第3部 第4話










『そーだよね。やっぱ…コンラッドのこと、大好きだったんだよね?』

 有利は次々に素直でない愛情を示すヴォルフラムの映像群を見つけ出して、コンラートに伝えていった。
 成長していく中で、一概に純血魔族の方が混血よりも優れているとは言えないと知り、また、コンラートを否定する理由など何もないと分かっていくのに、素直になれなくて切っ掛けを見いだすことが出来なくなっていた。

 それでも、コンラートが十一貴族としての承認を受けるというその日、思い切って彼は声を掛けようとしていたのだが、その機会はアルザス・フェスタリアの託宣によって粉々に砕かれてしまう。

 怒り、哀しみ…悔しさ。
 様々な感情が駆けめぐって、ヴォルフラムをぎりぎりと引き裂いていく。

 想起される感情があまりに強かったせいだろうか?ヴォルフラムの映像は文字通り引っ張られるように伸ばされ、捻られ、刻々と姿を変えて展開されていく。

 その主体となるのは、今度は突如として現れた有利への憎しみだった。

 コンラートの立場を貶める切っ掛けとなった少年であったくせに、帰還と同時に英雄のように扱われ、眞王や双黒の大賢者までも味方に付けて、王太子となった有利。
 何よりも許せなかったのは、これまで端然としていたコンラートがとろけるように優しい眼差しで有利を見つめ、この上なく甘やかしているということだった。
 
 ヴォルフラムがどんなに心配していたのかも知らずに、視線一つ向けないでひたすらに有利だけを愛するコンラートが憎かった。
 その感情は彼らが大陸に赴いてからも、消えるどころかますます燃え上がってヴォルフラムを灼いていった。更に、彼らが帰ってくると聞いたときには《また目の前で仲睦まじいところを見せつけられるのか》と怯えて、自分を追い込んでいった。

 《嫌だ嫌だ嫌だ…っ!》…捻れていく映像が、急にふつん…っと消えた。新たな映像が何処に出てくるのかと頭を巡らせるが、なかなか見つけることは出来ない。目の前には暗闇が広がっているばかりだ。
 気が付けば、寝台に横たわるヴォルフラムの周りに渦巻いていた炎が薄まり、その為に彼が如何に青ざめた顔色をしているかが分かった。兄の愛情を失ったことを認識しながら、そのまま消えていきそうな儚さを漂わせて、浅く速い息が大気に滲む。

 有利は思い切って一歩踏み出すと、見えなくともちゃんと床があるのを感じ取る。咄嗟に有利を支えようとしていたコンラートもそれに気付くと、足下は見ないようにしてヴォルフラムの方に近づいていった。

 そっとコンラートの掌が弟の頬に沿わされると、ぴり…っと皮膚を灼くようにして焔が立ち上がるが、それもすぐに消えてしまう。まるでガスの無くなり掛けているライターのようだ。
 有利も手を伸ばして細い指を握ってみるが、もう抵抗する力も失っているようで、火は上がらなかった。

「ヴォルフラム、目をさましなよ。兄ちゃん、むかえにきたよ?」

 きゅむ…っと手を握って囁きかけると、ふるりと長い睫が揺れるが目はまだ開かれない。それが切なくて、コンラートは身をのし掛からせるようにして呼びかけた。

「目を覚ますんだヴォルフ。こんなに淋しいところに一人で居てはいけないよ?」
「ぅ…」

 兄の声には流石に反応するのか、ヴォルフラムの乾いた唇から微かに声音が漏れた。コンラートはそれを確認すると、ますます強い語調で呼びかけを続けた。

「ヴォルフ、ヴォルフ…。俺を想っていてくれてありがとう…ずっと、気付けなくてすまない。俺だって…お前を思っているんだよ?どうか、目を覚ましてくれ…!」
「ヴォルフラム…」

 有利は瞼を閉じて集中すると、この塔に入ってから最初に見た映像を鮮明に呼び起こそうと試みた。無邪気なヴォルフラムに、嬉しそうなコンラート…。それは決して失ってはならない、大切な時間であったはずだ。たとえそれぞれに恋しく思う相手が出来たのだとしても、兄弟は…肉親は、やはり特別な結びつきを持っているものなのだから。

『どんなわだかまりがあったって、うしなっていい人じゃなかったんだよ?だからこそ、そんなに自分を追い込んでしまったんだろうけど…。いつまでも眠って、そのまま息絶えたりしたら、コンラッドの心が壊れちゃうよ…!お願い、頼むから…目を覚まして、コンラッドを笑顔にしてあげて…!』

 祈りを込めて魔力を吹き込んでいくと、ヴォルフラムの手に体温が戻っていき、痩けた頬にも血の気が戻っていく。そして…ゆっくりと長い睫の下から碧眼が現れると、有利は笑顔を浮かべて少年を見つめた。

「よかった、目がさめ…」
「僕に触れるな…っ!」

 ぼんやりとしていた瞳が映像を結ぶなり、ぎらりと底光りして有利の頬を打とうとする。しかし、その手は寸前でコンラートの手に止められた。

「止めなさい、ヴォルフ…っ!」
「やっぱりこいつを選ぶのかっ!裏切り者…薄汚れた混血め……っ!」

 血を噴くような痛みを自分にも相手にもぶつけて、ヴォルフラムは怒れる蛇のようにコンラートの手へと噛みついていくが、兄の方は視線を揺らがせることなく弟を抱きしめると、抵抗できないくらい力一杯頬を寄せていった。

「よせ…止めろ…っ!」
「嫌だ。俺は…もう、二度とこの手を離したりはしない。どれほど罵倒されようとも、俺にとってお前は…掛け替えのない弟だ。憎みたいのなら憎んで良い。詰りたいのなら詰れ。だが…勝手に自分を追い詰めて、息絶えるのだけは許さない…っ!」

 コンラートはヴォルフラムの両肩をがっしりと掴んで視線を合わせると、もう一度力強い声を叩きつけた。

「俺は、お前が大切だよヴォルフ…っ!」

 パァン…っ!

 何かが砕けるような音がして、ヴォルフラムはがくりと全身の力を抜く。それと同時に、部屋の中を包んでいた暗闇もまた消え去った。部屋の中には螺旋階段と同じように明るい陽射しがたっぷりと降り注ぎ、ふわふわとしたネグリジェを纏う華奢な少年の姿を描き出していた。

 意識を失っているのかと思ったが、そうではないようで、ヴォルフラムは啜り泣くような声を上げて兄の背を掻き寄せていく。長く伸びた爪が立てられるが、コンラートは痛いとは言わなかった。

「ほんとう…だな?僕が…大切、だな?」
「大切だからこそ、叱ることもあるんだよ。もう、お前には分かっているだろう?」
「……ああ…」
「塔から出るんだ。そして、血盟城に一緒においで。王太子殿下の指導官として、任務を全うしなさい。それがお前の使命だよ」

 厳とした兄の声に、長い長い息を吐いて…ヴォルフラムは声を漏らした。小さい声ではあったけれど、それは確かに《分かりました…兄上》と、了解する声であった。

 コンラートはそっと微笑むと、寝台に弟を戻して薄い布団を掛けてやる。そして…優しい眼差しを浮かべて寝顔を見つめていた。

「もう…だいじょうぶかな?」
「ああ。もしも《夢の中のことだから》と言い返しても、聞いてなどやるものか。俺は…もう、この子の思いを知っているんだから」

 自信をもってそう言い切るコンラートに、有利はやっと安堵の息をついた。この人はもう大丈夫。やっと、長年の確執に終止符を打ったのだから。



*  *  * 




 目を覚ましたヴォルフラムは、自分を見守るコンラートの眼差しを感じて、ぼうっとしたまま手を伸ばした。

「ちっちゃな兄上…」

 夢を見ていたのだろうか?とてもとても長い夢を。
 無意識の内に幼い頃の呼称を使っているのにも気付かず呼びかければ、愛おしげに琥珀色の瞳を細めてコンラートが微笑む。ああ…こんなに屈託のない表情を向けられるのは何て久しぶりなんだろう?

「ヴォルフ…お寝坊さんだね。そろそろ起きようか?」
「ええ…何だか、とてもお腹が空いている気がしますし…」

 目をコシコシして身体を起こしてみると、酷く関節の節々が痛むし、酷い疲労感がある。それに…一体いつからヴォルフラムは眠っていたのだろうか?

「僕は…どうしていたのでしょうか?」
「きっと、酷い風邪を引いたんだよ。辛かったら、もう一度横になって御覧?」
「そうですか…」

 でも、何だか大切なことを忘れているような気がして、また横になる気にはなれなかった。

『何を忘れているんだろう?』

 どうしても思い出せなくて頭を振っていると、見覚えのない作業服姿の少女が目に入った。随分と見窄らしい格好だが、何故かよく見るとコンラートも同じような姿をしている。これでは、庭仕事をする下男ではないか。

「兄上、どうして軍服を着ておられないのですか?」
「眠ったままのヴォルフが心配で、この塔の中に忍んできたからだよ」
「塔…?」

 言われて部屋の様子を伺えば、確かに母屋にあるヴォルフラムの部屋ではなかった。確か、これは高貴な身分の老人などが重度の痴呆や、末期の消耗性疾患に陥ったときに隔離するための塔ではないか。その意味合いを感じ取った瞬間、ヴォルフラムはぞくりと背筋を震わせた。

『そんなところに、何故僕が?』

 ゆっくりと記憶の糸を辿っていく過程で、ヴォルフラムは漸くのこと思い出した。自分はもう幼い少年などではなくて、目の前にいるコンラートもまたその分、年を取っているのだということに。

「兄う…い、いや…コンラート…っ!僕は、一体何故こんなところにいる!?」
「それは、君の伯父上の方がよくご存じだろうな」

 火を噴く勢いで響く靴音は、長く続く螺旋階段を諸ともせずに大きくなっていく。次第にこのへと部屋に近づいているのだ。ドカァン…っと扉が壊れそうな勢いで開かれた時には、流石に息を乱しながら仁王立ちになったヴァルトラーナが姿を現した。

「ウェラー卿コンラート、貴様…何のつもりだ!?」
「フォンビーレフェルト卿ヴァルトラーナ。あなたこそどういうおつもりか?我が弟はこのような部屋に閉じこめられる謂われはないと言っているが?」
「閉じこめたわけではない…!」

 苦渋に満ちた眼差しで歯噛みする伯父を見ていたら、記憶が蘇ってきた。確か、ヴォルフラムは王太子達の出迎えに行く日取りを伯父に聞いたときから、次第に意識が不鮮明になる時間が多くなっていたのだ。最初はそれが何故なのか理解できなかったが、今なら分かる気がする。

 ヴォルフラムは、逃避していたのだ。
 自分よりも大事な存在を見いだしたコンラートが、我が儘で扱いにくい弟などには、今度こそ見向きもしなくなったろうことを思ったら、辛くて辛くて…現実から逃げようとしていたのだ。

『それで、自ら解けない呪縛の中に閉じこもるとは…』

 恥ずかしかった。伯父にも、随分と呆れられたろうと思う。

「申し訳ありませんでした、伯父上。見苦しい真似をしてしまいましたこと、お詫び申し上げます。すぐに身なりを整えます」
「ああ、そうしなさい。さて…後は貴官と、もう一名の不法侵入に対して、どのような処罰を下すべきか…だな」

 ヴァルトラーナが強気に出ると、コンラートも負けじと余裕のある態度で肩を竦める。

「不法侵入とはお言葉ですね。兄と教え子が見舞うことが、そんなにも罪深いことでしょうか?」
「教え子…だと?」

 ぴんと来たらしいヴァルトラーナが益々表情を険しくしていると、呆然としていた有利がかつらを取る。

「あ…あの、ヴォルフラムのお見まいに来たんです、ハイっ!」
「下賤の家ではあるまいに、一家の主人に断りもなく病室に入る者がいるか!」
「ゴメンなさい〜。ことわられるかと思って…」
「……」

 正面から来ていたら断る気は満々であったのか、ヴァルトラーナは有利の言葉に敢えてコメントはしなかった。

「…ともかく!今日はお引き取り願おうっ!」
「いえ、伯父上…お待ち下さいっ!」
「どうした、ヴォルフラム」

 《余計なことを言うな》と言いたげにヴァルトラーナが眉根を寄せると、目に見えてヴォルフラムは怖じ気付いたように見えたが、コンラートを見やると背筋を伸ばして伯父に対峙した。

「帰らせる必要はありません。彼らは、僕の見舞客です。もてなさねば、僕の不徳にあたります。身繕いを済ませたら、お茶の用意をさせて、共に庭で頂きます」
「何を言い出すのだヴォルフラム…っ!」
「彼らは…っ」

 伯父の声に打たれて怯みながらも、ヴォルフラムは震える唇をぎゅ…っと引き結んでから、声を精一杯に張って主張を続けた。

「彼らは…僕を見舞ってくれました…っ!ビーレフェルト家に見放された、心弱い僕を…励まし、暗闇の中から引き戻してくれたのです…っ!決して、蔑ろになど出来ません…っ!!」
「…っ!」

 そう、この塔の意味合いとは末期を看取るためのものではなく、なるべく見苦しい姿を外部に晒さないための《隔離塔》なのだ。流石に丁重な扱いはしても、その世話をするのは口の堅い侍女達だけで、どんなに明るい陽光が差し込もうとも、この塔に高貴な見舞客が訪れることはないだ。見窄らしい病や死を直視したくないから…。
 善悪の問題ではなく、それは美意識に依るものなのだと思っていた。

 自分自身がそうやって、《見苦しい者》として隔離されるまでは…。

『僕は伯父上に見捨てられたのだ』

 だが、その哀しさのために再び自分の殻に閉じこもろうとは思わなかった。そうするには、心強すぎる味方がいるからだ。

「もうこのような失態は繰り返しません。ですから、今日は僕の好きなようにさせてください」
「…勝手にしろっ!」

 短い丈のマントを荒々しく翻すと、ヴァルトラーナは荒々しい歩調で立ち去っていく。その表情には強い怒りも確かにあったのだけど、どこか安堵めいた気配もあったから、伯父のことを憎まずに済みそうだった。彼は彼なりに心を痛め、心配してくれても居たのだろう。当主としての立場と伯父としての愛情の間で、板挟みになっていたことは間違いなかった。

『申し訳ありませんでした…』

 素直に詫びると、ヴォルフラムはもう後ろ姿も見えない伯父に対して、見事な敬礼を決めて見せた。



*  *  * 



 
 チチ…
 チチチ……

 小鳥たちが楽しげに囁き交わす中、心地よい木漏れ日がゆらゆらと卓上に模様を描く。瀟洒な作りの飾り柱が枝のようなシルエットを描き、木々と調和している様も美しい。初夏の風も爽やかに吹いて、芳しい花の薫りを運んでくる。

「王太子殿下、紅茶のお代わりは如何ですか?」
「はい、お願いします」

 最初は緊張気味だった侍女のメイリーも、茶器を出す殿下に目を細めてお茶を注ぐ。
 殿下は何処かで見た覚えのある華やかなドレスシャツとベスト、タイトなズボンと膝丈のブーツを身につけている。おそらく、ヴォルフラムの衣装だったと思う。また、コンラートも同様に、ひらひらと胸元で揺れるタイに戸惑いつつも、同系統の衣装を身につけていた。まさかヴァルトラーナの物と言うことはないだろうが、どこからか調達してきたものらしく、やや自分の姿に戸惑いがちなのか可愛らしい。

 見ていると、はにかむように殿下が笑うから、嬉しくなったメイリーはついつい、《うふふ…》っと声を出して笑ってしまい、慌ててぱむ…っと掌で口元を覆った。しかし、いつもなら《不躾だ》と叱責されるのだが、ヴォルフラムは気にした風もなく、コンラートや殿下に至っては、ますます楽しそうな表情になってくれた。

『ああ…この方々が、きっとヴォルフラム様を救って下さったのだわ…』

 当主たるヴァルトラーナからは何の説明もないし、そもそもヴォルフラムが幽閉に近い扱いを受けた理由も明かされてはおらず、ここ数週間のビーレフェルト館には重苦しい空気が立ち込めていた。

 特に、帰還船団の出迎えが近づくに連れて、緊張の度は高まっていった。
 当主達が現在の体勢に不満があることはよく知られていたが、相手は眞王陛下に認められた王太子であるし、大失敗に終わると見なされていた大陸行きでも、大怪我を負ったり視力を失いながらも、見事《禁忌の箱》を二つも昇華している。
 また、《夢か幻でも見ておられるのでは》と揶揄されていた、人間国家との平和的外交についても、確かな実証を掴んでの帰還を遂げた。これは、内心がどうあれ臣下としては諸手をあげて迎えねばならぬところであろう。

 それなのに、指導官として任命を受けているヴォルフラムが、重病者の為の塔に収監されていたのだ。少なくとも尋常でない事情があったはずだ。
 下手をすれば、ヴォルフラムという存在が消されてしまうのではないかとさえ疑っていたメイリーは、何度か塔の様子を見ようとした。だが、魔力が弱く、そもそも風の要素使いであるメイリーは火の障壁を抜けることが出来ず、口の堅い担当侍女からは何も聞き出せずに、焦りだけが日に日に強くなっていた。

『それがどうでしょう?こんなにも穏やかなヴォルフラム様を見られるなんて…っ!』

 いつも何かに不満を持ち、苛立たしげなところがあったヴォルフラムだが、今は以前よりもずっと落ち着いて、大人びた様子で会話を進めている。

『きっと積もる話もおありだわ』
 
 メイリーは控えめにお辞儀をすると、《紅茶を注いで参ります》と告げて、磨かれた銀のトレイに白磁の茶器を載せていく。

 チチ…

 楽しげに鳴き交わす小鳥たちのように、主人の会話が弾むと良いな…と願いながら。



*  *  * 




「…コンラート、もっと食べないか?」
「いや、もうお腹一杯だよ、ヴォルフ」

 ヴォルフラムに勧められるままかなり食べたので、実際問題としてコンラートの胃袋はかなりのぎゅうぎゅうぶりであった。多分、エコーで診察したら胃底部辺りまでお菓子とお茶が詰まっていることだろう。元々小食で足る上に、甘い物がそれほど好きというわけでもないから、実は…ちょっと吐きそうなくらい甘い匂いに辟易している。
 それでも勧められるまま今まで食べていたのは、ヴォルフラムが盛んに勧める意図が分かっていたからだ。

『気まずい…よな、それは…』

 何とかしてコンラートに好意は示したいものの、自分が我を失っていた時のことは、思い出したり聞いたりしたくもないのだろう。そうなると、とにかくお茶やお菓子を勧めることでしか間を保てないのだ。

「おれが食べてもいい?このおかし、サクサクでおいしい」
「ああ、では食べろ」

 有利が美味しそうに頬張ると、カシ…っといい音が歯の間で鳴って、嬉しそうに表情が輝くのが可愛らしい。見ていてこんなに楽しくなる食事風景もないだろう。ヴォルフラムの方も珍しく同じ心地で居るのか、以前のように有利を罵倒することはなかった。

 そんなヴォルフラムの様子も嬉しくて眺めていると、視線がこちらに向いて、少しだけ不機嫌そうに眉根が寄った。

「…なんだ?」
「見ていたかったからだよ。とても久しぶりだから」
「……誑しめ」
「え?」

 意外な言葉に、照れ隠しに含んでいたお茶を吹き出しそうになった。

「心外だな…。俺は誰かを誑し込んだことなんか…」
「自覚がないから傍迷惑だと言うんだっ!コンラート…お前は自分がどれほど人々の歓心を買ってしまうか分かっていないのだっ!!」

 コンラートとしては《え゛ー…》と言いたくなる位に不本意なのに、何故か有利までもがフォークを銜えたまま同意している。

「あー、それは分かる分かる」
「そうだろう?」
「うん、むじかくなんだよねぇー?ときどき、しんぱいになるよね?」
「そうだ!こいつときたら、昔だって…隣に住んでいたボルテックという奴が、コンラートの関心を買いたいばっかりに僕に難癖を付けてきたというのに、殴ったからといって僕を怒ったんだぞ!?」
「そいつはヴォルフラムをなぐったの?」
「殴らせるわけがない!」
「それじゃあ、なぐったことについては怒られてもしょうがないんじゃないの?」
「なんだとーっ!?」

 まだ納得いかないらしいが、このまま有利と揉めさせてもなんなので、コンラートの方で折れることにした。

「ヴォルフ、そういう心配をしてくれているとは知らなかったよ。御免ね?」
「分かればいいのだ」

 ヴォルフラムはつんっと顔を逸らせていたが、兄の謝罪を受けて満更でもないようだ。
 ああ…こんな短い遣り取りで解決できるような事のために、どれだけ盛大な回り道をしていたのだろう?考えると軽く気が遠くなってしまう。

 それでも、見上げた空に浮かぶ白い雲を眺めていると、何だかどうでも良くなってくる。ぐるぐると螺旋階段のような道を歩いてきて、同じところで足踏みをしているようだったのに、こんなにも劇的に何もかもが変わってしまった。

『全部君のおかげだよ…ユーリ』

 まむまむと焼き菓子を平らげていく有利を見つめながら、コンラートはとろけそうな微笑みを浮かべるのだった。

  



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