「獅子執事」−1










 大きくはないが、上質の木材を用いたテーブルにふわりと掛けられたのは、染み一つ無い純白のテーブルカバー。掌の一閃でシュッと皺を正すと、その上に手際よく食器を並べていく。
 窓から差し込む陽光が、陶器や瑞々しい食品に爽やかな彩りを与えている。やはりお天気の朝は気分が良い。
 ゴールデンウィーク直前のこの時期は、春と呼んで良いのか初夏と呼んで良いのか判断に迷う季節だが、窓を開けて外気を取り込んでもさほど寒くもないから、今朝方は初夏と呼んで良いのかも知れない。

 白いプレートにはふわふわのオムレツに手作りトマトジュレが載せられ、しゃきしゃきサラダはオレンジがかったチーズとドレッシングで彩られている。ちなみに、野菜は大抵庭で自家栽培したものだ。綺麗に切り分けられた菠薐草のキッシュも、まるでケーキみたいに添えられている。自家製クルトンと刻みパセリが浮かべられたコンソメスープは、主人が食卓に着くタイミングを見事に見計らって、丁度食べ頃の暖かさに調節されており、主を誘い込むような良い香りを放っていた。一口大にカットされた鮮やかなフルーツには、主人好みの風味に調整されたヨーグルトとフルーツソースが添えられて、これも朝日を受けてきらきらと輝く。
 食感がサクサクするようにこんがりと焼かれたパンまでもが自家製で、主人の体調に合わせて練り込む素材が変えられる。ちなみに、今日は芳ばしい胡麻の香りが漂よわせていた。

 なお、朝はパン派だが、昼と夜は御飯派の主人に合わせて、夕食には完璧な和食が食卓を彩る。その時には天板の木調を生かして、テーブルカバーはなしで食器が並べられる。近所の工房で焼いた陶器は、執事の手作りだ。

 テーブルの中央に庭の花を浮かべたちいさな器を置けば、朝食の準備は万端だ。タイミングを合わせて起こしておいた主人はぽてぽてと居間に入り、今日も美味しそうな食事ににっこりと微笑んでくれる。
 
「おはよう〜。コンラッド」
「おはようございます」

 ヒヨコ柄のパジャマ姿を着た少年に向かって優雅な微笑みを向ける男は、《これぞ執事》というイメージそのままのシルエットだ。ぴしりとアイロンの効いた白いシャツには細身のタイ、肩幅の逞しさと細腰を強調する黒スーツ。これが大規模なお屋敷であれば、完璧な姿だろう。

 だがしかし、ここは埼玉県の一般民家だ。一応は一軒家であるとはいえ、ごくごく平凡な2階建て住居である。居間だって8畳程度しかない。そんな家屋に《見るからに執事》がいるという事実が、実に珍妙であることを主人が知ったのは10歳になった頃だ。

 この執事、出会ってから3年間は母のお手伝いもする《同居人》であったのだが、主人が家族を失ってからは、急に執事をすることになった。執事というのは、主人に仕えて家庭内の全てを統括する存在なのだという。今までとは違った関係になって納得行かない面が多々あったのだが、変に押しの強い笑顔で《執事とはこういうものです》《当然のことです》と押し切られてはしょうがないかった。

 そんなわけで主人は暫くの間、執事というのは家族が居ない子どもの家には必ず居るものなのだと思っていた。…が、暫く経ったある日、どうやらそうではないとクラスメイトから知った。メイドが家事手伝いをするような家はあっても、よほどの家柄でない限り執事などいないのだと。

 そのことを知ってから一つ変わった事がある。執事と主人が同じ席に着き、同じものを同時刻にとるようになったことだ。今朝もテーブルの上にはちゃんと二人分の食事が載せられているのを確認すると、主人は納得したように頷いた。

 それまでは主人が食事をとるあいだ執事はサーブに徹してしまい、決して一緒に食事をとることはなかった。執事曰く、《使用人は主人と席を同じにはしないものです》ということであったのだが、クラスメイト情報でちょこっと知恵の付いた主人は、信頼する執事の言とはいっても、全てが全て正しいわけではないと悟っていた。執事がいる一般家庭自体が希有なのだから、主人と執事が一緒には席に着かないなんてルールも反故だと言い募った。

 それでも最初は渋っていた執事に、《あんたはおれの使用人じゃない。家族だろっ!?》と、わんわん泣きながら頼み込んで、やっと聞き遂げて貰ったのだった。

 執事は無駄に忠誠心旺盛だが、時々こんなふうに主人を泣かせてしまう。ここが精一杯やっているのに、《無駄》と表現されてしまう所以だろう。だって、執事の忠誠心は色々と方向性がオカシイのだ。多分も、《自分は主人の存在に比べれば取るに足らないもの》という基本設定にしているせいで、色々と派手にズレてしまうのだろう。

『こんなにキレーで何でもできて優しいのに、どうしてコンラッドってば自己評価低いかね?』

 低い…と表現したものなのかどうなのか、とにかく、執事は自分を大切にしない。だから、いつもいつも主人は大好きな執事の為に、心配したり呆れたりしている。
 そのせいか喧嘩などしたくもないのに、毎回変なところに引っかかって揉め事が起こるのだ。

「坊ちゃん、よく眠れましたか?」

 ほら、今日もやっぱり引っかかった。恭しくお辞儀をしながら向けられた挨拶に、主人はカチンと来てしまう。
 
「坊ちゃんって呼ぶなよ、名付け親のくせに」

 ぷくぅと頬を膨らませて言えば、苦笑しながら執事が訂正してくれる。

「すみません、ユーリ。つい癖で」
「もー、変なところで頑固なんだから…」

 主人の言に対して執事は反駁したりはしない。でも、大人の余裕を滲ませる微笑は明瞭に、《貴方ほどではないですよ》と語っていた。執事のそういう顔が、主人は苦手だ。《貴方と私は同列ではないのですよ?》、そう言われているみたいで無性に腹が立つ。

 ただ、以前に比べると長時間駄々をこねなくなってきたのは、高校生になってからだった。主人が少し大人になったせいか、毎朝繰り返されるこの遣り取りが、実のところ執事にとっては不可欠の応答であるらしいと気付いたからだ。

 一つは、哀しいことに執事が自分の身分を弁える為。でも、もう一つは執事の頑なな自戒を主人が解いて、《おれ達は家族だよ》と呼びかけてくれることで、《自分はここにいても良いのだ》と認識する為らしい。
 それが、彼にとっては数少ない娯楽(?)であるようだ。

 嬉しいのなら、しょうがない。
 何だかんだ言って主人は執事が大好きだから、彼が喜ぶことを止めることは出来ないのだ。

「いただきまーす!」
「どうぞ召し上がれ」

 同席するようになったとは言っても、やはり席に着くのには時間差がある。適度な時間蒸らした紅茶を暖めておいたカップに注ぐまでは、執事は席に着かないからだ。確かに彼が煎れた紅茶は美味しいし、一口含んでにっこり笑い《美味しい》と言えば、執事も満足そうに微笑んでくれるので、これはしょうがないと思うことにした。

 とぷとぷとぷ…

 芳香をたてて、鮮やかな色をした紅茶がカップに注がれていく。白磁のティーポットに添えられた長い指には、燻し銀の指輪が填っていた。少しごつめの形状をした幅厚の指輪は、結婚指輪という感じではない。それに、填めているのは人差し指だ。あまり装飾というものを身につけない執事だが、この指輪だけは肌身離さないようだ。よほど大事なものなのだろうか。
 一度聞いてみたが、何故か《護身用なんです》という答えが返ってきた。メリケンサックみたいにして殴りつける為のものなのだろうか?

「いただきます」
「はい、どうぞ」

 品の良い動作で両手を合わせる執事に、主人が頷くと食事が始まる。

 主人の名は渋谷有利。16歳の男子高校生だ。
 体躯は全体的に華奢だが決して繊弱ということはなく、伸びやかで俊敏そうな動きをしている。今時珍しいくらいに色を入れていない髪は漆黒で、サラサラとした質感を生かして定期的に執事が整えてくれる。身につける服なども執事がいつの間にか買ってくれており、時々《渋谷ってセンス良いよな》と言って貰えるのは執事のおかげだ。

 色の濃い大粒の瞳に対して、形良い鼻と口は幾分小さめだが、《少し拗ねるとふくりとした唇が突きだして何とも可愛い》というのが執事の弁だ。悪戯っぽい眼差しで、《坊ちゃまの拗ねるお顔があまりに可愛いので、それが見たくて苛めてしまうことがあります》とも囁かれたことがある。大好きな執事に対して、《ひょっとして、コンラッドってば…ちょっと腹黒い?》との感慨を抱いたのは、中学校に上がったばかりの頃だった。

 執事の名はコンラート・ウェラー。年齢不詳。どうやら本気で本人も覚えていないらしく、誕生日さえよく覚えていないと言われた時には吃驚して、勝手に有利と同じ日を誕生日に制定してしまった。

 見てくれは20代に入ったばかりというところなのだが、それでは色々と計算が合わない。彼は渋谷家にやってきた10年前から全く容姿が変わっていない気がするし、そもそももっと前、有利が生まれる前に名前を付けてくれているらしい。当時10代だったのだとしても、そろそろ30代にはなってないとおかしい筈だが、容姿だけを見ているととてもそうは思えない。纏う雰囲気や態度があまりにも大人びているので、目を閉じて耳だけ使うともっと年上のような気もするが、口を閉じて瞼を伏せている時の容貌は随分と若く見える。

 色々と謎の多い男だ。

 謎と言えば、有利は執事の顔と首上部、前腕〜手以外の肌を見たこともない。夏でもきっちりと執事服を纏っているからだ。有利が幼い頃には毎日お風呂に入れてくれて洗ってくれたし、今でも頼むと背中を流してくれるのだが、基本的にきっちりと執事服に身を包んで脱ぐことがない。流石にスーツの上着は脱いでシャツを肘まで捲るのだが、ネクタイさえ外さない。

 小さい頃にはそれが淋しくて、ぐじぐじ泣きながら《コンラッドとおフロはいりたい》とごねたものだが、身体に大きな傷跡があるから、見せて怖がらせたくないのだそうだ。確かに、執事の肌には露出しているところだけでも淡く引きつれたような傷跡がある。右眉毛の端とか、長い指の甲とか節とか。でも、それを怖いと思ったことはないから、全部見せてくれればいいのにと思う。

『今更なのになぁ…』

 有利はもぐもぐと、いつも通り美味しい食事を口に運びながら思い出す。
 執事との、衝撃的な出会いのことを。



*  *  * 




 それは10年前のことだった。

 渋谷家の法事で祭礼が行われる祖父の山に、ちょっとしたお散歩のつもりで入った折、茨の向こうで大きな物音が響いた。何事かと分け入ったそこで見つけたのが、血まみれの執事だった。当時6歳で、まだ小学校にも上がっていなかった有利は、生まれて初めて目にした夥しい血に、悲鳴を上げることも出来ずに固まってしまった。

 執事は軍服のような、普段あまり目にすることのない衣装を着ていたように思う。その衣服はビリビリに裂けて、逞しい体躯から覗く肌という肌には深い傷があった。おまけに、こんなお天気の良い日だというのに全身びしょ濡れである。
 大きくて節くれ立った手には長剣が握られ、剥き出しの刃にはべっとりと血糊がついていた。長い腕や脚は無造作に投げ出されていたが、人の気配を感じ取ると一瞬にして四肢に緊張を湛えた。
 
 怯えきって震える有利の前で瞼を開いた執事は、猛獣のような目をしていた。琥珀色をした瞳孔の外輪に、ぎらぎらとした金の彩りが見えたのだ。
 決して野卑ではなく、高い気品を漂わせる真に強い獣。大怪我をしているのにそんな気配が漂っていたのは、執事が心折られてはいなかったからだろう。

 今にして思えば、執事のあんな瞳を見たのはあれが最初で最後だ。怖いけど、目を離せない誘因力にも満ちていたあの瞳。時折それっぽい気配が掠めることはあるけれど、それは専ら有利に近づく人(執事規準での不審者)に対してだから、残念ながら有利が直接見ることは叶わない。回り込んで見ようとすると、瞬時に優しい瞳に戻してしまうからだ。

『ライオンみたいだ!』

 血に汚れて固まってはいるが、少し長めの暗茶色髪が白皙の肌を掠める様は、有利の大好きな獅子そのままだった。色的には一般的な獅子を思わせるが、個人的な思い入れの為か、何故か純白のイメージがある。黒っぽい赤に汚されながらも、彼の中に侵しがたい品位を感じたからだろうか。

『いたい?いたい?だれがよんでくるねっ!』

 あわあわと口籠もりながら、足取りも危なげに助けを呼びに行こうとしたのだが、えらく優しい声が引き留めた。

『…ユーリ…?』

 吃驚した。

 教えた覚えのない名前を呼ばれたことよりも、あんなに恐ろしそうだった獣っぽい人が、切ないような…それでいて甘い声で有利の名を口にしたせいだった。《ユーリ》という言葉自体がきらきらとひかって、澄んだ色あいが、お日様に照らされているみたいだと思った。
 
 目線を執事に戻すと、彼は凄く驚きながらも喜んでいるらしく、疵のことなど忘れたみたいに柔らかい微笑みを湛えていた。そうすると、獣じみていた瞳はとたんに紳士的な色合いへと変化して、とろける蜂蜜みたいな色の瞳孔に、今度はちかちかと瞬く星みたいな銀が散った。

『ユーリ…』

 とろけるみたいに優しい声が響いて、べっとりと血に汚れた手を差し伸べられた。だが、ふらふらと誘引されるように歩み寄っていった有利が、ちっちゃな両手で執事の手を握ると、彼は衝撃を受けたように表情を強張らせた。よく分からない国の言葉で彼が囁いた言葉が何であったのか、今でも分からない。でも、多分彼は自分の血で有利が汚れることにショックを受けたのだと思う。有利を驚かせないように細心の注意を払いながら、手を振り解こうとしたからだ。

 触れたくて触れたくて堪らない顔をして手を差し出したのに、有利を汚してしまったことに吃驚して離れようとした執事。琥珀色の綺麗な瞳が哀しげに揺れて、少し怯えたように見えた。獣のような金も、優しげな銀も消えて、まるで死んでしまった人みたいに彩りを無くした瞳が哀しかった。あんなに疵だらけになっても負けなかった人が、有利が汚れてしまうなんて事で傷ついているのが、辛かった。
 だから、有利はおろしたての礼服が汚れるのも構わずに無理矢理抱きついていった。

 白い布地に、じわじわとしみていく暗赤色の血。
 執事は傷ついた身体を捩って逃げようとしたけれど、赦さずにしがみついた。

『だいじょうぶ。よごれても、あらったらいいの』

 お母さんが怒るかなと思ったけど、ちゃんと訳を言ったら赦してくれるだろうと思った。だって、今はこうしなくちゃいけない気がするのだ。大人の男の人がこんな哀しい顔をして、自分の汚れで有利を傷つけてしまうことを恐れているなんて、堪らないから。

『だいじょうぶ』

 もう一度囁いて、ごちんと痛いくらいにおでこを合わせてから、有利は人差し指を突き出して地面を指さした。

『ここにいるんだよ?うごいちゃダメだよ?大人のヒトをよんでくるからね』

 執事は意味を了解したのか、こくりと頷くとそのまま力を抜いた。全ての警戒を解いたわけではないと何となく分かるが、それでもある程度力を抜いたことに安堵して、有利は全速力で茂みを抜けていった。

 血まみれの幼児に大人達は絶叫をあげ、興奮のあまり理路整然とした物言いの出来ない有利にあたふたとしていたが、《あのヒトをたすけて!》と叫んで引っ張っていく有利に引っ付いて、どうにか執事のもとに来てくれた。

 その後、不思議なことに警察が呼ばれることはなかった。
 有利自身はまだ幼かったのでそんなことに気づきはしなかったのだが、当時まだ生きていた兄が《なんでだ?》と不審げに呟いていた。

 結論から言えば、大人達は執事のことを知っていたのだと思う。彼の持つ深い事情も。執事が親戚の経営する病院に入院し、傷が癒えてから渋谷家に住み込むようになったことに、兄は不審を唱えたが、両親はごくごく自然な流れと受け止めていた。
 時折交わされる会話の中で(当時は概ね英語だったので意味がよく分からなかったが)、どうやら父は昔から執事を知っていたのだと知れた。母はそれほど顔を合わせたことはなかったらしいが、それでも確信を込めて《この人はゆーちゃんの名付け親さんなのよ》と言っていた。

 それから過ごした3年間が、有利にとっては家族全員で過ごしたかけがえのない日々であった。
 突然、交通事故で両親と兄を一度に亡くすまで、執事は母と共に家事を行って、父と共に釣りに出かけたりしていた。兄とは馬が合わなかったようだが、それでも、あれは単に有利をダシにして遊んでいたのだと思う。兄はよく執事の臑を蹴っていたし、執事もわりと容赦なく兄を抱え上げてジャイアントスウィングなどお見舞いしていたが(しかも良い笑顔で)、兄が何かで傷ついて泣いていた時、髪を撫でた手が振り払われることはなかった。

 家族について段々と薄れていく記憶が切ないけれど、それでも、有利が孤独を感じることなく成長出来たのは、親族会議で執事が正式に有利の後見人として認められ、今までと同じ家で過ごせることになったからだと思う。今になってみると、あんなに不審な状況で現れたこの男が日本国籍を持っているのかどうかかなり怪しかったが、こうして問題なく過ごしていると言うことは、渋谷家の方で色々と手を回していたのかも知れない。親族会議の席ではみんな朗らかで楽しい人ばかりなのだが、時折底知れないものや、秘密の匂いを感じることがある。

 それにしても、執事の家庭環境はどうなっているのだろうか?
 何度聞いても、執事が家族や以前の仕事について教えてくれたことはない。いつだってとろけるような笑顔を浮かべて《家族はあなただけですよ》と言うだけだ。いつもは自分を使用人と定めているくせに、こんな時だけ誑し込むように《家族》という呼称を用いるこの男を、狡いとは思う。

 でも、その狡さに救われているのも事実だった。

 執事には、本当は帰るべき場所があって、そこであんなに血まみれになっても守りたいものがあったのだと思う。当たり前のように手にしていた長剣は、押収されることなく渋谷家に保管されていることを有利は知っている。一度だけ、夜中に起き出して執事の部屋を垣間見た折、丁寧に手入れしているのを見たからだ。普段はどこに置いているのか分からないけれど、大切にしているのは確かだろう。手入れをする仕草は馴れていて、相棒に対する愛着のようなものも感じさせた。

 それに、執事は渋谷家の家事一般をこなす一方で、毎日何時間にも及ぶ厳しい鍛練を重ねている。そんな時くらいジャージかスウェットでも着ればいいと思うのに、何故か執事服のままで。《何時如何なる服装であっても、主人を御守りするのが執事の役割です》と大真面目な顔をして言うから、好きなようにさせている。

 時折、《こいつは単に、ドMなんじゃあ…》と失礼なことを思っているのは秘密だ。

 ただ、彼が専門的な教育を受けた軍人であるのだろうとは察しが付いている。彼の動きには一切の隙が無く、身につけたしなやかな筋肉は実戦向きで、気配の殺し方はプロのそれだ。

 そして当然、人も殺しているのだと思う。

 こんな優しげな顔をした人が…とは思うが、何しろ出会いが出会いであった。執事自身も大きな疵を負ってはいたが、あの血の量は他人の血を浴びていなければあり得ない。それに、生々しい質感の血刀には、脂と思しきぬるついた痕もあった。よほど多くの敵に深手を負わせなければあんな痕はつかないと、調理をする執事の手元を見ながら察している。

 執事は何も語らない。いつも有利に聞くばかりだ。
 学校で起きたこと、友達とのこと、《ちょっと可愛いな》と思う子がいたことを彼は愉しそうに聞く。でも、家に帰って執事の顔を見ていたら、浮かんでいたはずの淡い恋心がシュワワとラムネの泡みたいに消えて、執事と過ごす時間の心地よさに溺れてしまっていることを自覚させられた。

 執事は決して女性的でないのだが、無駄に整った顔立ちに独特の色気がある。優しい大人の顔をして微笑んでいるその端に、時折掠める匂い立つような色香は一体何なのだろう?本人が意識的に封じようとしているだけに、淡く香るその深部を知りたくて、焦れたような心地になる。
 《女の子なんか見ている場合ではない》という気持ちにさせる執事は、確実に有利の青春を歪めていた。

 その歪みさえも愛しいと思えるのだから、かなり終わっているのだけど。



*  *  *

 


「じゃあ、行ってくるね」
「お送りします」
「良いよ。後もつけてこなくて良いから」

 当たり前のように言われて、《自転車で15分の高校に通うのに何を言うのか》と、習慣と化した問答をまた繰り返す。

「一瞬の油断が命取りですからね。本当なら、学校にいる間だってずっと警護をしていたいくらいです」
「いや、滅多にそんな危険ないから」

 有利は逃げるように学生鞄を手にすると、ごく一般的な学ランに身を包んだ姿で、これまた一般的な靴に足を入れる。とはいえ、執事が買い求めた靴は実はオーダーメイドらしく、足にぴたりと収まるのだけど。

『右足の方が5ミリ大きいのに、ぴったり足に馴染むんだぜ?ワゴンセールで買った既製品の筈ないじゃん』

 清潔だが、いつも同じような執事服で着た切り雀のくせして、執事は主人にとって必要な物には金に糸目を付けない。どうやら資金は渋谷家の長老から出ているらしいが、何と言って請求しているのだろうか?
 
「んじゃ、行ってきます」
「はい、お気を付けて」

 中学に上がって暫くしてから、有利は断固として執事の送り迎えを拒否していた。

 だって、時々心細くなったり淋しいなと思うと、執事は強引に手を繋いでくるからだ。それは幾つになっても変わらなくて、家族連れや仲の良さそうな兄弟が戯れているのを見かけると、大きな手で有利のそれを握ってくれる。

 《大丈夫》…初めて出会った時、有利が掛けた言葉をそっくり返して、執事は微笑む。凛として前を見据えて、確信を込めて言う。《大丈夫。大丈夫》と。《ユーリは絶対幸せになれるよ》と、予言するように。

 小さい頃にはそれが凄く嬉しかったけれど、流石に中学生にもなると恥ずかしくなってきた。だって、手を繋いでいる所を見かけたクラスメイト達が、《子どもみたい》というのはともかくとして、《ホモ臭い》なんてからかうのだ。執事の善意と真心をそんな風に見る者がいて、実際、明らかに親子ではない年の差男二人が手を繋いでいたら、警察に職務質問去れるのだとも知った。

『だから、こうして距離をとってんのはコンラッドを守ってるってことなんだぜ?』 

 執事が大事だからこそ犯罪者にはしたくないと、健気な主人は思うのだった。





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