第3部 第20話







 その日、1年7組の教室は騒然としていた。おかげで、まだ廊下にいる時点で高梨瑞穂は異常に気付くことが出来た。

『もしかして…』

 どくんどくんと弾む心拍が煩いくらいだ。耳の奥にまでそんな拍動を感じながらガラリと教室の扉を開けば、ずっと待ち侘びていたその姿がやっと目に飛び込んでくる。

「渋谷君…っ!?」
「高梨さん、久しぶり!」

 にこ…っと微笑むユーリは、どこか変わっていた。姿を消した文化祭から半年が経過し、今日は3学期の終業式を迎えようという日だから、随分と時間が経過していることもあるが、《あちらの世界》では、一体どのような事が起こったのだろうか?
 ユーリは瑞々しく愛らしい姿はそのままだが、どこか大人びた面差しでゆったりと微笑んでいる。

 クラスメイト達にわいわいと《今までどうしてたんだ!?》等と問いかけられても、上手くいなしている。その眼差しには懐かしそうな色合いがあり、きっと彼の中では遙かに長い年月が経過していたのだろう事が伺われる。

「渋谷…」

 例の《禁忌の箱》とやらがどうなったのか、神秘的な美形、ウェラー卿コンラートとはどうなったのか、色々と気になることはあるのだけれど、この場では流石に問い尋ねることは出来まい。うずうずしながらタイミングを計っていると、チャイムが鳴るのと同時にユーリの方から近寄ってくれた。

「帰りに、ちょっと付き合ってくれる?」
「勿論!」

 力強く頷いた高梨だったが、横合いから他の生徒が口を挟んできた。

「ねえねえ、渋谷君…早まらない方が良いよ?そりゃあ出席日数半分くらいだから、留年は間違いないかも知れないけど、でも…学校辞めちゃったら、あんた中卒だよ!?」

 《え!?》と、驚きに目を見開いてユーリを見やると、苦笑しながらぼりぼりと頭を掻いている。さらさらとした黒髪が揺れて、窓辺から差し込む冬の陽を弾く。久しぶりに現実のユーリがそこにいるのに、まるで相変わらず夢の中の人のように見えた。鮮やかな存在感があるのに、それでいて驚くほど透き通って感じられる。

「うん…。そーなんだけどね?でも、俺は元々勉強できないし、中卒でも良いって就職口が見つかったから、そっちにお願いしようって思ってさ。でも、最後に…みんなに挨拶だけはしとこうと思ったんだ。結局、中途半端にしかクラスにも関われなくて、淋しいとか言うのも図々しいくらいなんだけどさ」
「そんな…」

 きっと、眞魔国で何かあったのだ。地球で長い時間を過ごすことが出来ないくらいの用事で、もう殆どこちらには戻ってこられないような事が。
 
 今日ここに来たのは、本当に《お別れ》の為なのだ。

『何があったの?渋谷』

 ドキドキしながら様子を伺うが、ユーリの様子は落ち着いていた。どういう内容なのかはまだ分からないけれど、おそらくは不本意なことに巻き込まれたわけではないのだと思う。
 これは、彼の意志なのだ。

「ねえ、コンラートさんは元気?」
「うん!」

 にこ…っとユーリが素直に笑うから、幸せそうな笑顔に高梨はほっと安堵する。あの人が元気でいるのなら、ユーリの元気は空元気などではないのだろう。
 だったら、高梨としてしてあげられることは一つだ。

「ね、だったら今日、渋谷の卒業式してあげない?ちゃんと渋谷がここにいたって証拠、持って帰って貰おうよ」

 それはある意味、ユーリのためと言うよりは、自分のためのものなのかも知れない。高梨自身が、妖精のように不思議なこの少年と共に在ったことを、決して忘れたくないと思っているのだ。 

「それ良い!集合写真とか撮ろうよっ!!」
「卒業証書も作らないか?俺、それっぽい賞状みたいな紙、先生から貰ってくるっ!」

 女の子達が俄に勢いづくと、半泣きになっていた数人の男子も動き始めた。《何かしてあげられること》を具体的に考えた途端、活気が出てきたのだろう。

「ホント?でも…良いの?」
「良いに決まってるでしょ?ね…先生、良いでしょ?」

 担任の教師も神妙な顔をして頷くと、終業式の後にホームルームを兼ねて講堂を使わせてくれることになった。自主退学ともなれば学校側も何かしら留め立てをしたり、渋谷家の面々との遣り取りもあったのだとは思うが、何か尤もらしい理由を付けて説得したのだろう。それでも、《教師として他にしてやれることはなかったのか》と、本人は思うところがあるらしい。

『渋谷に、高校生活の良い思い出を』

 準備は十分には出来ないけれど、思いがけないくらいの人数がユーリの為に動いていた。



*  *  * 




『俺の、卒業証書…』

 手にした証書には《1年7組卒業》と、拙い筆文字で勢い良く描かれている。

『ヤバイ…泣きそう』

 小学校、中学校の卒業式なんて、単に《待ち時間が長い》と思うだけで大した感慨など無かった。けれど、お手製の卒業証書は胸の震えるような感動をユーリに与えてくれた。

 ユーリが地球に戻ってきたのはほんの3日前のことで、まずは渋谷家の面々に爆発的な大歓迎を受け、ついで…一日掛けて説得を試みた。予想に反して勝利は殴りかかったりはしなかったし、勝馬も怒ったりはしなかった。けれど、やはりコンラートに対して、ユーリが地球での生活をこんなにも早く《過去》としてしまうことを、《よく考えてくれ》とは言っていた。

『俺たちは有利の幸せを一番に考えてる。だから、泣いて喚いて止めたりはしない。だが…だからといって、俺たちが辛くないとは思ってくれるな』

 勝馬の声は、微かに震えてた。
 勝利は拳を震わせて沈黙していたし、美子は瞳いっぱいに涙を湛えていた。
 それでも、渋谷家の人々はユーリを送り出してくれた。
 
 今日…学校でみんなに別れを告げたら、ユーリはコンラート、村田と共に再び眞魔国へと旅立つ。そして…当分は帰ってくることはない。

 クラスメイト達が、卒業式の定番《仰げば尊し》を謳ってくれる。ユーリも声を合わせて歌い上げると、地球の大気に含まれる要素達が共鳴して、リィン…リィィンという神秘的な音が響いた。

 一体何が起こっているのかと、他のクラスの生徒達までが講堂の中を覗き見て、高梨が《おいでよ》というように手招きをすると、一人…また一人と加わって、よく分からないながらも一緒に歌い始める。

「なんか、失踪してた7組の渋谷に、卒業式してやってるらしいよ?」
「へー」

 興味本位で様子を見ていた連中も冷やかし混じりに参加してきたのに、声を揃えて歌う7組の生徒達に合わせて歌ううち、感極まったように声が震えていく。
 彼らはきっと、何らかの形で今日のことを忘れずに持ち続けているのではないだろうか。
  
 ほんの僅かな時間ではあったけれど、彼らと共にこの学校にいた渋谷有利という生徒のことを、忘れずにいてくれるのではないだろうか?

『ありがとう…ありがとう……』

 《尊い》のは、授業を教えてくれた教員だけではない。ユーリの傍に居たくれた、生徒達を含めた《学校》という環境そのものだ。

『本当の卒業まで一緒に居たかったけど、でも…俺、普通に何事もなく卒業していたら、こんなに感動することも無かったと思う』

 ウェラー卿コンラートという人に出会って、何もかもが変わった。
 全てを失っても、ユーリを愛してくれた人…。
 何を捨てても、ユーリが愛おしいと思った人。

 その人と共に生きる為に、今日…ユーリは地球での生活を《卒業》する。

「ありがとう…ございます」

 歌が終わるのに合わせて深々とお辞儀をすれば、ぽろぽろと滴る涙が折角貰った卒業証書に降りかかって、墨を滲ませてしまう。

「あ…っ!」
「無理に拭かない方が良いよ。今日の気持ちを載せて、そのまま持っていきなよ」

 《眞魔国に…さ》耳元でそっと囁く高梨の声はやはり涙に濡れ、お人形のように整った少女モデルが、そのまま写真に撮りたいような表情で微笑んでいた。あちらの世界のことを知る数少ない友人は、何も語らなくても色んな事を察してくれているらしい。

「ね…後で話してくれるって言ってたけど、それ、今日は良いわ。時間、無いんでしょ?」
「なんか、全部分かってるみたい」
「その代わり、もう一度…帰ってきて?」

 高梨の眼差しは、真剣だった。

「高梨さん…」
「何時になっても良い。できれば、私がまだ綺麗な間に来て欲しいけどさ。でも…ホント、いつか帰ってくるんだって信じさせて?そんで、その時に…あっちで何があったのか色々と聞かせてよ」
「うん…っ!」

 頷くユーリを高梨が抱きしめると、次から次へとクラスメイトがやってきて、涙ながらにハグをしてくれた。これが入学当初から《醒めている》と言われていた7組だとは思えないくらい、みんなの顔が涙でぐしゃぐしゃになっていた。

 みんなで撮った写真は、すぐに写真部が大きく現像してくれた。しっかりラミネート加工までしてくれて、裏には《思い出して泣いても大丈夫!》と笑顔のイラストつきで書き込みされている。それを見て、次々にみんなが寄せ書きを始めてくれた。
 綺麗な文字、勢いのある文字、優しい文字…全て、ユーリの生活の中にあった、懐かしい《日本語》だった。

『ああ…』

 ほろほろと流れていく涙が、早速ラミネート加工の威力を試すように、写真の上へと流れ落ちていった。



*  *  * 




「わ…!」

 講堂を出た途端、綺麗な花束を差し出されてユーリは頬を染めた。同時に、背後から泣きじゃくりながら出てきた少女達が歓声をあげる。

「卒業おめでとう、ユーリ」
「コンラッド…」 

 きりりとスーツを着こんだコンラートは、元々学校に迎えに来てくれることにはなっていたのだが、少し予定よりも遅れてきた。多分講堂の様子を伺って、気を利かせて華を用意してくれたのだろう。

「ありがとう…嬉しい」

 花束を抱えてそっと微笑むユーリの目元に、ちゅ…っと優しいキスが送られれば、生徒達の歓声は絶叫の領域に達した。

「キィヤァアアアア……っ!!」
「ここここ…コンラート様ぁぁぁ……っ!!!」

 いかん。すっかり眞魔国では甘いスキンシップに馴れ始めていたが、こちらでは超絶美形の男が少年にキスをするというのは、かなりの非常事態だ。《空襲警報発令》クラスの叫びが木霊している。

「渋谷…ま、まさか…《中卒でも良い就職口》って…この人のところに永久就職とかじゃない…よな?」

 ぶるぶると変な震えを見せながら瀬名と天羽が尋ねてくると、見事に頬が真っ赤に染まってしまった。

「ちちち…ちがっ…違うよっ!そういう訳じゃあ…」
「俺の処は就職口ではないけれど、永久に一緒にいるつもりではあるよ?」
「あんたもツルっとそういう事を言うなーっ!!」

 感動的な卒業式はこうして、《高校中退して、美形男性の所に嫁に行った男子生徒がいた》という学園伝説になったのであった…。



*  *  * 




 キィンと冷え切った大気は、勢い良く吸い込むと肺を凍らせんばかりの冷気を漂わせている。

 ブル…

 馬の口から漏れる息が白く棚引き、それだけが景色の中で温もりを添えていた。

「なあ…俺たち、《ルッテンベルクの獅子》の事を何て呼べば良いのかな?」
「さーて、なぁ…。王になるってわけじゃあ無いようだが…」

 大シマロン北朝全軍には、この日までにライオネル・ドスから通達が為されていた。北朝はこの日より、眞魔国から派遣されたルッテンベルク師団…いや、ルッテンベルク警備軍と連携して、《ハリネズミ作戦》を展開することになっている。

 一時期言われていたように、フォンウェラー卿コンラートが大シマロンを再統合してウェラー王朝を復興させるという噂は否定された。また、更に可能性が高いとされていた、北朝支配を足がかりとして、眞魔国がシマロン全土を掌握しようとしているという噂もまた、国際条約によって《決してその可能性は無い》と誓いを立てられている。
 同時に、やはり国際会議の席でライオネル・ドスの主張する北朝・南朝の《国境》が定められた。会議に参加していない南朝からすれば《巫山戯るな》と激怒するのも致し方ないところではあるが、北朝はこれまで漠然としていた《国家としての認識》を、複数の国家に認められることで正当性を主張できるようになった。

 これはシマロンから小シマロンが分離独立した経過と似ているが、あくまで大シマロンを宗主国として頭上に頂く形であった小シマロンに比べると、同列の国家として立ち位置を定めた点が異なっている。なお、小シマロンもまたこの機会に大シマロンの支配を拒絶し、独立国家としての宣言を行っている。最終的には、小シマロンを含めた《シマロン三国》といった形態に落ち着くことを目的とした計画である。

 大シマロン北朝は今後、現在の国境を越えて自ら南朝に攻め込むこともない代わり、北朝領土には一歩も侵入を許さない。《ハリネズミ作戦》と呼ばれる徹底的な専守防衛主義を貫くこととなっている。その間に眞魔国を中心とする周辺国が大シマロン南朝と交渉を重ね、戦闘行為を放棄して、北朝の提案する国境を認めるよう迫るのだという。

 その中に於けるルッテンベルク師団の立場は、眞魔国から《雇われる》という形で警備隊の一員として組み込まれる。このことにより、騎馬隊を殆ど持たなかった北朝は、軽快な機動力と迅速な伝達力が強化される。

 こうなるとライオネル・ドスから何と言われようとも、北朝幹部や軍隊の中には欲が出てくるのが自然な流れだろう。

『ルッテンベルク師団を上手く利用すれば、南朝を屠って大きな領土を手に入れられるのではないか』

 騎兵の本懐は都合の良い伝達機関ではなく、戦争に際して敵軍を貫く剪捻力にある筈だ。ことに、ルッテンベルク師団の圧倒的な戦闘力、コンラートの武人としての指揮能力…なにより、かつては大・小シマロン全土を支配していたウェラー王家の輝ける血筋がある。普通に考えれば、わざわざライオネル・ドスのように地味な男の元で、一兵力として働くなど考えにくい事であった。国際会議で国境を認めさせるというような回りくどい真似などしなくとも、ただ一言《本来の領土を取り戻す》と言うだけで、世間一般には認められる大義が手にはいるのである。

 一体何故、彼がこんなことをしようとしているのか、それが今日の演説で明らかになるのだろうか?国境際のベルトラン平原に揃った北朝軍の兵士達は、小さな声で囁き交わしながらその時を待った。

『ホント、どういう人なのかな…』

 若い兵士のバルドー・チャンは、秋頃に焼き討ちあった農村地から、食い扶持を求めて北軍に参入した。元々の居住地は南朝に位置していたのだが、《敵》とされていた北朝軍より、《敵に糧食を渡すな》と、バルドーの田畑を焼いた南朝軍の方がより憎かった。住処を失って呆然としていた母を残してきたのは心残りだったが、もうあの土地で蹴散らされるのは御免だった。

『俺なら…力があるなら、絶対頂点に立ちたいけどな』

 例え負けて斬首刑になる可能性があるのだとしても、《誰よりも偉い、崇められる地位》とは燦然たる輝きを持つではないか。一時でもそのような地位にいられるのなら、男として賭けても見ないのは妙だと思えた。
 そんな想いがあるせいか、バルドーはまだ目にもしていないコンラートに対して反感を覚えていた。

『《獅子》なんて呼ばれても、そりゃあ《双黒の君》に溺れる以前のことなんだろうな』

 《獅子は双黒に飼い慣らされた》…それがバルドーの周辺に流れている噂であった。聞くところによると、眞魔国の王太子にして《双黒の君》と呼ばれるユーリは、本気で《世界平和》なんてものを夢想しているらしい。コンラートがこのような選択をした一因も、ユーリの主義に影響されてのことだという。

「おい、来たぞ…」
「…!」

 《若い》、それがまずコンラートの第一印象だった。戦歴から考えればゆうに100才は越えているはずだが、滑らかな肌は瑞々しく、凛々しい面差しは貴公子然としている。
 それに…何よりも特徴的なのは、その眼差しだった。

『なんて…風格なんだ』

 多分、肌がびりびりと震えるような威迫を感じているのはバルドーだけではないだろう。ちらちらと辺りを伺えば、バルドー同様微妙な心境を抱いていた男達が、一様に口を開けてコンラートに見惚れている。

『これで…どうして、王の座を狙わないんだ!?』

 ベラールや他の国の王を直接見たことがあるわけではないが、かつて大シマロン親衛隊に所属していた男の話では、《王族なんて言ってもなぁ、単にその座について周りからぺこぺこされてるから立派に見えるだけなのさ。裸一貫になったとき、それでも[こいつは、王だ]なんて思える奴がいたら、是非見てみたいもんだね》と、せせら笑うように語っていた。
 その男もまた、この場にいたはずだが…と、思い探してみれば、やはりいた。

「アイバーン!」
「ひょ…?」

 白髪頭の中年男は、バルドーに肩を叩かれてばつが悪そうに苦笑した。見惚れていたのが恥ずかしいのだろう。

「なんだよ?」
「なあ…あんたは、南朝の王を直接見たこともあるんだろう?そいつに比べて、《ルッテンベルクの獅子》はどうだい?」
「…見たまんまさ」

 口の端を歪めて呟いた男だったが、その眼差しは興奮を隠せない様子でコンラートに向き直った。

「あいつは…本物だよ。あれだけの男が、ライオネル・ドスなんかの下で働くって?全く、何を考えてんだかね!」

 やはりコンラートの威迫は徒者ではないのだ。それも、本人が偉そうにしているわけではない。寧ろ今まで目にしたことのある《偉そうな人》の中では、一番穏やかな眼差しをしているくらいだ。

 人々が固唾を呑んで見守る中、コンラートが初めて口を開いた。

「大シマロン北朝軍の皆、俺の名はフォンウェラー卿コンラート…君たちとは、《ルッテンベルク警備軍》という名の友軍として活動させて貰う」

 朗々と響く声は、決して無理をして張っているというわけでもないのに、伸びやかに平原全体に広がっていた。やはり見てくれ同様若々しいにも関わらず、人を逸らさぬ力に満ちているのは、どうした訳だろうか?
 知らず、反感を持っていたバルドーも前のめりになってコンラートの声に耳を澄ませていた。

「俺の目的はただ一つ。大シマロン北朝の民を、唯の一人も死なせることなく独立に成功させることだ。君たちの中には、《何故》と疑問に思う者もいるかも知れない。君たちが知るとおり、俺の中にはシマロン王家…ウェラー王家の血が流れている。民を死なせたくないのだとすれば、何故王として立たないのかと」

 考えを見透かされた様に感じて唇を引き結んでいると、コンラートは見惚れるほど鮮やかな笑顔を浮かべて宣言した。

「結論から言えば、俺はあくまで魔族として…自分と祖先を同じくする民の《友》として立ちたい」

 ざわ…っと人々がざわめいた。あまりにも青臭いその台詞に、自分たちが人物像を誤ったと感じたのかも知れない。結局は買いかぶりで、経てきた年月はともかくとして、見たとおりに青い男なのかと。

 しかし、コンラートの声は尚も人々に向けられていく。

「俺は長い間、ウェラー王家の血筋が自分にとって何物であるのか、国を追われたダンヒーリー・ウェラーにとって、如何なる意味を持つものなのかを考えてきた。その結論として、やはりこの国は俺の《故郷》なのだと判じるようになった。王として戻りたい場所ではなく、あくまで眞魔国軍人としての俺が、懐かしく思う場所であるのだと…」

 その時、郷愁を感じさせる柔らかな声が急変し、凛として大気を引き締めた。

「よって、その故郷が無惨に引き裂かれることを、決して看過することは出来ない…!」

 ビィン…っと響く声音に、バルドーは期せずして背筋を正す。捨ててきた故郷が燃えていた様子が、脳裏を掠めたのかも知れない。

『この男は…いや、この方は…自らの欲望の為に新天地を目指すのではなく、自らの血を育んだ故郷の為に、戦うっていうのか?本気で…?』

 こんな男が…いるのだ。
 夢想ではなく現実として、高らかな理想を実現させていく男が…。

「俺が期待するのは、これ以上この地に血が流れないことだ。一握りの人間の欲望によって、民が傷つき、大地が汚されることは許さない。君たちに理解して欲しいのは、この戦略方針だ。たとえ今後どのように北朝軍が強力になり、南朝軍を圧倒する事になろうとも、決して国土の拡大を求めて無用な戦闘を行う事は許さない。そのような考えで居る者がいれば、眞魔国軍は即刻この地を立ち、二度と手を差し伸べることは無いと思って貰いたい」

 同じ事を既に何度も通達されていた筈なのに、コンラートの口から直接語られる言葉の、何と力強いことだろう?

『この人は、本気でこの地の平和を願っているんだ』

 それは、バルドーにとって大きな衝撃であった。王の血筋を持つこの男は、本気で民の上に君臨するのではなく、民と共に歩むことで、民を護ろうとしているのか。

「君たちの武力は、権益を奪うためにあるのではない。その力は、民を護るためにこそ発動されるべきものだと、今日この日…胸に刻んで貰いたい…っ!」

 脳髄を灼くような鮮烈な声音に、胸が高鳴るのを感じる。
 ただ目の前の敵を殺し、奪われる側から奪う側に回りたいと願ってきた浅はかな思念が、コンラートの色に染め上げられていく。

 初めて与えられた《高き志(こころざし)》というものが、盛んに脳内物質を放出させて人々の興奮を駆り立てた。

「男達よ立て!故郷の守人(もりびと)として立ち上がるのだ…っ!!」


 おぉぉおおおおお……っ!!


 ベルトラン平原に、獅子吼が響く。
 独り立ち上がった獅子王の呼びかけに応える、獅子達の叫びだ。

『世間一般に定められた地位なんか関係ない』
『この方こそ…この方こそが、獅子王と呼ぶべき男なのだ…!』


 この日…大シマロン北朝軍の全ての兵が、フォンウェラー卿コンラートに忠誠を誓った。 





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