第3部 第10話







 衝撃的な夜を経たのはコンラートとユーリだけではなく、その場に残された者達は、それぞれの想いを抱えて夜を過ごすこととなった。

「私を…嗤っているの?アニシナ」
「あなたはどう思います?」

 クリムヒルデは応急手当を受けたものの、憔悴しきった様子で寝台に横たわっている。彼女の心を折ったのがその身に負うた傷ではなく、精神面の衝撃であることは明らかだったが、敢えてアニシナは労りの言葉を与えることはなかった。彼女のようなタイプに下手な慰めを与えることは、余計に傷を深めると知っていたからだ。

 アニシナは傷ついたクリムヒルデの姿を血盟城の使用人達は勿論のこと、家元からついてきた侍女達に見せることも由とはしなかった。その意図を伝えようとは思わなかったが、クリムヒルデの誇りを守りたかったのである。だから自分に宛われた客室に連れてくると、手ずから治癒を施して寝台に横たえた。

「一晩眠って、自分自身の想いを整理なさい。全ての答えは、あなたの中にあるはずですよ」
「…何でも、知っているような口をきくのね」

 吐き捨てるような声はいつものクリムヒルデのもので、傷ついた心を守るため、懸命に矜持を取り戻そうとしているのが分かる。

「知っていますよ。あなたが、自力で立ち直れる女だってこともね」
「…っ!」

 戸惑うように喉を引きつらせるクリムヒルデの瞼に、アニシナはそっと掌を載せた。

「眠ることです。まずは自らの力を蓄えねばなりません。その上で出た結論ならば、私も討論に付き合いましょう」
「……」

 珍しく言い返す気にはなれなかった。反射的に怒りと拒絶を示すには、今のクリムヒルデは傷つきすぎていたのだろう。
 その夜は幾度も悪夢を見て、浅い眠りの中を右往左往しながらクリムヒルデは出口を求めて走っていた。

『答えはどこにあるの?』
『私がこれまで信じてきたことは、これからどうなっていくの?』

 眠りの中で答を見つけることは出来なかったけれど、それでも朝が来れば汗ばんだ肉体には目覚めが訪れ、少なくとも、眠る前よりは体力と気力が蘇っていることを感じる。

「…アニシナ」
「なんですか?クリムヒルデ」
「あなたは、カーベルニコフ家の血筋を尊いと考えていますか?」
「血筋などというあやふやなものを尊んだことなど、一度としてありませんね」
「出発点から違うという訳ね…」

 ふぅ…っと溜息をついて額に手を当てていると、どこか楽しそうにアニシナは笑った。釣り目の彼女がそういう顔をすると目尻があがって、まるで猫のようだ。

「私が尊ぶのは、優秀な者そのものです。偉大であった祖先そのもの、そして…祖先に恥じぬよう切磋琢磨して己を磨いた者です」

 アニシナにしては優しげな眼差しが何となく居心地が悪い。《そういった意味では、私はあなたを評価していますよ》…彼女はそう口にしているわけではないが、言葉と眼差しの端々からクリムヒルデを認めていることは確かだからだ。

「純血であること、混血であることには意味はないと言いたいの?」
「当然です。価値を認めるべきは、あくまで正しくあろう、強くあろう…賢くあろうと懸命に己を律する生き様そのものですからね」
「そう…」

 クリムヒルデはアニシナとは視線を合わせないまま、むくんで開きにくい瞳を窓辺に向けた。指できゅう…っと瞼を押さえながら、想いを整理していく。

『私の誇りは、まだ折れてはいない』

 こうなったらロシュフォールの血筋が持つ価値を何としても証明しよう。
 大貴族の誇り在る生き方というものを、身をもって規範となるようにしてやろう。

「アニシナ、私…負けなくてよ。いつか…必ずあなたにも認めさせてやる。我が家門に流れる優れた資質というものを」
「あなた個人だけの優秀さであれば、家門のそれであるとは認めませんよ?」
「家門ごと、刷新するわ」

 決意を込めた眼差しは、まっすぐに窓の外を睨み付ける。
 そうだ。現実から目を逸らすのではなく、汚れた者、捻れてしまった者を是正して、この手でロシュフォール家を本来あるべき姿に修正してやる。
 ただ血筋を継いだだけでは意味がないというのなら、相応しい姿になるまで鍛えていくだけだ。

「茨の道を進むのね」
「承知の上よ」

 ばさりとシーツを跳ね返させ、クリムヒルデは両の脚でしっかと床を踏みしめると、家元から連れてきた侍女に連絡を頼んだ。居住まいを正して、もう一度誇り高い令嬢としての姿を蘇らせるためだ。

「この借りは必ず返すわ」
「楽しみにして、待っていましょう」

 視線を合わせたわけでもないのに、クリムヒルデにはアニシナがこの上なく楽しそうに笑っているのが分かった。
 気にくわない女だが、それだけに…彼女に認めさせることが出来れば、この上ない喜びを感じられるだろうとも思った。



*  *  * 
 




一方、睨み合いが続いている組み合わせもある。

「フォンギレンホール卿サーディン、フォングランツ卿アレクシス…ヴォルフラムの言っていることは真実だろうか?」

 深々と刻まれた皺を指先でぐりぐりと押しながら、フォンヴォルテール卿グウェンダルは嘆息した。その横では子どものように頬を膨らませた末弟が仁王立ちになっており、長兄が不届き者達に何らか言い聞かせてくれるのを待っている。

 正直…居たたまれない。

「真実の側面を捉えたものではありますね。私は、確かにコンラートを愛していますよ」

 サーディンがあっさりと認めると、グウェンダルとしては二の句が継げなくなってしまう。以前から怪しいとは思っていたのだが、自尊心の高いこの男は決してそのことを認めようとはしなかったので、単に弟を構う《嫌みったれ》としてしか認識していなかったのだ。それがこうも堂々と想いを認めているとなると、余計にややこしい。

「コンラートを想うことは私の自由です。ご兄弟とはいえ、意見など挟まれる謂われはありませんな」
「それはまあ…そうなんだが…」

 分かっているからこそ居たたまれない。自由恋愛を魔王自ら推奨しているようなお国柄と、基本的には性に関する倫理感が薄い魔族に於いては、二股どころか不倫であっても《愛があれば大丈夫》なところがある。富裕な貴族の中には、公然と複数の愛人家庭を維持している者も多いのだ。
 男同士の場合、寧ろ子どもが複雑な立場に置かれる懸念がない分、更に自由度が高い傾向にある。

「大体、弟君に焦がれている者など掃いて捨てるほどいるのですよ?一人一人頭を押さえつけて回るおつもりかな?」
「いや…それは……」
「兄上っ!どうしてそんなに尻込みされるのですかっ!!コンラートはユーリと恋仲なのですよっ!?それを知った上で想いを押しつけてくる図々しい男が指導官であるなど、僕は認めませんっ!」
「仕事は仕事、恋は恋でしょうに。なあ、アレクシス?」
「は…はぁ…」

 真面目な堅物であるアレクシスもグウェンダル同様居たたまれないのか、微妙に視線を逸らしながら遠くを見ている。

「ただ、私の場合は…その、尊崇の気持ちの方が強いというか…」
「ヴォルフラム、こういう手合いの方が危ないのだよ?奥ゆかしそうな顔をして油断させたところで、《一回だけ》とか言いながら関係を強要するのだ」
「勝手なことを言わないで下さいっ!!」

 ぎゃいぎゃいと見苦しい闘いを繰り広げる男達に、グウェンダルはそっと目頭を押さえた。この間にコンラートとユーリが関係を深めて、妙な横恋慕など跳ね返せるようになっていることを願うばかりだ。



*  *  * 




 ユーリが目をぱちりと開いたときには、再び部屋は夜の帳に包まれていた。いつの間にかシーツは真新しいものに変えられていて(こういう部屋には常備されているのだろうか?)、すっかり清められた身体はコンラートの腕の中に包み込まれている。コンラートは少し体温が低いが、身動いだ時に摺り合わされる肌は驚くほどに滑らかで、皮下の筋肉がきりりと引き締まっているのも心地よい。ついつい調子に乗って、すりりと身体を寄せていった。

 身じろいだ途端に腰へと痛みが響き、昨夜のことが夢ではなかったのだと教えてくれる。身体の芯から痛いのは痛いが、それは《嬉しい痛み》でもあった。

『コンラッドと…セックスしたんだぁ……』

 《一つに繋がる》という言葉は綺麗な割に、とても生々しい質感ではあったのだけど…汗ばんだ肌も荒い息づかいも、全てが愛おしくて堪らなかった。
 コンラートが狂おしいほどに自分を求めていてくれることが、嬉しくてしょうがなかった。

「ユーリ…身体は辛くない?」
「ううん…平気」

 胸板に頬をすり寄せれば、立ち上る石鹸の香りにふわふわと包み込まれる。同時に、仄かな体臭も感じられて《くふふ》と笑ってしまう。

「どうしたの?」
「いやぁ…いままでだってこうして引っついて寝ることはあったんだけどさ?あんたとああいうコトやった後なんだって思ったら、なんか…カンガイ深くてさ。だって、おれたちいま、おんなじニオイでいるんだよ?」
「そうだね…」

 コンラートも幸せそうに微笑むと、改めて腕を回して胸板にユーリを抱き寄せる。そして、顔や首筋へと降り注ぐようなキスを与えてくれるのだった。

「おれもちゅーする」
「うん、たくさんして?」

 ちゅ…ちゅっと音を立ててキスをすること自体は、今までだってやってきたことだが、一つ違うのは、何かの拍子に興が乗ると自制出来なくなるということだった。
 戒めなどというものは一度解いてしまうと、やはりダダ流しに解除状態を継続してしまうものらしい。

「あっ…ユーリ。そんなトコ、擦って良いの?」
「だってあんたのはだ、きもち良すぎるよぅ」

 くすくすと零れるような笑い声も艶っぽくて、ユーリは溺れるようにしてコンラートの胸板や腰骨辺りを掌で伝ってしまう。

「おふくろとオヤジには、あとでまとめてあやまるよ。だから、もーちょっと…」
「ふふ…ユーリのエッチ」
「あんただって、ここ…硬くなってる」
「ユーリこそ」

 ごそごそと互いの手で高め合っていけば、ほんの数時間前まであんなにも放埒に時を過ごしていたというのに、若い精はすっかり回復してしまったらしく、またしても臨戦態勢に入っていた。どうやら、まっさらにして貰ったシーツはまたしとどに濡れてしまいそうだ。

 合わさった唇の間でも、性交の一部としか思えないような濃厚さで舌が絡み合い、遠慮のない指が互いの素肌を暴いていく。

『ああ…お袋が心配してたのもちょっと分かるなぁ…』

 コンラートとの性交がこんなにも魅力的で、ハマってしまうものだとは思わなかった。この分では毎夜のように彼を求めてしまって、王太子としての勉強に差し支えてしまいそうな気がする。

『どうしよう?』

 ちょっぴり不安を感じつつも、コンラートの指に翻弄されていけばそんなものはスコンと抜けてしまう。
 精神と肉体がとろけるのを感じながら、夜が深まっていく。



*  *  *

 


 結局、ユーリの腰が本格的に立たなくなるほど愛撫し尽くしてしまったコンラートは、年長者として流石に反省した。
 
『こんなに溺れてしまうなんて…』

 コンラートはこれまで、セックスで我を失うということがなかった。どれほど手練れの娼婦や恋しいと思っているはずの女を抱いても、どこか冷静な部分があって、客観的に自分たちのまぐわいを眺めていたように思う。
 それがどうしたことだろう?ユーリを抱いている間は全ての感覚で彼を貪ってしまい、第三者視点など設けているような余裕など欠片もなかった。

『初めて性交した時だって、こんなに我を忘れたことはないのに…』

 それも初回だけの事なら、状況的なことや、禁欲生活が長かったことを考慮に入れても良いだろう。だが…目を覚ましたユーリと2ラウンド目に入った時まで、同じように夢中でユーリを抱いていた。
 全ての仕草や眼差し、感触が新鮮で、《もっともっと知りたい、繋がりたい》という欲望が清水のようにふつふつと湧き出てくるのだ。しかも確認していく行程の全てに、強い歓喜を覚えてしまう。
 
『本当に愛した子を抱くというのは、こういうものなのか?』

 それでは、今までコンラートが恋だと思っていたものは、何か別の種類の感情であったのかも知れない。

『だとしたら、意図的に制御しないとユーリを壊してしまいそうだ』

 そう心配するのも無理からぬことで、実際問題としてユーリの肉体にはかなりの負荷が掛かっていたようだ。性交をしている間は感じやすいこともあって、ユーリの方も嬌声を上げて愉しんでいる様子だったのだが、気を放って失神した後に様子を伺うと、精も根も尽き果てたように脱力しきっていた。
 やはり成長過程にある肉体は、ここまで激しい性交には耐えられないのだろう。

『毎夜でも求めてしまいそうなんだが…』

 こうなると、甘い蜜の味を知ってしまったことは、ある面では地獄かも知れない。求めれば与えられると知っていて、我慢しなければならないのだから。

 コンラートはユーリの身体をまだ清めると、今度はなし崩しに縺れ込んでしまわないよう、衣服を正していった。



*  *  * 

 


 再び日暮れを迎えようという時間帯になってから部屋を出たコンラート達は、思わず息を呑んだ。思わずイチャイチャと繋げていた手を硬直させたくらいだ(それでも、離そうとしないのが流石だが) 

「おやおや…遅ようございます」

 コンラートとユーリは同時に《げっ》と口にした。
 コンラートは《猊下》と言おうとしたのだろうが、ユーリの方は完全に、《げっ》という言葉そのものの心境であった。

 そう、廊下で待ち受けていたのは双黒の大賢者こと村田健で、本来ならそんな態度で臨むべき相手ではない。だが、明らかに二人の間に何があったか分かっている風な村田を前にして、平静な表情を装うことは出来なかった。

 チチィ…っ!

「あ…っ!」
 
 村田の肩口から姿を現した小動物にも、ユーリはギクリと肩を震わせてしまう。
 冬場は衣服の脇辺りに入れているチィなのだが、夏場と言うこともあり、更には宴の席で《衣服に毛がつくので…》と窘められて、自室の毛皮籠に入れておいたのだ。村田が気を利かせて餌を与えてくれたのだろうが、そうでなければ丸一日以上絶食させてしまうところだった。

「ゴメンな、チィ…。それに、ええと…村田、眞王廟はたのしかった?」
「別にぃ?君たちほど愉しむってことは出来なかったかな。ねー、チィ?」

 《チィ!》と、こちらも調子を合わせて咎めるように鳴く。

「そそそ…そうデスか。まあ…立ちばなしもなんだし、イスにでも…」

 すっかり挙動不審のユーリはぎこちない動作で扉を開けようとして、腰から走った痛みに顔を顰めた。

「ん…っ」
「渋谷、急に動くと辛いだろ?あと、僕は君の無事な姿を確認出来たから、別に応対までしろとはいわないさ」

 村田は有利の腰に手を回して支えると優しく囁きかけ、その一方で、こちらは冷え冷えとした眼差しでコンラートに一瞥を向ける。チィの方は、《もう離れないからね!》とでも言いたげにユーリの肩口に飛び移ると、ぐりぐりと痛いくらいに頭を擦りつけてきた。

「フォンウェラー卿、渋谷との関係が解禁になってはっちゃけちゃう気持ちは分からないではないけれど、渋谷は君と違って華奢だから、限度を考えてね?あと、致し方ない事情があったとは言え、渋谷家との約定を破ったのには違いないんだからね?」
「は…心肝に染め抜いておきます」

 コンラートは顔を青ざめさせ、有利は対照的に真っ赤にさせる。まるで信号機のような配色だ。

「村田ぁああ……っ!」

 ユーリが真っ赤になって詰め寄るが、村田の方はやけに優しい眼差しで肩へと腕を回してくる。

「渋谷、君が無事で本当に良かったよ。万が一なにかあったら…僕は正気ではいられなかった」
「村田…」
「これからも、頼むから気を付けてくれ…渋谷。この国に君を殺めようとするような輩はいないかも知れないけど、君を利用したり、その過程で君を傷つける者は…残念ながら、大陸よりも多いのかも知れないよ」
「うん…」

 冗談めかせた態度はなりを潜め、村田は心から心配そうにユーリを見つめていた。色んな事象を茶化す彼も、ユーリの身だけは心底案じてくれるのだろう。

「心配かけてゴメンな?」
「全くだよ。眞王に君が危ないと聞いたときには、全身の血の気が引いたね」
「ご…ゴメンってば〜」
「それに、今度から周囲に何を言われてもこの子は連れていた方が良いよ」

 村田の指で顎を撫でられたチィは、目を細めて機嫌良さそうにぐるぐると喉を鳴らす。こういう仕草はまるで猫のようだ。

「正直、いざって時にはフォンウェラー卿よりもアテになりそうだ」
「いやいや…そ、それは…」
「二度目は無いからね」

 ユーリが村田の舌鋒を止めようとするが、鋭い一瞥を受けたコンラートの方は、恐れ入ると言うよりも、自分自身強く感じるところがあるようで、真摯な眼差しで誓いを立てた。

「俺の中にも、二度目など存在しません」

 その声に秘められた強い意志に、ユーリの方が居住まいを正す。今度このような事態があれば、きっとコンラートの心が砕かれてしまう…そう思うからこそ、ユーリ自身が重々気を付けなくてはならないと感じたのだ。

『大事に思ってくれる人を、哀しませちゃあいけない』

 チィのざらりとした舌で頬を舐められながら、ユーリもまた、決意を新たにした。

 


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