第3部 第15話






『どういうことだ?』

 サラレギーは聖砂国衛兵と眞魔国女性…どうやら、人間と思しき婦人の会話を視認しながら目を眇めていた。正確には、彼らのことなどどうでもよく、気に掛かったのはアラゾンの事であった。

『何故、念話など使っているのだ?』

 アラゾンは確かに建国以来有数の法力使いであり、念話自体は簡単に使えるだろう。だが、法力とはやはり使用に体力・気力を使うものであり、魔族の住まう眞魔国で使うとなれば更に負担が大きいはずだ。それが何故、たった一言制止を掛ける目的で使われたのだろう?
 
『肉体的に、声を出すことが出来ないのか?』

 3歳でアラゾンと引き離されたサラレギーは、彼女のことを数えるほどしか覚えていない。特に、度々罵られたことが印象に刻まれすぎたせいか、他の記憶は相対的に希薄になっている節もある。だから、アラゾンの身体能力がどのようであったのか、正確に思い出すことは出来ない。

 華奢で綺麗な女だったことは確かだが、別れて以降、何か大きな病を得たのかも知れない。

 アラゾンの輿が去り、眞魔国の用意した豪奢な馬車に移送されると(この時にも、従者達は女王の姿を隠すようにベールのようなものを幾重にも掛けていた)、ベリエスの拘束が解かれる。

「…ベリエス、アラゾンが今、どのような体調であるのかは知っているの?」
「存じません。10年前に国元を出てからこのかた、連絡を絶っておりますので」
「じゃあ、どうして私があの女と会うのを止めるのさ」
「小シマロン王であらせられる陛下が、子どものように取り乱す様を人々に見せないためです」
「…私を怒らせることで、本質から遠ざけるつもりだね?」

 その手には乗るものか。普段は丁重な物腰のベリエスが、殊更無礼とも思える口を利く時は、怒りを自分にぶつけさせることで本来の問答から目を離させたい時なのだ。

「ふん…。返事無しかい?」

 憮然としているベリエスからぷいっと視線を逸らすと、サラレギーは目にした映像にニヤリと口角を上げた。色んな意味で《現状を引っかき回す》、あの少年を乗せていると思しき馬車が見えてきたのだ。



*  *  *




「あれ…?なんか、なんだろ…この辺、空気悪くない?」
「そう?」

 ガタゴトと石畳の上で馬車が弾むから、気分でも悪くなったのかとコンラートが心配そうな顔をする。ユーリは窓を開けると、大気の中に漂う得体の知れない感覚に身を震わせた。

「ヴォルフもかんじない?なんか…空気がざわざわしてるかんじ」
「ああ、僕にも分かる。もしや、予定よりも早く聖砂国の船団が到着したのだろうか?」

 そうすると、この空気の乱れは眞魔国に《凍土の劫火》が持ち込まれたことを意味しているのだろうか?

「しかし、《凍土の劫火》は拗くれているとは言え火の要素だろう?これは…」

 ヴォルフラムも異常は感じているようだが、ユーリ同様惑いがある。村田もその横で、不審そうに眉根を寄せていた。

「そうだね。要素が乱れているのは確かだけど、どうして水の要素の方が強く感じられるんだろう?水辺の近くとは言っても、ちょっと異常な分布だし、性質が要素とは微妙に違う。これは…法力の強い者が無理矢理水を従えている感じだ」
「《凍土の劫火》をおさえるためとか?」

 ユーリは当てずっぽうで言ったのだが、村田はその意見に同意したのか、眼鏡を指先で上げながら頷く。

「その可能性はあるね。《凍土の劫火》を持ち込むとなれば、どうしたって港で強い魔力持ちに気取られる。事が事だけに、彼らが平和的な処理を求めているのだとしても、他国に存在を知られるのは得策じゃあないし、人を使って僕たちに連絡というのも、大シマロン辺りに知られては元も子もないからね。水の気配が強いだけでも異変は感じられるかも知れないけど、聖砂国の民の法力が強いためだと言い張れば、火の気配が強いよりは誤魔化しようがある」
「そっか…。じゃあ、少なくとも聖砂国には、《凍土の劫火》を押さえられるくらいの力を持った人がいるって事だよね?」
「ただ、その力の主体は法力だからね。力業で押さえつけることは出来ても昇華は絶対に出来ない」
「だから、眞魔国にきたのかな」

 何にせよ、今は情報が少ない。
 正確な判断をするためにはグリエ・ヨザックの指揮するお庭番衆からの報告を待つほか無かった。
 


*  *  *




「サラ、ひさしぶりだねっ!長旅でつかれなかった?お腹空いてない?」
「ユーリ、元気そうで何よりだ!矢の傷はもう癒えたのかい?」
「このとおり、げんきだよ〜」

 馬車から降り立つなり、抱き合うようにして再会を喜び合う美少年二人に、今度はベリエスも制止は掛けなかった。心なしか優しい目元になっているのは、無意識のうちにユーリの感化を受けているのか、子どもらしい仕草を見せるサラレギーに安堵するのかは不分明なところだった。

『しかし、どうもサラレギーとの空気感がおかしいな』

 コンラートは傍らで見守りながら、少し違和感を覚えている。ベリエスの方はそうでもないが、サラレギーの方が忠臣に対して幾らか隔意を抱いているようだ。我が儘そうな王だから、どうでも良いような事で難癖を付けてきたのだとも考えられるが、それでも、取り繕うのが得意な王が、意地になって視線を逸らしている様子が妙に気になった。

 妙な感じは、小シマロン勢の宿として用意した館に移っても継続していた。
 その間に港に配備していたお庭番衆からの報告を受けた村田は、そっとコンラートとヴォルフラムに耳打ちしてきた。

「フォンウェラー卿、やはり予定よりも早く聖砂国女王が到着してしまったようだよ。ただ、お庭番衆の見る限り、箱らしきものや、それが梱包されていると思われる物品は搬入されていない」
「…どういうことでしょう?」
「今はまだ分からない。あと、もう一つ気になる情報があったよ」
「なんです?」
「グリーセラ家のニコラが、聖砂国の衛兵を見た途端、グリーセラ卿ゲーゲンヒューバーじゃないかって詰め寄ったらしい」
「…っ!」

 兄弟の表情が共通に険しくなるが、コンラートの方はすぐに普段通りの顔に戻していた。
 グリーセラ卿ゲーゲンヒューバー…かつて、無謀な作戦を断行して眞魔国軍を危険に晒し、その巻き添えを食う形で孤立したスザナ・ジュリアの所属する部隊が、壊滅的な被害を受ける要因となった男。

 だが、20年に渡って大陸を彷徨い、不可能に近いと言われていた魔笛探索も、中途とはいえ成し遂げていた。それに、人間であるニコラを愛したことで人格にある種の変化を来したと思っていたのだが…それが、本当に聖砂国の衛兵などと言うややこしい肩書きで現れたのだろうか?

「あの男…更に罪を重ねようと言うのか?」
「ヴォルフ、まだ決まった訳じゃないよ」

 ソファに並んで腰掛けているユーリも、サラレギーの口から同様の内容を聞き取っていた。

「えー?聖砂国ごいっこうの中に、ニコラの恋人っぽい人がいたの?」
「そうそう。ねぇ…私も何だかあの一途な女性がどうなってしまうのか、気がかりでならないよ。アラゾンに衛兵の身の上を確認に行くのなら、是非私も同行させてくれないかなぁ?」
「陛下…っ!」

 思いがけない台詞であったのか、珍しく血相を変えてベリエスがサラレギーを止めようとする。すると、サラレギーは如何にも鬱陶しげに眉根を寄せるのであった。

「子まで為した魔族の男を慕って、あんな少女が海を渡ったんだよ?この恋が大団円に纏まるのか、悲喜劇に堕するのか、実に興味深いじゃないか」

 《後者である方が楽しいと思っているな》とは流石に口には出せず、コンラートは慎重にサラレギーとベリエスの様子を伺った。

「お止め下さい、陛下。子どものように興味本位で、他国の女王に問い訊ねるなど、王として為すべき態度とは思えません」
「だって、私はまだ20歳にもならない子どもだもの。実の母に、何か口実を作って会いに行きたくなったってしょうがないだろう?」
「……っ!!」

 この爆弾発言に、一同は息を呑んだ。

「サラレギー陛下…っ!!」

 真剣なベリエスの叫びが、突拍子が無いとも思われるサラレギーの発言に、一定の信頼度を与える結果となった。村田が無表情になって思索に耽るのと対照的に、ユーリの方は目をまん丸にしてサラレギーの手を握った。

「聖砂国の女王さまが、お母さんなの…っ!?」
「ああ、父が漂流した先で恋に落ちたそうだよ。だけど、私には法力の強さがあまり遺伝しなかったから、聖砂国からは放逐されてしまったの…。最後に見た母は、鬼のような形相をして《お前のように無力な子どもなどいらない》と叫んでいてね、私は…それ以外、母の記憶が無いんだ。抱きしめて貰ったことはあったのか…優しく撫でてくれたことはあったのか…。少なくとも、記憶の中にはない。今でも、母のことを思い出すと胸が締め付けられるよ。今は、私のことをどう思っているのかしら?…ってね」

 如何にも儚げな風情で顔を伏せれば、ユーリは胸の前で両手を組んでショックを受けている。愛されて育ったユーリにとっては、信じられないくらい酷いことだと感じられるのだろう。

「そんな…実のお母さんなのに、そんな…っ…」
「ねえ、ユーリ。君が一緒に行ってくれたら、私も心強いな」

 瞳を潤ませてふるふるしているユーリは大変可愛いが、サラレギーの思惑通りに転がされている感は否めない。コンラートはベリエスと一緒になってユーリを止めた。

「ユーリ、あまり込み入った話をいきなりするのはどうかと思うよ?何しろ、これまでは一切国交がなかった国の女王陛下が、直接眞魔国に来られたのだからね。交流を深めてから、さり気なく問うのが良いと思うな。少なくとも、複雑な関係にあられるサラレギー陛下と一緒に行ったのでは、感情的になってしまって、思いがけない軋轢の元となってしまうかも知れないよ?」
「そりゃあそうだけど…」

 困ったようにしょんぼりしているユーリと、それを宥めるコンラートに対して、サラレギーは呆れたように肩を竦めた。

「おやおや、フォンウェラー卿もベリエスも随分と先走ったことを言うね。私はあくまで、あの恋物語の経過を確認したいだけだよ?いきなり、《私を捨てたな!》なんて一国の女王に掴みかかりたい訳じゃない。間接的な話題を介して、今の母がどのような様子になっているのか、そっと見守りたいという切ない思慕の念があるだけさ」
「そうだよね?サラ。お母さんなんだもん…せめて、近くでお話したりしたいよね?」
「おお…心の友よ。君なら分かってくれると思ったよ」
 
 《ジャイ○ンかい》。村田がそっと囁いた言葉の意味は掴めなかったが、コンラートもサラレギーの発言に不安を覚える。
 彼が母に対して関心を寄せているのは確かだが、それがただ様子を伺いたいなどと言う思慕の念からだけ出ているとは考えにくい。熱帯の蛇にも似た瞳の奥には、ちらちらと怨みの焔が上がっているのだ。正面切って掴みかかったりしない分、執拗な復讐を企画しそうだ。それにユーリや眞魔国が巻き込まれてはかなわない。

 村田はこの事態をどう思っているのか、思案に耽っていた瞼を開けると、殊更静かな口調で語り掛けた。その対象はサラレギーではなく、ベリエスだった。

「ねえ、ベリエス。君はサラレギー陛下やアラゾン陛下とどういう関係にあるのかな?」
「他国の方に語るような関係ではありません」
「ベリエスってば、勿体ぶっちゃてさ」

 くすくすと悪戯っぽく嗤うと、意趣返しのようにサラレギーが暴露する。あるいは、既に村田やコンラートには見当が付いているだろうから、わざわざ隠すまでもないと思ったのか。

「私にも正確には教えてくれないけど、少なくともベリエスは聖砂国の王族だよ。矢傷を負ったユーリを救おうとして、強い法力を発揮した時に本来の髪と瞳の色になっていたもの」

 途端に、ぴょこんとユーリが飛び上がってお辞儀をする。

「あ、そのセツはおせわになりました」
「いえ、どう致しまして」

 またしても《陛下!》と叫ぼうとしたベリエスは、丁重に頭を下げるユーリに釣られたのか、思わずぺこりと頭を下げてしまい…憮然とした表情になってしまう。
 どうもユーリには調子を崩されてしまうらしい。

「全く、どうして詳しいことを話せないのさ。アラゾンに会わせようとしない態度も引っかかるな。単に、昔のことを蒸し返したくないってだけには見えないよ?私とアラゾンが接近すると、何か起きるっていうのかい?」
「分かりません。ですが…」

 まだベリエスは悩むようにしていたが、サラレギーの睨むような眼差しを受けて深い溜息をつくと、諦めたように口を開いた。

「アラゾン陛下と過剰に接近されることは、サラレギー陛下のお命を縮めることに繋がるやもしれません。ですから…どうか自重して頂きたいのです」
「…ふぅん?」

 ベリエスの発言をどう取ったのか、サラレギーは一層眼差しを冷たいものにすると、吐き捨てるように言った。

「拙い法力しか持たない子どもなど、視界に入れたくもないってこと?諸国の要人が揃う場で居合わせるのでなければ、存在を消してしまたいと願うほどに…」
「そうではありません」
「だったら何だっていうのさ…っ!」

 サラレギーにとっては、彼自身が思っている以上にベリエスの発言は堪えたらしい。感情が激しすぎて、策略も何も吹き飛んだような顔でベリエスを突き飛ばした。

「哀れな鬼子を見張るために、お前は小シマロンに来たのかい!?間違っても二度と、聖砂国の土を踏まないように…万が一、アラゾンと顔を合わせるようなことがあれば、何としても阻止しろとでも言われているのかっ!!」 

 血を吐くような叫びにベリエスは傷ついたような顔をするが、すぐに表情を消して主に向き直る。

「俺にとって大切なのは、陛下の御身を護ることです」
「身体さえ無事なら、心はどうなっても良いのか…っ!!」

 悲痛な叫びに、動いたのはユーリだった。

 同じくらいの身長をしたサラレギーを抱き込み、頭を撫でつけながらベリエスに向かう。その瞳いっぱいに、涙が湛えられていた。

「あなたがサラのことをだいじにしてるの、よく分かるよ。だけど…だからこそ、言わなくちゃいけないこともあると思う。お母さんのこともだいじだけど、サラはあなたのことも本当にだいじに思ってる。その人がシンライできなくなったら…きっと、心がおれてしまうよ?」
「……っ…」
「おねがい…思い切って、話して?かくしていること、事情があるって分かるけど、でも…本当のことなら、かくされているよりも良いと思う」

 顔に張り付けていた平静な仮面を剥がされ、苦渋に満ちた表情に戻ったベリエスは目を閉じて俯く。
 彼に止めを刺したのは、ユーリの胸に抱き込まれたサラレギーが、啜り泣くような声を上げたことだったろう。

 操り糸を断ち切れられた人形のように全身から力を抜いたベリエスは、崩れるようにして椅子に座ると、訥々(とつとつ)と語り始めた。

 サラレギーの出生に関わる、ある秘密について。



*  *  *




 聖砂国…それは、秘められた海域に住まう閉鎖的な国家である。
 民は概ね強い法力を持つが、逆に持たない者は例え高貴な生まれであっても身分を落とされ、平民か、下手をすれば奴隷として牛馬の如く扱われることもあり得る。

 そんな国の女王が、漂流者として聖砂国に現れた小シマロン王と恋に落ちた時、臣下はもとより民もまた囂々たる非難を投げかけた。類い希な法力を持つアラゾンの血が、人間との結びつきによって薄まると考えたからだ。

 宮廷の中でアラゾンを支えていたのは、おそらく弟であるベリエスだけだったろう。
 この国では男児であることよりも、生まれ順と法力の強さの方が王位継承にとって重要であったので、ベリエスは生まれた時から第一王子であるにもかかわらず、王とはなれない定めであった。だが、ベリエスは一心に姉を慕い、彼女の心が充足するのであればと、異国の王との恋も見守り続けた。

 その当時、大シマロンから分離したばかりの小シマロン本国が危機に陥り、再び併呑の危機に瀕していると聞いた時も、ベリエスの麾下にあった軍勢と共に、王を送り出したほどだ。

 聖砂国に残されたアラゾンを、ベリエスだけが護り、身重の身体と心を支え続けた。

 しかし、逆風の中で生まれたのは脆弱な赤子だった。
 生まれ落ちた瞬間から息をせず、見る見る内に青黒く変色していく赤子。熱を奪われて、唯の肉塊と化していこうとする息子に、アラゾンは我を忘れて駆けだしていた。

 臣下達の中で唯一彼女に追いつけたのはベリエスだけだった。複雑な地下迷路は、幼い頃に姉と散歩した道であったから、様々な仕掛けの位置や道しるべを熟知していたからだ。

『姉上、まさか…っ!』

 不安を抱えて走るベリエスの前で、アラゾンはその《まさか》を断行していた。
 聖砂国にもたらされた大陸の災厄…禁じられたある呪物に、アラゾンは祈願を掛けていた。

『この子に命の焔を与え給え…っ!』

 あの理性的だった姉が、狂ったように呪物に向かって祈っていた。
 聖砂国という国を正しく統治するために、全てを擲っていた女性であったのに…。

 呪物は確かに、超越的な力を持つとされていた。だからこそ、大陸の王から《破壊してくれ》と依頼された時、聖砂国へと運ばれたのだ。祖先は破壊するよりも、これを利用しようと考えたらしい。
 確かに呪物は暫くの間、驚くべき奇蹟を起こしたという。そう…アラゾンが縋った理由であろう、《死者の復活》もその中に入っていた。死んだ直後でなければ効果がないそうだが、それでも、癒しの法力を持ってしても不可能と言われた蘇生術は、神族達にとっても驚異だった。
 
 だが、呪物はいかな神族とはいえども使いこなせるようなものではなかったらしい。ある日暴発した呪物は、凄まじい熱気によって国の半分を砂漠に変えたと言い伝えられている。
 その時から、呪物は複雑な地下迷路の奥底深くに封印されることとなったのだ。

 よもや、その呪物にアラゾンが縋り付くとは思わなかった。

『それほどまでに、この子が愛おしいのですか?姉上…』

 力づくで止めようとすれば出来たかも知れない。だが、狂おしげに祈念し続けるアラゾンの形相に、ベリエスは一歩も動くことが出来ずにいた。
  
 ベリエスが見守る中、奇蹟は起こった。

 見る間に赤子の身体には熱が戻り、《おぎゃあ…》と、弱々しいながらも産声を上げたのだ。だが、ほろりと涙する暇も与えず、呪物はアラゾンに襲いかかった。

『素晴らしい法力だ…』
『その身体…寄越せ…っ!!』

 アラゾンが封印をこじ開けたことで、呪物は本来封じられていた戒めの物体を燃やして囂々と燃え上がった。
 躍り上がった焔の塊にのし掛かられると、アラゾンは赤子をベリエスに委ねて、自分は立ち向かっていった。
 そして、神族最高峰と謳われる法力を発揮し、アラゾンは自分自身の肉体の中に呪物を封じることに成功した。

 それで終われば、全てが万々歳であったろう。
 しかし、いかなアラゾンとはいえど休まない訳にはいかないし、心を安らげずにいることにいられなかった。その度に肉体の支配を狙って呪物が蠢き、アラゾンは生きながらにして肉体を灼かれていった。

 日に日に呪物によって蝕まれていくアラゾンだったが、他の法力使いの力を借りることは出来なかった。物理的に、彼女を支えるほどの力を持った者はいなかったし、そもそも、女王たるアラゾンが禁じられた呪物を己の私益に使うなど、あってはならないことだったからだ。

 それに、一層苦痛であったのは、身体を張って護った息子を腕に抱けないことだった。
 すくすくと育ち行くに従って愛らしさを増していく子どもが、無邪気な表情を浮かべて歩いてくると、アラゾンは心を柔らかく緩んでしまうのを止められなくなった。しかし、拘束を緩めれば呪物はアラゾンの肉体から溢れ出し、息子も国も呑み込んでしまうだろう。だから、近寄ってくる息子に血の涙を流しながら、罵声の声を上げるしかなかった。

 このような暮らしが幼子の成長に良いわけがない。息子が三歳になった年、アラゾンは断腸の思いで別れを告げた。
 真実を明かせば、息子はきっと気に病むだろう…いつかアラゾンが堪えきれずに呪物に呑み込まれた時、世界が崩壊されば、きっと自分のせいだと思うに違いない。

『あの子には、決して何も言ってはなりません』

 そう厳命して、アラゾンはたった一人の信頼者であるベリエスを息子の傍に送った。
 


*  *  *




 《ほう…》

 重い溜息が部屋の中に満ちる。
 その色合いは、人によって様々だった。

「僕を救うため…だって……?」
「お母さん…身体を張ったんだ」
「えぇええ〜…」

 サラレギー、ユーリ、村田は三人三様の表情と声音を漏らして椅子に沈み込んでいる。ベリエスは長年の秘密を吐露したことで脱力しているが、コンラートとヴォルフラムの表情には激しい緊張感が漲っていた。おそらく、村田も同様の気分で居るのだろう。

 禁じられた呪物。
 焔を主体とし、時には奇跡さえも起こす絶大な力。

 それは…

 《凍土の劫火》としか、思えなかった。




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