に於いては貴色とされる黒だが、それが魔族の姿を取った時、これほど美しいと感じられるなど誰もが初めて知った。艶やかに流れる素直な髪に、つぶらで大粒の瞳は澄み切っている。見つめていると、そのまま吸い込まれてしまいそうだ。

 二人とも肌は瑞々しい象牙色をしており、魂を抜かれるほど整った造作はいずれ劣らぬ可憐さであったが、また二人とも個性が違う。眞魔国には珍しい短髪の少年は幾分陽に灼けているが、その分、健康的な艶を持っているし、肩口でやや跳ねさせた髪の少年は、透明感のある人形のような肌をしていた。二対の瞳にもそれぞれに特色があり、前者の瞳はくりくりと好奇心たっぷりに輝き、後者の瞳は落ち着いて状況を見極めているようだ。

 まこと、対照的な一対である。

「ええと…あの、はじめまして!俺、渋谷有利っていいます」
「僕は村田健です。よろしくお願いしますね〜」

 希少な筈の双黒はぺこりと頭を下げたり、親しみを込めて手を振ったりと、およそ神聖らしからぬフレンドリーな態度を示している。あまりに自然な動作に、ついついこちらも笑顔を浮かべてしまうではないか。畏まって膝を突くべきところなのだと思うが、完全にタイミングを逸してしまった。

 とはいえ、最初の衝撃が幾分和らいでくると、誰の心にもふつふつと沸き立つような喜びが浮かんでくる。特に、それはコンラートを実際には知らなかった連中に顕著であった。《ウェラー卿コンラートが蘇った》と聞いた時には、やはり驚きと同時に《今頃、何故?》という疑念があった。それも無理からぬ事だろう。神格化された存在として畏敬の念は払っていても、彼らにとって現実に敬うべきなのは直接の上官たるグリエ・ヨザックであったのだから。だが、こうしてコンラート以上に伝説とされてきた双黒を二人も目にしては、やはり思わずにはおられない。

『やはりウェラー卿コンラートとは、なまなかなお人ではないのだ』

 20年の雌伏の時には何らかの意味があったのだ。そうであるならば、無目的に生を繋げてきたかに見える自分たちとて、何らか歴史に名を残す可能性がある筈だ。

『俺たちは今、大きく歴史が動く瞬間を目にしているのかも知れない』

 どきどきと胸の中で弾ける泡沫は、今はただ消えていくだけかもしれない。けれど、いつかこれが確信に変わる時、本当に《現実》が動く。そんな気がした。

 彼らはコンラートの口からこの20年…いや、彼にとっては10年であっという年月について語られる中で、更にその確信を新たにした。






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