第3部 第13話








 コンコン

「入れ」
「失礼します、兄上」

 少々緊張気味に入ってきたヴォルフラムは、部屋の様子を伺うと瞳を輝かせて感嘆の声を上げた。

「流石は兄上!宛われた部屋であっても、しっくりと来るよう自分流にしておられますね」
「うむ」

 鷹揚に頷いたグウェンダルは、読みかけていた書籍を閉じると壁付けの棚に戻す。飴色の棚に所狭しと並べられた書籍には丹念に読み込まれた後があり、書架が唯の飾りではないことを主張している。随分と読書家らしいグウェンダルは、自領からお気に入りの書籍を運んだだけでなく、王都で入手した新しい書籍についても付箋を付けていた。おそらく、ユーリへの講義資料に使うつもりなのだろう。

「すごいなぁ、グウェンって、すごいかしこいもんね」
「本が好きなだけだ」

 ユーリの感嘆の眼差しに対して《ふっ》と苦笑すると、ますます弟達と王太子の瞳が輝き渡る。

『……うむ。気取られてはいないようだな』

 そう思って密かに安堵の息を漏らしていると、変なところで目敏いヴォルフラムが不思議そうに小首を傾げた。

「おや、この棚は少し寂しいですね」

 一応は尤もらしい小物など置いてみたものの、かっぽりと2段開いた書架に気取られてしまった。そこには、つい先程までグウェンダルを憩わせる《モノ》が置かれていた。

「…近々、辞典を一揃い入れるつもりでいるからな」
「へー、ココにもいろんなじてんがあるのに、まだかうんだ。すごいね、グウェンは」
「…大したことはない」

 そうこうする内に入浴を済ませた兄弟とユーリは、寝間着姿で寝台に乗った。簡易的な寝台も一台入れているが、大柄な男二人がいるのでそれでも手狭だった。なお、本来の寝台にはグウェンダルとヴォルフラム、簡易寝台にはコンラートとユーリが寝ることになる。

「明かりを消すぞ」
「はい」

 きゅ…っと指で蝋燭の火を消せば、部屋の中には星明かりだけが差し込む。寒さ除けに厚手のカーテンを閉めると、部屋の中には硝子瓶の中に入れられた発光茸の淡い光だけが残された。これは大した光ではないのだが、出入り口に置くことで深夜の緊急事態に対応できるようになっている。ちなみに、この茸瓶はヴォルテール領の特産なので、博覧会にも出展予定だ。ヴォルテール領では現在職人達が創意工夫を凝らして、より明るい茸の交配と、硝子瓶の加工について研究が進められている。

「グウェンダル兄上とこのように寝るのは、はじめてですね!」
「そうだな」

 堅物の父はツェツィーリエと離婚してからというもの、彼女と顔を合わせるのが気まずくて社交界からは疎遠になってしまったから、グウェンダルも宴などの要件があって訪れる以外は、王都に滞在することはなかった。ヴォルフラムが生まれたときにも祝いに一度は来たものの、共に眠ったりするのは初めてのことだ。
 ある意味では、グウェンダルは長兄とは言いつつも、一人っ子のようにして育ってきたのである。

 貴族社会で、しかも父親が全て違うのであればこれがごく普通のことだろうが、そういえば、コンラートとヴォルフラムはそうではなかったようだ。

「コンラートとは幼い頃、共に眠ったりしていたのだろう?」
「ええ、まあ…」

 顔色は宵闇の中で見えないのだが、なんとなく、ヴォルフラムが顔を赤らめたような気がした。

「ちいさい頃は、俺がおむつを替えてやったりしたんだよ?」
「余計なことを言うなっ!」

 コンラートが楽しそうに笑うと、ヴォルフラムが面白いほど必死になって怒る。なるほど、こういう会話が出来るくらいまで二人の仲は改善されているのか。

「《ちっちゃな兄上》と呼んで、何処に行くにもついてきてくれて…それはそれは可愛らしかった」
「だからっ!そんな昔の事をいうなっ!!」

 ぷんぷんと眉を跳ね上げるヴォルフラムに、布団を持って行かれそうだ。

「ヴォルフって、いまでもおにんぎょうみたいにカワイイもんな。コンラッドってば、めちゃめちゃかわいがってたんだろ?」
「ああ、それはもう。目に入れたいくらいにね」

 うっとりと、当時を思い出すようにコンラートが囁けば、ヴォルフラムは今度はすぐに怒り出すことはなく、何かを言いかけては止めるという所作を繰り返し、そして…耳を澄まさなければ聞こえないくらい小さな声で、ぽつりと問いかけた。

「………僕が絶縁を申し渡したときには、辛かったか?」
「ん…」

 今度はコンラートが言葉に詰まる番だった。
 《気にしていないよ》と普段の彼なら言ったのだろうが、宵闇は人を素直にさせてしまうのかも知れない。あるいは、幾度かこうして共に夜を過ごしてきた気安さが、《もう言っても大丈夫かも知れない》と思わせたのかも知れない。

 コンラートは静かにユーリを抱き寄せると、その温もりに支えられるようにして、長年胸に蟠(わだかま)り続けた思いを吐露した。

「…辛かった」
「そうか…」
「混血に生まれたことが、可愛がっていた弟にさえ疎んじられるのだと思ったら、生まれて初めて自分に流れる血を呪った」
「………」

 きゅ…っと唇を噛みしめて、ヴォルフラムが身を固くする。その肩をグウェンダルが不器用に撫でつけていると、コンラートは尚も言葉を連ねた。

「それでも…俺は一度として、お前を憎んだことだけはないよ。ヴォルフ。お前の身に何か不幸が襲いかかるようなことがあれば、命を賭けて護りたいと思っていた」

 泣いているみたいに肩を震わせているヴォルフラムは身を固くしていたが、促すようにグウェンダルが背を撫でてやると、ようようのこと掠れる声を絞り出した。

「…すまなかった」
「良いんだよ。もう…」

 静寂の中で、長い年月の痼りがほろほろと和らいでいくのが分かる。コンラートはもとより、今まで言いたくて言い出せなかったヴォルフラムも又、安堵したように息を漏らした。

「…コンラート、お前は誓いを守ったな」

 グウェンダルが重々しく呟けば、コンラートははにかむように微笑んだように思えた。

「全て、ユーリがいてくれたからです」

 照れたように《いやいやいや…》と繰り返すユーリに、グウェンダルは内心、《全くだ》と頷いた。

 こんなにも想っているのに。
 ヴォルフラムとて、コンラートの事をやはり想っていたはずなのに。
 なんという長い時間、彼ら兄弟はすれ違いを続けてきたのだろう?

 それが、こんな風に再び結び合わされるとは、なんという不思議だろう。

『こんな風にして共に夜を過ごすなど、以前ならとても考えられなかったことだ』

 腹蔵を明かし、《本当の言葉》を交換することは恥ずかしかったり、気まずかったりする。それが、どれほど不器用であっても手探りで関係を模索し、結びつこうとする行程は、彼ら兄弟だけでは決して為し得なかったことだ。

『ユーリ殿下は、我ら兄弟にとっても巨大な意味を持つ存在だ』

 さて、この《偉大なる》少年に甘えてばかりで良いのだろうか?
 グウェンダルはその事に気付くとかなりの間、逡巡していたのだが…とうとう意を決すると、思い切って寝台から出た。

「兄上、どうなさったのですか?」
「……お前達に、渡したいものがある」

 そう言うと、グウェンダルは手探りで隠し棚から毛糸と綿の塊を取り出すと、ヴォルフラムとコンラートに握らせた。

「明かりを付けて見ても良いですか?」
「…いや、明日…目が覚めたら見ると良い」

 その前に、早起きしてグウェンダルはこの部屋を出ていよう。流石に《これ》を渡したことで、グウェンダルとしてはいっぱいいっぱいだった。

「なんだろう?」
「私が…趣味で作っているものだ。お前達に渡すつもりはなかったが、お前達のことを想いながら作った」
「それは…楽しみですね!」

 少々緊張した面持ちで、ヴォルフラムは掌の中の毛糸を確かめている。手探りでは分からないと思うのだが…。

『明日、どんな顔をして会えばいいだろうか?』

 思い切って行動したせいで、布団の中に入ってからも妙に鼓動が早い。隣に寝ているヴォルフラムはそれに気付いているのか、不思議そうに小首を傾げている。

 きっと、思い切ったこと自体は《良いこと》であるに違いない。
 たとえ明日から彼らの眼差しが多少半笑いになったとしても、グウェンダルが彼らを思っていること…今までも、思ってきたことの幾ばくかは伝わるはずだ。

 そう信じて、グウェンダルは無理に瞼を閉じた。



*  *  * 




 翌朝、コンラートは寝台からそっと出ようとしているグウェンダルの気配で覚醒すると、自分の手の中にあった人形に目を丸くしていた。
 それは随分と形の歪んだ編みぐるみであったが、色合いやオプションとして取り付けられた小道具の剣から、軍服姿のコンラートを模したものだと分かる。取り付けられた小さなリボンには、こちらは正確な刺繍で《無事でいるように》と、祈りの言葉が縫い込まれている。

 傍らの寝台に横たわるヴォルフラムに目を遣れば、こちらはまだ眠りの園の中にあったが、手にした編みぐるみはやはりヴォルフラムの姿を模したもので、リボンには《逞しく育て》と縫われている。

 不器用な手つきで編まれたのは確かだが、目鼻立ちや細部の造りは丁寧で、彼がどれほど愛情を込めて編んでいったのかが伺い知れる。そう思ってよく見れば、何だか愛嬌があるようにも思えるし。

『これを…グウェンが編んでくれたのか?』

 編みぐるみは確か、アニシナの特技であったはずだ。彼女に勧められたのかどうなのか、グウェンダルは兄弟を思って編んでくれたのだろう。完成してからかなりの時間が経過しているのは、毛糸の退色具合から察することが出来た。

 それでは、もうずっとずっと以前から…グウェンダルはコンラートの無事を祈っていてくれたのだろうか?

『グウェン…』

 油断したら、泣いてしまいそうだ。
 足音を忍ばせて部屋を出ようとするグウェンダルも、今声を掛けたら飛び上がりそうだから、後で手紙か何かで感謝を伝えることにしよう。

『ありがとう、グウェン』

 すくくー…と健やかな寝息を漏らすユーリの頬に瞼を押しつけながら、コンラートは込みあげてくる幸福感に酔いしれた。
 ユーリがここまでの反応を狙ってグウェンダルをお泊まり会に誘ったとは思えないが、それが彼の行動に結びついたことは間違いない。こんな機会がなければ、彼は生涯このことを秘していたと思われる。

『ありがとうね、ユーリ』

 ちゅ…っと優しく頬にキスをすれば、愛おしい恋人はくすぐったそうに肩を竦めた。



*  *  * 




「そろそろ、頃合いじゃないかな?」

 村田の唐突な発言に、ケーキを口に含んでいたユーリはきょとんと小首を傾げた。
 冬の寒さが深まる時期、血盟城の一室でおやつを頂いている最中に、村田がそう口にしたのだが、すぐには何が《頃合い》なのか察しが付かなかった。直前に話していたことといえば、《コンラート達三兄弟が仲睦まじくしているのが微笑ましい》という話題であったはずだが。

「忘れたのかい?君はまだ、この世界で果たすべき大きな役割を、全て終えたわけではないだろう?」
「あ…っ!」

 やっと得心言った。
 そうだ、これだけ仲良くなったのだから、そろそろヴォルフラムにも明かさねばならない頃合いだろう。おそらく、彼が最後に残された《禁忌の箱》…《凍土の劫火》の鍵であるのだと。

 聖砂国から女王アラゾンがやってくる以上、《凍土の劫火》については良くも悪くも一気に事態が進展する可能性がある。
 これまではヴォルフラムの激しやすい性格から考えて、鍵であることを知らせることで不安定になることを恐れていたが、最近では随分と落ち着いてきているし、兄弟はもとより、ユーリに対しても信頼らしきものを示すようになっている。

 あと半年の後には聖砂国の民が眞魔国へとやってくることから考えても、今の内に予備知識と心の準備をさせておくことは必要だろう。

 コンラートの方は既に村田の言わんとするところを認識していたらしく、厳しい表情をして虚空を見つめてた。《鏡の水底》の時もそうだったが、彼は自分以外の大切な者が鍵であるときには、正気ではいられないくらいに苦痛を感じるようだ。
 これまでは無事に行っていたにしても、最後に残された創主はありとあらゆるものを焼き尽くす火だ。要素であっても最も苛烈と言われる火を相手どって、無事に済むだろうか?
 特にコンラートにとっては、今回の鍵がヴォルフラムの心臓であることが心配だった。

「俺の鍵と替えることが出来たら良かったのに…」
「あんた、おれの時といっしょのコト言ってるねぇ?」
「仕方ないだろう?鍵が鍵なんだから」

 コンラートは腕、グウェンダルは目であったから失われたとしても生命に危険はない。だが、ユーリの血液やヴォルフラムの心臓は、失われれば生命に関わるではないか。

「今更言っても詮無いことさ。それより、弟君の心証に良い明かし方を考えて欲しいね」
「はい…」

 そこへ、ジャストタイミングでヴォルフラムが入室してきたものだから、ユーリは口に含んでいたお茶を吹くところだった。

「どうしたお前達、妙な顔をして」
「いや、あんまりいいタイミングでヴォルフがきたもんだからさ」
「《たいみんぐ》だと?」
「いいじきってコト」
「んん?」

 ヴォルフラムは珍妙な顔をしていたが、お茶を勧めて座らせると、この機会にと思い切って話をした。

 

*  *  * 




 《凍土の劫火》にまつわる事実を順を追って説明していくと、次第にヴォルフラムの表情が強張っていくのを感じた。

『ああ、やはり緊張しているのだろうか?』

 気が強いが意外と小心なところもあるヴォルフラムのこと、もしかしてそうではないかと懸念していたのだが、《やはりそうか》と察したコンラートは、心配そうに声を掛けた。

「ヴォルフ、心配しなくて良いよ。必ず俺が護ってやるから」
 
 その一言に、ヴォルフラムはかなりカチンと来てしまったらしい。表情を消すと、目を半眼にしてコンラートに向き合う。腰に手を当てて睨み付けてくる姿に、コンラートは嫌な予感を覚えた。

「僕が鍵だから…軍人としてアテにならないから…だから、親しくなろうとしたのか?情けない僕を、お偉い英雄閣下として護って下さるという訳か?」

 ああ…何と言うことだろう。
 恐れていたとおりの台詞を突きつけられて、サァ…っとコンラートの顔色が青ざめる。

 だがしかし、ユーリや村田が何とか宥めようと腰を上げた途端、ヴォルフラムはドン…っとコンラートの胸板を叩いてからニヤリと笑った。美少女と見まごうような彼にしては、えらく男臭い表情だった。

「全く…コンラート、お前と来たらいつまで僕を子ども扱いするつもりだ?」
「…ヴォルフ!怒っては…いないのか?」

 どこか悠然とした物言いに、思わず子どものような顔をしてコンラートが問いかけるが。ヴォルフラムの方は不本意そうに鼻を鳴らして髪を掻き上げた。

「怒ってるさ。僕が何も知らないと思われていたのだからな!」
「そうか…」

 聖砂国に関することはともかくとして、やはりヴォルフラムも自分が《凍土の劫火》の鍵なのではないかと言う点については以前から考え及んでいたらしい。まあ、三兄弟のうち二人が適合していて、箱を封印した血族の一人であるビーレフェルトの嫡男なのだから、疑わない方が不自然か。

「僕は待っていたのだ。お前達が一体いつ、僕に全てを話すのだろう…とな。おそらく、僕が事実を受け止められる器だと認識されるまでは駄目なのだろうと思って、内心苛立たしく感じていたんだからな?」

 咎めるようにそう言うヴォルフラムは心なしか頬が膨らんでおり、この辺りはやはりよく知っている弟だ。けれど、次いで見せた苦笑は、彼がコンラートの知る我が儘で愛らしいだけの男ではなくなったことを知らせていた。

「実際…僕は、そう見られても仕方のない器だったのだろうな」
「すまない…ヴォルフ」
「そんな顔をするな。何でもかんでも自分の責任にして、抱え込めばいいというものではない」

 偉そうに胸を反らせてそう言うと、横でそれなりに緊張していたらしい村田も、やっと肩の力を抜いて笑っていた。

「いや全くね。適切な助力を与えることは必要だけど、時として、信じて待つことも大事な教育だよね。君のお兄さんってば心配性な上に甘やかすのが大好きだから、放っておくと際限なく子どもの能力を損なっちゃうよね〜」

 からかうように言われると、《面目ない》とコンラートが肩を竦めるものだから、ヴォルフラムも今度は村田の方に抗弁を始めた。

「べ…別にコンラートが悪いわけではない!兄なのだから、そこまで僕の教育に関与しているわけではないし…っ!」
「関与するのも駄目かい?」
「ああもう…っ!そういう意味ではなくて…っ!」

 ヴォルフラムはまた強くコンラートの胸を叩くと、自分より頭一つ分は高いコンラートに向かって、言い聞かせるように…噛んで含めるように申し渡したのだった。

「僕は…僕の責任に於いてちゃんと成長するから…!だから、コンラートが責任を感じることはないと言っているのだ!ちゃんと、信じて…待っていてもくれたのだしっ!」

 言ってから照れくさくなったのか、ヴォルフラムは微かに頬を染めると、ぷいっとそっぽを向いて荒々しく椅子に座る。

「もう止めだ!恥ずかしい遣り取りなど終わりにして、ここからは鍵としての僕が何をすべきかについて語り合うべきだろう?」
「ああ…そうだね。本当にそうだ」

 コンラートがとろけそうな表情で瞳を潤ませながらいうものだから、話し合いの間中ヴォルフラムは照れたようにそっぽを向いていた。

 この兄弟、そういう感情をさらりと受け流す能力には乏しいらしい。
 
『横で見てる分には微笑ましいけどね』

 なんて、ユーリは苦笑混じりに思うのであった。
 




 
 

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