「獅子執事」−3









 暇を持て余して、友人というよりは《同じく暇なツレ》とぶらぶらしていて、ちょっと良いカモを見つけて小遣いを得ようとしていただけなのに、甲野豊は今、とんでもない目に遭っている。
 あり得ないことに、喧嘩相手であるはずの執事に接近され、響きの良い声を耳朶に吹き込まれた甲野は、ズボンのフロントを膨らませてしまっているのである。別にお色気露出をされたわけでも、色っぽいことを言われたわけでもないのに。

『な…何なんだよこの男!』

 何だか上手く説明出来ないが、とにかくこの男はヤバイ。それだけは本能的によく分かった。
 恐怖を性欲と結びつけて興奮してしまうくらい、変な魅力を持っているのだ。こんな男に捕まったら、色々と人生を狂わされそうだ。

「この野郎!」

 甲野に比べて本能が発達していないらしい江田と金原が、腰に掛けていたチェーンと、ポケットに入っていたメリケンサックを手にして襲いかかっていくが、執事は蝶のようにひらりと避けて長い脚と腕とを一閃させる。二人の横に回り込んで膝裏を巧みに突くと同時に、カウンターで顎を取って倒したのだ。かなりエアリーな動きだった。
 見る間にすてんと仰向けに転がった連中は、一体何が起こったのかという顔をしている。身体の動きに合わせて転がされたから、技を喰らったという実感がないのだろう。

『すっげ…』

 戦うべき相手ではない。
 まさに赤子の手を捻るみたいに簡単に、一応は喧嘩慣れしている連中を転がしてしまう男と、まともにやり合って勝てるわけがない。

「まだやりますか?」

 無防備な首筋へとその辺に転がっていた枝を二刀流宜しく同時に突きつけ、執事がまた微笑む。
 神のように優雅に、悪魔のように妖しく。

「…っ!」

 ぞくりと背筋を震わせた甲野は、やっとのことで自分たちがとんでもない相手とやり合おうとしていたのを知った。こんなタチの悪い相手に絡めば、下手をすれば命が危ない。

 そう、こいつはただ強いだけではない。ヤバいのだ。

 有利を《主》と呼ぶのは、この男にとっては仕事上の関係を示すものではなく、真の忠誠から出ているような気がする。この男は身体の傷だけでなく、心の疵も赦さない。これ以上自分たちが有利に、執事にとって許し難い行為を仕掛けたならば…。

『消される。眉一つ動かさずに、こいつは俺たちを消す』

 たらりと背筋を、嫌な汗が伝い落ちていく。
 漫画みたいに馬鹿馬鹿しい発想の筈なのに、それは異様なまでのリアリティを持った推測に感じられた。

「わ…悪かった!謝るから、見逃してくれっ!!」

 後で何とツレに責められようとも、ここはひとつ穏便に済ませておいた方が良い。
 しかし、執事は困ったように苦笑すると、《まだ分からないの?》と、頭の悪い子に説明するみたいにゆっくりと発言した。

「謝罪でしたら、我が主に対して行ってくださいね?」
「………分かったよ」

 奥歯を噛みしめつつも、甲野は有利に向かって頭を下げる。冷静になって考えてみると、流石に親を亡くした男にあんなことを言ったのは、冗談やからかいの域を超えていると思ったので、それなりに誠意は込めたと思う。

「…悪かった」

 だが、ひっくり返されている男達の内、血の気の多い江田にとっては甲野の行為は屈辱と映ったらしい。謝っているのは甲野なのだが、つるんでいた自分まで謝っているみたいに感じたのだろう。

「このチキン野郎が!」

 キレた江田は地面を転がるようにして立ち上がると、執事ではなく甲野に向かって拳を振り上げた。だが、執事はいつの間にか江田の首筋に両側から触れ、頸動脈の辺りをきゅうっと指先で押した。

 途端に、糸が切れた人形みたいにガクリと江田が頽れた。一瞬の出来事に開いた口が塞がらない。

「おやおや、こんな若さで血圧が不安定なんて、将来が心配ですね」

 《ははは》と爽やかに微笑む執事は、軽やかに江田を抱えると甲野の肩に載せてしまう。結構重いのだが、放り出すわけにも行かない。

「責任持って、その子を連れ帰ってくださいね。お友達でしょ?」

 表情は笑顔だが、光彩の周縁には獣みたいな金の輪がぎらついた。《その子が逆恨みして何かしたら、君も呪うよ?》そう言われているみたいに感じて、甲野はまた慄然とするような恐怖と共に、相反する欲情を覚えて仰け反った。

「さ…さいならっ!!」

 呆然としている金原の肩をどつくと、どうにか我に返った彼と共に江田を抱えて逃げ出す。今はもう、端から見て自分たちの姿がどうであっても良いから逃げ出したかった。

 一刻も早くこのヤバい男から逃げ出さないと、それこそ人生が狂う。
 そんな気がした。



*  *  * 




「やあ、渋谷んちの執事君は強いね〜」

 ぱちぱちと暢気に手なんか叩いている村田は、結構肝が据わっているのかも知れない。そういえば、3人に囲まれても結構平気な顔をしていたし。

「何だよ。助けに来なくても全然平気だったっぽいな」
「え〜、そんなこと無いよ?僕、喧嘩苦手だからすっごく怖かったよぉ〜」

 上目遣いにカワイコぶる村田。はて、こいつはこんなキャラだったろうか。以前はわりと冷静沈着というか、周囲に興味が無さそうな感じだったのに。

「渋谷が助けに来ようとしてくれて、嬉しかったな」
「いやいや、結局助けたのコンラッドだし」
「でも、君が助けようとしてくれなかったら、執事君はそのまま行っちゃったんじゃないかな?」
「んなコトないよ。コンラッド、色んなヒト助けて感謝状とかいっぱい貰ってるんだぜ?」
「へぇ」

 なんだろう。全く信じていないって顔をしている。

「本当だぜ?コンラッドは誰にでも優しいんだ」
「へー。じゃあ僕の勘違いかな?てっきり、渋谷の命が掛かってたら《自分含めて全人類が死んでもいいや》ってタイプかと思ってたよ」
「どんなタイプだよ!」

 一生懸命フォローしようとしているのに、後ろで納得したように《ああ、確かにそうですね》なんて頷いている男をどうにかしてくれ。ヤンキー達の疑惑が真実みたいに聞こえてしまうじゃないか。

「とにかく、助かったよ。何かお礼をさせてくれない?」
「いえ、結構です」

 即座に執事が断る。
 口調は慇懃だが、台詞はざっくりとしたものだ。

「君には言ってないよ。僕を助けると選択した、君のご主人様に言ってるんだ。飼い犬は黙っててくれないかな?」

 村田は村田でえらく挑発的だ。先程から眼鏡が初夏の陽射しを反射させて眩しくて、彼がどんな表情をしているのかよく分からないが、少し不機嫌そうに見える。

「ねぇ、渋谷は良いだろう?ちょっと喫茶店でも付き合ってよ。ミニパフェの美味しいの出してくれる店がすぐ近くにあるんだ」
「坊ちゃん、おやつでしたら私がお作りしましょうか?」
「坊ちゃんとか呼ぶ奴のおやつは食べない」

 びしりと指を突き出して宣言すると、目に見えて執事の眉根が下がった。こういうところは、やたらと可愛い男である。

「………すみません、ユーリ」
「いーよ、もう。癖なんだろ?」

 時折口をついて出るのは本当に癖だったりするから、有利はもう屈託無く笑って小首を傾げる。はにかむように笑ってくれた執事は、ちょっと素の顔になっていた。

「仲良いなぁ…」

 ぼそりと呟く村田の声は、どうして地の底から響くようなのだろう。

「ま、兄弟とか親子みたいなもんだしね」
「へー、羨ましいな。僕、一人っ子だから淋しいんだよねー」

 するりと腕を絡めてくる村田からは良い匂いがして、有利よりも更に華奢な体格は女の子といってもおかしくない。しかも、眼鏡越しとはいえ睫の長い大きな瞳でじぃっと見つめられると、《淋しい》という言葉が胸に沁みた。

 家族を亡くしてからと言うもの、《淋しい》という言葉に過敏になっているのかも知れない。

 だが、《一緒に行っても良い?》と伺うように執事を見たら、こいつはこいつで《兎は淋しいと死んじゃうんですよ》とでも言わんばかりに、瞳を潤ませてこちらを見ている。《兎ってタマか》と、勝手に浮かべた妄想に突っ込みを入れてしまうが。

「ええと…じゃあ、村田。コンラッドがおやつ作ってくれるみたいだから、俺んち来る?」
「えー、嬉しいな!僕、友達の家に行くなんて初めてだよっ!」
「マジで!?」
「うん、憧れはあったんだけどさ〜。何か切っ掛け掴めなくてね?」

 そう言えば村田はクラスメイトとそつなく付き合っていたけれど、誰かと特別仲が良いという感じではなかった。深く踏み込ませない頑なさのようなものがあって、有利もちゃんと喋ったのは数えるほどしかない。

『そういえば、こいつ。悪夢はもう見ないのかな?』

 今まですっかり忘れていたが、暑い夏の盛りに行われた体育の授業中に熱射病にかかった村田を、有利は体育委員として保健室まで運んだ覚えがある。きな臭いような土の匂いと、だくだくと流れる汗の感覚が蘇ってきた。あの時、村田は悪夢を見ていたらしい。泣きそうな声で《もう止めてくれ》と呟いていたのが気がかりで、目が覚めてからそれとなく聞いてみたら、村田は表情を失っていた。

『誰にも言わないで』

 能面みたいな顔をして、硬い声で囁かれた言葉に頷いたから、有利は本当に誰にも言わなかった。だから、今まで自分でも忘れていたのだ。今は傍に執事が居るから、やはり口にしてはいけないだろう。

『村田は、結構色々と抱えてるのかも知れないな』

 周囲からは脳天気だと言われる有利ですら、家族の死とか、執事と二人暮らしという不思議な家庭環境のせいで色々と悩み事くらいはある。村田は頭が良い分、余計に弱みを見せないようにしなくちゃとか考えて、ため込んでしまうのかも知れない。

『二人きりの時間もちょっとだけ作ってみて、聞いてみようか?』

 村田に誰にも言えない悩み事があるなら、再会ついでに聞いてあげようかなと思う。
 そんな有利をどう思っているのか、村田はやけに嬉しそうに手を繋いでいた。



*  *  * 




『この子は、唯の子どもではないな』

 村田健は、見てくれよりも遙かに《生きて》いる。
 このような気配を漂わせる存在を、執事は知っていた。ただ、それはこの星ではなく、別の時空に存在する故国での話だ。

『しかしこの子、中学時代にはここまでの気配ではなかったと思うんだが…』

 こんな風に、自分から積極的に主人へと絡んで来ることもなかった筈だ。執事は主人に絡む生徒には男女問わずチェックを入れていたから間違いない。同級生であった頃の村田は、有利に対して全くの無関心であったはずだ。

『それがどうして、こんなにもベタついてくるんだ?』

 どうも嫌な予感がする。
 
『眞王陛下が、何か俺の知らない仕掛けを用意しておられたのだろうか?』

 執事が元々住んでいた国は、眞魔国と呼ばれていた。魔王が国の長として治世を行うが、常に初代の王である眞王が眞王廟から世をしめおろし、彼の発言権は魔王よりも上だった。軍籍にあり、一応は貴族でもあった執事にも当然眞王に対する拒否権など無く、親友の魂を何処の誰とも知れない者の中に封じに行くという使命を帯び、地球に赴いた。

『そういえば…』

 執事はふと思い出す。主人が生誕するにあたって、執事が魂を運んでいる時に世話役を務めていた小児科医は、もう一つの魂を所持していなかったろうか?その魂を掲げて、自分たちは《太陽になりますように》《月になりますように》と願いを込めた。今考えてみると、太陽と月に喩えられる双璧といえば、魔王に対しては一人しかいないのではないか?

『まさか…双黒の大賢者?』

 そう思って村田を観察してみると、少年の身でありながら底知れない闇を抱えた存在感が、相応の説得力を持つ。もしかすると、彼は自分の過去と使命をごく最近になってから知った可能性もある。だとすれば、主人に対しても自分に対しても、探り探りという段階なのかも知れない。

『ユーリも…自分の使命を知ったら、変わってしまうのだろうか?』

 その事だけは少し心配だ。最初は混乱したとしても、きちんと受け止められる子だとは思うけれど、今まで秘密にしていたことを責められはしないだろうか?責めてくれればまだ良い。責めもせずに、《信頼に足らぬ人物》と見なされるのは怖かった。
 執事としては幼い子から少しずつ眞魔国の情報を与えても良いのではないかと思っていたのだが、勝馬は眞魔国に於ける成人年齢16歳に達するまでは、平凡な男子高校生として育てて欲しいと願っていた。

 今にして思えば、彼は息子が《魔王にならない》選択肢も残しておきたかったのだと思う。あまりに幼い頃から自分が《魔王になるべき存在》なのだと家族から吹き込まれていたら、それが当然になってしまって、拒否することなど考えられなくなると思ったのかも知れない。

『それでも…俺は、この方を魔王にしたいんだよ。ショーマ』

 地球に渡る前は全く乗り気でなかったにもかかわらず、魂を運んでから帰還してきた執事の心は満たされていた。

 任務を終えて眞魔国に戻った執事は、これまで自己の中心にあった自尊心を枉げてでも、この国に網の目を巡らせていこうと決意した。あの赤子がいつか魔王になる日まで、この国で土台を作るつもりだったのだ。

 ところが、そうは問屋が卸さない。
 じわじわと信頼の輪を広げていく執事を、警戒した者達がいた。それは新たな魔王の誕生を望まない勢力であり、現在の眞魔国に於いては巨大な権力を持つ者達でもあった。
 何回も襲撃を受けながら、その度に何とか逃れてきたのだが、あの夜…執事は重傷を負った。

 実の母に盛られた薬が、身体の自由を奪ったからだ。

『あの方は、今でも気付いてはおられないかもしれないが』

 寧ろ、そうであれば良いと思う。
 第26代魔王ツェツィーリエ陛下は決して無慈悲な女ではない。人間との間に為した混血の自分のことも彼女なりに愛していたろうから、あの薬はきっと、《働き過ぎだから、眠らせてやれ》とでも親切ごかした兄に言われて、ワインに混ぜ込んだのだろう。

 途中で気付いて、完全に眠ってしまうような愚は侵さなかったし、可能な限り嘔吐もしたのだが、それでも動きは確実に鈍ってしまった。このため、差し向けられた黒装束の一個小隊に対して、《全員を殺す》というほか選択肢を持たなかった。

『普段の俺なら、もう少し生かして倒すことが出来たんだがな』

 別にこれは敵兵に同情しているのではない。彼らはそもそも敵ではなく、いつか執事の大切な主人の兵になるはずの男達だった。執事がもっと上手く立ち回っていたら、きっとそうなっていた連中だ。

 だから殺したくなかった。
 この手を、主人の駒を潰すことになんかに使いたくなかった。

 哀しくて悔しくて、それでも生きる為に殺して、必死で逃げた。
 血盟城の回廊で襲われた執事は、美しい石造りの床を沢山の鮮血で汚して、ぬるぬるする身体に辟易していた。

 示し合わせているのか、衛兵達は執事を護ってはくれない。氷のような目をして口を一文字に引き結び、指が食い込まんばかりに帯剣を握り締めてはいるが、加勢も敵対もしない。今宵、ここで何が起きても動かないようにとでも言われているのだろうか。

 遠くで、《陛下はお部屋を動かれませんよう!》という衛兵の野太い声だけが良く響いた。彼女はきっと丸め込まれてしまうだろう。そうやって、多くの兵士を無意味な戦闘に送り込んできた人だから、今回に限って制止を振り切るようなことはないだろう。

『この国は、どこに行こうとしているだろうか』

 他人事みたいに、脳の中の冷静な部分がそう呟いていた。
 このまま、死にたくない。
 だってあの子を魔王として迎えなくてはならないのだ。このような謀略を仕掛けてくる敵の中に、たった一人であの子を連れてくることなんか出来ない。この国を少しでも変えてからでなければ迎えられない。

『ああ…でも、自分自身すら守れないようでは駄目か』

 悔しい。強くなりたい。
 あの子をどんな敵からも守れるような強さが必要だ。
 その為にも、今は生き延びなくてはならない。

 失血の為に朦朧とする意識の中、以前にも傷つけたことのある右目の近くを剣が掠めて、かなりの血が噴きだした。そのせいで視界が歪んで右目を閉じると、片眼では立体視が難しくなる。

 生きたい。
 生きて、あの子の成長した姿を見たい。

 いつしか願いは祈りのようになり、殆ど思考力を失って反射だけで戦いながら、執事は闇の中で血の舞を踊った。

 いつしか降り出してきたぬるい雨が叩きつけてくるが、血は流されるどころか次から次へと溢れ出して、執事の命を縮めていった。

『会いたい』

 悲痛な叫びは何時しか、口をついて迸っていた。
 その瞬間…執事の肉体は雨に溶けるようにして、異空間に飲み込まれた。



*  *  * 




「どうしたの?コンラッド」
「失礼。少し考え事をしておりました」

 時刻が4時を過ぎてしまったので、幾分ボリュームを抑えたアフタヌーンティーセットを卓上に配置させながら、執事は主人に詫びた。普段は大らかな主人なのだが、人の心が弱っている時にはやたらと敏感だ。
 故郷への苦い記憶が苛んでいるのを、やはり見抜かれてしまった。

「今日のスコーンは、プレーンと南瓜?」
「ええ。添えるのはクロテッドクリームとジャム、どちらが良いですか?」
「両方とも、ちょっとずつが良いな」
「よろしいですよ。夕食がちゃんと入るように、少しずつ」

 ざっくりと焼いたスコーンは丁度良い感じに表面を割りながら膨れていて、つやつやと彩りの良いクリームとジャムを添えると実に美味しそうだ。ふわりと漂う芳香に、難しそうな顔をしていた村田でさえ笑顔になる。

「うん、良い匂いだ。君の執事は料理人としても良い腕を持ってるみたいだね」
「だろ?実際、すっげー旨いんだよ。ほらほら、熱いうちに食べよう?」

 ぱくりと口に含んだスコーンに、二人の少年は《んんんん〜っ!》と、じたばたしながら喜びを露わにする。線対称みたいなその動作は何とも可愛らしくて、物憂げな気分も吹き飛んでいくようだ。

「んん…っ…美味しい〜っ!!」
「ん〜。今日は特に美味しいねっ!」

 あっという間にサクサクと二つのスコーンを食べきってしまうと、指についたクリームをぺろりと舐めながら、主人が上目遣いに見つめてくる。

「…もう一個、食べちゃ駄目?」

 この眼差しに勝てる奴が居たら見てみたい。
 見かけたら、主人に知られないように始末してしまいそうだが。(負けたら負けたで、行動次第によってはこれも始末するが)

「そう仰るかなと思ってました」

 そう言うと、まだ湯気を立てているスコーンをもう一つ皿に盛る。主人が特に気に入っているプレーンの方だ。村田にも勧めたが、こちらはもういらないらしい。
 余った分は近所に配ろうかと思っていたのだが、近隣住民の受けよりも主人の満足度の方が優先される。まあ、もう一個くらい食べても育ち盛りの主人のことだから、晩ご飯もちゃんと入るだろう。

「すっかりご馳走になっちゃったね。これは二重のお礼をしなくちゃいけないね〜」
「別に良いよ」

 カップを燻らして紅茶の香気を楽しみながらも、村田は少し申し訳なさそうだ。

「そうはいかないよ。これじゃ僕の気が済まない。ねえ渋谷、良かったら水族館でも行かない?勿論、終日僕の奢りで」
「えー?俺、水生生物はそんなに好きじゃないよ?」
「そう?じゃあ動物園」
「つか、何でそんなデートコースなんだよ。なー、それよか野球行かね?」
「えー。デイゲームはやだよ?日に当たるの苦手だから」
「どんなモヤシっ子だ」
「ほら、僕って見るからに頭脳派の天才肌だろ?多少紫外線が苦手なのも似合うじゃん」
「自分で言うな!」

 突っ込みながらも、悪びれたところのない村田の物言いは妙にリズム感があって、気が付くと有利は村田のペースに載せられている。拙い徴候だ。主人はやたらと人が良いから、こんな風に強引に攻めてくる相手には簡単に流されてしまうところがある。

「ナイターかぁ〜。土曜日の夜とかチケット取れるかな?」
「僕が用意するから安心しててよ。結構色々とツテはあるんだ」
「んじゃ、頼もうかな。あ、言っとくケド…」
「ああ、分かってるって君のご贔屓チームは把握してるよ。白ライオンマークのあそこだろ?ちゃんと応援席取ってあげるよ」
「間違っても、敵陣のど真ん中とかやめてくれよ?」
「分かってるって」

 ああ、すっかり行く流れになっている。
 執事は心の中で嘆息すると、頭を巡らせた。ここで《一緒に行く》等と言い出したら総突っ込みを喰らうだろうから、何とか見つからないように後を付けねばならない。

「日にちが分かりましたらお知らせ下さい。その日の夕食は球場で召し上がられますよね?お弁当は如何致しましょう」
「折角だから、球場の新メニュー試してみても良い?」
「ええ、勿論」
「あ、でも水筒は用意していこう。お茶に300円とか払いたくないし」
「そうですね。締めるべき所は締めなくては」

 勝馬は自分たちにしっかり保険金を掛けていたので、事故の賠償金も合わせると有利が生活していく分には大学に進学して、独り立ちしていくのに十分な額がある。主人の将来を考えると、実のところ大学や就職と言った選択肢を想定していること自体が欺瞞だとは思うのだが、用意しておくに越したことはない。

『万が一このまま、眞魔国から召還がなかった場合に貯蓄高が100円なんて事になったら目も当てられないからな』

 執事としては、あらゆる可能性を考えて用意をしておくべきだろう。

『それにしても、あれから10年…眞魔国からはものの見事に連絡がないな』

 もしもこのまま呼ばれなかったら呼ばれなかったで主人を幸せにする自信はあるが、これだけの期間全く音信がないというのは、バリケードな神経を持つ執事にとっても流石に懸念を抱かせた。

 そもそも、10年前の襲撃時に際して執事の身体を地球に運んだのが、どういった意図に基づくものであるかも分からない。魂の担い手になった時には《スザナ・ジュリアの最後の願いであったから》とのことで、眞王廟から計画的に輸送されたのだが、10年前に関しては、眞王が運んでくれたのかどうかすら定かではなかった。同情してくれるような方ではないと思うから、何らか意図があったのだろうか?

 地球の魔族は温かく迎えてくれたものの、彼らにも眞王の意図は伝わっていなかった。地球の魔王であるボブは渋谷家の面々が亡くなった後も何くれと無く面倒を見てくれるし、相談事にも乗ってはくれるのだが、眞魔国側からの連絡はぱたりと絶えているらしい。

 村田が双黒の大賢者の魂を受け継いでいるとして、眞王からの情報は受けているのだろうか?

 少し考えて、執事はさり気なく眞魔国語で《お茶のお代わりは如何?》と話しかけてみたが、村田は顔色も変えずに《もう一度言ってくれる?》と肩を竦めていた。少なくとも、あちらに腹を晒す用意はないらしい。

 取りあえず、この少年とは駆け引きが必要なようだ。








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