第2部 第8話 「ここが…ギルビット商業港?」 有利が口にした言葉は勿論、そこを初めて見た為に出たものではない。以前目にしたものとの変わりように瞠目していたからだ。 何となく陰惨な気配が漂っているのは、眞魔国を出航したとき以上に天気が悪い為だけではないだろう。かつては大型船舶が幾つも入港していたとは思えないくらい、ギルビット商業港は廃れきっていた。 理由は明白で、大型船舶の入港に欠かせない水深を保てていないからだ。 《地の果て》が引き裂いたのは大陸上の大地だけではなく、海底の地形も大きく変動させてしまったらしい。ごつごつと膨隆してきた岩石が海上にまで突隆しているから、水面下では更に地形が滅茶苦茶になっていることだろう。なるほど、小シマロンが港としての機能を見捨てるはずだ。 眞魔国軍が元々海上に停泊する予定であったのは、カロリアの人々を怯えさせない為だけではなく、物理的に入港が困難という点もあったに違いない。 「成る程ねぇ…それで艦船の突堤に補強尖頭を搭載していたわけだ…」 村田の専門的な言葉に有利は小首を傾げる。 「どういう事?」 「いざって時には、艦船ごと港に突っ込むつもりなんだよ。何隻かが突堤に金属板を打ち付けているだろう?沖合から加速を付けて突っ込めば港に突き刺さるような形で接岸した上で斜台を降ろす。他の艦船は先発組の近くに寄せて、乗組員が飛び移る形で上陸していくことになるだろうね」 「そんな…」 「ま、あくまで最悪の場合だよ。そんな強行作戦をやればこっちの損害も大きいし、何より君の理想はそこで立ち消えてしまう」 「うん…」 そうさせないためには、有利達の行動がどれだけ人間世界の信用を得られるかが重要だ。 『それにしても…みんなの暮らし、しんどそうだなぁ…』 人々が住んでいる居住区は流石に被災当時よりは復旧しているのだろうが、街路の瓦礫こそ目立たないものの、家々の中には廃屋や、バラックのような木と布地で囲んだだけの建物も目立つ。これではとても冬の寒さは過ごせまい…。 有利が目を凝らしてみると、港の近辺にあった飯炊き屋が見えた。一度崩れた屋台を何とか修繕したらしい痕跡があり、店の主人が寸胴を前にして立っている。表情などは掴めないが、それでも生きていてくれたことが嬉しくて涙が滲んだ。優しくしてくれた海辺の人々は元気にしているだろうか? 『直接行って、確認したいな』 有利はこれまで教えられたことで、人間世界では魔族…ことに、双黒という存在は忌み嫌われているのだと知っているつもりだった。だが、それがあくまで概念的な理解に過ぎなかったことを、すぐに突きつけられることになる。 大型艦船を沖合に停泊させ、大隊程度の兵士を小型船に乗せて上陸させた後、周囲の防御を確認した上で有利達が上陸していったのだが…接遇のために居並んだ壮年達(おそらく、某かの役職に就いている人達なのだろう)はいずれも眉根を寄せ、表面的には慇懃に振る舞いながらも、どこか胡散臭そうな顔をしている。 その眼差しは、有利に海路での出来事を思い出させた。 眞魔国の船舶団は何隻かの小型艇を偵察戦として哨戒に出して、ギルビット商業港を目指していた。その途上、一隻の哨戒艇から寄せられたのが《大シマロン船籍の客船が海賊に襲われている》との報告だった。客船を守護する護衛鑑は全て撃沈されており、女性と子どもは奴隷や身代金要求の為の人質として拘束され、男達については手を縛られたまま、甲板から順に突き落とされているという。 海賊はここ近年領海を荒らし回っている組織的な海賊団だったが、大シマロン艦隊の襲撃であっても食い止められるよう装備していたルッテンベルク軍の敵ではない。すぐさま有利の頼みに応じてコンラートは指示を出して、海賊船を走行不能にすると(沈没はしないように、巧みに砲撃を調整したのだ)、乗客の安全確保に努めようとした。 しかし…海賊に敗北して乗客を蹂躙されていたにもかかわらず、客船の艦長以下乗組員はルッテンベルク軍の援助に恩義を感じるどころか、砲撃をもって迎えたのである。 コンラートの方はある程度そのような事態も想定して、客船に乗せられた砲台の大きさから射程距離を把握すると、船舶間距離をそれより少し遠いくらいの位置に保っていたようだが、有利にとっては《良かれ》と思ってやったことだっただけに、自分たちに砲門が向けられたという事実自体に打ちのめされた。 気持ちを立て直す為には数日間に渡る時間と、コンラートの根気強い励ましが必要になったほどだ。 『時間が、掛かるんだよ…。なかなか解決はしない。だけど、やらなければ何時までもこのままなんだ』 コンラートの囁きに、有利は己を奮い立たせた。 『やるしかない…っ!』 憎しみの連鎖を断ち切り、理解の輪を広げる…。とても美しい言葉だけど、それだけに実現困難な夢を再確認すると、有利は意識的に笑顔を浮かべて前を見据えた。 そこに、美しい女性が現れた。 周囲の雰囲気から察するに、この人が領主フリン・ギルビットなのだろうか? 「ようこそお越し下さいました」 幅広のズボンを足首できゅっと絞った衣服で、フリンは一礼した。本来は華麗な裾広がりのドレスが似合うのだろうが、領主として忙しく立ち回るためにはこのような格好でなくては都合が悪いのだろう。 『この人だけは、冷静な顔してるな』 好意を前面に顕すわけではないが、有利やコンラート、特にエリオルを見やる眼差しには親しみの色があって、それに何とか救われる。彼女だけは直接エリオル達と言葉を交わしていると言うから、きっと…他の連中だって対話を重ねていけば分かり合えるはずだ。 …多分。 「船旅はお疲れでしたでしょう?近日中に小シマロンの使節団と歌姫ギルドも到着予定ですから、歓迎の祝宴は明日とし、どうぞ本日はゆっくりお休みになって下さい」 「はい。お言葉にあまえて、そうさせて頂きます」 何とかちゃんと発音できた。 ウェラー領で一ヶ月程度過ごしている間に言語指導をされてお陰で、何とか助詞も適切に使えるようになってきた。 ほ…っとしていた有利だったが、人垣から向けられる眼差しが気になった。 それはどこか、《獣》を見るような目だった。 《敵》というよりも、人語を解さない動物を見るような目であることが、有利の心を苛んだ。 「……」 お偉い方にとっては嫌悪感はあっても、まだしも交渉が通じる相手として人間に近いものと認識されているのだろうが、一般の民にとってはそうではないのだろう。 《歌謡祭》によってカロリアの復興を支援するという話も、《騙しておいて上陸し、次々に人間達を食べるつもりなのではないか…》と疑う者が多いと聞いている。 フリンが民の信頼を得ていなければ、暴動が起きていてもおかしくないという噂は真実であったに違いない。 見渡した限り、民は殆どが男ばかりだ。以前に比べて若者や少年の割合が高いのは、小シマロン王が約束を守って徴兵していた民を返してくれたのだろう。ただ、彼らの目には一様に強い敵意があり、《対魔族》の兵として訓練を受けていた彼らが、有利たちをどう見ているのか如実に知れた。 女性や子ども達の姿が殆どと言っていいほど見受けられないのも、《魔族の餌食》になるのを警戒しているからだろう。 しかし…領主館に移動する為に隊列が動いたその時、民の間からちいさな人影が弾き出された。 マントを目深に被った、子どものようだ。 「あ…」 転ぶかと思って手を差し伸べた有利だったが、その人影はばさりとマントを宙に舞わせると、低い姿勢でそのまま突進してくる。 その手に握られていたのは…不吉にぎらつくナイフであった。 「…えっ!?」 護衛兵の誰よりも、コンラートの動きは素早かった。 ひらりと子鼠を襲う猛禽類のような果断さで人影に飛びつくと、簡単に腕を捻って、落下したナイフを味方陣営に蹴り飛ばす。 しかし、さしものコンラートも驚きの色を隠せない。何故なら、有利を狙った人影の正体が…年端も行かない少女だったからである。 「君…一体、何のつもりだ?」 「離せっ!」 絶叫する少女は、10歳前後というところだろうか?痩せぎすの身体は褐色をしており、濃いチョコレート色の髪は縮れたソバージュヘアだ。アーモンド型に釣り上がった瞳はくっきりとした二重瞼で、剣呑な眼差しは居るような鋭さであった。 対峙したコンラートも、幼すぎる暗殺者に眉を顰めている。 「フリン殿…この子は一体?」 「護衛兵!何をしているのです、直ちにこの少女を拘束なさい。館の地下牢に収監し、事情を正しなさい」 鋭い声を上げてフリンが指示を出すと、遅ればせながらカロリアの兵が動いて少女の身柄をコンラートから引き取る。相手が人間だと分かると、少女の抵抗は収まった。 しかし、敵意の方は変わりなく叩きつけられる。 「フリン・ギルビット…呪われろ!自分の領土をたもつために双黒を上陸させるなんて…どんな恐ろしいことが起こるかしれないわっ!」 感情的になって口泡を飛ばす少女に、フリンは淡々と応酬した。 「あなたは起こるかどうか分からない事の為に、私の賓客を傷つけようとしたのかしら?愚かで未熟な子どもが、吹き込まれた情報のままに無茶をしたものね」 少女の頬はカァ…っと染まり、悔しそうな目でフリンを睨み付けた。 「失礼しました…。あの少女については、処分を任せて頂けますか?」 「処分…っ!?」 その言葉に有利は血の気を引かせてしまうが、フリンがそうすることによって少女を護ろうとしているのではないかと察した。魔族が特段に残虐な種族ではないと知っていても、王太子への暗殺を企てた犯人とあっては子どもでも法に則って処分されると察したのだろう。 フリンの裁量に任せれば、ある程度事情を聞き、説得したところで開放してくれるのではないか…そう判断すると、有利はこくりと頷いた。 「分かりました…おまかせします。でも、そのあいだ…さむくないようにしてあげて下さい。この子、すごいうす着だ…」 がりがりに痩せた少女は、もう少し小さければ女の子だということも分からなかったろう。精神的にも肉体的にも、彼女は少女らしいまろみを失っているようだった。 「ええ、了解しました」 フリンは衛兵を促して少女を連れて行かせる際、何事か耳打ちしていた。すると、頷いた衛兵は人目が途切れたのを見計らって、拾ったマントを着せかけてやっていた。おそらく、公然とそのような行為をすれば、あの少女がフリンの雇った暗殺者なのではないかと疑われるからだろうか。 『しんどいなぁ…』 上陸早々、気が滅入ってしまった。これから先も、あのような暗殺者や敵意に囲まれるのだろうか? 「ユーリ…大丈夫かい?」 「うん、平気」 気遣わしげなコンラートの声は、肉体的なことに関する懸念ではないだろう。彼もまた以前にこの土地で過ごしていただけに、強烈な敵意を向けられることに辛さを感じたに違いない。 『分かってたはずだろ?この位でへこたれてちゃしょうがないよ』 ぱんっと自分で頬を叩くと、有利は気分的に仕切り直そうと試みた。 * * * 一通りの挨拶が終わると、フリンは領主館に招いてくれた。 やはり周囲の家々同様破壊の跡があったが、何とか崩れない程度には修繕してある。特に有利たちを通してくれた部屋は、精一杯の歓迎を示すようにレース編みなどで飾られていた。 花瓶などもあったのだが…こちらは咲いている花を十分に探せなかったらしく、小さな瓶に一輪だけ色あせた花が差してある。それが、余計に困窮した状況を感じさせた。 領主館で供せられた食事も、味は良かったが物資不足を反映させたようなラインナップだった。特に、あれほど豊富だった海産物の味が格段に落ちているのが気がかりだった。海岸線の地形が変わってしまったことで、潮流や魚の育ちに影響が出てしまったらしい。 また、ひょっとするとこの地の要素は乱れているのかも知れない。 …というのは、有利の体感としてこの地の空気が落ち着かないように感じるのだ。災害を引き起こした《地の果て》が昇華された後も、引き裂かれた大地の苦しみは残るのかも知れない。 それでも眞魔国のメンバーとの食事中にフリンが見せた態度で、有利の気持ちも少しは浮上してきた。彼女は以前から送っていた救援物資も、エリオルからの贈り物だと気付いていたらしい。 「本当に…御礼の言いようもないですわ」 「いいえ、大したことでは…」 エリオルはフリンにがっしりと手を握られると、はにかむように微笑んだ。グウェンダルによく似た面差しは一見すると無表情だが、少し綻ぶと優しい貌になる。 食事会に臨席したのはエリオルの他、有利・村田・コンラートという面々で、フリンは有利のことも《地の果て》開放実験の際に少し目にしていたらしい。ただ、あの時には上様モードに入っていたから、随分と印象は違うようだ。 「まぁ…本当に純粋な黒ですのね?」 「おはずかしながら…」 美女にまじまじと見つめられるのは照れるものだ。それに、他の民と違って目線に敵意がないことも嬉しくて、ついニコニコしてしまう。 すると…お尻の方がチクリとした。 見ればコンラートが平静な表情は崩さないまま、有利のお尻を少し抓ってきたらしい。 《あんまりデレデレしていると、相が崩れてしまうよ?》…そんな風に嫉妬を示すコンラートに、村田は苦笑している。 「いやぁ…君ってば相変わらずだね?」 「何か?」 「別にー。ただ、確かに渋谷って気の強いお姉様系に惹かれちゃうから、油断してると浮気されちゃうかもねー」 「……ほう?」 ぴくん…っとコンラートの眉が跳ねるから、有利は慌てて村田の肩をどつく。 「ヘンなこと言うなよ村田!」 「本当のことだもーん。君が昔、告白してたバスケ部のお姉様だって同じタイプだったじゃん?」 《中学時代の玉砕の歴史を勝手に辿るなよっ!》と叫びたいが、眞魔国語では上手く表現できない。この場で日本語を用いるのはフリンに対して秘密を持つようで、むごむごと口の中に収めるしかなかった。 コンラートへの言い訳は、後でゆっくりさせて貰おう。 ぱくりと白身魚のフライを口にした有利は、ふとあの少女のことを思い出した。 「ねぇ…フリンさん、あの子どうしてるかな?」 「あの子についてはもう少し時間を下さい。私達に対しても心を閉ざしているのか、何も話そうとしないのです。食事も採らず、地下牢の片隅に蹲ったままでいます」 「そうなんだ…」 《一体、どうしておれの命、狙おうとしたのかな》…その言葉は、やはり口の中に消えていった。カロリアの民の目を見ただけでも、単に魔族だから…双黒だからというだけで、大陸に乗り込むことが《呪わしい》と感じられてしまうのは確かだったからだ。 『どうにかして、分かり合えないのかな…』 《仕方ない》と割り切ることが出来なくて、有利は鬱々と考えた結果、フリンに相談を持ちかけた。 「あの子に会えないかな?」 「ですが…」 「お願い。このままじゃ、なんだかイヤだ」 閉じこめられた状態で喋れと言っても、素直に話すタイプではない気がする。 何しろあの幼さで暗殺を企てるくらいだ。相当に気が強く、思いこみも激しいタイプに違いない。下手をすればハンガーストライキをしている間に体力の方が尽きて、衰弱死する恐れもあった。 ふと、有利は自分の髪を一房摘んで考えた。 「コンラッド、へんそう用のアレ持ってきてたよね?」 「染め粉と色硝子かい?」 「そうそう」 こくこくと頷くと、早速立ち上がって荷物を探った。万が一、組織的な襲撃を受けて逃走する際、一人で変装できるようにセットにしてあったはずだ。ただ、染め粉が散るのでこの部屋ですぐ染めるというわけにはいかない。 「お風呂借りるね?」 「ええ…それは良いですけども」 フリンは少し言い淀むと、不思議そうに瞬いた。 「王太子殿下、あなたは…本当に不思議な方ですね。エリオル様にしてもそう…。どうしてあのような敵意を受けてさえ、私達に尽くして下さいますの?」 フリンの指は硬く組み合わされ、額に押し当てた拳がちいさく震えていた。高ぶった感情が、彼女の眦に涙を浮かべさせたらしい。 「私は、あなたに受けた恩義をお返ししたいだけです」 「おれは、人間と魔族が仲良くなって欲しいからだよ」 さらりと言われた内容に、フリンは何故だか苦悶に満ちた表情を浮かべる。 「あなた方が、もっと分かりやすく悪逆な連中であれば、こんなに悩まずに済んだのに…」 「わるものの方がすきなの?」 やはり女はチョイ悪くらいの方が心惹かれるものなのかと唇を尖らせれば、フリンは困ったように首を振った。緩やかに纏めた銀色の髪から後れ毛が揺れて、女らしい情感を伺わせた。 彼女は、酷く迷っているようだった。 「私は…ずっと、気を張って過ごしておりました。夫亡き後、領主として正式に立てない私が気を抜いてしまえば、カロリアは全て小シマロンのものになってしまうと…夫の愛したこの土地を、民を…何としても護りたかった。だから…私はどんな手段でも用いようと思ったのですわ」 フリンの手が震え、とうとう嗚咽を堪えきれなくなる。 「エリオル様…私は、小シマロンに協力してあなたの誘拐にも関わったのですよ?それなのに…どうして、恨みを捨てることが出来ますの?コンラート様だって、不可思議な方法で元に戻られたとはいえ、腕を引きちぎられたのですよ?あなた方を見ていると、私は…無条件に信じたくなってしまう…っ!」 「しんじてほしいな。そのために、おれたちはここに来たんだもん」 「………」 完全に心を開いて貰うには、やはり時間が掛かるのかも知れない。だが、フリンは可能性を示してくれた。《信じたくなる》が、《今は信じ切れない》ということを、正直に伝えられるくらいには、《信じている》のだと思うのだ。 だから、きっとあの子とも分かり合える…。 そう信じて、有利は頭髪を染めた。 * * * 寒さや空腹に苛まれながら、少女は地下牢の片隅に丸まっていた。石造りの壁がごつごつと薄着の身体に触れ、そこから何とも言えない冷たさが染みてくる。 少女の名前はグレタという。訳あって両親は共に死去しており、養い親の元からも出奔してきた形である。 衛兵に渡されたマントは元々自分の持ち物だったから羽織っているが、冬の寒さを防ぐに十分とは言えない。かといって、部屋に置かれた毛布を手に取る気にはなれなかった。施錠された出入り口近くに置かれた食事にしてもそうだ。すっかりぬくもりを失って闇と同化していても、そこからは生きる糧の匂いがするが…心を奮い立たせて顔を背ける。 『双黒は、悪いものだもの。そいつと契約するような連中は、どんな毒を使ってくるか分かんない』 そう信じ込もうとして《ぎゅ…》っと膝を抱えていたら、軽い足音が聞こえてきた。明らかに、今までの衛兵が立てていた軍靴の音とは違う。 好奇心を抑えきれずに顔を上げてみると、赤茶の髪をつんつんと立たせた少年が燭台と小さな袋を持って地下牢の前まで来た。 少年が老いた衛兵に向かって何事か話しかける。老兵は不審げな顔はしながらも、手元に持った紙切れのようなものを見せられると、渋々自分の持ち場から離れた。燭台の明かりに映える紙は結構立派だったから、偉い人からの命令文かも知れない。 それでも老兵はグレタの方に気遣わしげな眼差しを送ると、完全にその場を離れることは無かった。少年の身を案じていると言うよりは…寧ろ、少年を警戒しているような顔つきだった。 少年は寂しそうな顔をしていたけれど、気を取り直すように笑顔を浮かべてから鍵を開けて、牢に入ろうとして…少し考えてからまた退くと、入り口を開放したまま通路にしゃがみ込んだ。 グレタが素早く動けば逃げ出す事も可能だと示して、その上で何か話しかけたい様子だ。 『綺麗な子…』 《子》…という言い方は、年上らしい少年に対しては失礼に当たるかも知れない。だが、邪気のない瞳をした少年には、グレタの敵意を減じさせる何かがあった。 グレタの目線が自分に向いたことに気付いたのだろう。少年はごそごそと袋を探ると、ほこほこと湯気を立てているゆで卵を示し、壁にコッコッと打ち当てて殻にひびを入れると、幾らか不器用な手つきで剥いて見せた。 燭台の明かりを受けてつるん…と輝く卵の肌に、ごくりとグレタの喉が鳴る。衛兵が食事のプレートを置いたときには耐えられたのに、ドキドキした様子で少年が示す卵には、どうにも堪えがたい欲望を覚えた。 新鮮そうな卵には何か仕掛けをしたような痕も無かったから、食べても大丈夫なのではないか…そんな風にも判断すると、グレタはおずおずと戸口から出て、少年の手にした卵を受け取った。 塩を振ろうとするのは拒絶して(まだ毒については疑っているのだ)、ぱくりと白身を口に寄せると…現れた滋味溢れる黄身に自分を押さえることが出来なくなった。 ただ、ばくばくと2、3口で飲み込んでしまった卵は、絶食後に口にするには負荷が大きかったらしい。グレタはこの日まで、殆ど食うや食わずの生活だったのだ。 喉がつっかえたグレタは少年が差し出した水筒に口を付けると、躊躇無く飲み下す。薬のことを懸念するような余裕はもう無かった。 一度感じた空腹はもう制御できるようなものではなくて、《毒をくらわば皿まで》といった心地で、次々に少年の持ち込んだパンや薫製肉を口に放り込んでいく。 「良くかんでね?またむせちゃうよ」 「うん…」 優しい少年の声に頷くと、もう背筋を撫でる手を拒絶する気はなくなった。 少しだけ、グレタのような幼女を食い物にする変態なのではないかと疑いもしたのだが、今まで旅の中で出会った手合いとは全く異なる手つきが、《多分違う》と教えてくれた。 『お母様に、似てる…』 どこがどうというわけではないのだが、ただ…グレタが落ち着くように、少しでも美味しく食べてくれるようにという気持ちが、撫でつけてくる手から伝わってくるような気がするのだ。 警戒心を全て解いたわけではないけれど、もう逃げ出すことは考えなかった。 満足行くまで食べたところで、グレタは半ば持ち上げていた腰を完全に降ろして座り込むと、少年に向かって名を名乗った。 「あたし…グレタ。あんたは?」 「ユーリ」 「ふぅん…。この館の使用人?」 「ううん、眞魔国から来た魔族だよ」 グレタはぎょっとして腰を浮かせたが、ユーリが寂しそうに眉根を寄せつつも引き留めようとしなかったから、暫く躊躇した後にゆっくりと座った。 「逃げないの?」 「あんたは…良い魔族かも知れないから」 その言葉にユーリは少し驚いたようだ。 「信じてくれるの?魔族はみんな嫌いなのかと思った」 「そういうわけじゃないよ…。だって、ヒューブは優しかったもん」 「ヒューブ?」 「本当はもっと長い名前だったはずだけど…初めに一回聞いただけだから忘れちゃった。お城に閉じこめられてるときに、あたし寂しくて話をしに行ったの。魔族って角が生えていたり、生きたまま鳥や犬を丸かじりするって聞いてたからどんなに恐ろしい姿かと思ったのに、あの人は普通のものを食べて、親切にしてくれたわ。だから、お城を出るときに逃がして上げたの。でも…途中ではぐれて、そのまんまだよ…」 「へえ…」 不思議な気分だった。 壁に背を預けてユーリと並んだグレタは、ぽつらぽつらと身の上話を始めていた。 どうしてだか…ユーリなら、ちゃんと聞いてくれる気がしたのだ。 |