獅子執事−7











 ガララララ……っ!
 ドゥッ…ドッ!

 舗装されていない山道を、二頭立ての馬車が狂ったように疾走している。辺りには人気はなく、街どころか民家に辿りつくまでは、この速度を保ったままあと2刻ほども過ぎねばならないだろう。富豪アナハイム家の別荘地は気兼ねなく宴を開けるのは良いが、帰路には常に難渋する場所であった。

 車輪はけたたましい音を立てて高速回転を続け、時折石や地面の隆起に引っかかるたびに、車体が横倒しになりそうなほど大きく弾む。ヒィヒィと悲鳴にも似た嘶きをあげる馬は、自分が噴き上げた口泡で窒息しそうになっているのではなかろうか。
 普段のエリオラであれば《何をしているの?》と御者に叱責の一つもお見舞いするところだが、今日に限ってはそんなことできはしない。二頭立ての馬車を駆る御者は、この状況下においてはエリオラの命を握っていると言っても過言ではないのだ。

『命までは持っていかないかも知れないけど、貞操は危ないわね』

 タイラント国の中流貴族息女であるエリオラ・ドゥ・タリアーナは当年とって17歳。体面上は処女という扱いになっているが、夜会と見れば出かけていって羽目を外す自分が、よもやそんなタマではないとみんな知っているだろう。だから、本来は《貞操》と呼ぶのも厚かましいのかも知れない。
 未だにエリオラが処女だと信じているのは、おそらくお堅い父君くらいなものだろう。彼は縁談がまとまらない理由の殆どを締める娘の不実から、目を背け続けている。

『まあ、あの方は信じたいものを信じておられるのが精神衛生上は良いでしょうね』

 真面目一本な父を評価しないわけではないので、別段嫌みでもなんでもなく、客観的にそう思う。貴族の息女は嫁に行くまで確実に処女性を保ち、嫁に行けば相手がどんな男であっても尽くす。そんな不文律を生真面目に護っている友人達も多いが、エリオラとしては少しでも自分が《愛している》と思った相手と初めての夜を過ごせたことは素晴らしい思い出だと信じている。

『今宵、下賤な夜盗に蹂躙されるようなことがあれば、余計に自分の英断を褒めてあげたいわね』

 今宵の夜会はとても楽しかった。仮面舞踏会で、誰も彼もが身分を忘れて踊りあかしていた。エリオラは自分で手配した騎馬の護衛を二人つけて帰途についたのだが、どうしたものか、夜盗に目を付けられてしまったらしい。おそらく、馬車に刻まれた家紋から《襲うのに丁度良い家格》と目を付けられたのだろう。あまり家格が高いと軍隊が動きかねないし、最悪、宗主国たる大シマロンが出て来かねない。かといって、低すぎると身につけている装飾品の価値なども高が知れてくるし、人質に取ったところで大した金額を要求することも出来ない。特に、誘拐はよほど手段に長けた者でないと金の受け渡しに際して捕縛される可能性が高いから、夜盗は《盗り捨て》《犯り捨て》にできる通り魔的な犯行を好む。

 夜盗達一騎ずつの実力がいかなものであるのかは不明だが、複数いるらしい連中は護衛を仕留めてから、まるで狩りを楽しむようにエリオラの馬車を追ってきた。馬車に乗っているのは中年の御者と、エリオラにしがみついて震えている二十代半ばの侍女が一人。気だての良い農村上がりの娘で、細やかに気を配れる分、奔放なエリオラに呆れているような気配もあったが、こうして怯えきって泣いているのを見ると、10歳は年上の彼女に対して《放っておけないわね》なんて考えてしまう。

 何しろ、この侍女は夢見がちな女なのだ。《いつか王子様が》とまでは言わないが、運命の出会いを信じて婚期を逃したばかりか、恋の火遊びも否定して、未だに処女性を保っている。エリオラに言わせると《膣にカビが生えるのではなくて?》というところだが、その度に真っ赤になって、火のように怒って泣く顔がやけに可愛い。エリオラが男なら、無理矢理床に連れ込んで恋の甘く苦い味を教えてやりたくなりそうだ。

『んん…。とはいえ、《私のことは構わずにお逃げなさい!》なんて自己犠牲を発揮するところまで剛胆にはなれないわね』

 使用人に対して《庇ってやりたい》なんて気持ちが動くだけ、貴族社会の中では異端に属するのではないかと思う。中には、使用人が何をしたわけでなくとも嗜虐的な扱いをして、死さえもたらしておいて平気な顔をしている者とているのだから。
 エリオラは自分が特別情が深いというわけではないと思っている。単に、鼻をつんと反らした貴族連中との夜会を楽しみながらも、どこかで自分を含めて《真っ当な連中ではない》とみなしている部分があるから、純朴過ぎる侍女に呆れながらも《これが真っ当な人間なのかも知れない》と思うのかも知れない。

「おお…おお、エリオラ様…っ!どうしましょう…どうしましょう!!」
「落ち着きなさい、ノラ。騒いだって私にはどうにもならないわ。馬車の揺れに身体を合わせて、転がり落ちてしまわないようにだけ気を付けておきなさいな。落ちたら最後よ?」
「おお…おお…っ!!」

 一人落ちて取り残されることでも想像したのか、ノラは《わっ!》と破裂するような声を上げて号泣した。よくもまあ涙が尽きないものだ。

 ドド…ドォ…っ!

「ひっ!」
「…っ!」

 嫌な音と振動が起きた。それが御者の位置からしたことに、流石のエリオラも息を呑む。弄ぶようにして馬車を追い続けていた夜盗達がとうとう焦れたのかも知れない。おそらく、御者は矢で射られて命を落としたか、そうではないにしても身体を馬から落としてしまったに違いない。制御不能に陥りかけた馬たちも嘶きを上げて静かになると、その身体にぶつかるようにしてドォンと車体が跳ねた。

「…あらあら」

 それしか言えない自分に、《私もこの程度の女か》と少々ガッカリするが、エリオラにしがみついて固まったまま震えているノラに比べたらまだ可愛いものかも知れない。

「ふぅ…。せめて私達の被害が小さくなるように、交渉してみましょうか」
「ひぃっ…ひ、ひぃ…っ!」

 車両の扉を開けて出ようとすると、ノラが狂ったように頭を振ってエリオラのドレスを掴む。心配だからと言うよりは、自分が外に出たくないのか。

「怖かったらそこに座っておいでなさい。私だけで行くから」
「そんな…そんなっ!」

 がたがたと震えながら泣いているノラは相変わらず可愛いが、状況が状況だけにやはり苛立たしい。こんなに怯えきっていたら、夜盗達の嗜虐心をそそるだけではなかろうか。

 しがみついてくるノラの指を一本一本はがして車両の外に出ると、流石に《うっ》と息を詰めてしまった。車両の中はとっくの昔に洋燈を切って闇に包まれていたから、ぎらぎらと灯される松明が眩しく、照らし出される野卑た顔つきの男達も、エリオラの想像を遙かに超える恐怖を与えた。

 跳ねっ返りとはいえ、所詮はちやほやされて育った貴族の子女。理屈も道理もない夜盗の前に立たされれば、唯の獲物でしかないのだと知らしめるように、男達がべろりと舌なめずりをした。

「へへ…お前ぇ、一人か?」

 なるべく優雅に見えるようにゆったりと頷いて見せたのは、せめてもの矜持だった。どうせ車両の中も改めるのだろうから、ノラがこのまま見過ごされるとは思わなかったが、それでも、あの純朴な女が《お嬢様に突き出された》なんて思うのは嫌だなと思ったのだ。自分でも偽善的だとは思うが、しょうがないだろう。

「ええ。頼みの護衛は前金で大枚を要求してきた癖に、あなた方の前にあっさりと陥落してしまったようね」

 途端に、男達はげらげらと腹を抱えて笑う。嫌な予感がした。

「…そう。あの連中、最初から私達の味方ではなかったようね?」
「あっはは!跳ねっ返りのお嬢さんよぉ。今日び、家絡みの護衛だって我が身が一番大事なんだぜ?はした金で日雇いされた奴を信じる方が馬鹿だぜ!」
「そのようね」

 《残念だとこ》と嘆息するエリオラに、男達はニヤニヤと嗤いながら近寄ってくる。《寄るでない!》なんて気高く叫んだ方が格好が付くのかも知れないが、タイミングが合わなかったのと、少し自分の個性とは違っている気がして、結局淡々と待ち受けてしまった。

「へっへっ…あんた、《夜蝶エリオラ》だろう?年は若いが、相当遊んでるって噂じゃないか」
「この年でもう下はゆるゆるなのかい?貴族連中の短小マラに飽きたんで、わざと逃走で盛り上げてから遊ぼうって魂胆なんじゃねぇのか?」

 夜盗にまでそのように思われているのか。確かに、年の割に夜の生活は奔放な方だと思うが、そこまで貶められることもあるまいに。ぐつぐつと腹の中で煮えたぎる怒りが、逆に怯え始めていた脚を奮い立たせる。

「確かに私は夜ごと羽根を広げる蝶」

 年の割に豪奢な形に結われた金髪を撫で上げて、エリオラは挑戦的に微笑んでやる。

「けれど、私の求める蜜はお前達からは得られそうにもないわ」
「ぎゃはは!この期に及んでテメェに選択権があるつもりかよ!大したアマっ子だぜ」
「その取り澄ました面がいつまでもつか、拝見させて頂くぜお嬢様よぅ…っ!」

 男達が一気に間合いを詰めてくると、《ドっバン…っ!》と身体をぶつけるようにして車両の扉が開いた。ノラが飛び出してきたかと思うと、ガタガタと震えながら、目が熔けてしまうのではないかと思うほどに涙で顔をぐしゃぐしゃにしたままエリオラを抱きしめてきた。小柄な年上の女は、どうにかして背の高いエリオラを自分の身体の中に収めようとするようにじたばたと腕を動かした。

「おじょ…さま…っ…だめ…おじょ…っ!」

 歯の根が合わないくせに、何の護身も心得ていないくせに。
 今まで、別にエリオラのことを本心からお嬢様だなんて崇めた事なんてないくせに。
自分でも臆病者だと自覚しているくせに…。

「困った人ね」

 そうは言いながらも、唇に笑みが浮かぶのが不思議だった。
 この、妙に良い気分もすぐにぐしゃぐしゃに引き裂かれてしまうのだろうけれど、少なくとも、この一瞬くらいは喜んだっていいのではないか。

 不意に静かで満ち足りた心地になって空を見上げれば、雲間から覗く月がとても綺麗に輝いていた。

「なんだなんだ。お前ぇも可愛がって欲しいってか?他の連中も喜ぶだろうよ」
「ぎひひっ!」

 男達が狂喜して腕を伸ばしてくるが、その指先がエリオラ達に触れることはなかった。

 ヒュン…っ!

 くるりと舞うような曲線が、月光を閃かせたみたいに見えたのは気のせいだろうか?それが、松明の光を弾く剣の軌跡だと言うことに気付いたのは、暫く経ってからだった。

 男達は言葉を発することもなく、自分たちの身に何が起こったのかも分からないまま意識を飛ばしてしまったらしい。ドタンっと同時に地に伏した身体は、そのままピクリともしなかった。見事に急所を貫かれたのだ。

「お怪我はありませんか?」
「まぁ…っ!」

 エリオラは言葉を失って目の前の光景に見入ってしまった。このような難所を救って貰っておいて礼儀知らずと責められそうだが、それでも、月光に映える男はあまりにも美しかった。身につけた衣装は執事のそれだが、恭しくお辞儀をする姿は絵画から抜け出してきたみたいに端麗で…同時に、お伽噺みたいに突拍子もない。

 執事服を纏った男など、貴族なのだから勿論浴びるほど見ているはずなのだが、この男は何もかもが規格外であったし、何より、こんな山道で唐突に執事に出会ったりすれば誰だって驚くだろう。

 ダークブラウンの頭髪は淡い風に前髪が揺れているが、後ろは極短く刈り詰められていて精悍だ。その辺りは執事と言うより、どこか軍人を思わせる。ところが、彼の容貌は軍人と言うには優美に過ぎるし、さりとて執事と呼ぶには独特の風格を示しすぎていた。傅く姿は堂に入っているのに、この男には使用人と言うよりも全てを支配してもおかしくないくらいのカリスマ性がある。エリオラは伊達に貴族世界で遊び歩いては居ない。階級など取り外して乱れたところで人間の本性というものを見てきた彼女には、年の割に《ものを観る目》が備わっていた。

「あ、ああ…あ…っ…」

 怖々後ろを振り返ったノラも、先程まで真っ青に血の気を引かせていた顔を今度は真っ赤に染めて、相変わらずぶるぶると震えている。震えている理由は勿論、先程とは違っていて、うっとりと濡れたように光っているその瞳から、彼女がこの執事に見惚れきっていることが知れた。

 無理もない。絶体絶命の危機を救われた上に、これほどの美形なのだ。空恐ろしいほどに端正な面差しと、状況を分かっているのか居ないのか、淡々とした風情はまるで人間ではないみたいだ。この森の精霊館に住まう魔女の遣いとでも言われた方がしっくり来るかも知れない。

「お怪我はないようですね。ですが、御者は道の途中で昏倒しているようですし、馬も一頭は無事ですが、もう一頭は息がないようです。夜盗達の馬は二頭ありますが、御者が居ないのでは意味がありませんね。お屋敷にはどうやって帰られますか?」
「私、乗馬は得意ですの。一頭いれば、何とか乗って帰れますわ」
「おや、それは素晴らしい」

 エリオラの言葉に、執事はにっこりと微笑んだ。できれば明るいところで観たかった。きっと、日の光を浴びればもっと美しいことだろう。瞳の色もここではよく分からない。今は夜盗の落とした松明が地面の上で燃え続けている為に、整った造作がぼんやりと浮かんでいる程度であった。
 それにしても、馬には乗馬用の鞍もつけていないし、エリオラ自身も宴用のドレスであるというのに、《乗馬をする》と聞いても眉一つ動かさない執事は、やはり風変わりな人物なのだろう。

「コンラッド、大丈夫?」
「ちょ…渋谷!」

 がさがさと草むらから出てきたのは、頭巾を被った少年のようだった。一人が執事に呼びかけているようで、もう一人はそれを止めようとしている。二人とも服と一体化した頭巾を被っているのだが、全体的にその服は変わった形をしていて、布地の様子もあまり市井では見かけたことがない。《やはり森の妖精なのだろうか?》なんて考えてしまうのは、やはり異常事態で思考能力が失われているせいなのだろうか?

 彼らのうち、特に活発そうな少年は倒れている夜盗達に気付いて心配そうな表情を浮かべた。《…死んでるの?》と尋ねる少年に執事がけろりとした顔をして《気絶しているだけです》と言うと、ほっとしたように胸を撫で下ろしていた。

『気絶した人間が、あそこまで微動だにしないということはないでしょうに』

 とは思ったが、敢えて口にはしなかった。人生には、幾つか嘘が必要なこともあるのだ。
 そのまま少年達を観察していたら、ふと衣服の様子に気付いた。

「あら…あなた達、随分と濡れているのね?一体どうしたの?」

 今更ながらに気が付いたのだが、少年達だけでなく、執事もよく見ればずぶ濡れのようだった。

「ええ、少々事情がありまして」

 苦笑する執事はそのまま事情を話してくれるつもりだったのかどうなのか、ふと言葉を止めると二人の少年を再び草むらの中に押し込み、ついでのようにエリオラとノラも草むらの中に誘導すると、夜盗の一人が乗っていた馬の綱を引いた。癖のありそうな荒馬は主人が倒れたことに気が立っていたようなのに、執事が優しく囁きかけて何度か頬を撫でてやるとたちまち大人しくなった。随分と馬に愛される性質らしい。

「申し訳ありません、夜盗共の仲間がまだ何人かいるようです。少々お時間を頂いて片づけて参ります」

 《お茶のお代わりを持って参ります》くらいに軽い様子で、執事はひらりと馬に乗って駆け出した。その所作はどう見ても一介の執事などとは思えない。

「コンラッド、無茶しないでね?」
「ええ、すぐに帰って参りますから。どうぞ安心してお待ち下さい」

 心配そうな少年を後にして、あっという間に執事は立ち去ってしまった。

「あなた方、一体どういう…」

 呼びかけようとして、先程までよりも明るさが足りないことに気付く。月光はまだ降り注いではいるが満月ではないし、そもそも、夜盗達の松明はいつの間にか消されていたらしい。ちらりと目を遣ると、松明は踏み消されたように砂地と混じっていた。山火事を起こさないようにと執事が配慮したのだろうか?そのせいで、エリオラは少年達の顔立ちを見て取ることは出来なかった。ただ、頭巾の下からちらりと覗いた髪が、この辺りでは珍しいくらいに暗い色合いらしいと言うことだけは分かった。

『黒…なんて事はないわよね?』

 どうも今日は妄想づいているらしい。仮にも、自分たちの危機を救ってくれた救世主相手に呪色を思い浮かべるなど失礼な話だろう。

 黒は闇の色。
 黒は悪の色。

 黒は世の中の全ての災厄を固めた色だとされている。同じく、呪詛を凝縮させたような存在である魔族の中には黒を貴色と讃える習慣があるそうだが、その辺りがやはり、人間とは正反対な価値観を持つ所以だろうか?

「本当に怪我はない?お姉さん達大丈夫?」
「ええ。おかげさまで。危ないところを救って頂いて本当に助かりましたわ。あら…私としたことが、あの方には直接お礼を申し上げておりませんでしたわね」
「すぐに戻ってくるって言ってたから、きっと大丈夫だよ」

 淡い月明かりの下ながら、にぱりと笑う少年の顔には屈託がないようにみえた。随分と可愛らしいのではないだろうか?これも、是非明るい場所で見てみたいものだ。

「あなた達、先程の方の従者なの?」

 少年達の喋り口調が下町の子どもみたいだったせいだろうか?珍しくノラが緊張を解いた声でうきうきと尋ねている。弾むような口調になるのは、きっとあの執事への恋心のせいだろう。

『20代半ばで、もしかして初恋なのかしら?』
 
 ただ、気の毒だがこの恋が上手く行くとは到底思われない。あの男はただの執事とは思われなかった。到底ノラの穏やかな家庭計画に組み込まれてくれるタマとは思われない。

「うーん。つか、一応コンラッドは俺の養い親で…んで、自称執事だよ」
「…自称?」

 ノラはきょとんと小首を傾げて不思議そうに聞いている。確かに、《自称執事》とはこれまた如何に。

「掃除洗濯料理と家事一般してくれるし、俺のスケジュール管理とかもやってくれるけど、俺の家ってめっさ一般家庭だからさ、執事とかいるのオカシイんだよね。あの執事服さえ着てなきゃ、別に普通に《面倒見の良い家族》?みたいな」
「洗濯…料理…?すけ…?」

 ノラは盛んに目をパチパチさせながら困惑している。無理もない。侍女であっても大きな館に仕えていればその仕事内容は自ずと限定されてくる。特に、洗濯ともなれば一般には身分の低い寡婦達が担当するのが習いだ。そんな業務全てを、あの優雅な立ち居振る舞いの執事が取り扱っているというのか?
 
 思わず、しゃがみ込んで鼻歌交じりに下着を洗っている執事を想像してしまって、酷く頭が痛くなった。エリオラの想定とはまた別ベクトルで変わった男だ。

「ふぅ…」
「渋谷、疲れた?」
「ううん、平気。もうそんなに身体が揺れる感じもないし。村田こそ平気?」
「僕は結構疲れちゃったかな〜。乾いた服に着替えて、この辺の茂みの中で良いから一休みしたいね。試合が終了したのが9時30分くらいで、その後どのくらいバタバタやってたのかは分からないけど、幾ら宵っ張りな僕でも流石に寝てるくらいの時間になってると
だと思うんだよね〜」

 《くぁあ…》と欠伸をする少年達は随分と眠たそうだ。時間帯を考えれば無理もないことである。

「そうね、あなた達ひどく濡れているし…。そのまま寝たりしたら風邪を引いてしまうわね。ああ…そうだわ、ノラ。私の衣装を貸してあげられないかしら?」
「ええ!?お嬢様、夜会服を…ですか!?」

 ノラがぎょっとするが、それでもこの濡れた服のままで一夜を明かすよりは良いのではないだろうか?車両の中には化粧道具だけではなく、夜会服が何着か入っている。勿論到着するまでにしっかりと着こんでは行くのだけれど、宴で家格が上の女性がよく似たドレスを着ていた場合気まずいことがあるので、大抵は何着か予備を持っていく。また、宴が盛り上がってくるとどうしても酒や食事が零れてしまうこともあるし、エリオラの場合はそのまま殿方としっぽりやってしまうこともあるので、着替えは必需品なのである。

「この子達は細身だし、背丈も同じくらいみたいだからきっと入るわ。持ってきて頂戴」
「は…はぁ……」

 ノラは未だに《何だか背徳的な気が》等とブツブツ言っていたが、それでも、茂みの後ろの芝生の上にシートを敷いてドレスを広げると、ちょっと気分が乗ってきたらしい。

「明かりがないのが残念ね。これはそりゃあ良い色のドレスなのよ?薄いベージュがかったピンクなんだけれど、上品な艶があってね。こちらの蒼いドレスも変わっていて、これを着たお嬢様はまるで人魚のように妖艶だったのよ?」

 うきうきしながら少年に差し出すと、二人は困ったように顔を向かい合わせていた。

「ええと…。お気持ちは大変有り難いんですが、そのぅ…」
「あら、こんなに濡れているんだから遠慮なんかしないの!お嬢様が良いと言って下さってるのだから、有り難く着なさい!」

 ノラは故郷の農村に残してきた弟たちを思い出すのか、次第にお姉さん口調になってぐいぐいと少年達の服を脱がそうとする。すると、被っていた頭巾からはやはり色の濃い髪がはみ出てきて、眼鏡の少年は少し慌てたようだった。

「ちょ…っ!」
「あら、あなたこの辺では見かけないような髪色ね?鳶色?ううん…濃紺かしら」
「濡れてるから、少し暗く見えるのかも知れませんね」

 眼鏡の少年は諦めたようにドレスを受け取ると、もう一人を促して茂みの中にはいる。この時、《ああ、仮面舞踏会だったんですね?》と呟くと、くるくると巻髪を結ったカツラと仮面を二つずつ持っていった。ドレスを着ると決めたら完璧を期したくなってきたのだろうか?

 暫くして草むらから出てきた少年達は、薄闇の中でも《あら》と浮き立つ声を上げてしまうくらいに可愛かった。ただ、幼い顔立ちには華やかな仮面は似合わなくて、素顔を是非明るい場所で見たかった。このまま屋敷に連れ帰ることが出来たら、更に愛らしく化粧を施してやりたいところだ。


 ドッドッドッ…

「あ、コンラッドが戻ってきたかな?」
「ちゃんと確かめてから出ようよ!」

 眼鏡の少年がもう一人の襟首を掴むが、《ただ今戻りました》と告げた声は確かに執事のものだったから、4人は安心して馬車が転がってしまった山道に出た。

「おや、これはこれは…」

 執事は少年達の姿を目に入れると、淡い月明かりの下でもそうと知れるくらいに相好を崩して(正直、ニヤニヤに近い)、嬉しそうに両手を広げた。

「とても愛らしい…食べてしまいたいくらいだ」
「君が言うと洒落にならないね」
「猊…いえ、ムラタ君は食べませんよ?」
「食べて欲しいとも思ってないよ」
「ははは、気が合いますね」

 合っているのか、それは。
 色々と突っ込みたかったが敢えて流した。気の毒なノラは意味を謀り計りかねて目を白黒させている。純朴な彼女は事の真偽はともかくとして、少年愛などと言う存在をほのめかされるだけで動揺してしまうのかも知れない。

「取りあえず、この辺りにいた夜盗は一掃してきました。ついでに御者も拾っておきましたが、骨折しているようだったので添え木をして休ませておきました。お嬢様方が一度帰宅してから迎えを呼んで遣って下さい」
「ええ、そういたしますわ」
「では、我々は馬と路銀も手に入ったことですし、ここでお暇(いとま)しましょうか。こちらのドレスとカツラのお代は、助太刀料として相殺して頂けますか?」

 見れば、執事の懐は少々重たそうになっている。夜盗に追い剥ぎを働くとは大した男である。返り血を浴びた気配もないが、敵がそう恩情を掛けられたとも思えない。あの手の輩は見逃して貰ったからと言って恩義を感じることなど無く、寧ろ、顔を覚えておいて復讐される可能性の方が高いからだ。
 執事の様子から見て、そんな心配など必要なくなるほど徹底的に《一掃》したに違いない。

「屋敷まで同行して頂ければ、もっと確かな額を差し上げることが出来ましてよ?私、危機を救われたことへの感謝にドレスしか渡せないほど人情が義理を欠く女ではありませんわ」
「いえいえ、十分です」

 きっぱりと断られるのは、遠慮と言うより深入りを拒んでいるようだ。

『何故?』

 それほど何処かに向かって急いでいるようにも見えない。そうであれば、夜盗から奪った馬に少年二人を乗せて早駆けすればいいだけの話だ。わざわざ遠くにいる夜盗まで一掃してくれたのは、別れた後のエリオラ達を心配しているとしか思われない。

「…どうして見ず知らずの私達を助けて下さったの?」

 考えても見れば不思議な話だ。執事は一見丁寧な物腰で親切そうに見えるが、瞳をよく見ると、あまり誰で彼でも助けて回るほど慈愛に満ちた人柄には思えない。

「か弱き女性を見捨ててはおけないと、主人が申しましたので」
「そうですの」

 では、この少年達が執事にそうすることを望んだのか。
 どうやら訳ありのようだが、こちらは確かによほどのお人好しでもあるらしい。視線を向ければ照れたようにニヘラと笑っていた。

「ただ、我々は故あって先を急ぐ身。お心遣いは有り難いですが、これ以上時間を採ることが出来ないのです。大変申し訳ありません」
「謝るのはこちらの方ですわ。そう…私、きちんとお礼も申し上げておりませんでしたわね。礼金よりも何よりも、まずはそちらの方が大切でしたわ」

 エリオラは容儀を正すと、改めて淑女の礼を取り執事と少年達にお辞儀をした。

「苦難を救って頂き、まことに感謝しております。この御恩は必ずやお返ししましょう」
「いえいえ、お気になさらないで下さい」
「俺たちは何にもしてないし〜」

 可憐なドレス姿の少年達は照れたように頭を掻こうとして、巻き毛のカツラに戸惑っているようだった。彼らの姿の陽の元で見てみたかったが、今は言っても詮無いことだ。

『それにしても、本当に色の濃い瞳だこと』

 今はカツラに隠されている髪もだが、薄闇の中だからと言っても、この色合いの濃さは見慣れない。本当に、漆黒に近い色合いのようだ。とはいえ、彼らから暗い印象を受けるかと言えばそんなことはなく、それが余計に違和感を覚えさせるのかも知れない。忌避される暗い色調とは相反する朗らかな雰囲気は、エリオラの知っている誰とも違っていた。

 ふ…っと、遠くの山間から淡い光が差す。今朝一番の曙光が空を染め始めたらしい。まだ白むと言うほどではなかったが、紫を帯びた深い群青はもう闇の色ではなくなっていた。

「…っ!」
 
 眼鏡を掛けた方の少年が慌てたようにカツラの前髪部分を引き下げようとしたのだが、一瞬…エリオラは確かに見た。

 仮面の隙間から覗いた少年達の瞳は、暗い色合いなんてものではなかった。
 明らかにあれは…。

「…………」

 エリオラはどう判断して良いのか迷うように唇へと指を掌を沿わせていたが、それ以上の反応が引き出される前に動いてしまえとばかりに執事は馬を引き出し、二言三言眼鏡少年の方に囁くと、そちらが単騎で馬に乗り、もう一人の少年と執事とが乗り合わせることになった。ほっそりとした下腿が見えてしまうが、気にしては居られないと言うことか。

「それではごきげんよう」
「…待って!」

 呼び止めた時、馬の脚を止めてくれた彼らに何を言うつもりか実は考えてはいなかった。それでも、《なぁに?》と無邪気な顔でこちらを見やる少年の顔が愛らしくて、エリオラは唇に微かな笑みを浮かべる。
 もしかすると、自分はとんでもないことをしようとしているのかも知れないという恐れはある。だが、今更止める気もなかった。

『私は、恩義に報いたいだけ』

 相手がたとえ誰であっても。ああ…そうだ、《誰》であっても《何者》であったとしても…受けた恩義に代わりなどあろうか。一体どこの誰が、ただ同じ人間であるというだけで、エリオラを救ってくれたというのだろう。

『少なくとも彼らは、恩義に報いるに足る男達だわ』

 自分の心に頷くと、エリオラは化粧道具の中から小さな小箱を取りだして少年に手渡した。

「仮装を楽しむのなら、完璧を期しては如何かしら?」

 ぱかりと開いた箱の中身に、少年は驚いたように唇を開いていた。何事かと覗き込んでいたノラも同様だ。

「これ…」
「まあ、お嬢様ったら!これも差し上げてしまわれるのですか?高価なものですのに…」

 確かにこれは高かった。薄造りの色硝子は、眼球に填めて虹彩の色合いを変化させるものであり、敏感な粘膜上に張り付けるだけに繊細な作りで希少な品なのである。エリオラとしても気に入っていた色硝子をやってしまうことに惜しさを覚えないではないが、これはきっと、彼らにとっては切実に必要なものなのだと思う。

「持ってお行きなさいな。私、その色にはそろそろ飽きてしまったの」
「まあ、贅沢を仰ること!旦那様は今宵のことできっとカンカンに怒られましてよ?またおねだりしても、買って下さるかどうか分かりませんわ」
「お父様は何だかんだ言って私に甘いもの」

 ぺろりと紅い舌を出して嘯けば、執事は丁寧に礼をしてくれた。

「とても有り難い贈り物です。あなたの行く道に幸運の星が輝きますように」
「あなた方にこそ、神のご加護がありますように」

 《彼らの神》がなんなのかはよく知らないが。祈って悪いということはあるまい。

「ごきげんよう!」

 そう言って去っていく騎馬を眺めながら、エリオラは暫くの間ぼんやりしていた。焦れたようにノラに突かれて、やっと車両に繋いでいた馬をロープから離す。確かに、そろそろ急がなくては下肢を剥き出しにしたまま早朝の街を疾走することになりそうだ。

「ねえ、ノラ」
「なんでしょう?」

 《魔族ってどう思う?》そう尋ねかけて、ふるると頭を振る。常識家の彼女に妙な連想などさせるものではない。彼女は何も知らず、気付かぬ方が良い人生を送れる筈だ。


「ふふ…なんでもないわ」
「あらやだ、お嬢様ったら。気になりますわ」
「本当に何でもないのよ。ただ、あの執事や男の子達がどこの人なのか気になっただけ」
「ええ、本当に不思議な方々でしたわね。特に執事の男性は、まるでお忍びで来られたどこかの王子様のようでしたわ!」

 きゃあきゃあと小娘のようにはしゃぐノラは、恋心に浮かれてあの一行の不審さには気が及ばないようだ。さぞかし職場の仲間達に自慢をしそうだが、少々過大に物事を表現する癖のある彼女のこと、みんな眉唾で聞くに違いない。

『いつか…また、会うことが出来るかしら?』

 能動的に彼らが会いに来てくれるとは思わないが、どこかで運命の糸が繋がっているのならば、いつか会いたいものだ。今度は明るい陽のもとで、何ら繕うことのない彼らを見てみたい。

『黒…って。そんなに悪い色ではない気がするのだけれど、どうかしら?』

 そんな風に考え出したことを周囲に漏らすことは出来ないけれど、エリオラは淡く微笑まずには居られなかった。






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