第2部 第9話






「そっか…じゃあ、グレタは双黒がどんな奴かは分からなかったけど、育て親の人たちが噂してたから、殺しに来たんだ」
「うん…」

 ユーリが口にしているのは、自分自身が語った言葉だった。
 なのに、どうしてだろう…?人の口を借りると、急に客観的に感じられるのは。

 グレタはゾラシア皇国の第3妃の娘であったのだが、皇国が滅びる前に母の出生国スヴェレラに預けられた。しかし、スヴェレラ王宮でのグレタの扱いは、《飢えないだけありがたいと思え》というものだった。
 顧みられることのない寂しさから、囚人である魔族との交流を望むほどに…。

『ヒューブは優しかった。なのに…どうしてあたし、陛下や妃殿下が言われるとおりに双黒を恐ろしいものだって思ったんだろう?』

 ゾラシアに比べて教会の教えが厳密であり、倫理教育が徹底しているスヴェレラにいたからだろうか?だから…《双黒をこの手で殺すんだ》と思いついたときには、素晴らしく英雄的な行動だと思って心が浮き立ったのだろうか。

 ただ…相手が恐ろしくて悪い存在なのだとしても、自分が血の通った生き物の肉体をナイフで刺すのだと思ったら、高揚感と恐怖で手が震えた。カロリアに近づき、現実味を帯びていくに従って、怯みや迷いも強くはなっていた。
 それでも、カロリアまでの孤独な旅自体が無駄なことだったと思いたくはなくて、華奢な少年の肉体に金属を埋め込もうと突撃したのだ。

 勢いでいけば、自分にだって殺せる。
 殺したら…きっと違う自分になれると思った。

 伯父夫婦にも王宮内の人々にも無視され、蔑ろにされるような無様な子どもではなくて、英雄になって…。

『英雄に…なりたかったのかな?』

 《本当に?》…自問自答してみると、少し違うような気もする。

「殺せていたら…良かったと思う?」

 ぽつ…とユーリが呟く声は決して強い語調でも、咎めるようなものでもなかったのだけれど、グレタには鋭さを帯びて抉り込んでくる。
 今頃になって、罪悪感が身震いするような感覚で襲ってきたのだ。

「………今は、思わない……」

 ぽろりと本音が零れた途端、涙が溢れてきた。

『英雄になりたかったんじゃない…。誰かに、《大好きだよ》って言って欲しかったんだ…』

 その為には何だってしていいと思っていた。
 殺される側の立場なんて、考えたこともなかった。

 双黒が、悪いものなのか良いものなのか…本当はどうでも良かったのだ。

「…何してたんだろ?双黒を殺したからって、あの人達がグレタのこと愛してくれることなんてないのに…」

 最初から、勝算のない賭だったのだ。
 旅の間にどこかで分かっていたのに、目的を無くしたら今度こそ心が折れてしまいそうで、双黒を殺した後はどうなるかなんて極力考えないようにしてここまで来た。

 なのに、無茶な理由で襲撃を受けた双黒は、怒りを示すどころかグレタの身を案じてさえくれたのだ。あの時は世間を謀る為の方策としか思えなかったが、今はそうではないような気がした。
 こうして暖かい食べ物を与えて、話をじっと聞いてくれるユーリのような子と一緒にいるのなら、双黒がそんな計算高い存在だとは思えなかった。

「殺さなくて、良かったね。誰かを傷つけたら、グレタみたいな良い子はいつかきっと気付いてしまう…あんなコトするんじゃなかったってね」
「うん…うん……」
「良かったね…本当に、良かった…」

 《良かったね》…その言葉が、熱々の卵以上にグレタの心を暖かく包み込んでくれる。全てを赦すようなやわらかい声音に、グレタはぼろぼろと涙を零した。

「…………」

 ジャリ…と身じろぐような音がしたので《ビク…》っと反応して通路を見やると、老いた衛兵が不思議な表情を浮かべてこちらを見ていた。
 《信じられない》…そんな顔の意味するところは、一体何なのだろう?

『あの人も驚いたのかな?魔族がこんなに優しくしてくれるなんて、思わなかったんだよね?』

 そうだ。魔族は…こんなにもやさしい生き物だったのだ。
 こうなっては認めざるを得ない。

 だが…認めてしまったことで、グレタは酷く心細くもなった。これから何を目的にして生きていいのか、さっぱり分からなくなってしまったのだ。

 《どうしたらいいだろ?》…泣きながら思い出したのは、双黒のことだった。怖くてまっすぐに顔を見られなかったから、表情については覚えていないのだけど、声の感じはとても衝撃を受けている様子だった。

「そうだ…あの人に、謝ろう…」
「あの人?」
「双黒…。ねえ、あんたはあの人のこと、知ってるんでしょ?口利きしてくれない?」
「知ってるけど…」

 何故だかユーリはぽりぽりと頭を掻くと、伺うようにグレタを見た。

「……怒らない?」
「なんで?」
「ええと…ちょっとだけ、おれ…ウソをついたんだ」

 その嘘の正体に気付いたのは、ぽろりとユーリの目から硝子片が落ちたときだ。

「……なっ!?」
「ええと…双黒デース……」

 真っ黒な瞳を見つめ返しながら…グレタは暫くの間、ぱくぱくと口を開閉することしかできなかった。



*  *  * 




「随分と簡単に攻略しちゃったねぇ…。渋谷にしちゃ上出来だ」
「ユーリの真心の賜です」

 誇らしげに胸を張るコンラートと同様に、実のところ村田の表情も軟らかく綻んでいる。脇に佇むヨザックも同様だ。
 彼らは万が一の場合には間に割って入れるよう、地下牢の通路手前で息を潜めていたのである。
 
 ただ、コンラートには何か懸念事項があるようで、その表情は幾らか物憂げである。

「どうかしたの?」
「衛兵が没収したグレタの持ち物の中に…こんな物がありました」

 ぷらん…と手から下げた鎖の先には、細かな浮き彫りが施されたメダルがあった。そこに刻まれた紋様は村田にも見覚えがあったが、正確に読み取ることは出来なかった。

「これは…徽章?」
「ええ、おそらくはグリーセラ卿ゲーゲンヒューバーが所持していた物と思われます」

 その名に、ぴくん…とヨザックの眉が跳ねたが、敢えて何も言わなかった。
 コンラートが声を荒げない以上、自分がどうこう言う問題ではないと思っているのか。

「…っ!それゃあまた…確証はあるのかい?」
「可能性は高いと思います。彼は追放に近い任務…手がかりの殆ど無い《魔笛探索》という責を負っていましたが、定期的な報告は欠かしていなかったそうです…。それが途絶えた時期と、グレタの言う《魔族が閉じこめられていた》時期が一致するのです」
「ふぅ…ん。でも、グレタと共に逃げ出したってのに、どうして今は連絡がないのかな?」
「そこまでは…」

 コンラートの表情は複雑そうだ。
 幾らかアルノルド前後の顛末を聞いている村田は、それ以上は尋ねなかった。
 
 グリーセラ卿ゲーゲンヒューバー…ウィンコット卿スザナ・ジュリアが死ぬ要因となった男だと聞いている。戦略の失敗による責をどこまで一個人に帰して良いものか判断に迷うところだが、彼が多くの者の恨みを買っているのは確かだった。
 ことに、スザナ・ジュリアの親友であったコンラートには重い話だろう。

 ただ、その魂を受け継いだのが他ならぬ有利である以上、コンラートとしてはこの会話の中にいま入っていくわけにはいかない。後日、グレタだけに問うべきだろう。

 会話の声が近づいてくると、コンラートと村田は足早にその場を後にした。
 複雑な心境を反映して拗ねたようなグレタの声と、詫びる有利の声が近づいてくる。有利はこのまま、フリンに頼んでちゃんとした部屋にグレタを入れて貰うつもりなのだろう。

『ま、ともかく明日以降の話だな』

 あふ…と欠伸をすると、村田も自分の部屋に戻る。ひたひたとつけてくる気配はヨザックのものだと気付いているから、敢えて声は掛けずに部屋に入った。迂闊に会話を交わすと、部屋に招いてしまいそうだったからだ。

 村田の心の方も、なかなかに複雑なのである。



*  *  * 




 翌朝、若い衛兵モルダー・リックランは目を剥いていた。

 昨夜の内に《あの少女を解放した》という通知は受け取っていたものの、その子がまだ多少表情の選択に迷いながらも双黒と並んで歩いていたら、誰だって驚くだろう。見回せば、やはり冷静な顔を保っていられたのはほんの一部で、誰もが気味悪そうに双黒を眺めていた。

 モルダーは魔族と直接戦闘したことはないものの、小シマロンに徴兵されている間に、魔族が如何に恐ろしく淫らな罠で誘惑してくるかも聞いていた。きっと夜の間に年端もいかない少女を調教して、下僕としてしまったに違いない。

 思い浮かべて…淫蕩な想像にくらり目眩がした。
 元々敬虔な教会信徒であり、小シマロンで更に厳格な指導を受けたモルダーにとって、その想像は雄としての欲望よりも恐怖を誘うものであった。

『恐ろしい…何と罪深いことを…!一夜にして、あんな少女を虜にしてしまったのか?』

 一体どのような手管を使ったものか、少女はすっかり双黒に馴染んでしまっているらしい。はしゃいで歩いている内に少し躓くと双黒が手を伸ばしてきて、少女は照れながらもおずおずと手を握り返していた。

 ふと…双黒の眼差しがこちらを向いたものだから、モルダーは反射的に目を閉じてしまった。衛兵としては問題のある行動だが、本能的な恐怖を前にしては職業上の規制など効果を為さない。
 更には《とっとっとっ…》と弾むような足取りで駆け寄られたとあっては、悲鳴をあげかなかっただけ大したものだと自分で自分を褒めてやりたい。おかげで、反射的に目が開いた。

「あの、フリンさんはどこに…」
「触るなぁああ……っ!!」

 絶叫をあげて、双黒の手を弾いたことを恥ずかしいとは思わなかった。
 この状況であれば誰だってそうする。一応は賓客として招かれている身だから剣を突きつけたりはしないが、こちらの心や身体を汚されたら天国に行けなくなってしまうではないか。それは、死そのものよりも深い恐怖だった。

「ああ…、さわ…っ…触ってしまった…っ!呪われる…っ!!」
「モルダー、無事か…っ!?」

 恐慌状態に陥っているモルダーを救おうとして、何人かの仲間達が駆け寄ってくる。いずれも小シマロンに徴兵されていた連中だ。
 双黒が恐ろしい技を使って…邪悪なる火吹き竜や毒の雨を降らせて襲いかかってくると思ったに違いない。

 ジャキ…っ!

 恐怖と、それを覆い隠すための敵意に満ちた眼差しを突きつけたモルダー達だったが、当の双黒は吃驚して大粒の瞳を更に見開いていたかと思うと、次いで…哀しそうな瞳でモルダー達を見やり、弾かれた手をギュ…っと一方の手で握った。

『泣く…?』

 反射的に、そう感じてビクリと震えた。

 一瞬だけだが…恐怖が罪悪感にすり替えられて、双黒を《可哀想》と感じてしまったことに、次の瞬間には慄然とする。

『これが魔族の中でも恐れられている双黒の技なのか…っ!?』

 殺すしかない。
 フリンの立場がどうなろうとも、このような危険な存在を野に置いていてはならない。
 少なくとも、人間の住まう大陸に置いておくことは神に対する冒涜だ。

 モルダーは柄に掛けた手に力を込めて、一気に刀身を抜き放とうとした。

 その時、双黒の前にひらりと風のように舞い込んできた人物が居た。鞭のように撓る長身と身のこなしは徒者とは思えない。ダークブラウンの頭髪を風に揺らし、印象的な琥珀色の瞳に射竦められたモルダーは、一瞬言葉を失って動きを止めた。男の全身から放たれる《闘気》に威圧されたのだ。  

「な…なんだ、お前は…」
「俺はコンラート…この子を、護る者だ」

 静かに告げた男は、肩幅程度に脚を開いた自然な体勢のまま、気負いも怒りも示さず双黒の前に立ち続けている。腰には使い込まれた長剣を帯びているが、柄に手は伸びていない。

「護るぅ…?大層な言い回しをするもんだな。剣を手にすることもできない臆病者のくせに!」

 沈黙と静止がもどかしくて声を荒げて抜刀するが、それでもコンラートと名乗った男は動じることなく、涼やかな佇まいを崩さない。

「《護る》と言ったのは、肉体だけじゃないさ。俺はこの子の精神も…夢も、全てを護りたい」

 俯いていた双黒の顔が《はっ》と上げられ、大粒の瞳に生気が蘇るのが分かった。

「この子が最も望むこと…争いではなく、赦しと協調によって魔族と人間が結びつくことを、何としても叶えてやりたい。だから、君の剣が本当に致命的に接近するまで、俺は剣を手にしない」
「……っ!ば、馬鹿にしてんのかよっ!!」

 言っている意味がさっぱり分からなくて、モルダーは意固地になって喚いた。
 《赦し》に《協調》なんて、一体どの口が言うのか。魔族なんておぞましい存在が口にして良い言葉ではない。

 しかし、尚もコンラートは剣を手に取ることはなく、それどころか背後に匿われていた双黒もまた、自分を護る男の横に出てきてこんな事を言うのだった。

「ばかになんか、してない。本当にそれが、おれの願いなんだ。おれは、戦争は大キライだ。種族がちがうってだけで、意味もなくにくみあうのもイヤだ。ね…あんたとも、ケンカとかしたくない。剣をひいて?おれはただ、フリンさんが今どこにいるか聞きたかっただけなんだ」
「……っ!」

 どうしてそんな、澄んだ瞳の色をしているのだろうか? 
 おぞましい色の筈なのに…漆黒の瞳は少年らしい瑞々しさを湛えて、強い光を放ちながらモルダーを見つめている。
 
 《魔族って、そんなにわるいものではないのかもしれない…》そう思いかけた瞬間、胃の腑を灼くような怒りが込みあげてきた。

『これが…魔力なのか!』

 危ないところだった。
 もう少しで騙されるところだった。

 ああ…こんなにも複雑な手口で騙してくるとは思いも寄らなかった。

『如何にも清純そうな顔をして、俺を誑かそうとしているのか!』

「うわぁあああ……っ!!」

 おそるべき魔力の触手が蜘蛛の糸のように全身に絡みついてくる…そんな幻想に駆られたモルダーは、出鱈目に剣を握ったままの腕を振り回そうとした。

「よせ、モルダー」

 突然…皺くれているが実に頑健そうな手が、万力のようなちからを込めてモルダーの手を止めさせた。

「…っ!?」

 老体からは想像もつかないような膂力を見せてモルダーの手首を掴んだのは、祖父のゴーガンであった。戦場では勇敢そのもので、例の《地の果て》開放実験の場にも居合わせたと言うが、殆ど無傷で帰還した彼をモルダーも尊敬していた。
 その彼が、モルダーの手首を掴みながら双黒の前に立っているのは…一体どういう事なのだろう?

「よせ…この方を傷つける事は、俺が許さねぇ…」

 背は低いが筋骨隆々としており、全身に残る疵痕も歴戦の勇者たることを忍ばせる寡黙な老人が、深い決意を込めてモルダーを睨め付けていた。 

「爺ちゃん…なんだよ。どういうことだよ…っ!?爺ちゃんも魔力の餌食になっちまったのか」
「馬鹿野郎。そんなもんにどうにかされていたら、俺は迷わずにお前を斬り殺してるだろうが」
「それは…」

 確かにそうだ。
 邪悪な存在が血を分け合った家族が互いに斬り合うのを見て愉しむというのなら分かるが、ゴーガンの瞳は決然とした静けさに満ちており、口角には彼独特の皮肉な笑みすら浮かべている。
 彼は今、自分自身の意志によって行動しているとしか思えなかった。
  
「俺はな、この方の言ってることが本当かどうか、全部はわからねぇ…。だが、《地の果て》開放実験の時に、助けられたのは事実だ。せめてその恩義は果たさにゃならんだろうよ」
「でも…でも…」
「男が《でも》なんて口にすんなと、俺は何べん言った?」

 ぴくりと太い眉が跳ね、エラの張った顎がぐい…っと引き上がる。雷を落とされる合図だということを思い出して、モルダーは《ひっ》と悲鳴を飲み込んだ。

「小さい嬢やもいるんだ。もう、止めときな」
「で…いやっ」

 《でも》と言いかけて、慌てて言い直す。直角に突き落とされる拳は頭蓋骨が陥没しそうな強度なのだ。

「年端もいかない女の子が、魔族の魔手に掛けられるのを黙って見てろってのかよ!」
「魔族だけに、魔手…」

 くすくすと微妙にウケているゴーガンはやっぱりいつも通りの祖父らしすぎて、余計に困惑してしまう。やはり、操られていたりするわけではないのだ。

「心配ねぇよ…俺は、この子が双黒のお方と分かり合うのを見ていた。昨夜、牢の当直だったからな…」

 ゴーガンが険しく皺くれた顔をやさしく解して顔を向けると、背が低すぎて今まで気付かなかったが…あの《暗殺者》の少女はがっしりと双黒にしがみつき、ちいさな身体の精一杯で護ろうとしていた。
 その瞳に、いっぱいの涙を浮かべて…。

「最初はよ…俺だって、警戒してたんだ。《地の果て》開放実験の時には、凄まじい魔力で不気味な触手を押さえつけて箱を閉じるところを見てた。そん時には、《助けられた》って気分よりも、自分じゃ手の届かない高みで、魔物か神様かっていうような存在がやりあってるとしか思わなかった。だがよ…昨日、ちっちゃな女の子一人を説得する為に、この方は変装までして暖かい食べ物を食わせようとしたのさ。怖がらせないように…ってさ」

 ゴーガンの言葉に、少女は堪えきれずにぼろぼろと涙を零していった。

「ごめ…なさ……ユーリ…ごめ、んね?グ、グレタのせいで…ごかい、されて…。ユーリは、こんなに…やさしいのに……っ」
「なかないで?グレタ」

 双黒は慌ててしゃがみこむと、グレタと呼ばれた少女の頬を掌でやさしく包み込み、こつんと額を当てて囁きかけた。

「こういうのは…時間がかかるもんなんだ。だって、人間と魔族は何千年にもわたってケンカをしてたんだぜ?分かってもらうためには…ちょっとずつ、おたがいを知ってくほかないんだよ」
「でも…」
「でもはいっちゃだめ。おじいさんも言ってるよ?」
「うん…」

 グレタが《ひく…》っとしゃくりあげて鼻水を垂らすと、双黒のユーリは自分の袖口で拭おうとして、苦笑したコンラートにハンカチを手渡されていた。
 その様子は如何にも年頃の少年…それも、極めて気性のやさしい男の子のようにしか思えず、モルダーはわなわなと肩を震わせた。

 先程まで憎んでいたものをそう簡単に認めることは出来ず、何とかして感情の整合をつけようとしているのだ。

「なぁ…モルダー、考えても見ろよ…この方が俺たちを救って、何の得がある?騙してどうにかしたいってだけなら、誰がこんなオンボロ港に来るもんか」
「それは…」

 ゴーガンの言葉に頑なに抵抗するモルダーだったが、流石に手にしていた剣を握り続けることは出来ず、決まり悪そうに舌打ちしながら刀身を鞘に収めた。

「今日は、爺ちゃんに免じて剣は引く…だけど、俺は全部信じた訳じゃないからな?年寄りや女の子どもを絆して何をするつもりかは分からないけど…何か、あんたらは悪巧みをしているに違いないんだ!」
「ほぉう…?カロリアには随分と恩知らずな跳ねっ返りがいるようですね」

 涼やかな声は、楽しそうに…けれど、痛烈な批判を乗せてモルダーを撃つ。
 勢いよく振り返ると、髭を湛えてはいるが容貌は若々しいスーツ姿の青年と、可憐なドレスを纏った少女がいた。

 青年の身なりのよさとやわらかな物腰は、富裕な商人であると伺わせる。しかし…同時に、その動きに全く隙がないことも気にはなった。よく見れば、細身ながらレイピアのような剣を腰に下げている。
 少女は随分と大人びた様子でにっこりと微笑むと、ドレスの端を掴んで淑女の挨拶をしてから、《失礼?》と断りを入れてモルダー達の間をすり抜けると、グレタの手を握った。

「ここは子どものいるところではないわ。私と一緒にお人形遊びでもしない?」

 年齢的にはグレタよりも年下だと思うのだが、ベアトリスはおしゃまな言葉遣いで誘いかけた。何とも押しの強そうな子だ。

「でも…ユーリが心配だよ」
「大丈夫。お父様は強いもの」

 少女の放った自信満々の言葉に、青年の顔が笑み解れる。

「おや、嬉しいねベアトリス。私のお姫様…。君の信頼に応えられるよう、父さんは頑張るよ」
「信じておりますわ」

 誇りと愛情に満ちた眼差しを父に送ると、少女はひらりと蝶のように舞ってスカートを翻し、半ば強引にグレタを連れて行こうとする。

「ユーリ…っ!」
「心配ないよ、コンラッドも強いもん」

 やはり誇りと愛情に満ちた眼差しを送るユーリに、グレタはやっと落ち着いて連れて行かれた。それを目の端で確認すると、青年は恭しい物言いで双黒に語りかけた。

「双黒の君…眞魔国の王太子殿下、私はミッシナイのヒスクライフと申します。あなたに受けた恩義を果たすべく、カロリアの地に馳せ参じました」

 《君とは違って、私は恩義を忘れる男ではないのだよ?》…そう言いたげな様子に、モルダーは収め掛けていた怒りを再燃させた。 

 しかし…青年が紳士らしい動作で深々と一礼する際、被っていた帽子ごとずるりと髪が抜けた瞬間には、呆気にとられて大口を開けてしまった。




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