第3部 第1話
蒼空と碧海の狭間に、すぅ…っと異なる色彩が浮かび上がると、甲板にいた人々から一斉に歓声が上がる。
「見えた…っ!眞魔国の港だぁ…っ!!」
「うんうん…。帰ってきたねぇ…っ!」
水兵達に混じって王太子有利が感慨深そうに叫ぶと、船室から乳児を抱えて出てきたニコラも《きゃあ!》と高い声を上げた。
「エル…見て御覧?お父さんの国よ…!」
朗らかに囁きかけるニコラに、まだ視力の弱い乳児が不思議そうに顔を揺らす。
船旅の途上で産気づいたときには有利などは大慌てしてしまったものだが、産婆の経験もある衛生兵達が居てくれたおかげで、無事に男の子が生まれていた。付けられた名はエリュシオン、愛称は前々から呼んでいたようにエルだ。
眞魔国で《グリーセラ卿》と名乗れるかどうかは不明だが、事情については既に白鳩便でグリーセラ家に伝えているし、あちらで面倒を見てくれないのだとすれば、何らかの形で眞魔国に居着けるよう、有利の方で取りはからうつもりである。
「ニコラ、生まれて間もない乳児に海上の陽射しは強すぎるわ。そろそろ戻った方が良いわよ?」
「ああ…ゴメンなさい」
ギーゼラが優しく声を掛けると、ニコラも素直に頷く。エルの出産を手伝ってくれたギーゼラを、ニコラはすっかり信頼しきっているのだ。
「これから生きていく国なのよ…って、教えてあげたくて…」
「慌てなくても大丈夫。あなたはこれから、この国でたっぷり幸せになるんだから」
「ええ…そうですね。本当にそう…」
何をして生きていくかはまだ考えていないのだろうが、逞しい彼女のこと、幼子を抱えては居ても、身体が万全になりさえすれば生きる手だてを見つけて行くに違いない。
その頑張りを支えていくためにも、有利はニコラ達人間の居場所を、眞魔国の中につくってあげたかった。
スヴェレラで寄せ場という名の強制収容所に収監されていた女性達の多くが、元の家庭には戻れず、特に、引き離された魔族を恋しく思う者は眞魔国行きを希望していた。ただ、眞魔国に来たはいいが相手の男が単なる火遊びのつもりで居た…なんてことになると悲惨なので、事前に相手の男性の名前を聞き、その所在と想いが確認できたカップルだけを引き合わすべく眞魔国行きの船団に同行させている。
幸いにして、事故や戦争で死んだ者以外は《是非会いたい。会って、苦労を掛けたことを詫びたい》と言ってくれたので、女性達は改めて魔族の真心と、今まで生きてきたことが無駄ではなかったのだと再認識出来たことだろう。
『戻ったら、即結婚!って人も多いんだろうな…』
そんな中、行方が杳として知れないグリーセラ卿ゲーゲンヒューバーのことだけが心配だった。生まれたエルの顔立ちは、ゲーゲンヒューバーを知る者達からは《間違いなく、彼の子だ》と太鼓判を押されているものの、グリーセラ家の人々が《証拠がない》とか、《混血など…!》と拒絶すればどうにもならない。ニコラは強い女性だが、それだけに有利には心配でならなかった。
『ひょっとしたら、ニコラだけはスヴェレラに置いておいて、グリーセラ家の人たちの出方を見てから眞魔国に行くかどうかを決めた方が良かったのかも知れない…』
最初から迷っては居たのだが、ニコラが強く眞魔国行きを主張したことから、止めることが出来なかったのだ。有利としては、頼むから彼女にとって過酷な運命が待ち受けていたりしませんように…と、祈るほかなかった。
* * *
「あれが…眞魔国の国際港?」
「ええ、そうですよ。グレタ…立派なものでしょう?」
「うん…あんなの、初めて見た!」
グレタの感嘆の声に、フォンカーベルニコフ卿アニシナは誇らしげな微笑みを浮かべる。もう彼我の距離に近づいてきた港は細部まで見て取れるようになっており、その壮大な規模と、優れた構造が子どもの目にも飛び込んでくる。
「凄い工夫がされているのね!護岸工事も見事だわ…。きっと、大きな嵐が来ても平気ね?」
「ええ、記録的な大津波が来たときにも、港内にがっちりと固定された船舶は一隻たりとも沈没しなかったのですよ」
「凄い…!」
瞳をキラキラと輝かせて感嘆するグレタに、アニシナは内心、港に対する以上の強い感動を覚えていた。
『この子は本当に筋が良い…』
ものごとの重大事に対する見極めが鋭く、しかも的確で速い。新たな物事をぐいぐいと吸収しようとする、貪欲なまでの向学心も素晴らしい。きっと、良い罠女…あるいは、科学者になれることだろう。
『この子は元々の才能も優れているのだろうけれど、やはり何と言っても、王太子殿下の為に尽くそうという気概がとても強いのだわ』
ふと視線を遣れば有利が船縁から眞魔国を見つめていて、その傍らにはウェラー卿コンラートが佇んでいる。十一貴族に配せられた彼は、正式な書面では《フォンウェラー卿コンラート》と記載されることになるけれど、日常的な場面ではおさまりが悪いからと、ウェラー卿コンラートを名乗ることにしている。実際的な彼らしい判断だ。
『素晴らしい男だけれど、それだけに…グレタにとっては残念なことだわね』
コンラートがいなければ、そもそも有利がグレタに出会うこと自体が無かったとは思うのだが、そんな前提は置いておくとすると、やはりグレタにとってコンラートは勝ち目のない恋敵といえるだろう。
ただ、何だかんだ言いながら、グレタの方でもコンラートを認めているのは幸いだ。成長して大人びてくれば、さぞかし小姑のように苛めたりはするかもしれないが…。
「アニシナ、どうしたの?」
「いえ、こうして眞魔国の港に向き合っていると、様々な人々の今後について考えてしまうのですよ」
「ああ、確かに〜。フォングランツ卿アーダルベルトなんて、一体どうするつもりなのかしらね?」
「あー、そんな男もいましたね」
流れる風で会話が漏れ伝わったのか、アーダルベルトが憮然とした表情で近寄ってきた。
「ふん…女ってのは噂話が好きなもんだな」
「幅広い卓見あればこそです。だらしのない男が一体どうするつもりで居るのか、気になるではありませんか」
「お前さんには関係の無い話だろうが」
「関係?ありますとも!あなたがグランツ家と揉めると、王太子殿下が心を痛められます。殿下は、これから十一貴族を取り纏めて眞魔国の国力を増していかねばならぬ身ですからね」
「…そうかい」
口でアニシナに勝つのは不可能と悟ったのか、あるいは多少家元のことを思う気はあるのか、アーダルベルトは憮然としたまま船縁に両腕を載せた。
『それでも、こうして一緒に眞魔国へと来る気になっただけマシといえるでしょうね』
彼は彼なりにけじめを付けようとしているのかも知れない。自ら捨てた家と国に対してのけじめを。
* * *
「コンラッド、ひさしぶりだね〜、眞魔国」
「ああ…そうだね」
次第に大きくなっていく港の景色に視線を送りながら、有利はきらきらと瞳を輝かせている。まだ眞魔国に対して《里心が付く》という感覚は無いだろうから、おそらくはコンラートの心情を鑑みてわくわくしているのではないだろうか?
『不安も多少はあるが…やはり眞魔国に帰るのは嬉しいな』
既に港までフォンヴォルテール卿グウェンダルが迎えに来てくれていることが分かっている。もうじき港の人混みの中に、上背の高い彼の姿を視認することも出来るのではないだろうか?会ったら、一番に心配を掛けたことを謝らなくてはならないだろう。白鳩便の伝えてきた手紙の端々から、直裁にではないものの、彼が如何にコンラートや有利のことを気に掛けていたかがよく分かった。
『グウェンと会うことを、こんな風に楽しみに出来る日が来るなんてな…』
あの事件が起こるまでは会う機会自体が少なく、宴や作戦会議の席で一緒になるときには、決まって緊張していたものだった。彼に侮られたくない一心で、必要以上にきびきびと行動していたような気がする。
ただ、今は今でどんな顔をすれば良いのか分からなくて、何とも面映ゆいような心地にはなるのだけれど…。
『後は…ヴォルフラムか』
グウェンダルと疎遠であったのは、どちらかというとコンラートの方が構えてしまって素直に甘えられなかったことが一因かと思われるが、あの子の場合は少し事情が違う。何しろ、幼い頃には《ちっちゃな兄上》と呼んで慕ってくれていたのだし、共に過ごした日々は結構な長さだった。気心が知れていたはずの相手から侮蔑の言葉を投げつけられたのだから、根本的なところで何か誤解をとかないと、関係改善は難しいところだろう。
『一体あの子は、俺がどうなったら親しみを持ってくれるんだろうか?』
自分ではない何かに変わるのは難しい。特に、変えるべきものが分からないとなれば尚更だ。
『今更純血になるべく、血の半分を流すわけにもいくまいしな』
かつては自分に流れる人間の血を憎んだ瞬間も確かにあったが、やはり父に対する尊崇の気持ちは強かったし、その後、地球に渡ってウェラー家の血脈が伝えようとしたことの重みを感じれば、二つの種族の血を併せ持つ自分を誇らしくさえ感じられる。
だから、この点は修正できるのだと誰に言われたとしても、コンラート自身が直したくは無いと思っている。
『さてはて、それではどうしたものか…』
全てを迅速に処理できるように鋭利な判断力を持っているはずのコンラートも、こと家族関係に関しては甚だ不器用な対応しか出来ないのであった。
「あ、コンラッド…見てみてっ!」
「ああ…見えてきたね」
湾内に艦船が入っていくと、港から沸き立つ歓声が大気を震わせ、気の早い待ち人達が花びらを散らして有利たちを歓迎している。大きな横断幕には色鮮やかに帰還を祝福する言葉が描き出され、《禁忌の箱》を昇華したことも言祝(ことほ)いでいる。
「すごい、大かんげいだねっ!」
「ユーリがそれだけのことをしたからだよ」
「おれは、大したことしてないよ〜」
照れ照れとはにかむ恋人が可愛らしくて、思わず触れるだけのキスで唇を掠め盗っていくと、港で待ち受ける人々の間からは《きゃあ〜っ!》と歓声が上がる。意外と目の良い連中が揃っているものだ…。ひょっとすると、双眼鏡などで早くから確認していたのかも知れないが。
「こ…コンラッド…はずかしい〜っ!」
「君を盗られないように、予防線を張っておいたんだよ」
「おれなんかダレも、ねらってないよ?」
ぷくっと膨らんだ紅いほっぺが可愛くて、抱き寄せて思うさま咥内を蹂躙してやりたくなる。全くもって自覚のない恋人は、自分がどれだけ魅力的な存在なのかさっぱり分かっていないようだ。
『これからは指導官と共に学習活動もしていくわけだし、油断は禁物だな』
有利の方に浮気をする気など全くないのは分かっているが、自覚の無さ過ぎる彼は、つるっと指導官について行って、簡単に二人きりの時間を作られてしまいそうだ。
「あ…御覧、グウェンが見えてきたよ?頭一つ分周りより大きいから目立つな」
「ホントだ。マジメそうなカオしてるけど…ときどき、ニヤニヤしそうなのをがまんしてるね?」
「言わないであげて、ユーリ。兄上なりに頑張って居るんだから…」
「そう言いながら、コンラッドもニヤニヤしてる!」
それは仕方のないことだ。兄が自分の帰りを楽しみにしていることを確認して、微笑まずにはいられないのだから。
* * *
ガ…ション……っ!
がっしりと艦船が港の金具に固定されると、強い風に揺らされていた船体も安定して、下船が可能な程度に揺れを収める。流石にレッドカーペットとは行かないが、それでも二頭立ての立派な馬車に向かう特別な道には、そうと分かるように一定間隔で支柱を置き、それをリボンで華やかに繋いでいる。
有利が少々照れながらその道を進んでいくと、馬車に行き着く前に靴音を響かせてやってきたグウェンダルや、その他十一貴族の指導官達に迎えられる。中には、直接当主級の人物が出張っている家もあった。
「長の旅路、お疲れ様でした。ユーリ殿下、コンラート…」
グウェンダルが恭しく一礼すると、有利とコンラートが順に懐かしげな声を上げる。
「お迎えしてくれて、ありがとうね、グウェン」
「ご心配お掛けしました」
「全くだ!」
眞魔国にいる間、コンラート達を心配していた時のことが思い起こされるのか、グウェンダルはちいさく肩を震わせた。そして、気遣わしげな顔をしながらコンラートの左腕を確かめる。
「本当に…これは、もとの腕なのか?」
「ええ、まだ完全に違和感が無くなっているわけではないのですが、俺自身の腕ですよ。アニシナのおかげです」
「ふむ…あいつの魔導研究とやらも、たまには役にたつものだ」
グウェンダルは憎まれ口を叩きながらも、血の通う腕に安堵しながら、愛おしげに二の腕辺りを撫でつけていた。…が、すぐにその表情は強張ることになる。
「《たまには》とはお言葉ですね、グウェ〜ンダァ〜ル?」
「…っ!」
語尾を妙な具合に伸ばして下船してきたアニシナは、素早い動きでグウェンダルの懐に潜り込んでいった。
「私の研究が如何に有益か、もっと身体の性根にまで叩き込む必要がありそうですね?」
骨髄染色とかされそうだ。
「いや、もう結構だ!」
「あなたが結構でも、私はちっともさっぱりぱっきり結構ではありません。船旅で思うように研究が進んでおりませんし…こうなったら、ゆっくりと血盟城で研究を手伝わせてあげましょう」
「嫌だっ!」
「駄々っ子じゃあるまいに、四の五の言うのではありませんっ!」
「心底嫌がっているのがどうして分からんのだお前には…っ!」
「分かっても、私には関係ないと思っているからですよ」
「アニシナ、どうしてお前はそう…」
罵倒し合う男女を呆気にとられて見守っていたのだが、淡いピンクのフレアドレスに身を包んだグレタは、明らかにドキドキした様子でグウェンダルの前にやってきた。
「お…お初にお目に掛かります、フォンヴォルテール卿グウェンダル閣下!こ、この度…王太子殿下の養女にして頂きました、スヴェレラのグレタと申します。また、フォンカーベルニコフ卿アニシナには、立派な罠女になれるようにご指導頂いておりますっ!」
鯱張って声を上げているグレタに、グウェンダルはしゃがみ込むと彼としては精一杯優しげな声音で語りかける。
「話は聞いている。とても前途有望な、才能在る少女だとアニシナも手紙で書いて寄越した。正式な王太子の養女として手続きも済ませているから、血盟城に用意した部屋で遠慮なく過ごすと良い」
「あ…ありがとうございます…っ!」
グレタに対する対応については既に血盟城内では告知が為されていたのだが、やはり魔族達の反応はそれぞれであった。フォンウィンコット卿オーディルやデル・キアスンのような、コンラートに親しい位置にある者は実に好意的な表情を浮かべていたが、口には出さずとも、明らかに懸念と不審を抱えている者もいる。
* * *
『人間を血盟城にいれる日が来るとは…!』
フォンロシュフォール卿クリムヒルデは怒りを込めた眼差しで、幼い少女を睨め付ける。確かに廃国とはいえ、元皇女であった身分のためか利発そうな顔立ちの少女ではあるが、それでも穢れた人間の血が流れているのは間違いない。それが栄えある眞魔国の王都の…それも、国の枢軸である血盟城に住まうなど、怒りすぎて神経が焼き切れてしまいそうだ。
当然、王太子の養女にすること自体を問題視してロシュフォール家、ビーレフェルト家連名で申し立てをしたのだが、魔王たるフォンシュピッツヴェーグ卿ツェツィーリエの反応は甚だ芳しくないものであった。
『まあ…どうしてそんなに怒っているの?あのユーリちゃんが《どうしても養女にしたい》と言うのよ?きっと、とても良い子に違いないわ』
まるでそのような言いがかりを付けること自体が、節度を弁えない行為だとばかりに責められて、クリムヒルデはその場で卒倒しそうになったものである。
『ああ…こんな時に、ヴォルフラム様が居て下されば…っ!』
何故なのかは教えて貰えなかったが、ビーレフェルト家の代表として共に申し入れをしに来たのは現当主であるヴァルトラーナだけで、次代の当主と目されるヴォルフラムは血盟城に現れなかった。
しかし、幾ら何でも王太子の帰還が迫ってくれば、正式に指導官として任命されているヴォルフラムが上京しないわけにはいかないと踏んでいたのだが…とうとう、帰還船団の到着日になっても彼は姿を現さなかった。
『ヴォルフラム様も、怒りのあまり職務を放棄したくなったのかしら?』
その気持ちはクリムヒルデとてよく分かる。彼女にしたって、眞魔国語も十分に話せない混血児の相手など御免被りたいところであるが、魔王自ら指名してきた人事を拒否できるはずもない。
『一体、どうなさったのかしら?』
色んな意味で不安が頭を擡げるものだから、クリムヒルデはここ暫く激しい頭痛に苛まされて、十分に睡眠もとれないような有様であった。
『全く…呪われてしまえばいいのだわ』
直接的にクリムヒルデが手を下すことが出来ないのだとしたら、なにがしかの呪いによってあの人間の娘も、混血児の王太子も、栄えある十貴族の名を貶めて中途半端な数にしたコンラートも、破滅の道を歩めばいいのに…と、闇い祈りを捧げるほかなかった。
* * *
さて、陰湿な呪いなど跳ね返すように明るい雰囲気を放つ有利たちは、暖かな出会いの儀式を続けている。
グレタと入れ替わりにグウェンダルへと挨拶をしてきたのは、やはり緊張しきったニコラであった。
「ぐ…グウェンダル閣下におかれましては…ま、マコトにごきげんうるわしゅーっ!」
声がすっかり裏返っているニコラは、顔を真っ赤にしてエルを抱きしめている。グウェンダルは多少複雑そうな表情ではあったが、旅の労をねぎうと、背後に何か合図をして一組の老夫婦を呼び寄せた。
「グリーセラ卿ベルボッチと、グリーセラ卿マリアンヌ…ゲーゲンヒューバーの両親だ」
それは意外なほどに老人めいた二人で、周囲で見守っていた魔族達もひそひそと囁き交わしている。彼らの記憶にある姿は、もっと若々しかったに違いない。
純血魔族でありながら、これほどの老け込みを彼らが見せる理由を、ニコラは少しだけ教えて貰っていた。魔力の強さの如何にもよるのだが、魔族は精神的・肉体的に痛めつけられると急速に老化が進むことがある。ことに、ゲーゲンヒューバーの家族は期待を掛けていた息子が、国中から愛されていたスザナ・ジュリアの死に関わっているかのように悪し様に罵倒されていた。また、任務の途上であるにも関わらず行方を眩ませたことで、更に激しく衰弱しているのだとろう。
「ま…っ!」
顔を合わせた大貴族の夫妻と人間少女は、最初の言葉が上手く出てこないのか、ぎくしゃくと鯱張っていた。だが、ふにゃ…とエルが笑うように表情を変えて老夫婦に向けて手を出すと、ニコラは途端に鮮やかな笑顔を浮かべて屈託なく口を開いた。
「お父様、お母様、初めましてっ!私はニコラ、この子はエリュシオン…エルと呼んで下さいっ!この度は、お二人にお礼を言いたくてやってまいりましたっ!!」
「お…礼…ですって?」
マリアンヌは、生来は厳しく釣り上げられていたのだろう眦を皺の中に歪めて、口元を覆っていた。もしかすると、若い身空で子種だけを残して失踪した息子について、ニコラから罵倒されると思っていたのかも知れない。
「私…身分も学も無い、人間の女です。とてもヒューブに…息子さんに釣り合うような立場ではないって、わかってます。だけど…私はヒューブを愛せて、本当良かった…!だって、あんなに誰かを愛しいと思ったことは無かったですもの。あんなに幸せな気持ちをくれた人は、いなかったですもの…!そして何より、ヒューブは私に宝物をくれました。だから、お礼を言わせて下さい」
そう言ってエルを捧げ持つと、マリアンヌは戸惑うように震える手を差し伸べた。
「触れても…良いのですか?」
「はい、それはもう…っ!是非抱いて頂きたいですわ。自慢の息子ですのよ?」
「自慢の…息子……」
マリアンヌは孫息子を抱くと、眦に涙を浮かべて声を詰まらせた。
「長く…私にとっても息子は誇りでした。ですが、先の戦争で不名誉な敗北を遂げた息子は…戦犯として扱われました。純血の誇りが強すぎて、最終的に国を救ったルッテンベルク師団に対しても、不利益な行為をしていたと…それは…利敵行為だとも詰られて…っ」
「…お辛かったですね。戦争のこととか…そういうのは、ゴメンなさい…私、よく分かりません。だけど…これだけは自信を持って言えますよ?」
ニコラはエルを抱くマリアンヌの手に自分のそれを恐る恐る添え…そして、拒絶されないのを知ると、額を押し当てて強く告げた。
「私の愛したヒューブを産んで下さって…ありがとうございます…っ!私にとっては、ヒューブは何時までも変わりなく、宝物です…っ!!誰が何と悪し様に言おうとも、ヒューブ自身の価値は変わったりはしませんわ。今でも彼は、お母様の宝物でしょう?」
「……ニコラさん…っ!」
どう…っと二人の女性の瞳から涙が溢れ出すと、堪えきれずにベルボッチも目元に滲むものを拭う。
誰に《誇る》ことが出来ないのだとしても、《宝物》であるという事実は変えなくて良いのだと強く主張する人間の女に、これまで抱いていた価値観を大きく揺さぶられているのだ。
「こんな日が来るとは…想像だにしておりませんでしたな」
「それは、良い方にですかな?悪い方にですかな…?」
グウェンダルの問いかけに、ベルボッチは困ったように苦笑する。
「ふふ…この私が、人間の嫁に…感謝の気持ちを抱いているのですよ?」
《救われた…とさえ、思うのです》…その囁きは震える声のために小さくはあったが、確かにグウェンダルの耳には届いた。
「変わられましたな、ベルボッチ殿」
「グウェンダル閣下も…でしょう?」
男達は盛夏の眩しい陽射しを浴びながら、自分たちの中に在った価値観が、大きく変わろうとしていることを自覚して微笑んだ。
それがちっとも《嫌ではない》ことが、昔の自分から考えたら信じられないことだったのである。
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