「獅子執事」−6 眞王と名乗る存在を、そのまま認めるべきなのか。 はたまた怪しい者として信用せず、あくまで《次代の魔王守護》を主張し続けるべきなのか。 個人的な見解としては当然のように後者を支持したいが、そうもいかないのは万一本物であった場合、報復による災厄が自分ではなく主に降りかかることであった。我が身が引き裂かれることなど恐れるタマではないが、主の身に疵一つつくのも執事には恐ろしくては堪らなかった。 よって、平静を装う背中には結構な量の脂汗が流れ出た。 『どうする?』 一瞬の葛藤を突かれて、執事は主の身体を触手に奪われてしまった。すぐさま取り返そうと屈めた肩を、ぽんっと叩く者がいた。 「ウェラー卿。君は眞王と魔王、どちらに忠誠を尽くす気だ?」 「どちらも、尊崇すべきお方です」 「体面を取り繕ってる場合じゃないって、分かってるだろ?」 苛々したように、肩口を掴む手に力が籠もった。漆黒の双弁で執事を睨むのは、主の友人にして何か曰くありげな少年だった。 「この際だ。僕の側の事情は全て晒そう。僕は双黒の大賢者…の、記憶を継ぐ者だ」 「左様ですか」 それなりに予測はしていたのでさらっと流すが、村田の方も気にはしなかった。 「僕は、渋谷が大事だ」 「…嬉しいお言葉ですね」 「君は?」 本来は複雑な編み目を形成する思考回路の持ち主なのだと思うが、問いかける瞳はあくまでも真っ直ぐで、年相応の少年のように焦れていた。それをこの期に及んでいたぶるような性癖は、執事には(意外と)なかった。 「執事の忠誠は、常に主ただお一人に注がれております」 「良い答えだ。では、主が僕と共鳴するまで時間を稼いでくれ」 「御意」 恭しくお辞儀をした執事は、そのまま優雅に上体を巡らせると一気に跳躍し、半泣き状態の主を救うべく剣をふるった。双黒の大賢者のバックアップがあるのであれば、いちかばちか、眞王の災厄を振り払うことも出来るとみたのだ。 見れば、眞王に迫られている主は愛らしい瞳一杯に涙を湛え、それでも縋り付くような声で執事の名を呼んでいた。 「コンラッド…大好きだよ」 これで盛り上がらない男がいるだろうか? 少なくとも、執事の頭蓋内では大フィーバーが起こっていた。777のラッキーセブンが連なって、絵柄は当然全てユーリだ。 「光栄です、ユーリ」 こんな場合だというのに《うふふ》と含み笑いなどしている執事は、相好を崩しながらも光速の剣を振るった。 ズパァン…っ! 見事に切り裂いた蔓と眞王は、一瞬断ちきられた面を晒して葉脈の在処まで明瞭に見て取ることが出来た。眞王は色合いだけではなく、その断面までが蔓と同一であり、内臓や脊柱といった骨格は僅かにも見て取ることが出来ない。 素早く主の身体を抱き込んだ執事が飛びすさると同時に、ブシュウと勢い良く噴き上がった緑色の樹液が辺りを染めた。 《ぐ…貴様……っ!》 べしゃりと大地に叩きつけられた眞王はすぐさま人間めいた姿を回復させていき、憎しみの籠もった眼差しで執事を睥睨する。おぞましいのはおぞましい。ただ、その気配には出来の良いお化け屋敷で見られる程度の迫力しかなく、とてもこれが伝説に語り継がれる魔族の長とは思われなかった。 『やはり偽物か。だが、だとしても異世界でここまでの力を駆る存在とは一体?』 分からないが、今は推察している場合ではない。双黒の大賢者が主の力を引き出すまで、全ての攻撃を食い止めねばならないのだから。 * * * どくん どくん… 《共鳴》というのがどういうものなのか、どうやってやればいいのかなんて有利にはさっぱり分からない。だのに、両肩を背後から掴む村田の手からは、確かに懐かしいような力の奔流を感じていた。 『俺はこの感覚を知ってる…の?』 そういえば、先程から村田やコンラッド、緑の男が用いている謎の言語が有利にも理解出来る。ドイツ語のように美しくも堅固さを感じさせる独特の語句を耳にし、口にすることは、不思議な懐かしさを有利に感じさせた。 これは、先程緑の男によって注ぎ込まれた知識なのだろうか? 『ううん…違う。そうだったら、ここまで《懐かしい》なんて思わない』 未だに状況は掴めないが、有利の素直な心は事態の最も大切な要点を掴むことに長けていた。本人はそうは自覚していないのだけれど、まやかしめいた上っ面に左右されることなく、一番大事なことは何なのか無意識の内に掴むことが出来るのだ。 『俺はこの言葉が懐かしい。きっと、覚えてはいなくても、何か俺に縁(ゆかり)がある言葉なんだ』 そしてそれは、あの大切な執事との絆をより一層深めるものである気がする。 『コンラッド。これは、あんたの故郷の言葉なのかな?』 微かな記憶の中に蘇るのは、夜半に月を見上げながらそっと歌を口ずさんでいたコンラッドの横顔だった。懐かしげに、うっとりと細められた目元は月光を浴びて陶器のように輝き、その姿と歌声に何時までも見惚れていたものだった。あの時口にしていた歌詞を理解することは出来なかったけれど、今は分かる。 『あれは、子守歌だった』 愛おしげに有利の髪を撫でつけながら謳ったあの歌は、きっとコンラッドが故郷で聴いていた歌なのだろう。何か故あって郷里を離れたコンラッドが、昔のことを語ることは一切無かったけれど、あの歌は確かに懐かしさを滲ませて紡がれていたのだった。 決して、こんな不気味な人形や蔓草、おぞましい緑男に踏みにじられて良いような記憶ではないはずだ。きっと何か事情があるに違いない。それを証明するように、村田から注ぎ込まれる力もまた、敵対している存在に感じられるような不気味さは一切無く、まるで巨大な森林の中で大自然の息吹を感じている時のような清々しさがあった。 村田が流し込むこの力には、歪みがない。 あるがままの、自然の力だった。 「渋谷、そうだ。良いよ…そう、僕に…調和して……っ!」 「ん…っ」 喘ぐ様な声を上げて喉を反らせば、どくんと身体の中で熱く込みあげるものがあった。有利の中には何かの力がある。それが出口を求めてふるふると打ち震えているようだった。 「良いよ。開放して…っ!」 「……っ!!」 パァン…っと、鼻から額にかけて突き抜ける様な感覚があった。ぐらん…ぐらんと、身体が大波の中で揺らぐような感覚に吃驚して目を開ければ、巨大な水流の中に有利たちはいた。 「え…え!?」 「そのまま調整して、あいつにぶつけて!」 肩越しに村田が指し示した《あいつ》は、今まさにコンラッドの身体を覆いつくさんとしていた。腹壁が臓腑ごと裂けた緑色の男が、自分の中に取り込もうとするかのようにコンラッドに襲いかかっていたのである。 「…コンラッドぉおおお……っ!!」 絶叫と共に有利の中から、《何か》が飛び出していく。それらは奔流の如く駆け、獣の如く咆吼を上げながら飛んでいった。 これは。 一体…? ゴォオオ……っ!! けたたましい轟音を上げて、巨大な水の流れ…どこか、龍を思わせる形状のそれが、大きく開いた顎でもって緑の男ごと蔓の幹へと激突していけば、それらは《ドゥンっ!》と腹に響くような衝撃音をあげてへし折れた。 しかしほっと安堵したのも束の間、水で薄められたかに見えた樹液はどろどろと中空で渦を巻き、なおもしぶとく怪しげな気配を漂わせている。 「消えない…!?」 「くそ…っ!」 渦潮を垂直に設置しているかのように、ぐるぐると回転する緑の樹液。それは唯渦巻いているだけではなく、次第に何らかの誘因力を持ち始めた。 《来い…!》 ぞっとするような《音》は、もはや《声》と呼ぶには非人間的に過ぎる気配を漂わせている。それでも意味としては伝わってきて、有利の臓腑を凍らせていく。 あの声が呼んでいるのは、有利だ。 有利の肉体と、魔力とやらを利用する為に呼んでいるのだ。 「誰が行くかよ…っ!」 《お前はその為に生まれた存在なのだぞ?それを今更違えてどうする。運命を変える気か》 「俺の運命を、お前が決めるな…!」 《俺が決めているのではないさ。世界が求めているだ。お前の大切なウェラー卿と、我が同胞たる双黒の大賢者の故郷でもある世界が…な。その求めを拒絶することは、世界に狂いを生じることとなろう。俺の力無しに、この危機は越えられぬのだから》 「…っ!」 《お前はそれほどに独善的な男か?自分だけが良ければいいのか?ウェラー卿や親友の故郷が、灰燼に帰しても構わぬと思うほどに非情であるのか?》 咽奥で嘲笑うような声に心が震えるが、有利の肩を持つ手と、耳もとに添えられた唇とか二種の声を吹き込んでくれる。緑の男が放つ毒液のような声を中和する、暖かくて、力強い声が。 「ユーリ」 「渋谷」 「…っ!」 二つの声がそれぞれに馴染んだ名で有利を呼ぶ。ただそれだけで、有利には力が満ちた。 更には渦に呑み込まれたかに見えた水龍が、いまだ存在感を失っていないのにも気付いた。ぐるぐるとうねりながら回り続けるその水から、渦の向こうが何処に繋がっているのかが分かった。 《分かった》というのは、奇妙な表現かも知れない。向こう側にあるものがなんなのか有利には分かっていないにも関わらず、それでも、確かに《分かる》。 『向こう側に、《眞魔国》がある』 そこは一体どこなのか?決して正確な情報が伝わっているわけではないのだが、懐かしさを伴ってぼんやりとしたイメージが沸いてくる。そのことに、村田も気付いたようだ。 「渋谷、あっちは眞魔国と繋がってるみたいだ」 「うん。あのさ、村田…あっち、行ってみる?」 「…ナニいってんのかな、キミ」 言うなり、結構な力で頭部を殴打された。 友人の荒っぽい所作に、執事は鼻を鳴らして不平を訴える。 「猊下、困ります。我が主のそれでなくとも容量の少ない脳が、これ以上減ったらどうしてくれるんですか」 「ちょ…っ!コンラッドっ!ナニその愛のない言葉!」 「愛ならたっぷりありますとも」 では、嫌みでも何でもなく正確な認識だというか。ちょっと酷いぞ執事。 「馬鹿なこと言うなよ、渋谷。今まさに眞王の奴に啖呵切ったばっかりだろ?そこでなんだって折れちゃうかな」 「折れる訳じゃないよ。もっとこう…能動的な話」 村田が軽く息を呑むのが分かった。どうやら、意図は伝わったらしい。コンラッドの方はと言うと、もう既に伝わっていたのかどうか、特に驚きを示すことはなかった。 「…眞魔国に、行く気?」 「そこがコンラッドと、村田の大事なとこなんだろ?詳しいことは後でゆっくり教えて欲しいけど…。少なくとも、今でなくちゃそこには行けない気がする。違う?」 「君って…君って……」 《はぁっ》と呆れたように漏らされた溜息は、有利の発言を肯定しているようだった。同時に、やはり危険も多いのだろう。 「あいつの掌中に飛び込むようなものだよ?」 「でも、そうしないとこれからもこんな事が起こる気がする。そうなったら…色んな人にも被害を出しちゃうと思うんだ」 今更ながらに思い知らされるのは、有利が悪いわけではないにしても、彼がこの場所に出てきたというその為だけに、このスタジアムは破壊されたのだ。丁寧に手入れを施されて、人々の熱狂を生み出す夢のグランドは無惨に汚され、掘り返されて、普通に試合をするには何日か整備が必要になりそうだ。たまたま広くて、タイミング良くコンラッドが来てくれたから人的被害はなかったかも知れないが(最終的にどうなるのかは分からないにしても)このまま相手の動きに冷や冷やしてばかり居るのは性に合わない。 「俺はそれほど傲慢な方じゃないと思うけど、こうも舐められて勝手に物事を動かされるのはゴメンだよ。可能性があるのなら、主導権を握りたい」 「君って…」 また同じ台詞が紡がれるのに、今度の声音に秘めた温度は全く違って感じられる。そこにはどこか誇らしげな色合いさえ含まれていると思うのは、勝手な思いこみだろうか? 「分かったよ。ここまで来たら君に任す。やりたいようにやってご覧?」 「うん。あんがと」 振り返ってにぱりと笑えば、これまたにっこりと二人の男が笑ってくれる。可愛らしい顔立ちをした村田は勿論のこと、コンラッドでさえ毒気のない素直な表情を浮かべていて、何だか嬉しくなってしまう。 「よっし…行こうっ!」 具体的にどうすれば良いのか分からないままであったが、思念をひとつに絞った途端に村田が見事なサポートを見せてくれる。彼は一人では大きな力など持っていないようだが、力をどう使えばいいのかは熟知しているらしい。《色々と奥の深い奴だな…》なんて思いながらも心を解放して委ねてしまう有利を、村田がどう思っているのかすぐに伝わってきた。 『これだけ怪しげな状況の中で、僕を胡散臭がらずに心を明け渡してくれる君が、これまで生きてきた4000年の中で一番の…不思議で、奇蹟だ』 何か凄い告白をされている気がする。 でも、今はそんなことは気にせずドンと身を任せてみよう。 ゴォオオオ……っ!! 激しい水の流れが周囲を渦巻いて、もう誰の声も聞こえなくなってくるが、それでも互いに組み合わせた腕だけは外さないようにして、緑色の渦の中に飛び込んだ。 * * * ぐるり どろり ぎゅろろろ…… 逆巻く流れは有利達を呑み込み、破天荒な動きで弄ぶ。すんでのところで意識を保ちながら飛んでいく中で、思い出したのは家族で何度も行った遊園地のことだった。父はやたらとスタースアーズ等の剛速球型アトラクションに載せたがり、《そんなに好きなの?》と訊ねる有利に、《将来のためさ》と嘯いたものだった。 兄はその言葉を《将来、彼女とデートしたりする時に恥ずかしい思いをしないように》と捉えていたようだったが、その問いに対する父の表情は《ちょっと違う》と言いたげだった。それでいて、父が明確な答えをくれたことはない。 『もしかして、このためだったのかな?』 きっとそうだと思う。 そして父が用意してくれた予行練習だったのであれば、やはり有利が能動的に打って出ることを信頼しての行為だったのだと思う。 『だって俺は、自分を保ったままここにいる。そんで、《行きたい》って望みながら飛んでる』 力在る者に勝手に召還されるのなら、別に何度もジェットコースターに載って慣れる事なんてなかった。自分を見失わないための、あれは練習だったのだ。 ドウ…っ! 襲いかかってくる不気味な気配を察して神経を研ぎ澄ます。《邪魔させない!》心で叫んで意識を集中させれば、そこに村田のサポートが入る。すると、向かってくる力の源が掴めたような気がした。 『絡み合ってる?』 とても不思議な感覚だった。禍々しいだけの存在感ではなく、一部に酷く懐かしい感覚が混じる。それはとても力を失いかけていて、きっとそのせいで気づかずにいたのだけれど、微かに息を保っているようだった。おぞましい存在感に埋め尽くされそうになりながらも、折れることなく腕を伸ばしてくる。 村田も気付いたのではないだろうか?共鳴している彼の心が、確かにその存在に対して強い懐かしさを示した。 「眞王…!」 おかしなことだ。村田は先程までの緑男のことも《眞王》と呼んでいたのに、どうしてあの小さな息吹のことも《眞王》と呼ぶのだろうか? 分からないながらも、どう考えたって緑男よりもいま感じる息吹の方に好感が持てる。だから、有利は村田に問いかけることもせずに、持ちうる限りの力を、息吹を拘束している気配にぶつけた。 ギヤァァアアア……っ!! なにやら断末魔の悲鳴みたいなものが聞こえたのを感じたが、同時に爆発のような衝撃が来て息が出来なくなる。 『巻き込まれる…っ!』 流石に意識が飛びそうになって慌てる有利を逞しい腕が力強く抱きしめた。そうされると、訳もなく《もう大丈夫》なんて気になってしまって、有利は安心して目を閉じた。 |