第2部 第5話









『何とねぇ…』

 ヨザックは相変わらず庭木の剪定を続けながら、内心驚きに目を見張っていた。
 あれほど険悪なムードを漂わせていたヴォルフラムが、和やかにコンラートや有利とお茶を楽しんでいるなんて…ほんの少し前までは考えられなかった光景だ。

『おーお、嬉しそうな顔しやがって』

 コンラートの笑顔を眺めながら、ヨザックの顔にも堪えきれない笑みが浮かんでしまう。彼が弟のためにどれほど胸を痛めていたかを知っているからこそ、嬉しくて堪らないのだ。

 見守っていると、遠目から伺っている別の視線にも気付いた。

『おんや…フォンビーレフェルト卿の御大は、複雑そうな顔をしてるねぇ…』

 それでも、明らかに嫌悪を示したりしていないだけマシといえるだろう。《複雑》ということは、半分くらいは好意も混じっているということなのだから。

『あの人はあの人で、ヴォルフラム坊やのことを気に掛けちゃあいたんだろうな』

 強い魔力故に、自分の殻に閉じこもったヴォルフラムが意識を取り戻さずに暴走を続けていたら、何らか周囲に被害が出ていたことだろう。同じ火の要素使いであるヴァルトラーナも、幾度か呼びかけてはみたはずだ。それでも意識の戻らないヴォルフラムを抱えて、彼もまた追い詰められていたに違いない。

 最悪の場合は次期当主、指導官共に他の者に変えて、ヴォルフラムの公式な立場を抹消してしまう可能性もあったはずだ。

『そうなるのを無理矢理にでも回避したあいつらに、思うところはあるんだろうが…そう素直にはいかないわな』

 ヨザック自身、同じような想いをしたからヴァルトラーナの心情も分かるのだ。殺すつもりで剣を突きつけた相手が、こんなにも大事になるなんて思っても見なかったから…。

『後は、時間だけの問題かも知れねぇな』

 パチン…と無駄な枝を落としながら、ヨザックは静かに瞼を閉じた。



*  *  * 



 
「そうか…上手く行ったか」
「ええ」

 辺りに帳が降りる頃、明るい表情で馬車へと戻ってきた有利とコンラートに、グウェンダルはほっと安堵の息を漏らした。うたた寝から醒めたグレタも、人間に対して拒絶反応の強かった人物が態度を和らげたと聞くと、安心したように笑顔を浮かべた。

「じゃあ、明日は楽しいパーティーになりそうね?」
「そうだね。いっぱいおめかしをしようね?」
「わぁい!ユーリもお揃いのお洋服を着ましょうよ」
「どうかなぁ?ヴォルフがまた貸してくれるかな?」

 ぎゅ…っと有利に抱きつくと、グレタはどんなコンセプトの衣装にするのか検討していく。素晴らしいドレスはダイクン王がたくさん用意しているが、それは多分にスヴェレラの要素を含んだ民族衣装としての側面が強い。腕や襟元で素肌を見せる衣装は、かっちりとした衣装が主流の眞魔国では、《はしたない》と言われてしまう可能性もあった。

「ほう…愛称で呼べるようになったのか?」
「うん、コンラッドがよび出したから、いっしょになってよんでたんだけど、イヤがったりはしなかったよ?」
「そうか…」

 グウェンダルは相好を崩すと、満足そうに何度も頷く。彼にとっても長く懸念事項であったものが、こんなにも鮮やかな解決を迎えるとは思わなかったのだ。

「ドレスも貸してって頼んでみようか?」
「うん。急いで買ったりするより、その方が経済的よね」

 なんともはや、実際的な王太子と姫もいたものである。洒脱者としての自覚が大きい貴族などには《一度着た服には二度と袖を通さない》と嘯(うそぶ)く者もいるが、この子達はそんな贅沢とは縁遠そうだ。
 とはいえ、全て借り物とあっては華々しさが足りまい。

『何か見繕ってやるか』

 衣装か、あるいは宝飾品か…。着飾った有利やグレタの姿を想像すると、それだけで妄想が膨らむグウェンダルであった。



*  *  * 




 城と呼べるほどに豪奢なビーレフェルト家の邸宅には、名だたる十一貴族の面々を迎えるに相応しい準備が為されていた。次代の当主と目されるヴォルフラムが急に回復した上、見違えるほど落ち着いた物腰で適切な指示を出したおかげもあって、使用人達は生き生きと自分たちの領分以上の働きを見せた。
 おかげで、大広間に集った大貴族達も概ね満足そうな表情を浮かべている。

「お招き頂き、まことにありがとうございます」

 グレタが見事な淑女の礼を見せると、大の人間嫌いで知られるヴァルトラーナでさえ、愛想笑いを浮かべずにはいられなかった。それほどグレタの会釈には高貴な品格が滲んでいたし、それでいて、年相応の愛らしさが溢れていたのだ。寿命が長い代わりに子どもがなかなか生まれない魔族事情もあって、大貴族の中には久方ぶりに幼い姫を見たという者もいる。お揃いの蒼いドレススーツ(グウェンダルが用意してくれた)に身を包んだ王太子もまた愛らしかったものだから、どこに行っても歓待を受けた。

 至る所で、《ほう…人間とは言っても、流石は皇女と呼ばれるような身分の姫は、幼いながら気品がありますな》《王太子殿下も、随分と眞魔国語や舞踏が上達しておいでだ》と肯定的な意見が交わされている。

 ただ…どのような状況であっても、意固地な者というのはいるものである。フォンロシュフォール卿クリムヒルデは、その代表といえるであろう。

『一体…どうなっているの…!?』

 彼女の視線の先にあるのは、あれほど気を揉ませたヴォルフラムであった。多少つっけんどんな口ぶりは見せても、コンラートに向ける眼差しが甘えを含んだものであるのは見ていて明瞭すぎるほどだ。嫌悪の感情を示していた有利にさえ時折笑顔を向けると、何かの拍子に肩を叩いたりすることさえある。ことに、傍に控えているグレタのことは人間であっても可愛らしく思うのか、なにくれとなく世話を焼いては菓子だ飲み物だと手渡している。

『ヴォルフラム様までもが、誇りをお忘れになったというの…!?』

 直接問いただす気にはなれなくて苛立たしげに後れ髪を弄っていると、視界にやはりぽつねんとしているヴァルトラーナの姿が見えた。

「ヴァルトラーナ様…ご機嫌麗しゅう」
「ああ…これはクリムヒルデ殿。十分に楽しんでおられますかな?」
「ええ…それはもう、盛大な宴ですもの。ですが…賑わいのせいでしょうか?少々空気が悪いようですわね」

 扇で軽く鼻先を仰ぐ動作は、《この場に相応しくない者が居る》との隠所作である。ヴァルトラーナはクリムヒルデの意図は受け取ったのだろうが、いつものように冷笑を浮かべることはなかった。

「風が吹けば、滞った空気も吹き払われましょう…」

 何故、そんなにも淋しげに苦笑しながら言うのか。
 それではまるで…。

『閣下ご自身が、《滞った空気》そのものであるかのようではありませんこと!?』

 大貴族の当主たる彼に正面切って言うことは出来なかったが、それだけに鬱々とした感情が胸の中で蜷局(とぐろ)を巻く。誰かに噛みついてやらぬことには、心情の整理がつきそうにもなかった。

「…酔いが回ったかな。どうもおかしな事を口走ってしまいそうだ。申し訳ないが、失礼する」

 まだ十分に優雅な歩容を見せて立ち去っていくヴァルトラーナの背を、クリムヒルデは穴が開くほどに凝視していた。まるで、視線で射殺したいとでも言うように。



*  *  * 




「おい、別室でもう少し飲まないか?」
「ああ、俺は構わないが…ヴォルフ、少し飲み過ぎじゃないか?」

 楽しそうに笑いながら、コンラートの冷たくて心地よい手が頬に添えられる。ほんの少し前なら拒絶反応を起こして弾いていただろう動作も、今は《子ども扱いするな》とつんけんしながら除ける程度で済む。

「部屋でゆっくり話がしたいのだ」
「そうか…では、お邪魔しようかな?」

 屈託なく笑う兄はとても綺麗で、気持ちよく酒を呑んだせいか頬が淡く染まっている様は、周囲の視線を集めていた。
元々の好悪の感情はおいても、誰もがこの男に惹かれずにはおられないのだ。容貌自体は、魔族としては比較的地味な方だと思うのに、気が付くと視線が集まってしまう彼には独特の華があるのだろう。ふとした仕草や眼差しが艶やかで、心に染みるような美しさを持っている。

「コンラッド、ゆっくりヴォルフラムとお話してね?」
「ああ、ユーリもゆっくりと休んでね」

 ちゅ…っと頬にキスをされると、有利は頬を真っ赤にしてじたばたしている。恋人同士だと言うがまだ深い仲にはなっていないのか、実に素朴な反応をみせている。やはり少しだけ嫉妬に近い感情は浮かぶのだが、有利の方からにっこりと笑顔を送ってくれるので、ヴォルフラムも厳しい表情を続けることは出来ないのだった。

『それに、あいつはコンラートを貪ろうとしている訳じゃない』

 自分だけの檻に閉じこめて、がつがつとコンラートを貪るのではなく、本当にコンラートが幸せになるためには何が必要かを常に考えているのではないか…そういう気がした。
 幼かったせいもあって、ひたすらにコンラートを独占しようとしたヴォルフラムとは大きな違いだ。

 決して嫉妬を覚えないわけではなく、ヴォルフラムがコンラートとの会話や眼差しを独占すると淋しそうに瞼を伏せているけれど、コンラートが楽しそうにしているのを目にすると、満足そうに頷く。そんな所作を、おそらくは無意識にしている有利という少年を、兄が特別に愛してしまうのは仕方のないこととも思えた。

 奪うのではなく、捧げる愛を持つ兄だから…きっと、同じように自分を愛してくれる有利と結ばれたことは、この上なく幸せなことなのだろう。

『だが、一夜くらいは僕に預けてくれ』

 久方ぶりに戻した縁なのだ。少しくらいはじっくりと味わいたいと思うのも、致し方ないこととヴォルフラムは認識していた。



*  *  *  


  

 ヴォルフラムも合流して再び動き出した一団は、数日後には無事、王都へと辿り着いた。巨大な跳ね橋が降ろされると、気の早い民が歓声をあげて花吹雪を散らし、ルッテンベルク軍騎馬部隊が先鋒として歩を進めると、今度は本格的に天を染めるほどの花びらが散った。

「無事のご帰還、お祝い申し上げます…っ!」
「王太子殿下万歳…!」
「フォンウェラー卿コンラート閣下万歳…!」

 それぞれの出身地の関係で、各自合流している主家筋の名も讃えるが、やはり一番多いのは王太子に対するものだ。有利が馬車を降りて漆黒の頭髪と瞳を顕すと、人々の歓声は最高潮に達する。

 わぁああ…っ!

 馬車からグレタが降りてきても、否定的な声音は聞かれなかった。《あの王太子殿下が連れてこられたのだから》という意味で、グレタは暖かく迎えられているのだろう。

 コロコロロ…と赤絨毯が敷かれ、優美な女王ツェツィーリエが現れると、また人々の歓声は高まる。

「んまぁあ〜…っ!コンラート、ユーリちゃん…っ!無事な姿を見せて頂戴…っ!!」

 高いヒールをもろともせずに近寄ってくると、有利とコンラートにボイン爆弾が投下される。呼吸器口を塞がれるとリアルに死の予感がするので、なかなか侮れない殺傷力だ。
 しばらくむにむにとした有利の頬を楽しんでいたツェツィーリエだったが、低い位置で目をぱちくりと開いている少女に気付くと、膝を屈めて優雅に会釈をした。

「あら、こちらがお噂のグレタ姫ね?」
「はじめまして、魔王陛下」
「あらぁ…私のことはツェリと呼んで頂戴?魔王陛下なんて、堅苦しくて飽き飽きなんですもの」
「はぁい、ツェリ様」
「うっふふ〜…なんて良い子なんでしょ!」

 きゅむっと窒息しない程度に抱き寄せると、グレタは何とも言えない風に目を細めて豊かな胸に頬を寄せた。どこか泣き出しそうな表情に、ツェツィーリエは気遣わしげな眼差しを向ける。

「どうかしたの、グレタ姫…少し疲れているのかしら?」
「いいえ…陛下。私は亡くなった母の顔を覚えていないのです。陛下ほどお美しいということはなかったのでしょうが、失礼ながら、抱き寄せて頂いた折りに思い出してしまって…」
「まあ…っ!」

 きゅうんと目元を潤ませたツェツィーリエは、ちいさな少女を狂おしげに抱き寄せる。暫く幼い身体の感触を愉しんだ後、ツェツィーリエは腰をあげてコンラート達を誘った。

「さあさあ、後は血盟城でゆっくりとお喋りしましょう?さ…コンラートもおいでなさい?」
「ええ」

 魔王専用の豪奢な馬車に誘われると、コンラートが眼差しで他の面々にも合図する。そこには、穏やかな瞳をしたグウェンダルと共に、ヴォルフラムがいた。彼らは進み出て母に会釈すると、す…っと自然な動作でコンラートの両脇に居並ぶ。
 それは母として、長くツェツィーリエが求めていた光景だった。

「まあ…ま、あ……っ!」

 両手で口元を覆うと、ツェツィーリエは感極まったように涙ぐむ。それほどに、三人の息子達がごく自然な形で集結することは、久しぶり…というより、殆ど初めてに近いのではないだろうか?

「ヴォルフ…仲直りをしてくれたのね?」
「…ご心配をお掛けしました」

 一礼すると、ヴォルフラムはそれ以上の言及は避ける。コンラートもグウェンダルも、誇り高すぎる弟を気遣ってか、母の両脇に移動して馬車へと誘っていく。

「ゆっくりとお話をしましょう、母上」
「一家団欒…と、行きましょうか?」

 はにかむような長男・次男の声に、ツェツィーリエは弾けるような微笑みを浮かべた。



*  *  * 




 血盟城でも盛大な歓迎式典が開かれて、有利やグレタは色んな人々に引っ張りだこであったものだから、夜半近くになってくると会場の脇に置かれたソファの上ですぅすぅと健やかな寝息を立て始めた。

「ふふ…随分とお疲れのようね?」
「長旅の後に、短い間隔で宴が続きましたしね」

 コンラートはソファの端に腰を屈めると、愛おしげに有利の頭髪を撫でつけていく。ツェツィーリエはそんな息子を見やりながら、まだたっぷりと葡萄酒の入ったグラスを揺らした。
 あんまり嬉しいものだから、幾ら飲んでも足りない気がする。興が乗ってくると、際限なくザルになるのだ。

 この小さな少年が眞魔国に与えた影響は絶大だが、ツェツィーリエの家庭に与えた影響に限っても、これは凄まじいものがある。

『なんて表情で笑うようになったのかしら?』

 あれほど忍従の中で生きてきたコンラートが、こんなにも晴れやかな表情を湛えるようになったなんて、都合の良い夢を見ているのではないかとさえ思ってしまう。
 
『そんな大切な子が背を射抜かれ、一時は命さえ危ぶまれていたなんて…』

 有利個人に対する想いもあるが、やはり母としては、その時にどれほどコンラートが打ちのめされてたかを思いやらずにはおられない。

『奇跡的に回復した後にも、視力は失われていたのよね?』

 また、コンラート自身も一時は左腕を失っていたという。巡り巡って本来の腕を取り戻したとはいえ、なんともはや…変転に富んだ恋人達であろうか! 

「グレタ姫は私が運んであげるわ。あなたはユーリ殿下をお部屋に運びなさい」
「ですが、宴はまだまだ…」
「主賓の一人が眠ってしまわれたのですし、なにより、宴の主題はあなた達を労うことですもの。疲れを押して無理をさせたのでは本末転倒でしょう?」
「母上…」
「さ、お休みなさい。あなたが傍にいて差し上げることが、ユーリ殿下にとっては一番の癒しになるわ」
「ええ、俺にとってもそうです」
「ほほ…これは惚気られたわね」

 くすくすと笑むと、ツェツィーリエはグラスを侍従に持たせてグレタを抱き上げた。取り巻きの男性が代わろうとするが、ふるる…と首を振ると、愛おしげに柔らかな頬へとキスを贈った。

「この子もまた…苦労の多い道のりを歩んだ子なのでしょうね」
「そうですね。察する他はありませんが…グレタもまた、ユーリがいなければ地獄の道を歩んでいたはずです」
「本当に、不思議な子だわ…ユーリ殿下は」
「これからも、多くの方がその実感を覚えていくのではないでしょうか?」
 
 既に一国のみならず、多くの国々に幸せの波紋を拡げている有利が、これからどれほどの影響を与えていくのか…。コンラートは大いなる不思議をしみじみと感じながら、愛し子を抱き寄せた。

「でもね、いいこと?コンラート。これだけは覚えておくのよ。大空を行く鷲にも、休むべき枝が必要になるの。あなたは、安らぎに満ちた枝になれるかしら?」
「ええ…そうですね」

 この忠告は母として、女として、王として…三つの側面を全て併せ持つように思われた。

「心しておきます」

 こうしてすっぽりと腕に収まっている分には、やはりちいさな子どもに過ぎない。一国の王太子として世界を相手取る有利にも、やはり息を抜いて、唯の子どもとして過ごす時間がなくてはならないだろう。

 畏敬を込めると共に、等身大の愛情を注げるのは、コンラートを置いてほかない。
 その事に深い満足を抱きながら、コンラートはそっと有利の額にキスを落とした。

  


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