第2部 第7話






 淡い卵色をした円月型防御壁に夕日が差すと、息を呑むほどに美しい光景が広がる。柑橘色の光を纏った岩壁が仄かに輝いているようにさえ見えるのだ。
 更に驚くべき事には、噂通り防御壁の壁には殆ど隙間というものがない。ぴったりと合わさった石は完璧な接合を遂げており、数千年の昔に立てられたとはとても信じられぬほど風化による損傷を受けていなかった。

 途上出会った商団に合流させて貰い、ホーラト山脈を伝って長旅をしてきたドント…カルナスという村の長を勤める老人は、《ここまでやってきた》という達成感と共に、《本当に会って貰えるのだろうか?》という不安で板挟みになっていた。

 白鳩便で事前に知らせようか…とも思ったのだが、そもそもこの防御壁に囲まれたアリスティア公国が、《魔族と深い縁(えにし)を持っている》という情報が伝聞に過ぎない以上、無茶な賭に出ることは憚られた。
 特に恐ろしいのは、野禽に屠られた白鳩から文が流出し、誰とも知れぬ者の目に触れることであった。特に、発見者が大・小シマロンや教会勢力であったなら…と考えるだけで慄然とする。

 村の若者に頼むことも考えたが、やはり断念した。ドント爺さんの意図が正しく伝わるかどうかの確証がなかったし、何より前途ある若者が無用な疑いを掛けられて非業の死を遂げるなどという事態は避けたかったのだ。

 何しろ、ドントの望みはこの大陸で口にするにはあまりにも途方もない…聞く者によっては《呪わしい》とすら感じるだろう事柄であったのだ。
 それは…《眞魔国のコンラートという男と、ユーリという少年に協力して欲しい》という願いであった。

 彼らがカロリアを救う為の《歌謡祭》なるものを企画していると聞いたその日から、ドントは居ても立てもおられず、共催である小シマロンに彼らが謀られることを懸念していたのだ。だが、唯の老人であるドント一人にどうこうできる事柄ではないと悟ると、かつてコンラートに促したように、アリスティア公国を頼るという選択をしたのだ。

『いらぬ世話かも知れんが…。儂はあの子らに、何としても幸せになって欲しいんじゃ…』

 村と妻を救ってくれた有利への恩義を、頑固な老人は決して忘れてはいないのだ。

 ガタン…
 ゴトトン…
 ゴトン……

 跳ね橋を渡って商団の馬車が次々にアリスティア公国内へと入っていけば、ドントは商団主に礼を言って、約束の砂金を渡してから歩き出した。

 正直、誰に口利きを頼めばいいのかも分からないのだが、まあ…なるようになるだろうと信じて、街の連中に尋ねながらポラリス大公の住まう館に向かった。領土の中央に広がる雄大なアリス湖が風にさざめいている。

 ただ、アリス湖は噂に聞いていたのとはちょっと違うようだ。
 その深さのわりに不思議なほど透明度が高いこの湖は、底の部分まですっかり見て取ることが出来ると聞いていたのに、どこかどんよりとした碧色を湛えた底部に淀みのような物がたゆたっている。
 決して汚いというわけではないのだが、期待が大きかった分、拍子抜けしてしまう。

 それでも人々は唯一にして最大の水源であるこの湖に手を合わせ、一日の勤めが終わったことに感謝の祈りを捧げているようだ。 
 
『《聖なるアリス湖》…か』

 噂によると、アリスティア公国は教会勢力に服従しているように見せかけて、その実、神よりもこの湖を深く信仰していると聞く。そのせいか、教会の建物も一応は建てられているものの、その装飾や規模は必要最低限であった。

「お…あれ、か?」

 暑い地方であるせいか、大公屋敷は規模こそ大きいものの随分と開放的な造りであった。柱材の間を埋めるべき壁が必要最低限しかなく、代わりに藤蔓のような物で編んだ可動性の衝立が並んでいる。
 外敵は《円月型防御壁で防ぐ》という意識が強いのもあるだろうが、領民と領主の一体感とも受け止められた。《味方に対して持つべき壁は持たぬ》という立ち位置なのだろうか?

 門番に声を掛けて《ポラリス大公にお会いしたい》と告げたときには、粘らなければ門前払いされるものと思っていたのだが…気の良いらしい男は他の者に門番職を交代して貰うと、建物の中に入ってからすぐ返事をくれた。

「爺さん、良かったな。ポラリス大公がお会い下さるそうだ」
「そ、そうでございますか!」

 あまりに順調すぎて拍子抜けしてしまう。公国とはいえ、国としての体裁を保つ組織の長が、そんなにも簡単に一老人に会ってくれるとは信じられなかった。

 半信半疑でびくつきながら客室に通されると、壮健そうな男性が現れて気さくに声を掛けてくれた。

 そして、ポラリス大公と会話を交わす内にドントは知ったのだった。
 それは、彼が予想以上に情報通であること…ドントの示した出身地、《カルナス》という村の名前を、大きな意義と共に記憶しているということであった。

 ポラリス大公は幾らかの遣り取りの後、ドントに二人の青年アマルとカマルを引き合わせると、《共にカロリアに行って欲しい》と依頼したのだが、ドントの願いを聞くとも聞かないとも言明はしなかった。

『もしかすると、大公は最初からこの二人をカロリアに派遣するつもりでいたんじゃあなかろうか?』

 ドントはそのように推察したが、理由までは分からない。

『本当に、この二人を連れて行って良いんだろうか?儂がしていることは…逆にユーリを追い詰めることになったりはせんだろうか?』

 自ら選んだ事とはいえ、ドントの胸にはアリスティア公国にやってくる前以上の不安感が渦巻いていた。



*  *  * 




 いよいよ有利たちが大陸へと渡る日がやってきた。春を目前にした頃とはいえ、暖かくなったり寒くなったりを繰り返す眞魔国の港には、強い寒風が吹き付けて凍えてしまう。灰色に淀んだ空は今にも泣き出しそうで、旅立ちへの不安を誘う。

 盛大な出立の式典も、どこか湿りがちな印象であった。

「う〜…随分と冷えるねぇ」

 暑さ寒さに弱い村田はふっさりとした毛皮で縁取りされた二重革のコートを襟元で合わせ、ぶつぶつと文句を言っているのだが、口の割に表情が明るいのは大陸から帰還してきたグリエ・ヨザックが帯同しているせいだろうか?
 まあ、軍団としての編成を整えたルッテンベルク軍と共に有利が合流してきた時にも、やはり年相応の少年らしく安堵したように微笑んでいたから、やはり彼なりに知らない人たちに囲まれて、ずっと偉そうに立ち居振る舞っているのはしんどいことだったのではないだろうか?

『俺だって寂しかったんだよって、教えてあげよう』

 村田は喜怒哀楽をストレートに表すのが苦手なところがあるから、こちらから言わないと自分の気持ちを言わないのではないかな…と思いながら、有利は友人の横顔を眺めていた。

 大きな物音が響いたのでそちらに顔を向けると、艦船の仕掛けが動いて甲板に繋がる斜台が港に降ろされるところだった。かなりの幅を持つ斜台は、普段は甲板と平行に(二重底のような形で)しまわれているが、一斉に馬や荷物の搬入・搬出をする際には機械仕掛けで引き出されて港に付けられる。

 ガション…と如何にも《がっしり固定できました》という音が響くと、続々と兵士達が物資を押して乗り込んでいく。だが、彼らの殆どは実のところ上陸はせず、海上で待機することが決まっているのだった。だったらわざわざ糧食を消費してまで連れて行く必要はないではないかと言われそうだが、彼らは大・小シマロンが不穏な動きを見せたときの保険のようなものなのだ。

 今のところ、小シマロンは正式に国内外に向けて眞魔国と《歌謡祭》を開催する旨を発表しているし、大シマロンも賛同まではしないものの、大規模な軍隊を動かしている気配はない。だが、大規模な戦闘に入らなくとも、恐れるべきはコンラートと有利の誘拐、あるいは、《風の終わり》を持ち込まれて《鍵》であるコンラートとの間に反応が起きてしまうことだろう。
 コンラートと有利の身辺警護にはルッテンベルク軍の精鋭のみをつけることになるが、大陸からの脱出時には港での戦闘を行ったり、海戦を展開する可能性は十分にあった。

 なお、大シマロンには現在《ウィンコットの毒》がある。その毒を使ってコンラートや有利を操るとしても、それではウィンコットの血縁者を意のままに操るにはどうするつもりなのだろう?…という疑問は無いではないが、やはり注意するに越したことはないので、ウィンコットの民についても身辺警護には気を配って貰っている。

 ちなみに、《陸地に囲まれたウェラー領の兵が、海戦など出来るのか?》とも揶揄されたが、村田とコンラートに抜かりはなかった。海戦の為にはやはり船と海に長けた男達が必要だから、本来はルッテンベルク軍の所属ではないサイズモアという名うての艦長を引き抜き、既に艦船の運用に関わる人員には十分な運用訓練を施している。この男は《ルッテンベルクの英雄》コンラートを強く信奉しているそうで、依頼したら二つ返事でその日の内に支度をしてくれた。

 また、騎馬戦には向いていない港の地形にも対応できるよう、もともとある遮蔽物を利用した弓兵による作戦行動も実施している。

『ルッテンベルクは馬だけじゃないってトコを見せてやるぜ』
 
 そう息巻くとおり、確かに彼らは弓に於いても他軍の追随を許さぬ技量の持ち主ばかりだった。何しろ、騎乗したまま両手を馬から放して強弓を放てる連中なのだから、平地であれば実に容易く的を撃ち抜けるらしい。

 乗り込みの様子を眺めながら有利と村田が寄り添っていると、そっとヨザックが寄ってきた。もこもこと着こんだ(有利の方はコンラートに半ば無理矢理着せ付けられたわけだが)二人とは異なり、こちらは隠密行動に適するぴったりとした衣服で、露出した二の腕が逞しく膨隆している。
 冬の海の色をした蒼瞳は優しく和み、嬉しそうに村田を見つめている。

「猊下、寂しい想いをさせてしまって申し訳ありません」
「別にぃ?」

 恭しく跪くヨザックは妙な自信も同時に漂わせるものだから、何となく村田の反感も買ってしまう。

「君がいないからって、どれだけ僕が寂しい想いをするって事もないさ」
「はぁ…そりゃ残念。俺は猊下にお会いできない間、とってもとっても寂しかったもんですから…」
「君が寂しかったからって、僕まで一緒にして貰っちゃ困るね」

 そうは言いつつも、捨てられた仔…いや、大犬のようにヨザックがしょんぼりしているものだから、村田はどこか嬉しそうに声を弾ませる。

『村田って、こんなに分かりやすい奴だっけ?』

 《恋》が《変》という字に似ているのは、それなりに意味のあることなのかも知れない。端で見ている有利は《変》とは思わなかったが、普段の友人との違いを《変わったな》とは感じた。
 どちらかというとそれは、微笑ましい類の変わりぶりだ。  

「ユーリ殿下、そろそろ搭乗のようです」

 声を掛けてきたのは、比較的薄手のコートを纏ったウルヴァルト卿エリオルだ。兄のエオルザークが心配そうに色々と荷物を持たそうとしているのだが、やんわりと断って最小限の装備を纏っている。質実剛健を持って成るヴォルテールの民らしく、長剣を腰に差したエリオルは、いざというとき素早く戦えるように心づもりをしているらしい。
 こうしてみると、以前会ったときよりも精悍な面差しに眼帯も映え、痛ましさよりも逞しさを感じさせるようになっている。

「あの子は、良い武人になるよ」
「うん。きっとそうだね」

 兵士達への指示を一段落させたコンラートが寄ってきて耳打ちをするのに、有利はしみじみと頷いた。
  
「さーて、乗り込もうか?」
「うん!」

 艦船側の準備が整ったという合図を受けて、有利たちは斜台の端に設けられている貴賓用の華やかな階段を登って行った。

 いよいよ、旅立ちの時が来たのだ。



*  *  * 



「双黒と獅子はかねてからの報告通り、艦船を率いてカロリアに向かっております。その際、我が国に所属する船舶と偶発的な遭遇戦がございました」
「ふむ…監視船とか?」

 報告官の言葉にぴくりとベラールの眉が動く。

「いいえ、主として商人達等の富裕層を乗せた豪華客船です。航海の途上、海賊に襲われていたところ、恩着せがましく眞魔国軍が海賊船を砲撃してきたようです。ですが、そのように浅薄な行為に誑かされる事なく、船長は眞魔国戦艦に向かって容赦ない砲撃を浴びせております」
「ふむ…それで?」
「生憎とその船舶には大した砲台がなく、逃してしまったようです」
「ふん…王太子と獅子を沈めていた方が問題だ」

 報告の観点が気にくわないのか、ベラールは金銀財宝でごてごてと飾り上げられた玉座の手摺りを苛立たしげにトントンと指で叩くと、《早くしろ》と言いたげに報告者をせき立てた。敏感に察知した男は焦りに眉根を寄せながら、報告内容をかなり省略して伝達した。

 大シマロン王城の謁見室にはベラール王の他、十数人の報告官と共に各省庁の長が居並んでおり、それぞれの立ち位置から思いを持っているが、報告の最中に口を挟むことは出来ない。大シマロンでは大貴族会議は単なる承認機関に過ぎず、往々にして王の下した決定の意図を後から説明される程度である。
 この為、それぞれの部署では大きく政治に関わっている面々でも、作戦遂行中には全く動向を把握していないことが多い。

 特に財務省に所属する者は定期的にこの国の懐具合を報告するだけで、国の体制に関わる方針からは縁遠くなっている。
 だからといって、この部署の人間が国家の行く末に興味を失っているかと言えばそうではない。特に、若く意欲に満ちた官吏にとっては情報を与えられないことが、身を捩るほどにもどかしく感じられる。

『陛下は眞魔国と小シマロンが手を結ぶという状況に対して、どのような方策を用いるおつもりなのだろうか?』

 当代陛下の好みで朱を基調とした装飾が謁見室を包んでいるのだが、それがハインツ・バーデスにとっては地獄の業火のように見えることがある。現在、大シマロンの財政はかなりの度合いで逼迫しているのだ。もはや領土内、属国からの税収を切り上げるのは限界に来ており、一般市民の間には燎原の火の如くベラール王家に対する反感が広がり、農民一揆や革命も続発している。そして、その火消しに軍隊を派遣することで、より財政は痛めつけられているのだ。
 だが直接的な諫言は勿論許されず、それどころか報告書の類も黙殺される傾向にある。

『私に、もっと力があれば…』

 ハインツは苦しげに眉根を寄せて、そっと瞼を伏せた。

 彼の家系は一時爵位を剥奪されていた過去のある、曰く付きの家系である。
 父が先代国王に経理能力を買われたことで重用され、二十代前半のハインツもまずまずの地位につけているが、それでも財務省の長に立つことは出来まいと理解している。
 よって、この国が抱えている問題を理解しながらも、構造改革を断行する事が出来ない。

 何が問題なのか?端的に言えば、《侵略国家》という国家成立当時から連綿と引き継がれている基本政策自体にその因がある。

 シマロンは周囲の小国を次々に征服して勢力を拡大し、次なる戦役への財源は征服した国家からの税収で賄われている。だが、異なる民族に支配されている者が、常以上の力を発揮して商業を発達させた例は歴史上絶無ではなかろうが、少なくとも大シマロンに於いては皆無である。
 ことに、あからさまな差別を受けて搾取される属国では、年月を追うごとに巧みな偽装を行うようになり、何とかして負荷を減らそうとしている。向こうも生きていかないてはならないのだから当然の反応であろう。
 大シマロン側も幾度か大規模な取り締まりを行ったことがあるが、あまりに強く締め上げれば前述のように一か八かの反乱を起こしてくる場合もあり、その討伐でこちらが疲弊することになる。

 拡大しすぎた国家が選ぶべき路は適切な規模縮小、あるいは飴と鞭を巧妙に使い分ける手腕が求められるが、王にそのような大局的見地を期待するのは難しいだろう。
 彼はベラール王家の正統な後継者である。血筋の問題だけではなく、思考的に初代の王と全く同じ…国事を進める上で、《謀略》を用いることを主幹に据えているのだ。

 おそらく、今回の件でも策を講じているに違いないのだが、その是非を臣下に問うことはない。おそらく、ベラールお気に入りの直属部隊《ベラルドン》が策謀を巡らせているものと思われる。彼らは戦場で勇を競うことはなく、闇の中での暗殺や陰謀に長けている集団だ。

『《風の終わり》を用いるおつもりなのか…』

 武力よりは経理に通じたハインツは、《国家》という組織を絶対的なものとしては見ていない。戦争という一過性の《嵐》を優位に乗り切るというのはあくまで組織運営の一部分的なものであり、その《嵐》を乗り切る間に必要とされる人的・物理的負担と共に、その後の収束の方を重んじる。

 そういう視点で見た場合、ハインツにとって《禁忌の箱》という存在は《薬》よりも《毒》としての側面が大きいように思えるのだ。

『元々深く物事の背面を考えない方ではあったが…《風の終わり》を手に入れられてからは特にその傾向が顕著になった気がする』

 《禁忌の箱》は凄まじい破壊力を持った《最終兵器》だとベラールは言い、その箱の一つを手に入れた以上、大シマロンは眞魔国に対して大きな優位を勝ち得ているのだと言うが、それでは…一体どういったタイミングで《最終兵器》を使うつもりなのだろうか?

『調査団からの報告を、ベラール陛下は本当に理解しておられるのだろうか?』

 あれは、とても人間が使いこなせるような代物ではない。ハインツは《地の果て》の大陸での暴発、眞魔国での昇華について調査することでそう確信していた。箱自体を《使いこなせるか》という意味でもそうだし、使用した後の大地が《使い物にならない》という点…経済効率から見ても最悪の武器だと認識している。

 《地の果て》開放実験については、小シマロンは何かと理由を付けて報告してこないから、ハインツは独自に調査団を派遣して細かに調べさせた。その結果分かったことは、《地の果て》によって引き裂かれた大地は半年経過した今でも酷く汚染され、動植物が居着かないという事実だった。
 かつては豊穣な実りをもたらしていたバンツァイス穀倉帯も、穀類・野菜類はおろか野山に自生していた果樹までが立ち枯れてしまい、掘り返した土の中で種子は腐り果ててた。

『あんな大地は、見たことがない…』

 調査団長のキーリィーは農家の出であるだけに、その無惨さを嘆いて喉を引きつらせていた。豊かだった農地があまりにも無惨な有様を呈していることもだが、不毛の地と化した大地を耕し続ける農民達の姿にも涙を禁じ得なかったらしい。

 キーリィーが《あれは…地獄だよ、ハインツ》と断じた状況…それが、もしも《双黒の君》とやらによって封印されていなければどうなったのか想像することも恐ろしいと言っていた。

『私は敬虔な大聖教の教徒だ。しかし…あの惨劇が大陸全土に広がるのを食い止めてくれたのが魔族なのだとすれば、どうしても感謝の心を止められないのだ…』

 幼馴染みのハインツだけに明かしてくれた心情を、無碍に扱うことは出来なかった。ハインツもまたそれに近い気持ちを共有していたからだ。

 国を統べる者の感覚というのは、ハインツには理解できない。大勢の民の命が自分の掌の中にある…そのことを、《重さ》として感じられない者が何をしでかすのかが、小シマロンの実験以降、酷く恐ろしくなる瞬間がある。

 子供じみた自慢…《俺はこんなに強い武器を持ってるんだぞ!》という事を知らしめし、他を威圧する事だけを考えて、その後、民がどれほどの苦しみを味わうのかには何らの想像力も持たないのではないか。

 それは恐ろしく、哀しいことに…実に可能性の高い想定であった。

『最悪の場合、ベラール陛下はカロリアの地に《風の終わり》を運び入れ、ウェラー卿コンラートが反応を示すか確認されるおつもりでは無かろうか?』

 眞魔国でも建物内に置かれた《地の果て》が、屋外にいる《鍵》を能動的に捕獲して引きずり込もうとしたという噂だから、剣聖と謳われる《ルッテンベルクの獅子》を捕らえる為、人手を使うよりは、密かに至近距離へと《風の終わり》を運び入れるというのは可能性として高いのではないか?

 しかしハインツにはこの諫言を直接口にすることが出来ない。これは勇気の問題ではなかった。勇気とは可能性があるところに発揮するべきであり、勝算のない諫言は単に無謀なだけだろう。
 
 特にバーデス家にとっては、諫言を《大シマロンとベラール陛下の御身を想って》ではなく、《裏切り者》として受け止められる土壌があった。

 何故なら…バーデス家はかつてウェラー王家のもとで、宰相など要職に就く人材を輩出していたのである。ウェラー王家が滅亡した際、バーデス家で要職に就いていた者も軒並み降格となった。即座に処刑される者がいなかったのは、彼らが国家運営にとって欠かせない人材であり、武力としてはさほど脅威とはならなかったからである。
 ただし、情報の限りを吸い尽くした後には、ウェラー家への忠誠が強い老人達は何かと理由を付けては処分された。もう、必要ではなくなったからだろう。

 そのバーデス家に所属するハインツが《魔族と手を結んではどうか》等という譲歩策を提示すれば、たちどころに処分されてしまうことだろう。

『さて、どうしたものか…』

 情報が欲しい。
 とにかく、正確な情報が欲しい。

『調査団に私も加わる事が出来るだろうか?何とかして、カロリアに赴きたい…』

 ベラールは《禁忌の箱》を使うことには熱心だが、それが何をもたらすかという影響力については今ひとつ興味が湧かないらしく、調査団も重要視されていない。このため、予算の都合を付けるのが困難ではあるのだが…何とか理由をこじつけて赴きたい。《双黒の王太子》が果たして噂通りの人物であるのか、ハインツ自身の目で確認したかったし、密かに恐れている《風の終わり》の使用を、何とかして回避できないかという思いもある。

「ふむ…ふむ。これで全て終わったな?それでは晩餐にするか」

 半ば強引に報告を切り上げさせたベラールはやっと満足そうな笑みを浮かべて、足早に謁見室を出て行く。最近お気に入りの少女を晩餐に侍らせて悦にいるつもりで居るのだろう。彼には正妻の他に8人の妾がいるのだが、時折身分の低い少女を僥倖中に召し上げて、何も知らぬその身体に贅沢と性欲を教え込んでいくのが堪らなく好きらしい。

 現在溺愛している少女は今のところは恐れ畏まっているが…今までの例で行くと、寵を鼻に掛けて段々と行動が傲慢になっていく。すると、ベラールは急に飽きてしまって保護しなくなり、そこで正妻や妾達が激しい苛めを加えたりするわけだが…その様子が何とも凄惨で、ハインツは純朴そうな少女が召し上げられるのを見るたびに胸が痛んだ。大抵が悲惨な末路を辿るからだ。

 謀略で国を動かし、後宮内の愛憎を肴にして愉しむ…。

『この男を、生涯頭上にいただいて生きていかねばならないのか…』

 ベラール王の好色そうな横顔を眺めながら、ハインツは口の中だけで小さく溜息をついた。

 




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