「獅子執事」−5 ざわ… ざわわ… どよめく観客席では、身じろぐことも出来ない人々が、一様に息を呑んで状況を見守っている。最初の内は何かのサプライズアトラクションかと思っていたせいで、盛んに歓声を上げ、応援の流れそのままにメガホンを叩いたり足踏みを繰り返していた。しかし、人形達の不気味な気配が伝わってきたのか、はたまた、執事青年の武器(バット)がへし折れてしまったことで我に返ったのか、一同はシンと静まりかえってしまった。 「こん…らっど……」 静寂の中で呟いた声が、怖いくらいに響く。実際には自分の頭蓋内で反響しただけで、周囲の人々には伝わっていないのだろうけれど。 堪らなくなって、有利は声の限り叫んでいた。 「コンラッドーっ!!」 すると、振り返った執事が口の端を上げてニヤリと笑う。いつもの品の良い微笑みでないのは、戦闘モードに入っているせいかもしれない。至近距離で眺めたら、獅子を思わせる金環を虹彩の縁に纏わせて、初めて出会った時みたいな瞳をしているのではないだろうか? 獲物を駆る獣の瞳。 怖いけど、同時に堪らなく惹かれるあの瞳を、傍で見たいと思った。 無意識に一歩踏み出そうとするが、それは傍らにいた村田に制されてしまう。それはそうだろう。こんな時に好奇心を発揮している場合ではない。有利が駆け寄って行った日には、執事の足手まといになるのは確実だった。 そんな有利の葛藤を知ってか知らずか、《安全第一》よりも《主人第一》を強く主張する執事は、恭しく胸に手を置いて一礼した。無駄に優雅なその所作は、この緊張感漂う雰囲気の中でも異彩を放っていた。 「我が主の、お望みのままに」 良く通る声が球場内に響くと同時に、コンラッドの指輪が変化する。日本刀にも似たすらりとした刀身が球場のライトを受けて光ると、《おお…っ》というどよめきが辺りに満ちた。 剥き身の剣を青眼に掲げた執事に一気に人形達が殺到していくが、その間を踊るような足取りでするすると抜けていくと、人形はドミノのように頽れていく。まるで操り糸を断ち切られたマリオネットのようだ。よく見れば、時折執事が剣を振るっているのが垣間見える。おそらくは、視認出来ないほどの速度で人形達を断ち切っているのだろう。 人形達は蜘蛛のように四つん這いに近い体勢を取ると、びゅん…っ!と風を唸らせて空中を飛ぶ。執事を襲おうという意図も感じられたが、そのうちの幾つかは有利を狙うように、執事の頭上を飛び越えて来ようとする。 『俺を…狙ってる?』 ぞくりと嫌な汗が背筋を伝うが、触手めいた人形達の腕が有利に到達することはなかった。 シュ…っ ヒュパパ…っ!! 空中を、切断された人形達の一部が舞い踊り、残された体躯がガシャンと鈍い音を立てて大地に叩きつけられる。 空中に飛んだ執事の剣が、煌めきながら人形達の首筋を抉ったのだ。その動きは凄烈で、おぞましい寓話が一瞬にして、爽快な英雄譚へと様相を変えた。 しかも気を利かせた球場撮影隊がカメラを起動させ、大型画面に執事の戦闘シーンを描出させたから堪らない。遠目では分からなかった体捌きや剣戟の凄まじさが、スローモーションで描かれることによって、まるで映画のワンシーンのように人々の目を魅了した。 う… うぉおおおお………っ!! 途端に、水を打ったように静まりかえっていた観客席から沸き返るような歓声が上がった。状況はよく分からずとも、執事の戦闘力がただ事ではない領域に達していることを悟った途端、人々は再び目の前の光景に熱中し始めたのである。 * * * 『少々、面倒なことになった』 衆人環視の元で剣を出してしまった。これは後々、説明に難渋しそうだ。 しかし今回に限っては、剣無しでは撃退出来ないと踏んだのだから仕方ない。 この連中、単体での戦闘力はさほどでもないのだろうが、何しろ数が多い。効率的にいかないと、回り込まれた連中に有利を奪われかねないとみて、バットとボールの攻撃で状況探査を行ってみた。すると攻撃を受けている連中の動きから、首筋辺りに何らか《仕掛け》が繋がっているのは分かった。 どうやら確実に頸部を抉らないと、それ以外の場所を幾ら潰しても無駄らしい。頸部に埋め込んだか繋げられている仕組みに、どこからか指令が注がれているのだろう。 「我が主に何用だ?」 眞魔国語で差し向けた問いに、返事は特に期待していたわけではなかったのだが、意外なことに、人形達からはいらえがあった。ゴウゴウと洞穴を抜けるような音が、一斉に人形達の口から出てくる。不自然なほど一致したその声音は、まるで幾つも並べたプレイヤーを同時再生しているみたいだ。 《我が王を、お導きするのだ。邪魔するのなら、貴様にも容赦はしないぞ》 《ウェラー卿コンラート…ルッテンベルクの獅子よ》 ぴくりと執事の眉が跳ねる。 それではこれは、眞魔国側の魔力持ちによって操作されているのだろうか。これほどの数で異世界に影響を及ぼすことの出来る存在など、執事には眞王以外想定出来ない。そうであるならば、本来執事が立つべき立場から言って、人形達の行動を止めることなど出来るはずはない。 だがしかし、よりにもよって何故これほど派手な方法を採るのか。 いや、派手さよりもなお問題なのは、この猟奇的な気配だ。殊更に恐怖を与えるような形で拉致しようとは、一体どういう了見なのか。 執事自身は今でも有利に平凡な人間で終わることなく、魔王になって欲しいと切望しているのだが、このようなやり方には到底首肯出来ない。 《養育者よ。貴様の使命は終わった。後は我らに委ねて引き下がれ》 高圧的な人形達の和音を、執事は鼻でせせら笑う。もしもこれが昔の自分なら、憤りを感じながらも従っていたかも知れないが、10年という年月はこの男の価値観をすっかり変えていた。有利という人物の傍に在り続けた執事にとって、誰を第一に据えるかは自明の理だったのである。 そこには、葛藤も糞もない。 「笑わせるな。王を支配すべき国へとお招きするに際して、このような不調法が赦されるものか」 ビュン…っ! 嘲笑と共に剣を一閃させて人形の首を三つばかり刎ねると、ごろりと足下に転がってきた無機質な塊を足下に踏みつけ、人形達の群れに剣先を突きつけながら凶悪な面構えを浮かべて見せた。 「我が主を召還したくば、最上の待遇で迎えるべきだろう?」 人形達は珍しく人がましい動揺を見せると、腰を屈めて執事に相対する。 《眞王陛下の御下命に逆らう気なのか?貴様…!》 「そのようなつもりは毛頭ない。俺は御命令のとおり、次代の魔王陛下に忠義を尽くし、その健やかな御身と御心を守護している。その御命令の中に、貴様ら如き下っ端に引き渡せ等という条項はなかった。そうであるならば、役目を果たせぬのはお前達の無能さ故ということだ」 屁理屈は承知の上だが、致し方ないところだ。そもそもこの連中が本当に眞王の命令に従っているかは不明なのだし、なにより、どうしてもやり口が気にくわない。あの愛らしい少年を王として迎えたいというのなら、光輝燦たる輿でも寄越して欲しいところだ。 「己の無能を嘆きながら、死ね」 《あ、今の台詞。悪党っぽい》なんて、内心クスクス笑ってしまう。その間に空中へと飛び出してきた10体の人形を、同じく中空に飛び出した身体で次々に斬り落としていく。執事はかつて《剣聖》と崇められた腕が萎えていないのを快く実感しながら、舞うように斬撃を飛ばし続け、数十体という人形達を唯のがらくたへと変えていった。 * * * 『なんて奴だ…!』 村田は目の前の光景を信じられない思いで見つめていた。人形達を屠る技量というよりも、眞王の存在を臭わせる魔力体に対して、些かの遠慮容赦もなく《不調法者》と切り捨てられるその神経が信じがたい。眞魔国人として生を受けた存在としては、考えられない横紙破りだ。 やはりこの男は、村田が命じられた女子便所からの召還も、意図的に阻害したのだろう。彼に有利の守護を命じたのは、人形達との遣り取りからいって眞王で間違いないが、だからといって唯々諾々とその命令に従う所以はないと言うことか。 『僕はどうすべきなんだろう?』 村田は双黒の大賢者としての記憶を持っている。けれど、それはあくまで記憶に過ぎない。使命を託されたのはあくまで双黒の大賢者であって、村田健ではないのだ。 ならば、《どうすべきか》決めるのも村田自身であって良いはずだ。 今までもそう思っていたのだけど、今こうして改めて自分へと言い聞かせているのは、多分にこの奇妙な執事の存在が影響しているのだろう。 『僕だって…渋谷が一番大事だ』 執事の勇猛果敢な姿に腕を振り上げ、声を枯らして歓声を上げている。そんな彼が暴走してしまわないように肩を掴んでいた村田は、その手にぎゅっと力を込めた。 「村田?」 「渋谷…。君をあいつらには渡さない」 「ん?あ…ありがとな。つか…なに?あいつら、俺をどうにかしようとしてんの?」 「…っ!」 有利も人形達の狙いが自分にあることは薄々察していたようだが、それを村田が臭わせたことに少し不思議そうな顔をした。 『…しまった。かな?』 普段の有利は呆れるほど鈍い男なのだが、時折、激しくピンポイントながら事態の正鵠を突いてくることがある。じぃ…っと村田を見つめるつぶらな黒瞳は、ポーカーフェイスを得意とするはずの村田から、何かを汲み取ろうとしているようだった。 「村田。お前、あの連中とコンラッドがナニ喋ってるか分かってるみたいだな。あれって何語?」 「ええと…ドイツ語、かな?ただ、僕も第2国語でとってるだけだから、正確には分からないよ?」 「何となくでも良いよ。あいつらが俺を狙ってんのは確かなんだな?」 「ああ、そうみたい」 「何の為に?」 「さあ…それは」 「コンラッドには、分かってるのかな?」 「それも、僕には分からないね」 じっと見つめる有利の目は、決して村田を責めているようではない。それなのに感じる罪悪感は、村田が勝手に感じているものだろうか。じっとりと濡れているような掌を、痛みを感じるほどきつく握り締める。 「コンラッドは知ってる気がする。そうでなきゃ、幾らあいつでもあんだけ変な連中相手に、冷静に戦ったりしないよな」 有利の視線が執事の方に向いてしまった事に安堵しながらも、村田は完全に安心してしまうことなど出来なかった。 今、状況が大きく動こうとしているのを感じる。 その流れの中で村田が望むのは、この純朴な少年が何も知らされていなかったことに対して、生まれて初めて手酷い《裏切り》を感じやしないだろうかということだった。 * * * ガララ…っ! ドシャ…! 最後の人形が事切れたのを見送ってからも、執事は剣を収めることなく、隙のない動作で有利へと歩み寄った。彼に疵一つ無いのを確認するとほっと安堵の息を吐き、改めて手にした剣を見やる。 『アニシナ、君の贈り物を役立たせて貰った』 この隠し武器は、マッドサイエンティストとして名高い(?)フォンカーベルニコフ卿アニシナから与えられたものだった。ただ、貰った当時は彼女がどういうつもりでこれをくれたのか、執事には分かりかねた。 兄の幼馴染みであるアニシナは、十貴族に連なる人々の中で、公然と執事に味方してくれる数少ない存在だった。ただ、個体としての強さは群を抜いていても、群れることを由としない性格で、自分の行動基準を誰かに説明しようと言う気もない風だったから、彼女が《味方である》という認識をしたことは無かった。少なくとも、この武器を渡されるまでは。 アニシナの興味関心は主として、女性の地位向上と魔力の有効利用に向けられていて、荒っぽい性格の割には《より強い武器》等という物騒なものの開発には着手していなかった。その彼女がわざわざ暗器など作ってくれたというのは、多分に執事の立場を考慮してくれたためだろう。 表情も変えず、理由も言わずにこの指輪の機能だけ説明され、ぽいっと手渡された時には困惑したように彼女の鮮やかな瞳を見返したものだったが、今では深い感謝を捧げている。 『もしも、またまみえるようなことがあれば…礼を言いたいのだけどね』 だが、眞王からの使者(?)をこうも荒っぽく追い払おうとしている執事が、眞魔国に於いてどのような立場になるかは甚だ不明だ。言葉を交わすこと自体が、彼女の立場を危うくさせるかも知れない。 その前に、眞王は邪魔者となった執事を始末して、有利だけを召還する気かも知れないが。 『そうはさせん…っ!』 にこやかな微笑みを絶やさぬまま、心配のあまり半泣きになっている愛しい主に歩み寄っていくと、突然、地鳴りと共に芝生と土とが隆起した。 「…っ!」 反射的に飛び出した執事は、主に絡みつこうとする触手を次々に断ちきっていく。だがしかし、執事の剣技をもってしても、止めどなく溢れてくる触手の全てを払うことは出来ず、何時しか男の腕ほどにも太くなった触手が、主の肢体を絡めとったまま地上3メートルほどの所に固定させる。 謎の人形との戦いでは比較的静観していられた観客達も、これには度肝を抜かれてしまっている。腰を抜かしたり絶叫を上げたりして、スタンドは阿鼻叫喚の喧噪を湛えていた。グランド脇の外部通路からは武装した自衛隊員だか警官だかが突入してきたが、彼らも想定外の光景にぎょっとして立ち竦んだ。 「ユーリ…っ!」 執事は臍を噛む思いで剣を閃かせ、技巧の限りを尽くして触手(と、いうか、もはや太い蔓や樹木のようだ)に斬りつける。すると、断面から噴き出したドロドロの液がずるりと伸び出して、人のような形状を象った。 「…っ!」 絶句するしかない。 それは、緑色を基調とした不気味な色合いながら、確かに覚えるのある人物を示していた。直接実物を見たわけではないが、血盟城に掲げられた巨大なキャンバスには、確かにこの男が眞魔国の最高権力者であることが示されていた。 「眞王…陛下」 《久しいな、ウェラー卿コンラート》 ニヤリと口の端だけで嗤う男は、本当に眞王なのだろうか?ただならぬ威迫は確かに感じるが、それは跪きたくなるような偉大さと言うよりは、吐き気を伴う嫌悪感を伝えてきてた。 《俺が指名した魔王をいよいよ呼び戻そうというこの時に、貴様は一体どのようなつもりで邪魔立てをしてきたのだ?》 「これは心外ですね。俺は…いえ、私はどこまでも眞王陛下に忠実な男ですよ?」 《どの口がそれを言うか。ふん…まあ良い。この俺自らが姿を現さねばならなくなったのは少々想定外ながら、まだ貴様の忠誠心が失われていないと言うのなら即刻跪き、粛々と魔王を俺に渡すが良い。そうすれば、10年の労苦を認めて仲間達の元に戻してやろう》 《仲間達》という言葉が、ずくりと胸に響く。その感覚に、執事は微かに苦笑した。それでは、有利以外の何もかもを捨てたはずの自分にも、やはりルッテンベルク師団を初めとする混血連中は、懐かしく護るべき《仲間》として認識され続けていたのだろうか? 失われて久しい…というより、元々繋がりの薄かった《家族》の存在までも、ついつい胸の中に蘇ってくる。こんな感傷に浸っている場合ではないというのに。 執事の思いをどう受け止めているのか、眞王は相変わらず嫌な嗤いを浮かべている。 《…随分と目減りしたが、まだ生きている者達はお前の生存にさぞかし驚くだろうよ》 眞王が執事無き間、混血連中を護ってくれているなどとは思えない。旗印であるウェラー卿コンラートという存在を失った彼らにとって、この10年はどのような年月であったのだろうか?込みあげてくる懐かしさは、執事の指先からじくじくと響くような熱さを感じさせた。 物思いに耽っていたのは、ほんの数秒のことだったと思う。 その間にふわりと飛び上がった眞王は、蔓に巻き付かれた有利の傍へと赴くと、身動きの取れない彼の額へと指先を押し当てた。 《さあ、魔力も肉体もほぼ熟した。この肉体、いよいよ我が物としてやろう》 「え…ぇ…っ!?」 見開かれた漆黒の瞳が、溢れかえるような怯えを含んで執事に向けられた。 * * * 『な…んだ?』 額が熱い。 というより、痛い。 額の真ん中を軽く押されているだけだというのに、緑色の男から何かを注がれているかのように、その一点が燃えるような熱さを持った。刻々と温度を上げていくだけではない。有利はその熱が、次第に脳髄の中にまで溶け込んでくるのを感じた。まるで、煮えたぎった湯の中に脳を突っ込まれているみたいだ。 「熱ぅっ…痛っ……!!」 喉を反らせて悲鳴を上げると、泣きたくもないのに視界が滲む。こんな大勢が見守っている前だと言うことなど吹っ飛んでしまうくらい、強すぎる苦痛に涙が溢れ出しているのだ。 「さあ、魔力も肉体もほぼ熟した。この肉体、いよいよ我が物としてやろう」 「……っ!?」 囁きかける言葉の意味を汲み取る前に、激しい違和感が有利を貫いた。 『俺…こいつの言ってる意味が、分かる?』 熱さと痛みに困惑した脳では正確な判断など到底出来ないが、それでも、これはあまりにも奇妙な感覚だった。英語ですら十分には扱えない有利にとって、初めて耳にした異国語(強いて言えば、ドイツ語めいたイントネーションだろうか?)が、考えるよりも先に意味として汲み取れてしまうのだ。 「あんた…一体誰だ?」 自分で口にした言葉に又ぎょっとする。そう、反射的に口をついて出た言葉は、名も知らぬ異国の言葉だったのである。 「考える必要などないさ。これからは、お前自身が何かを考えて行動することなど無い。全て委ねて、ゆっくりと眠るが良い。共鳴が済めば、お前の全てが私のものになる」 いっそ優しげと表現して良いくらいの表情で語る男は、それがとてつもなくおぞましい宣告だなどとは思っていないようだ。まるで屠殺される牛に対して《美味しく食べてやるぞ》と、誠意さえ見せて語っているかのようだ。 「これからは、その肉体と魔力を俺が使うのだ。有効に使ってやるぞ?」 「俺…は?」 背筋にぞくぞくするような悪寒が走り、全身にどうっと冷たい脂汗が湧くのが分かる。心臓はばくばくと胸の中で踊って、自分だけでもこの戒めから逃げ出そうとしているかのようだ。 「ああ、お前自身の自我という意味か?取りあえず、あと1000年くらいは俺の意識の下で眠っていると良い」 1000年。 無茶な事を言う男だ。 いやいや、問題なのは年月ではない。有利の自我がとんでもない長きに渡って、失われると言うことだ。 『熱いよぅ…痛いよぅ……』 脳が熱くて堪らない。男の用いる言語を理解出来たのは、この熱が伝える共鳴のせいなのかも知れない。 「コン…ラッド…」 名を呼んでどうなると思ったわけではない。だが、その名を口にすると今まで何でも解決してきたから、まるで護符みたいに思っていたのかも知れない。それは死に瀕した兵士が《死にたくない》というのと同じ勢いで、その場には居ない…居たとしてもどうしてくれるということも無さそうなのに、切実な思いを込めて《母さん》と呼ぶのに似ていた。 そうだ、有利にとっては暖かな記憶の中でたゆたう肉親よりも、強く、熱く、慕う存在が居る。 《コンラッド》 ひくぅ…っと喉が鳴る音を聞きながら、有利はもう一度呼んだ。 今度は、もっと大きな声で。 「コンラッド…っ!」 「ウェラー卿を呼ぶか。くく…俺の為にお前を育んだ、飼育員を呼んで一体どうしようというのだ?随分と調教されたものだな」 嘲笑う男の声に心を踏み躙られながらも、有利はコンラッドの名前を呼ばずにはおられなかった。 『こいつの為に、俺を育てたの?』 細やかに世話を焼き、髪を撫でつけ、優しく頬にキスをしてくれたあの人は《養育者》ではなく、《飼育員》であったのか。 《美味しく食べられるんだぞ?》と、にこやかに…いつものように微笑んでいるのだろうか? 「コンラッド…」 こんな気持ちで名を呼んだのは初めてだ。哀しくて悔しくて、すん…っと鼻を鳴らすようにして呼ぶが、やっぱり憎しみよりも慕わしさが浮かんできて気が狂いそうになる。 大好きな大好きなコンラッド。 有利の唯一人の家族。 彼が《逝け》と言うのなら、有利は美味しく頂かれてしまうしかないのだろうか?この肉体を、毛皮を剥ぐようにして奪われて、精神を殺されてしまうのか。 ああ…でも、でも。 「コンラッド…大好きだよ」 ほろりと頬を涙が転げ落ちていくのに、口にした言葉は恨み言ではなく…慕う言葉だった。 「光栄です、ユーリ」 照れくさそうな声音が甘く響く。 琥珀色の瞳の中で、きらきらと光るのは銀色の光彩だ。大好きだったその煌めきが、地上3メートル程度の高さで真正面から見ることの出来た不思議さに気付く前に、有利は戒めを解かれていた。凄まじい脚力を見せた執事が、ひらりと宙に舞って蔓を切り裂いたのだと分かったのは、幾度か瞬きした後だった。 「ぅわ…っ!」 ズバ…っ! 勢い良く断ちきられた蔓は、《ビシャア…っ!》と血飛沫のような緑色の液を放ちながら断ちきられる。ぬるつく液体にもかかわらず、強い照明を受けたその粒はきらきらと光りながら宙に散る。見ている分には、緑色の宝石みたいだ。 と、同時に、蔓ごと傲慢そうな男の肉体が分断されていた。驚く間にも有利の身体は逞しい腕に抱き留められ、抱えられたまま地上に戻った。 『ああ…っ!』 有利は胸に迫り上がってくる感情に涙を溢れさせ、狂おしいような思いで執事の背をかき抱くが、彼は《とっても嬉しいけれど、感動の抱擁は後でゆっくりと…ね?》悪戯めかした語調で囁きかけ、耳元にちゅっと音を立ててキスをすると、抱きしめていた腕を解いた。 《ぐ…貴様……っ!》 樹液と同色の男はいったん姿を失ってグランドに叩き付けられたが、すぐにじゅるじゅると凝り固まって再び形を為していく。執事は優しい所作で有利の身体を背後に庇うと、おぞましい緑男の姿を遮蔽するようにして剣を構え、立つ。 すらりとしたそのシルエットが、ナイター施設の浴びせるライトの中できらきらとした縁取りを持って輝いていた。 「コンラッド…!」 「待って、渋谷」 執事に向かって手を伸ばそうとする有利の肩を、両手で止める者があった。 村田だ。彼の声は硬かったが、この異常事態にあっても冷静さを失うことは無さそうだった。寧ろ、何か事情を知っているかのように、落ち着いた声音で有利に指示をする。 「僕たちは覚悟を決めた。君も、覚悟してくれ」 「なに…言って……」 「渋谷、事情は後で説明する。だから、どうか僕を…いや、僕が信じられなければ、あの男を信じてくれ」 《あの男》が、緑色の怪物ではなく、執事服に身を包んだ青年であることは明確だった。 「僕たちは、神に等しい存在を裏切る。そのことでどんな結果が出ようと、構うもんか…!」 アレが神なんて良いモノとは到底思えない。ただ、執事が寝しなに読んでくれたギリシャ神話の神々などから考えれば、神とはそもそもあのようなものなのかもしれない。 傲慢で図々しくて、それでいて強大な力を持つ我が儘者。 その怒りや気まぐれに撃たれて、身を滅ぼした人々の言い伝えを有利は耳知識として知っていた。それは漠然とした怖さではあったのだけど、村田の叫ぶ《構うもんか…!》という啖呵に、胸が熱くなるのを感じる。 『俺は、一人じゃない』 有利は村田の手をぎゅっと握ると、ぶるりと頭髪を振るってから真正面を向いた。自分で見ることは出来ないけれど、きっと、今の有利はかつてないほど好戦的な瞳をしているのだと思う。 どろどろとした質感を次第に失い、色合いは緑ながらも肉体めいた存在感を持つようになった男は、底冷えのする瞳でコンラッドを睨め付けている。不気味だった人形達よりも更に強い威迫を湛えているこの男は、確かに強力な敵であるのだろうけれど、有利と男との間に立ち塞がるコンラッドの背中は広く、絶対的な安心感を与えていた。 『でも、この男に敵対するのは、コンラッドにとっては凄く大変なことなんだ』 まだ良く状況が分かっているわけではないのだが、何となく察せられるのは、村田やコンラッドにとって、この男は本来逆らうべからざる存在であると言うことだ。敵対するなど冗談ではない、圧倒的な立場関係にあり、特にコンラッドにとっては、有利を養育するに至った背景にこの男が居るのだろう。 「どうすれば良い?村田」 「僕と共鳴するんだ」 「さっき、あのミドリンとやってたような?」 「…ぶっちゃけ、そうだね。あれと同じくらい熱くてしんどいけど、それでも…僕を受け入れて欲しい。そうすれば、僕は君の為だけのディーバ(増幅者)となろう」 「良く分かんないけど、それをやったらコンラッドの手伝いができんだよね?」 「ああ」 ならば、やろう。 恐るべき《神》を滅ぼしてでも、自分と大切な連中を護るのだ。 |