「獅子執事」−10








 ザッザッザッ…

 規則正しい軍靴の音が響く中、フォンシュピッツヴェーグ卿シュトッフェルは満足げにほくそ笑んだ。彼が誇るシュピッツヴェーグ軍は他の十貴族軍に比べても格段に華美な装飾を誇る。それが一面の平原を埋め尽くすような規模で展開する様は、確かに一種壮観であった。
 その他、騎兵が極端に少なく歩兵が主力を締めるのもこの軍の特徴である。

『ふん、騎兵など無意味な存在だ。保持に馬鹿げた額がかかる癖に、よほど上手く使わない限り簡単に壊滅するのだから』

 だから馬など将官と旗印持ち、斥候隊にだけ所属していれば良いのだ。
 騎馬を厭うのは、決してシュトッフェルが騎兵術を使いこなせないからでも、馬が集合した時の異臭が生理的に嫌だからと言うわけではない。

 別に誰かから指摘されたわけでもないのに言い訳臭い言葉を頭蓋内に巡らせると、シュトッフェルは改めて視線を前方に向けた。

 シュピッツヴェーグ軍が現在向かっているのは、大シマロンを宗主国とするボルシュデリア国との境にある平原だ。ここ何年かは幾度も小競り合いが続いていたのだが、一念発起したシュトッフェルが自ら志願して一軍を率い、領土の拡充を約束して出征してきたのである。

 その背景には、国内に於けるシュトッフェルの立場が次第に悪化してきたことがあげられる。かつては目下と捉えて甘く見ていたフォンヴォルテール卿グウェンダルが台頭し始めたのである。宮廷術にはほとほと才能がないと見なしていたのに、この男には無骨な気質ながら粘り強さがあるらしく、派手な約束で唆すのではなく、実直に語り合う中で着実に基盤を固めていったようだ。

 しかもその動きは実に慎重だった。シュトッフェルともあろう者が、外堀を埋められ摂政職を辞さずにはおられないところまで追い詰められてやっと、グウェンダルの動きに気付いたくらいである。

『だが、まだまだ甘いぞグウェンダルめ』

 シュトッフェルは巧みに宮廷の意見を操り、グウェンダルの中庸的な政策案を詰ると、派手な語調で《今こそ眞魔国に魔族の誇りを取り戻す時》と煽ったのである。流石に、完全に乗せられて《では私が》と出征を約束する十貴族当主はいなかったものの、シュピッツヴェーグ軍が単独で出征することに意義は唱えなかった。ここのところボルシュデリア国があからさまな手出しをしているのは明確であったし、実はもう一つ、出征を決定する上で大きな要素があった。

 宗主国たる大シマロンが、この国力を付けすぎた配下を憎々しく思っているらしいとの情報が入ったのだ。
 暗に手を回したところ、《今回の件については大シマロンは手出しをしない》との確約も取ることが出来た。

 何しろ、かつては精強を誇った大シマロンも、ここ10年は随分と国力が疲弊しているから、これも無理からぬ反応であった。眞魔国が大シマロン本土に入り込まない限り、調子に乗りすぎた属国の鼻っ柱を叩いてくれるのは逆に有り難いらしい。皮肉なことに、眞魔国の存在があるからこそ、《大人しく従っていないと、いざというときに見捨てるぞ》という、他の属国への見せしめになるのだろう。現在の大シマロンには、独力で眞魔国を屠るだけの力はないのだ。

 大シマロンが疲弊した背景には、10年前に小シマロンが暴発させた《地の果て》の影響がある。強力な国家に成長しつつあった小シマロンは野心家の王サラレギーを擁し、密かに《禁忌の箱》の一つを手に入れると、鍵と見なされたヴォルテール筋の少年を浚って開放実験を行った。

 その結果起こったのは、大陸を引き裂く巨大地震であった。三日三晩に渡って荒れ狂った地震は激しい津波を引き起こして海岸域を壊滅させた。鍵として使われた少年はどうやら本来の鍵ではなかったらしく、《地の果て》はコントロール不全に陥って、小シマロンの手勢はこの力を利用するどころか飲み込まれてしまい、距離を置いて待機していたはずの本隊も壊滅状態に陥った。

 結局、暴れ続けた《地の果て》は一定の満足を得たのか、はたまた鍵が違っていたことが影響しているのか三日の後に暴れることを止めたものの、強烈な法力が渦巻く開放実験ゼロ地点は熱いマグマに包まれて、誰人も入り込むことの出来ない地獄と化している。

 その影響は未だに、大陸中に影響を与えていた。大地は病み、草木は枯れて実りを忘れたかのようであり、随所で争いが起こっては多くの人々が死に至った。僅かに残された農耕地は奪い合いの戦場となり、幾度も持ち主を変える中で人為的に荒らされていった。

 ボルシュデリア国が捨て身とも思われるような激しさで眞魔国を侵犯しようとしたのも、一つには魔力によって護られた眞魔国の実りに、死をも恐れぬ欲望を抱いたからだろう。

『だが、この一撃で意欲を完全に挫いてくれるわ』

 なりふり構わぬやり方で暴発したボルシュデリア国を徹底的に潰してしまえば、流石に大シマロンも黙ってはいないだろうから匙加減が必要だ。示し合わせた通り、《痛い目》に遭わせたら粛々と帰還する。その程度の認識だからこそ、シュトッフェルは珍しく陣頭に立ったのである。そうでなければ、この慎重と言うよりは怯懦な男が矢面に立つはずもない。 
 
『この戦勝により、再び私の発言権は拡大される』

 ここのところつれない態度が強い同胞ヴァルトラーナや、《万が一と言うことがある》と主張して兵を出そうとしたグウェンダルも退け、シュピッツヴェーグの単独軍のみで作戦行動を採ったのは、ただ己の立場を護りたいが故であった。

 この時、シュトッフェルは欠片たりとも自分が敗れた時のビジョンなど浮かべては居なかった。《約束された勝利》がそこにあるというのに、わざわざネガティブな発想をする意味など無い。その程度にしか思わなかったのである。

 この日、恐るべき《呪い》を受けるまでは…。

 不意に、ザザァア……と強い風が吹いた。
 人々は誰かに呼ばれたような気がして視線を上げると、シュトッフェルからの命令がないにもかかわらず、その歩を止めてしまった。軍隊としては許し難い違反行為である。もしも歩を止めたのが一斉でなければ、つっかえた後続部隊との間で衝突事故が起きてもおかしくなかった。それが起こらなかったのは奇跡的に、兵士達が揃えたように同じタイミングで歩を止めたせいである。

 何しろ、彼らは自分たちの最高司令官よりも遙かに威迫に富んだ声で命じられたのである。


「全軍停止!」

 
はっとしたように顔を上げた人々は、反射的に従ってしまったこと自体に驚いたように、互いの顔を見合わせた。
 シュトッフェルとしては公衆の面前で顔を潰されたようなものであり、激高して叫んでしまった。

「誰だ、勝手な命令を下すのは!私は停止命令など出しておらぬぞ!?」
「お懐かしいですね、閣下。いえ…伯父上」

 ドウ…っ

 強い風がドウドウと真正面から吹き付けてくる。なのに、衣服も髪も乱さずに中空に浮かんでいるのは、一体誰なのか?
 蒼い軍服を着こんだ長身の男は、嫌と言うほど見覚えのある姿をしていた。

「ひ…っ!」

 シュトッフェルはすんでのところで身体の動揺をおさえ、危うく落馬を逃れた。しかし、肩が震えるのを止めることは出来ない。何故ならば、浮かんだ男の顔を…彼は知りすぎるほどに知っていたからだ。

 その男は、ここにいては…いや、この世にいてはならない男だった。

「貴様…貴様、し、死んだはず…!」
「殺したはず、でしょう?」

 にっこりと微笑む顔と声に、どよめきが広がっていく。誰もが《そうなのだろう》と疑いながらも、立場上表だって言うことは出来なかった疑いが、よりにもよって被害者の口から告発されたのだから。

「ちちち…違う、あれは…私ではないっ!ヴァルトラーナが…っ!」
「おや、あの方も噛んでらっしゃいましたか。そんなところではないかと思ったんですけどね。取りあえず、俺を殺した相手をあなたはよくご存じであるにもかかわらず、今日まで放置なさったわけですね?」
「…っ!」

 シュトッフェルは愕然として周囲を見回した。全て自軍で固めているから、彼らが積極的に告発を行うことはないだろう。だが、下級兵士もいることから考えれば、彼らの口から《ヴァルトラーナがルッテンベルクの獅子を謀殺した》こと、そして、その事実を口にしたのがシュトッフェルに他ならないことも伝えられてしまうだろう。幾らシュトッフェルとはいえども、これだけの人数を闇に葬ることは不可能であった。

「あ…あ……っ…」

 喘ぐように喉元を掻きむしる。相手が生きている者であれば幾らでも遣りようがあったろうが、見殺しにした筈の男が半透明の状態でぷかぷか浮かんでいるのを前にしては、つい自分の身を優先して同胞を売ってしまったのもやむおえまい。
 
 …ヴァルトラーナの方では、そうは思わないだろうが。

「まあ、その話は取りあえず置いておきましょう。あなたやフォンビーレフェルト卿ヴァルトラーナがどうなろうと、俺が知ったことではありません」
「だったら、何故今頃になってわざわざ化けて出たというのだっ!」
「使命の為ですよ」
「な…っ!?」

 凛とした面差しと、響きの良い美声が知らず兵達を魅了しているのが分かる。普段はシュピッツヴェーグらしいやり方に取り込まれていても、軍人たる者、やはりその心根の中には少年めいた志を持っている。

 《兵士》ではなく、《騎士》としての魂が、使命という崇高な響きに何らかの感応を示すのだろう。

「此度の遠征はお止めください。良くないことが起こりましょう。少なくとも、他の十貴族軍と合流して、十分な戦備を整えるまで打って出てはなりません」
「何をさかしげな!死人の分際で私に意見するな…っ!何様のつもりだ…っ!!」

 ふぅ…っと呆れたような吐息を漏らすと、愁眉を寄せたウェラー卿コンラートはシュトッフェルに向かって託宣を寄せる巫女のように手を伸ばした。

「何様?俺は《ルッテンベルクの獅子》…眞魔国を守護する者ですよ」

 その場に居合わせた男達の全てが、ぶるりと胴震いした。
 それはこの世ならざる者への恐怖などではなく、偉大なる英雄にむけた畏敬の念であるに違いない。

 腹立たしいほどに、ウェラー卿コンラートは兵の心を掌握するに長けた男であった。

「個人的な恨みや栄光など関係ない。死しても尚、我が故郷が危機に晒されているとあれば奮い立たずにはおられない。因果な男です」

 自嘲するような色は一瞬で吹き払い、コンラートは高らかに兵士達へと告げる。

「諸君、俺の言葉を忘れるな。フォンシュピッツヴェーグ卿シュトッフェルはこの戦いを、勝利を約束された遠出くらいにしか思っていないようだが、事実は異なる。このまま無為な戦いに身を投じれば、自軍のみならず、眞魔国にとっても不幸な結末となろう。今からでも遅くない。細かな情報にも目を向け、戦略を立て直すのだ。大シマロンは必ず出てくる。君たちの骸の後に広がる、剥き出しの国境へと兵を進める為に…!」
「黙れ黙れ黙れ〜っ!!弓兵ども、何をしておる。射掛けいっ!」

 発狂したように口泡を飛ばして叫んだシュトッフェルは盛んに矢をつがえるようけしかけたが、弓兵達は恐れを為したかのように固まってしまい、弓を上げることも出来ない。焦れたシュトッフェルが弓を奪って矢を射掛けると、それはコンラートの姿を通り抜けてグサリと大地に突き刺さった。

「な…っ!」

 矢の軌跡を全員が追っていたのだろう。大地から中空へと視線を戻した時、そこにはもうコンラートの姿は無かった。

 だが、風の唸りの中にその声だけが響いていた。

 《忘れるな…》

 忘れようと思っても、忘れられるものではなかった。



*  *  * 




「ふう、やれやれ」
「お疲れ様、コンラッド」

 少し疲れた顔をして席に着いたコンラートに、有利が心配そうに声を掛けた。彼らが潜んでいるのはシュピッツヴェーグの行軍を眼下に見下ろす高台で、ルッテンベルクの精鋭騎兵部隊と共に、失踪当時の軍服に近いデザインの服を纏ったコンラートと、有利と村田がいる。この地は拠点の一つであるトルパからそれほど離れていない場所であり、丸一日馬を飛ばせば到着する道程であった。 

 ちなみにコンラート達がトルパにやってきてから1ヶ月ほど経過しており、その間に今回のことが計画された。

「上手く行ったみたいだね」
「ユーリと猊下のおかげです」
「僕としては、甘いなぁと思うんだけどね。渋谷が言うんじゃしょうがない」

 村田は少々憮然として言うが、しょんぼりしたように有利が肩を落とすと不機嫌な顔も続かなかった。

「責めてるんじゃないよ。ただ、僕はあのオジサンの遣り口が気にくわないだけだ」
「そりゃ俺だって嫌だよっ!聞けば聞くほどぶっ飛ばしてやりたいって思うさっ!」

 ぱんっと勢い良く左掌に右拳を叩きつける有利は、実際問題としてシュトッフェルと混血の軋轢を聞いた時には憤激し、怒りのあまり目眩がしたくらいだ。けれど、今回の遠征がそのまま実行されればシュピッツヴェーグ軍が全滅するどころか、空っぽになった国境から大シマロン軍とその属国集団が一気に攻め込んでくると聞けば、放っておくことなど出来なかった。

 シュトッフェル個人が死ぬのは自業自得だとしても(あの手の男はどんな状況でも自分だけは逃げそうだし)、兵士達が無為に死んでいくのは勘弁して欲しい。

 今回の戦いに於いては不干渉を約束していた大シマロンが、実際には秘密裏に大兵力を整えて眞魔国を転覆しようしている。その恐るべき情報をルッテンベルク所属のお庭番が入手したのは、コンラート達がトルパに入って間もなくのことだった。
 一味上層部との作戦会議の中で《ルッテンベルク師団とウェラー卿コンラートが大手を振って眞魔国に帰還する方法》を模索しようとしていた村田は、眞魔国側にもヴォルテール筋からお庭番情報を集めると、シュピッツヴェーグ軍の認識が極めて甘い認識であることを突き止めた。

 《こんなに国力が疲弊しているのだから、危険を侵す筈がない》というのは、事実というよりシュトッフェルの願望に過ぎない。自分の思いこみに目が眩んでいるから、願望を否定するような情報ではなく、肯定する情報ばかりを受け入れたに違いない。

 この情報を受けてまず村田が考えたのは、シュピッツヴェーグ軍を完全な《捨て石》にすることだった。数の上ではそれなりの規模であるシュピッツヴェーグ軍をそのまま大シマロン軍にぶつけ、戦勝に浮かれて直進してきたところにルッテンベルクの誇る精強な騎兵部隊を叩きつけ、陣営が乱れたところをヴォルテール軍を主力とする眞魔国軍で叩くつもりでいた。

 その間、兵に紛れさせたルッテンベルク隠密部隊に大シマロン軍とシュピッツヴェーグ軍の糧食を焼かせることが出来れば更に完璧だ。それでなくとも補給線が伸びきっている大シマロン軍は、出鼻を挫かれた段階で引き替えさざるを得なくなる。折角得た領土ではあっても、そのままでは領土にはなり得ない。防衛の拠点となる要塞を突貫工事であっても作り出す為には、その間に本土から兵力と糧食の補給を保たねばならないのだが、大兵力であればあるほど容易ではない。平原が続く進路から考えると、シュピッツヴェーグ軍から奪えなければ戦地調達は不可能なのだ。不可能となれば、どれほど口惜しくとも引き返さざるを得ない。

 上手く行けば、ヴォルテール軍は無傷で国境を保てる可能性もある。

 時間的に見て十貴族会議を経ぬ決断にはなるが、元々ヴォルテール軍はこれあるを警戒していたようだから、ルッテンベルクからの情報を受ければ急場であっても急ぎ兵力を整えてくれると見ていたし、状況が状況だけに、私的戦闘とは受け止められないはずである。
 そうすれば手を汚さずにシュピッツヴェーグの勢力を削いだ上、ルッテンベルクと繋がりのあるグウェンダルの発言権を増すことが出来る。

 冷然として《ルッテンベルク師団を捨て石にしたんだ。因果応報というものだろう?せいぜい噛ませ犬として活躍して貰おうじゃないか》と微笑した村田に、当事者であるはずのヨザック達ですら少々怖気を感じたくらいだ。

 だが、この計画に異論を唱えたのは、シュトッフェルに対して怒りを示していた筈の有利だった。村田は有利の意見を容れると、魔力を使ってコンラートの《幻影》に忠告させるという方法を採ったが、最初の案を強く推していたヨザックなどはあまりいい顔をしなかった。

 計画通りに警告が行われた後も、幾らか憮然とした面持ちでこちらを見ている。

『雌伏期間20年じゃあ、無理もないよね』

 それでも、《シュトッフェルの罪とシュピッツヴェーグ兵の命は別物だ》と主張する有利の意見は容れたかった。恨みに恨みで返す遣り口は心情的には大好きだが、有利を王位に就けるつもりである村田にとって、無為に国力を落とすこともない。

『それに、この忠告を聞いて心を入れ替えるような男なら、今少し慎重に軍を進めているはずだ』

 警告が全く意味をなさないとは思わないが、少なくともシュトッフェルは変わるまい。今まで以上に細やかな諜報活動を行って、シュピッツヴェーグの他の連中がどう動くかを見極めねばならないだろう。



*  *  * 




「コンラッド…ゴメンね?」
「どうして謝るのです?」

 トルパまで戻ってくると、宛われた宿の一室で有利がぽつりと零した。
 有利はコンラートと二人きりの部屋で寝泊まりしている。望めば個室も与えられたのだが、コンラートが有利の寂しさを見抜いたように《俺は執事として、ユーリのお世話をするという第一命題がある》と主張した為、二人部屋にして貰ったのだ。

 その事は素直に嬉しかったけれど、こんな状況になっても自分を《ユーリの執事》とみなすコンラートに、昔の仲間達が複雑な思いを抱いているのは見ていて分かる。何せ、双黒とはいえども正体の怪しげな少年が、英雄を執事扱いしているとあっては外聞も悪かろう。

 その上、恨み重なるシュピッツヴェーグ軍を、不本意ながらも庇うような立場になった有利は、ルッテンベルクの一味からは良く思われていない…と思う。少なくとも、鮮やかなオレンジ色の髪をしたヨザックという青年は、厳しい眼差しを有利に向けていた。彼らの事情を聞けば、その心情も分かるだけに辛かった。

『それでも俺は、誰にも傷ついて欲しくない。警戒してたら回避出来るってんなら、できることは何だってしたい』

 自分にもっと力があれば、戦争自体を回避したい。それが出来ないというのであれば、少しでも戦場で命を落とす者を減らしたい。綺麗事だと嘲笑されても、有利は自分を枉げることは出来なかった。

「シュトッフェルとかいう奴と、顔を合わせるのだって嫌だったろ?なのに、兵の為に警告しに行ってくれたのに…あいつ、マジで嫌な奴な?あんたに、酷いこと言ってたじゃん」

 悔しさのあまり泣きそうになってスン…っと鼻を啜れば、コンラートの優しい手は包み込むように有利の頬へと添えられる。蜂蜜を溶かしたみたいに柔らかな瞳は、あれほどの威迫を込めて一軍に警告を投げかけたのと同じ人だとは思えない。

『俺の知ってるコンラッドはこういう人だ。だけど…この国の人たちにとっては、きっとあの時のコンラッドの方が《本物》なんだろうな』

 国家的英雄としてのウェラー卿コンラートは、有利のような少年の執事に収まる器ではないのだろう。それを分かっていてこの手を離すことが出来ない自分は、強突張りなのかも知れない。

「何を仰いますか。俺はまた、改めてユーリの懐の深さに感じ入って、ますますあなたに生涯を尽くしてお仕えしたいと思いましたよ?」
「仕えるとか言うなよ…。あんた、こっちの国では英雄なんだろ?やっぱ、ちょっとこの関係は立て直さないと、なんか周りの人に悪いや」
「ええ…っ!?ユーリ…俺から生きる喜びを奪うおつもりですか!?」

 《ガーン》という擬音が聞こえそうなほど派手に顔色を変えたコンラートは、よよと泣き崩れてハンカチを噛みしめた。どうでもいいが、どうして新妻座りなのか。心なしかスポットライトが見えるようだ。

「そんな大袈裟な」
「大袈裟なものですか!俺は正直、自分が崇められるとかなんとかいったことは別にどうだって良いんです。そりゃあ一途な連中が俺を待っていてくれたことに感謝はしますけど、ぶっちゃけ20年のあいだ俺無しでもやってこれたんだから、そのままヨザが仕切っちゃえば良いじゃないかと思うんですよ」

 …有利に遠慮して言っているのだろうか?
 でも、視線が何故か《欲望まっしぐら》に見えるのは、有利の心理がそう見させているのだろうか?

「それ、ヨザックの前で言ってやるなよ?多分泣いちゃうよ?」
「大丈夫ですよ。意外と打たれ強いですから」

 コンラートはケロッとした顔で言うのだが、そういうの、勝手に決めちゃって良いか。
 有利はなんとなくヨザックに同情した。

「それより、俺は連中の指揮をしている間にあなたのお世話が出来ないことの方が苦痛です。ちゃっちゃと大シマロンの侵攻など片づけて、とっとと眞魔国であなたの王位を固めてしまいたい。そういった意味では、無駄な戦争などやってないで、大人しく伯父が兵を国境で止めてくれると良いなとは思いますね」

 《ついでに、そのまま国境で張り付けになってくれればなお良いですが》とは、本当に正直な思惑なのだろう。
 それにしても《ちゃっちゃ》とは…片手間に片づけて良いような規模の話だろうか?

『俺の王位ねぇ…』

 コンラートも村田も、どうやらそれを第一義に置いて行動している節がある。だが、この国の魔王は眞王の指名制だと言うから、眞王をフルボッコにしてしまった有利にその権利はないような気がするのだが。

『いや〜。あいつが僕たちに気付いててどうにかしたいってんなら、とっくの昔に手出ししてるはずだよ?それがナイってことは、前にボコった時の影響で動けないってコトじゃない?だったら指名もない代わりに邪魔も無いはずだから、今の内に既成事実だけ作って魔王になっちゃえYO!』

 何故か語尾だけDJ風に纏めた村田は、実に軽い調子で権力の掌握を勧めた。死んだはずのコンラートが蘇ったことも、《眞王陛下のお導き》として利用し、20年ものあいだ音信不通だったのは、最強の双黒の魔王が生育するのを待っていたからだとルッテンベルクの一味にも告げていた。

 元々の指令はそうだったのだからあながち間違ってはいないのだが、眞王の器にされる為に育てられていたらしい有利としては、複雑なことこの上ない。

「ユーリは何も心配しなくて良いんですよ。どうぞ雑事は臣下に任せて泰然と構え、迷い無く羅針盤として機能して下さい」
「ん…」

 《執事》の次は《臣下》かと思うと、ますます有利は複雑な気持ちになる。有利がコンラートに求めているのは、そんなふうに傅かれることではないのだと、この地に来てからより強く思うようになった。今までは漠然とした認識で《なんか違うな》と思う程度だったのだが、親しげに言葉をかわすルッテンベルクの人々を見ていると、何やら猛烈に羨ましくなってくるのだ。

『俺だって…もっとこう、フレンドリーな感じになりたいな』

 そう思いながら、甘えたように《むぎゅう》と胸板に抱きつくと、コンラートは相好を崩して《きゅむきゅむ》と抱き返してくれた。そう、有利が望めばこういう接触に関して《執事と主》なんて無粋なことを言い出すことはない。

 では、有利は一体なにが不満なのだろう?

『なんか、俺とヨザック達って何かが違うんだよな』

 こんなにべったり引っ付いていて文句を言うなんて贅沢な話だと分かっていて、それでも有利はもんやりのとしたものを抱えていた。









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