第3部 第3話








 塔の螺旋階段には、衛兵などは立っていない。それは別にヴォルフラムを閉じこめているわけではないと同時に、ひょっとすると、先程突破した火の障壁で大抵の者が防がれるのかも知れない。強い火の要素持ちの者だけが塔を登ることが出来るのだろうか?

 ゆら…
 ゆらら…

 コンラートの前で、また大気が揺れた。ステンドグラスを填め込んだ窓から、ゆらりと陽光が入り込んできたからかと思ったが、硝子の模様とは異なる絵が白い壁に映し出された。漠然としているが、子どもの姿のようにも見える。
 そして…どこからか覚えのある子どもの声が聞こえてきた。

 《どこ…?》

 有利にも聞こえたのか、驚いてきょろきょろと辺りを見回す。

「あれ?なんかいま聞こえた?」
「ああ…それに、ほら…」

 ふわ…っ。

 壁に映し出されていた色硝子の像が、幻のように大気の中に踊り出す。その像は次第に鮮明さを増して、きょろきょろと辺りを伺いながら泣き出しそうな声をあげていく。

 《どこ…?》

「え?あれって…」
「……っ!」

 有利とコンラートは息を呑んで像を見つめた。それは…天使のようにくりくりとした金髪と、宝石のように澄んだ碧眼の少年だった。年頃としては、幼児と称してもいいくらいだろう。目には涙をたたえて、心細そうに誰かを捜している。
 ふ…っと、幼児の視線がこちらを向いた。すると、途端にぱぁ…っと表情が明るくなって、とたとたと覚束ない足取りながら、精一杯の速度で駆けてくる。

「ちっちゃな兄上ーっ!」
「…ヴォルフっ!?」

 愛称で呼ぶと益々嬉しそうになって、輝くような笑顔を浮かべてコンラートにしがみついてくる。つい先程まで光の像であった筈のそれは、明らかな実体を持っており、覚えのある柔らかさと熱を伝えてくる。鼻腔を擽る甘いような匂いも記憶野を強く刺激した。

『あ…っ!』

 懐かしさに、思わず目元が潤んでしまう。
 ああ…これは、間違いなく幼い頃のヴォルフラムだ。一心にコンラートを慕い、どこにいくにも雛のようについてきた甘ったれな弟…。可愛くて可愛くて、何だってしてやりたいと思っていたあの子だ。

「ヴォルフ…ヴォルフ…一体どうして?」
「ちっちゃな兄上をさがしていたの!もー…どうしてヴォルフを置いていったの?すっごくすっごく探したんだから!」
「…ヴォルフ?」

 ここにきて漸く、コンラートはこの異常事態を冷静に捉え始めた。弟が急にちいさくなる呪いに掛かったとか、アニシナの魔導装置に巻き込まれたというわけではなさそうだ。だとすれば、これは…ヴォルフラムの見せている火の幻影なのではないだろうか?
 
 しかし、一体…何のために?

「ヴォルフ、お部屋をみせてくれないかな?」

 これが幻影なのだとすれば、本体を確かめておきたい。これは彼が意図的に作りだしているものなのかどうかも。

「うん、良いよ。ちっちゃな兄上にはなんだって見せてあげる!あのね、こないだ伯父上に頂いた玩具も、お庭で拾った小石も全部見せてあげる!触って遊んだって良いよ?」

 にこにこしてコンラートの手を引くヴォルフラムだったが、有利が驚きながらついてこようとすると、急に眉根を寄せてぎろりと睨み付けた。子どものことだからぷくっと丸いほっぺを膨らませて、唇を尖らせながらではあったが、有利はビク…っと肩を震わせて一歩引いた。

「…っ!?」

 コンラートも角度を変えてヴォルフラムの顔を覗き込むと、漸くのこと異常に気付いた。顔立ちや声、口ぶりも全て子どもらしいのに、怒りに燃えた目だけは大人のような憎悪を滾らせていたからだ。

「貴様…何者だっ!?」
「え…えと……ゆ、ユーリです」
「お前のような貴族など知らない」
「えと…きぞくじゃないよ。でも、王太子っていうやつなんだけど…」
「嘘つきめ…っ!この国に王太子等なんていない!眞王陛下が次代の魔王はお決めになるんだからな!お前は嘘つきの混血だろう!?」
「あー…まぁ、確かに混血だけど…」

 有利が認めてしまうと、ヴォルフラムはぷいっとそっぽを向いて、犬に対してするみたいにぴらぴらと手を揺すった。 

「馴れ馴れしくついてくるんじゃない!ぼくの宝物は、お前になんか見せてやらないぞっ!」
「たから物はべつに良いよ。でも…部屋にはいっしょに行かせて?」
「ダメだ…っ!」

 癇癪を起こしてダンダンと足を踏みならすヴォルフラムに、コンラートは穏やかな語調で言い聞かせた。

「ヴォルフ…ユーリはとても良い子だよ?ヴォルフとも、きっと仲良くなれるから…一緒に行かせて?」
「ヤダ…っ!ちっちゃな兄上、どうしてそんなこと言うの?こんな子置いておいて、二人で行こうよっ!」
「駄目だよ…ユーリは置いていけない」
「どうして?」
「俺にとって、とても大切な子だからだよ?」
「…ぼくよりも…?」

 ヴォルフラムの瞳に闇い影が落ちて、コンラートを不安な心地にさせた。それは彼本来の気質ではないはずなのに、どうしてだか…かつて、やはり同じようなことを言われたような気がしたからだ。

「そんな比較は出来ないよ。弟と、恋人だもの。どちらもそれぞれに大事だよ?」
「嘘つき…っ!」

 ドン…っとコンラートを突き放すと、ヴォルフラムが一声叫んだ途端に、ゴゥ…っと大気中に炎が巻き上がる。

「うわ…っ!」
「ユーリ…っ!」

 咄嗟に悲鳴を上げた有利を抱き込めば、ヴォルフラムは益々怒り狂って、頭上に炎の塊を形成し始めた。焔を噴き上げる巨大な獅子は、唸りをあげてこちらに照準を合わせている。直接ぶつけられたら大火傷は免れまい。魔力で作り出した焔だから、今のところ壁材などには燃え移ってないものの、ひとたび引火すれば塔全体に波及していくことも考えられる。

 そうなったら、おそらく…塔の一室で眠っているだろうヴォルフラムの《本体》が焼け死んでしまう。

『これはおそらく、ヴォルフの深層意識が見せている幻影だ』

 文献で読んだことがある。魔力の強い者が鬱屈した心理状況に陥ると、外界を拒絶してこのような幻影を生み出すことがあるのだと。なまじ魔力が強い分、本人がただ悪夢を見るだけではなく、それが現実世界に波及してしまうのだろう。
 そして、少なくとも今現在のヴォルフラムの肉体は昏睡状態にあるはずだ。幻影の方に強い生気を感じるということは、意識的にはこちらが主軸になっているのだから。

「よすんだ、ヴォルフ…っ!」
「そんな子を構う兄上なんか、大嫌いだっ!ばかばか、ばかぁ…っ!!ぼくよりも大事にするなら、兄上なんか…燃えちゃえ!」

 ヴォルフラムは碧眼に涙を溜め、半狂乱になって炎の獣を大きくしていく。

『これは…』

 昔の記憶と今の映像が、かちりとコンラートの中で噛み合った。

 幼少期、ヴォルフラムが我が儘を言って暴れる度に、コンラートは甘やかしてしまった。母であるツェツィーリエにしたところで同様で、こちらは普段の接触が少ない分、余計に舐め転がすようにして可愛がっていた。

 ただ、コンラートの方には流石に譲れないものもあった。使用人や近隣の子ども…特に、混血の子とヴォルフラムが喧嘩をしたときには、事情を聞いてなるべく公平な判定を下し、優しい語調ではあったけれども弟を窘めるようにしていた。ヴォルフラムにしても、それなりに聞き入れてはいたのだと思う。この年頃の時にはまだ、それが成り立っていた。

 それがある日…爆発したのだ。

『お前など、大嫌いだっ!』

 《ちっちゃな兄上》が《お前》に変わった瞬間、コンラートは胸を射抜かれたような衝撃を受けた。

 ビーレフェルト家からの迎えが来て、一年近くの間、《養育教育》と称して伯父のヴァルトラーナの元にいた弟は、帰ってきたときには確かに一面、礼儀正しい子どもになっていた。だが、近所に住む混血児と諍いになったとき、仲介しようしたコンラートに対して火を噴くような怒りを露わにしたのだ。

 未だもって、一体何故ヴォルフラムがあそこまで強い怒りを示したのか、コンラートには理解できないでいる。

「馬鹿…馬鹿…っ!お前にも結局…薄汚れた人間の血が流れているのだ…っ!!」

 ぐら…っと映像が揺れて、ヴォルフラムの姿があの頃のものへと変化していく。そう、コンラートに一方的な離別を突きつけ、精神的外傷を負わせた頃の弟だ。

「もうお前なんか要らない…っ!」
「ヴォルフ…っ!」

 心が、ざくりと切り刻まれていく。

 意識的に塞いでいた傷跡からは鮮血が溢れ出して、決して時間が流れただけで癒されていたわけではないことを突きつけられてしまう。兄と恋人、そして多くの優しい人々の中で楽しい日々を過ごしていても、やはり家族の一人と心が離れていることは、痛みとしてコンラートの中に残り続けていた。
 
 しかもその要因がコンラートのせいなのだと言われては、どうして良いのか分からなくなってしまう。

 ヴォルフラムの心を充足させるために、己を枉げて混血の子やユーリを蔑ろにすることなんかできない。だが、それは決してヴォルフラムを軽んじているわけではないのだ。どうしてそれが分かって貰えないのだろう?

「ヴォルフ…ヴォルフ……っ!」

 泣きそうな声で苦悶するコンラートの腕をそっと有利が解いたのは、ヴォルフラムがとうとう炎の獅子をこちらに向けて放った瞬間であった。

「火の要素…そんなに、あばれないで?」

 有利が腕を伸ばして獅子の鼻づらを差し止めると、《ぐるぅ…》と声を上げて獅子は戸惑い、背後を伺うように首を回す。

「何をしている…行け!燃やしてしまえ…っ!」
「ぐる…」

 困り果てた獅子の鼻を有利が撫でつけると、ふわ…っと炎の要素は千々に分解されて、美しい光の粒となって舞い上がっていく。それは荒々しく壁に点火することはなく、差し込む陽光に溶けるようにして可視できないものへと変じていった。

「な…っ!」
「ヴォルフラム、お前もこっちにおいでよ。コンラッドは、今でもお前がだい好きだよ?」
「知ったような口をきくな…っ!」

 ヴォルフラムは新たに要素を集中させようとするが、彼の周囲にはふわふわと光が散るものの、荒ぶる炎の塊とはならなかった。有利の前で攻撃的な姿を取ることを、要素が拒否しているようだ。

「くそ…くそぉお…っ!!」
「おちついて、話をしよう?お茶でものんでゆっくりして…」
「嫌だ…っ!話など誰がするものか…っ!」
「ヴォルフラム…何に、おびえているの?」
「怯えてなどいない…っ!」

 絶叫したヴォルフラムの姿が、突如としてかき消える。その後には暫くの間、ちらちらと火花のようなものが揺れていたが、そのうち風にながれて消えてしまった。

「上にいそごう…コンラッド、何かしんぱいだ」
「ああ…」

 どのくらいの期間、ヴォルフラムが外界を拒絶しているのかは分からないが、眠りながら急激に魔力を使い、しかも敗れたとあっては精神的ダメージも大きかろう。

 強い不安を感じながら、二人は螺旋階段の頂点に辿り着く。



*  *  * 




「ここ?」
「ああ…おそらく」

 コンラートは自然な動作で有利を背後に回すと、ゆっくり扉を開けていった。魔力のないコンラートの方が被害は受けやすい筈だが、それでも有利を先に入らせる気にはなれなかった。

 カチャリ…

 ちいさな音を立てて開く扉には、鍵は掛かっていなかった。その代わり、開けられたその場所には…床がなかった。ただ真っ暗な闇だけがあって、ぽかりと浮かんだ焔の中にはヴォルフラムが眠っていた。魔力による炎であるのは明らかで、白皙の肌は火に炙られながらも損傷するということはなく、ただ紅い色を照り映えさせている。

「…っ!」

 魔導トラップの存在も鑑みて、一歩踏み出すのを慎重にしたのが功を奏し、落下の危機は免れたものの、振り返った背後にも床はなくて、位置覚に異常を来しそうになる。

「これは…また、ヴォルフの幻覚なのか?」
「そーみたい。うーん…すごいユメみてんのかな?」
「はやく覚ましてやりたいが…」

 夢から覚めたところで、弟が以前のようにコンラートを慕うとは考えられなかった。先程も明確に有利の方を選んでいるから、なおさら風当たりは強かろうと予感して、後ろ手に有利をがっしりと引き寄せる。こんな状況下で引き離されては堪らない。

 一方闇の中には、ぽう…ぽぅ…っと鬼火のようなものが揺らめいて、切れ切れの映像をコンラート達に見せていた。
 そこでは、コンラートと離別してからのヴォルフラムの思い出が、破片のように散らばっている。

 ある場面では、螺旋階段で見たような少年期のヴォルフラムが、ヴァルトラーナから何か薫陶を与えられているところだった。

『人間というものは愚かで恩知らずな生き物だ。対等に国交を結べるような相手ではない。よって、その血が流れている混血もまた、同様に民の一員として数えられるような存在ではない。魔族の血も流れているゆえ、積極的に排斥しろとまでは言わないが、極力国に仇為さぬように権利や行動を制限すべきだろう』
『そうですね、伯父上。でも…ちっちゃ…いえ、コンラート兄上は別でしょう?だって、魔王陛下である尊い母上の血が流れておいでですし、勉強だって剣だって、誰よりも優れておいでです!』

 誇らしげなヴォルフラムの口調に、ヴァルトラーナは苦々しげな眼差しを送る。

『確かにウェラー卿コンラートが優れた資質の持ち主であるのは確かだ。個人的には、眞魔国に対して高い忠誠心を持っていることも認めよう。だが…やはり混血であるという事実は拭えないのだ、ヴォルフラムよ』
『そんな…』
『私の言が間違っていると思うのなら、混血と等価…あるいは、相手の方が悪いという条件で喧嘩をしてみるが良い。必ずコンラートはお前ではなく、混血を庇うはずだ』
『…!』

 流石よく観察していると言うべきか、ヴァルトラーナはヴォルフラムが微かに抱いていたのだろう疑惑を、的確に指摘して見せたらしい。途端にヴォルフラムは抗弁できなくなってしまう。

 そしてまた画面は変わって混血児とヴォルフラムが喧嘩を始め、それをコンラートが仲裁に行く。
 
 確か喧嘩両成敗にしたとコンラート自身は思っていたのだが、ヴォルフラムの受け止めは違っていたらしい。もしかすると、どこかコンラートの中にも《ヴォルフは我が儘だから》という想いがあり、混血の方から喧嘩を売りに行くなんて事は考えにくいとの先入観があったのかも知れない。それが、事情を詳しく聞く前に《ヴォルフの方がより悪いのだろう》という対応になってしまった可能性もある。
 
『それが不満だったのだろうか?』

 期せずして、ヴァルトラーナの言を裏付けた形になったことで、ヴォルフラムは意固地にコンラートを否定してしまったらしい。
 しかし、今更どちらが本当に悪かったのかを調査することも出来まいし、こんなちいさな事を遡って謝罪しても、ヴォルフラムの想いが晴れるとも思わなかった。

 肩を落としたコンラートは、もう辛い記憶だけを呼び覚ます映像を見ていたくなくて、硬く目を閉じていたのだが…くいくいとシャツを引っ張られて、有利に促される。

「コンラッド、あれ見て?」  

 有利が指し示した映像は、ヴァルトラーナに食ってかかるヴォルラムだった。軍服を纏っているところからみて、かなり成長してからのことだろうか?

『伯父上、この報告は本当なのですか…?魔族の軍隊が、これほど無法な行為をするとは…』
『これは戦争だったのだ、ヴォルフラム。子どものような正義感で判断できることではない』
『しかし…っ!無抵抗な女子どもまでも虐殺するなど、騎士道に悖るではありませんか…っ!』
『相手は人間だ。その部隊はおそらく、やらねば自分たちがそうなると踏んだのだろう』

 《人間だから》…その一言で一応は引いたヴォルフラムだったが、それでも報告書をじっと見つめる眼差しは、疑念に満ちているようだった。

「あと…あれっ!」

 また有利が見いだした映像は、更に成長したヴォルフラムが草むらの影から病室を見やっているシーンだった。

「…っ!」

 あれは…アルノルドから帰還してきたコンラートが、病室に横たわっているところだ。手当こそ受けているが、痩けた頬にも薄い唇にも血の気はなく、ほとんど死体に近い姿に見えた。

 有利にとっても辛い映像であるのか、後ろから回された腕がきゅう…っとしがみついてくる。

「…しんどかったね、痛かったね…」

 掠れた声が涙声で伝わってくると、暖かい涙が傷口を優しく塞いでいくようだった。

「ヴォルフラムも、きっとつらかったよ…」

 その言葉を証明するように、ヴォルフラムは窓枠を指の色が変わるくらい強く握って、ちいさく震えている。それほど葛藤してまでも見舞うことが出来ないのは、やはり混血で構成されるルッテンベルク師団の中に入っていくことを厭うたのか。

 見守るヴォルフラムの前で、コンラートは呻きながら意識を取り戻したが、はっとして駆け出そうとすると、やはり歓喜の声を上げて傍にやってきた負傷兵達に気兼ねして、静かにその場を立ち去ってしまう。
 視界がどんどん歪んでいくのは、涙のせいだろうか?

 病室から遠ざかっていくヴォルフラムは、風の中に消えてしまいそうなほど小さな声で…ぽつりと呟いた。

『生きていてくれて、よかった…兄上』

 ぽつりと呟かれた言葉に、コンラートは唇を震わせた。
 どんなに捻れ、断ち切れたかに見えても…絆はやはり繋がっていたのだ。


 決して、失われてはいなかったのだ…。







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