第3部 第11話
数日後、いよいよ指導官による講義が始まった。
指導官達は各家を代表する優秀な人材であり、いずれも高い能力を持っている。ただ、ギュンター以外は《教える》という作業に不慣れなため、準備してきた内容をスムーズに伝えられたわけではない。
ことに、複雑な気分が介在する指導官については、ユーリと共に密接な時間を過ごすと言うだけで、多少なりとも緊張感を漂わせていた。勿論、あのような事件があった後でユーリと誰かを個室で二人きりになど出来ないので、必ず護衛を付けてはいるのだが…その護衛がまた、フォンウェラー卿コンラートであるのが、指導官達を複雑な心地にしていた。
「殿下、集中して下さい」
「う、うんっ!」
フォンギレンホール卿サーディンは、本日何回目になるか分からない注意を口にすると、深い溜息をついた。
『嫉妬心が混ざって、点が辛くなっているむきはあるが…』
それにしたって、人が物を教えているというのにこの態度はないだろう。
ユーリは授業開始から随分と眠たそうにしており、懸命に欠伸を噛み殺してはいるが、数分ごとに《きゅうぅ…》と瞳を潤ませて唇を噛んでいる。しかも、サーディンの講義が淡々と資料を読むだけの展開になると、こっくりこっくりと船をこぎ出してしまう。
コンラートが苦笑しながら肩を突いてくると、ユーリに甘い彼が《眠気覚ましにお茶でも飲む?》《頑張ってね、ユーリ》と声を掛けるから、その度にイチャイチャと甘い空気が醸し出されてしまうのも正直しんどい。
「コンラート…!今日の君は護衛だろう?講義中に割り込まないでくれ」
「ああ…すまない、サーディン」
コンラートも素直に謝りはするのだが、これがまた食わせ物なのである。
「ユーリが眠いのは俺のせいでもあるから、つい…」
「……っ!」
はにかむように微笑まれると、嫉妬心で臓腑が煮えくりかえりそうになる。《もしかして》とは思っていたのだが、やはりこの二人、例の茸事件によって自制していた夜の営みを解禁にしてしまったらしい。
『翌日、眠くて堪らないほどに溺れているというわけですかそうですか…!』
むかむかと胃袋を満たす苦い液が、喉元まで上がってきそうだ。
「………では、君も少しは自制して貰えないかな?私達とて、そう暇ではないのだよ?」
確かに指導官として高い報酬を約束されてはいるが、元々富裕な家系に連なる彼らにとっては大した額というわけではない。寧ろ、家元で領土の仕事をしていた方が実入りは良いくらいだ。
「コンラッドのせいじゃないよっ!おれがわるいんだ。コンラッドはちゃんと一回でやめようねって言ってくれたのに…」
それはつまり、気持ちよすぎて《ゃあん…止めちゃ、ゃあ…》とか何とか言いながら、明け方近くまでいんぐりもんぐりやっていたというわけか。
むきょきょきょ…と怒りが込みあげて来て、《いい加減にしやがれ!》と叫びたくなっても致し方なところだろう。
「……やる気がない生徒に、何も教えることなど無いっ!」
バン…っと荒々しく資料を机に叩きつけると、後ろも振り向かずにサーディンは去っていった。
* * *
『やっちゃったぁ〜っ!!』
ユーリは鼻先で扉が閉まってしまうと、そのまま凭れ掛かるようにして涙目になった。
「あぁあ〜…どうしよう、サーディン…おこっちゃった」
「ん…やっぱり、少し夜の生活は回数を制限しなくてはならないね?」
「ふぇえん〜…」
そう、昨夜も始める前まではユーリだってそう思っていた。ただ、予定されている講義がサーディンによるものだと分かってから、ヴォルフラムを経由して知った情報のせいで、妙な対抗心を抱いてしまったのだ。
『そりゃあ…コンラッドはすっげーステキなんだから、そういう相手が出てくる度に目くじら立ててたらキリがないんだけど…』
指導官には他にも、以前コンラートの婚約者候補だったフォンラドフォード卿エレルラインや、フォングランツ卿アーダルベルトが、コンラートに対して強い思い入れを持っているという。ただ、多少奥ゆかしい気配のある二人に比べて、サーディンはかなりギラギラと前に出てくるものだから、どうしても見せつけたくなってしまうのかも知れない。
『だけど、確かに授業は授業なんだよ。こんなの…幾らなんでも失礼だよな?』
サーディンはさぞかし怒っていることだろう。こんな風に公私混合した上、昼夜の別もないような性生活をしていたとあっては、《指導官を解任して頂きたい》と訴えられてしまうかも知れない。
『今夜から、我慢しよう!』
強く心に誓うユーリであった。
* * *
はふりと吐息をついて、ユーリはバスローブに包まれた身体を籐椅子に降ろす。火照った身体は夏場のこと、なかなか冷めてはくれず、コンラートに差し出された冷たい飲み物を、喉を鳴らして飲み干していく。
細い喉が上下していく様が、薄明かりの中で白く艶やかに映った。
『我慢我慢我慢…』
コンラートは先程から、呪文のように心の中でその言葉を繰り返している。コンラートの方が欲情に瞳を濡らすと、ユーリはすぐ《やっぱり…しよ?》と愛らしくおねだりするからだ。
100年を越える年月の中で鍛え上げたポーカーフェイスによって、とにかく平静を装わねばならない。
「んー、おいしい!」
「それは良かった」
入れ替わりに、今度はコンラートが浴室に入る。前日までは一緒に入浴していたのだが、ユーリの我慢が利かなくなるからと、時間差で行くことにした。更には一緒にしていた寝台も別々にした。
流石に護衛の意味もあって同室ではあるのだが、翌日に講義がある日には必ずそうしようと二人で約束したのだ。
ちゃ…ぽ……
「ふぅ…」
ゆったりと湯船に漬かりながら、コンラートは息の長い溜息をつく。湯気で湿った前髪を無造作に後ろへと流すと、軽く筋目の入ったオールバックになる。ユーリはその様子を見ては、《なんか、大人っぽく見えてドキドキする》と言ったものだった。そういう時には決まってコンラートが雰囲気を出して甘く囁きかけ、ユーリが楽しそうな悲鳴を上げて《止めて〜誘わないで〜っ!》とはしゃいでいたっけ。
性交を禁じられていたときにはそれ以上追うことが出来なかったけれど、茸事件以降、なし崩しに解禁になってからは後ろから羽交い締めにして、思うさま煽り立てることが出来た。
そうしていくと最初はくすくすと笑っていたユーリも、決まって甘い声を漏らし、焦れたように腰を振るようになっていた。
『いかん。また思考がそっち方面に…』
ふるふると首を振れば、透明な滴が跳ねとばされてぽちゃりと水音を立てる。
『当座、考えるべきことが無いのが一番の問題かも知れないな』
コンラートらしくもなく、宴の席で同じ食材を大量摂取してしまったのも、元はと言えばこの注意力の無さによるものだった。
これまでは次から次へと沸き起こる試練をクリアしていくことに全精力を集中させていたから、余計にこの平和が身体に馴染まないのだろう。そうなると、どうしても一番の重大事が色恋沙汰というような事態になってしまうのだ。
実のところ、本当は全ての案件が解決したわけではない。
最大の案件として未だ存在が明らかになっていない《凍土の劫火》の問題もある。
この件に関しては現在、眞王廟の古文献を村田が紐解き、眞王にも直接情報を求めているところだが、どうやら思わしい内容は取得できていないようだ。成果が上がっているとすれば、寧ろグリエ・ヨザックを初めとするお庭番衆の方であるかも知れない。
ヨザック達は、ごく最近にも聖砂国から大シマロンへ法力遣いが《輸出》されていたという事実を掴んだ。だが、相手が大シマロンとなると《ちょっと教えて?》というわけにも行かず、なかなかそれ以上の調査が進まない。しかも交易のある大シマロンですら、直接聖砂国に入った者は皆無であるという。連絡は常に聖砂国側から遣わされる使者を介して行われ、交渉の結果求められた法力遣いが船で運ばれる仕組みなのだそうだ。
大教主マルコリーニ・ピアザも言っていたとおり、秘められた海域にある聖砂国には、特殊な航路を弁えている者でないと辿り着けないのだろう。
大シマロンという国名で思い出したが、そういえばここ最近、かの国は巨大帝国としての面目を失いつつあるようだ。辛うじて瓦解こそしていないものの、事実上は二つの国に分断されかけている。《風の終わり》を失ったこと以上に、そもそもあの箱を用いようとしたやり口が問題視された事で、それまでに蓄積されてきた属国の不満が噴出したようだ。
複数の小規模な内乱が続き、更にはそれらが一つに収束すると、一大勢力となって現王朝と対立するまでになった。
その勢力の首領となっているのはライオネル・ドスという男で、峻厳な北方山脈を自然の要害として戦っていることから、一般に《北朝》と呼ばれている。元々のベラール王家はそれに伴い、都のある位置から《南朝》と呼ばれている。
北朝については王の血筋といった明確な《大義名分》を持たないため、《朝》と呼ぶのは正確ではないのだろうが、おそらくは語呂の問題でそのように呼ばれているのだろう。
《北朝》の首領たるライオネルは先代王に重用されていた男だが、当代の王に世代交代してからは疎んじられ、閑職に回されていたものが、大シマロンの治世が混乱してくるのに乗じて台頭してきたのだという。高い治世能力とカリスマ性には定評があるものの、やはり血筋としての正当性がない分、一気に勢力を伸ばす…とは行かないようだ。
コンラートは直接ライオネルを知っているわけではないのだが、その部下として働く男には覚えがあった。ハインツ・バーデス…《風の終わり》を昇華させた際、コンラート達に助力し、忠誠さえ誓おうとした男だ。
『一本気すぎて、世の中を渡って行くにはどうかと思っていたんだが…結構頑張っているんだな』
《君が誇りをもって生き行く為に俺に仕えようと思うのなら、眞魔国においで》
《故郷たる大シマロンを捨てられないのであれば、そこで立て。例え道が果てしなく、可能性の糸口も掴めないのだとしても…君には、信頼できる仲間がいるはずだ》
コンラートに大シマロンの王となることを求めてきたハインツに、コンラートはそう言って返した。コンラートに縋り付くのではなく、まずは己の足で立てと。
『そしてあの男は立った』
だとしたら、コンラートとしても援護射撃をしてやりたいところだ。
勿論、ハインツの元に馳せ参じて、ウェラーの血を引く者として彼らに《大義名分》を与えることが最大の助力であろうが、それは出来ない。彼にも言明したとおり、やはりコンラートは眞魔国の民であり、軍人なのだから。
それでも、やり方によってはこの立場のままで、彼らにある程度の《大義》を与えることが出来るのではないか。具体的に考えようとするが、今すぐには思いつかないようだ。
「うーん…」
思考が行き詰まったことで、コンラートは元々の案件に頭を戻した。さてはて、コンラートやユーリに適度な課題意識を与え、指導官達の講義に身が入るようにするには何が必要だろうか?
『そういえば、ユーリの世界ではどうしていたろうか?』
ふと思い出したのは、ユーリと共に再び眞魔国へと戻っていく切っ掛けを作った事件の折、高校で行われていた文化祭だった。学業について定的な試験で成果を確認するように、運動や文化に関しても祭という形で発表の場を設けていた。そこには遊びの要素も勿論あるものの、価値観や特技の異なる者同士が協力して事に当たるという、社会の縮図があった。また、その場に他校の生徒がやってきて交流を行う場もあった。
「ふむ…」
コンラートの中で、何かが形を為そうとしている。
眞魔国と友好国…それらを含めた大きな範囲で、出来ることがあるのではないだろうか?更には、ハインツ達大シマロンの抵抗勢力にとっても、それは援護射撃になり得るのではないだろうか?
コンラートは勢い良く湯船から上がると、手早く頭と身体を洗って浴室を出て行った。
水も滴る佳い恋人に対して律儀にドキドキしていたユーリも、コンラートの《思いつき》を耳にすると、目を輝かせて乗ってきた。
「それ…じつげんできたら、すごくたのしそう!」
「嬉しいな。そう思ってくれるかい?」
その夜の二人は、珍しく悶々と我慢することもはっちゃけて性交に耽ることもなく、有意義な語らいに時間を使うこととなった。
* * *
翌日コンラートとユーリに声を掛けられた村田は、《思いつき》の話に目を見開いた。
「万国博覧会…ねぇ」
「良いと思わない!?」
興奮気味に語るユーリに、村田は軽く頷きながら思案した。
「ふぅん…セックス暈けしているとばかり思っていたけど、結構先のことを考えているじゃないか」
「じゃあ、村田も協力してくれる?」
「基本的に、余程馬鹿な思いつきじゃない限り君のやりたいことは支援してあげたいよ」
素直な口ぶりではないものの、村田も悪い思いつきだとは思わなかった。
『確かにね。今すぐ開催って訳にはいかなくても、一年程度の準備期間を掛けてやれば丁度良いんじゃないかな?』
コンラートの思いつきとは、国際規模の文化祭とも呼ぶべき万国博覧会を開催することであった。
これまで、国を超えた単位のイベントと言えば《天下一舞踏会》くらいなものだった。ただ、これは正式には眞魔国を含まない人間国家のみを対象としていた。コンラートはかつてこの大会で優勝したことがあるのだが、その時には種族を偽って参加していた(別にそこまで舞踏に人生を捧げていたわけではなく、諜報活動の一環であった)。それに、舞踏の種別が開催国の特徴的な様式に沿っていなくてはならないので、参加国が限られてもいた。
また、《知勇兼備を試す》とのお題目で大シマロンが主催している武闘大会もあるが、これは更に歪んだ参加条件となっている。大シマロン本国及び、支配下の属国から代表を募るものの、徹底的に大シマロン貴族にとって有利な条件となっているため、他国からの代表者は晒し者として嗤われ、踏みにじられるための生け贄に近いのだ。
そこにもってきて、各国の文化芸術を正当に認めるイベントが大々的に開催されれば、カロリアで行われた歌謡祭、《禁忌の箱》昇華に引き続き、眞魔国の株は大きく上がる。
もう一つコンラートが思いついたのは、博覧会への参加招請を、大シマロンに対してはライオネル・ドスを首領とする北朝に対して出すということであった。
今や世界唯一の大国と呼ぶべき眞魔国が、北朝を独立した国家として扱う。…それは、世界に大シマロンの正当な主が誰なのかを、暗に知らしめることになるだろう。南朝に対しても丁重な招待を行えば、彼らがどう出るかでかの国の文明度を測ることにもなる。
『指導官達にとっても、良い刺激になるかも知れないね』
コンラートとユーリが真の意味で結ばれたことは噂で広まっているから、指導官の中には忸怩たる思いで居る者もいる。このような時だからこそ、彼らに《自分は郷土の代表なのだ》という意識を持って、成長していくことを促したい。
村田はうっすらと微笑むと、期待に満ちた眼差しを送るユーリに頷いて見せた。
* * *
「博覧会ねぇ…。ユーリったら、また派手なことを考えたものだね」
「参加なさいますか?」
「勿論」
招請状を手にして、燻らすような笑みを浮かべるのは小シマロンの王サラレギー。傍らで影のように控えている男はベリエス。今は暗い色合いの髪色をしているが、本来は淡い亜麻色をしているのだと知っている。
彼が、聖砂国の王族であることも。
『少なくとも、僕の血族ではある筈なんだけど…』
幼い頃に法力が無いせいで聖砂国を叩き出されたサラレギーには、王族はおろかあの国がどういう規模の王国であったのかすら分からない。息子と共に捨てられた形の先代王も、女王アラゾンや聖砂国について語ることはなかったからだ。
『どうして秘密にするんだろう?』
それは《サラレギーの為》なのだと彼は言う。サラレギーとしては何とか知りたくて調べようとは試みたのだが、突き止めることは出来なかった。
微かに、《ひょっとして、母上が遣わせてくれたのでは》と思う瞬間もあったが、多分それは都合の良い妄想だろう。別れ際に見た母の形相から、そんな労りや優しさを感じ取ることは出来なかった。
では、何故追放された王子の為に、護衛などと言う役割に身を窶しているのだろう?
『ベリエスが僕に心からの忠誠を誓っているのは分かる。だけど…秘密を持たれるのはやはり気分が良いことではないね』
ただ問いつめただけでは答えないのなら、やはり事象をもって口を開かせるまでだ。その為には、やたらめったら不思議な事態に巻き込まれるユーリの傍に行くことが得策であるように思われた。
勿論その為だけに眞魔国に行くわけではなく、今や世界唯一の大国となった彼の国のお膝元で諜報に勤しもうという思惑が第一であるのだけど。
「楽しみだ」
「ええ」
ベリエスの表情が微かに和らぐのが少々勘に障るが、窘める気にはならなかった。《私は別に、ユーリに会えることをそんなに楽しみにしている訳じゃない》と念押ししたいのだが、そんなことをすれば尚更そう思っているように見えてしまうからだ。
「お元気になっておられるでしょうか…」
「……」
ベリエスの囁きにぷいっとそっぽを向きながら、サラレギーは表情を隠す。
『なっているさ』
諜報員を送り込んで確認させた内容の中に、《魔王の健康状態》があったことなどベリエスは重々承知しているのだろうから、敢えてコメントは避けた。
『ま、せいぜい楽しくからかってやろう』
この時、サラレギーに未来を予知する術はなかった。
眞魔国で行われる万国博覧会に於いて、自分のアイデンティティーに関わる事件が勃発するなどとは…。
→次へ
|