第2部 第6話





 大陸には《教会》と呼ばれる宗教組織が幾つかある。

 かつては国ごとに異なる教義を持ち、素朴な精神信仰を主たる活動としていたのだが、現在は《シマロン大聖教》と呼ばれる組織が強大な影響力を持ち、大シマロン属国に所属する《教会》は、強制的に併呑されている。
 よって、一般に《教会》と呼ぶ場合、特殊な事例を除いては《シマロン大聖教》傘下の組織であろうと推察するのが常識となっていた。

 彼らの教義の内、最も特徴的であり強烈であったのは、徹底的な《魔族蔑視》であったろう。元々人間が持っていた魔族への不信感は、《神への信仰》という大義名分を背景に、より強固で、疑問の余地もない物へと変わっていた。

 だが…《教会》という組織は配下信徒の利益を搾取する団体である以上、上層部には時間的、金銭的ゆとりがある。
 そのゆとりを享楽に耽ったり、権力争いに費やす者も勿論大勢居たのだが、中には《変わり種》を生み出すこともあった。

『ふむ…困ったねぇ……』
 
 山羊のような眉毛が特徴的な老人は、幾度目になるか分からぬ吐息を漏らした。淡く光るような白絹には細かな刺繍が施され、胸元には最高位の聖職者のみが身につけることを許された《聖茨》が掛けられている。

 老人の名はマルコリーニ・ピアザ。
 一応、教会組織の長として立つ人物であるのだが、彼を一見して《大教主》などというご大層な肩書きを思い浮かべられる者は少ない。
 また、豪奢な大教主用居室で革張りの椅子に座っていてすらも、どこか落ちつかなげな印象があった。本人も、出来ることなら飾りが少なく、その代わり引き出しと本棚のたっぷりとした事務机が欲しいなぁ…と思っている。

 マルコリーニは決して貧相ではないのだが、どちらかというと《小規模な寺子屋の老先生》辺りが相応しいように思えた。実際問題、ぎらぎらとした権勢欲に溢れた教主達が獣のように喰らい合うような権利良く争いを繰り広げていなければ、彼が大教主の座に着くことなど無かったのである。

 まこと、マルコリーニは偶然によって…地球で言えば《漁夫の利》を占める形で大教主になったといえる。権力争いが激化した結果、不祥事の暴露や暗殺が相次いだことで流石に教会の評判が下がり、《聖職者らしい》という一点のみで推挙されたのである。

『しかしねぇ…私にはどうやら、この位は座り心地の悪いものらしい』

 マルコリーニが好きなのは宴でも、こう言っては語弊があるが…日がな一日祈り続けることでもなかった。彼が最も愛しているのは古文献を漁って、歴史を紐解くことであったのである。

 その行為がまさか、自分の首を絞めるような結論に誘導していくなど想像もしていなかった。

 大シマロンの指導者達の間には、征服した相手国の文献を焚書してしまおうなどと言う愚か者もいたが、幸か不幸か大教主となった面々にはそれなりの教養があったから、文献というものが時として、武器よりも強力な意義を持つのだと知っていた。その結果、教会にはどんな国家機関よりも潤沢な文献が揃えられていたのである。

 その豊富な資料を読みあさり、検討していた結果…マルコリーニは恐るべき結論に達してしまったのだ。

『《禁忌の箱》は、武器として使えるような物ではない。即刻廃棄するか、それが不可能ならば決して開かぬよう封印すべきだ』

 これは実に拙い結論だった。何故なら、最大の庇護者である大シマロンの政策を真っ向から否定することになるからだ。
 だから大教主としても、何か他に方策があるのではないかと時間を掛けて調べはした。だが、知れば知るほどに、《禁忌の箱》がおよそ人間に扱えるような物ではないことを知ってしまったのだ。

 《畏れながら…》と恐縮しながら、マルコリーニは大シマロン王ベラールに諫言に行ってみた。勿論、周囲には漏らさずに密談の形で。しかし、結果的には怒りを買っただけだった。更に強く言い募っていたら、おそらくは大教主の首をすげ替えられていたことだろう。

 普段のマルコリーニであればそれで引き下がり、二度と心臓に悪い諫言など考えなかったことだろう。
 だが…あの事件が起きてしまった。

 《カロリアの惨劇》…《地の果て》が開放された事で生じた大災害は、大陸中西部に巨大な割裂を生じさせ、そればかりか割裂周囲の大地に住まう動植物が病み、立ち枯れるという長期的な被害をもたらした。
 おそらく、魔族の手で封じられていなければ、更に巨大な災害で大地全土が荒廃していたことだろう。

『先だっての年の暮れには、魔族が《地の果て》を昇華したというが…この情報は一体、どこまで信じればいいのだろうか?』

 多少へそ曲がりとはいえ、マルコリーニも教会の飯を食って数十年の時を閲している。そう簡単に魔族を認めるわけにはいかなかった。そこには個人的な心情もあったし、肩書きの持つ重さもあった。
 当然、相談相手にすら事欠く。

 同じ年代の連中では、気は優しいが同時に弱いバイアント・ルクサス、数少ない《廉潔の士》フォルスト・バッカートがいたが、その彼らでさえマルコリーニの身を案じて諫言してきたくらいだ。

『滅多なことを口にするものではないぞ?《あいつ》とて、いつまでも大人しくはしていないのだからな…』

 彼らの言う《あいつ》とは、主要教主の一人ヨヒアム・ウィリバルトである。権勢欲の強いこの男は、信徒への暴行や横領といった度重なる不祥事を起こしていなければ、おそらくマルコリーニなど対抗馬ともせず大教主の座についていたろうというのが専らの評判だ。失脚した後ですら着々と地盤固めをしている所から見ても、彼が(悪い意味で)高い組織力を持っているのだと知れる。

 《はぁ…》また、吐息が漏れたのを、入室してきた息子が見咎めた。

「幸せが逃げてしまいますよ、父上」
「幸せねぇ…逃げた分をお前さんが捕まえておいておくれ」
「はは…そうして差し上げられれば良いのですけどね」

 にしゃ…っと人好きのする笑みを浮かべると、バルトン・ピアザはごま塩色の短い頭髪を掻いた。身につけているのはマルコリーニのそれよりも簡素なものだが、やはり聖職者らしい白絹である。
 父親が老いた山羊なら、この男は壮健な雄鹿のようである。全く似ていないのも当然で、実は彼とマルコリーニとの間に血縁関係はない。戦災孤児であったバルトンを拾った縁で、養子として引き取ることになったのである。そのせいか、バルトンはマルコリーニに深い恩義を感じており、誰よりも忠実に仕えてくれる。

 今年40歳になるバルトンは男らしく清々しい気質で誰からも好かれた。 
 また、バルトンは父ほどには文献調査に熱心でないものの、物事の肝要な部分を大づかみに捉える柔軟な思考の持ち主だ。
 そのせいか、おそらくは教会内で唯一、父親の焦燥感を正しく理解してくれているように思う。

「なあ、バルトン…ひとつ、頼まれてはくれまいか」
「なんです?」
「調査だよ」
「何処に行き、何を調べましょうか?」

 バルトンの声が心なしか弾んだ。
 彼は聖都の施設に閉じこめられていることを好まず、マルコリーニに使命を与えられて大陸中を旅することを何よりも楽しみにしていた。その土地の風土習慣を身体で知り、実際に目で見ることが何よりも好きなのだ。

「《双黒の王太子》の人となりをお前の曇りのない目で見てきて欲しいのだ」
「……っ!」

 バルトンの顔に緊張が走ったのは、眞魔国で起きた出来事について既に噂を耳にしているせいだろう。

「《地の果て》を昇華したと、まことしやかに囁かれている少年ですか?しかし…」
「眞魔国に潜入する必要はないよ、おそらくな。《双黒の王太子》は、来月にはカロリアにやってくる。なんでも、小シマロンとの共催でカロリア復興のための《歌謡祭》を催すのだそうだ」
「《歌謡祭》…ですか?」

 魔族の意図を計りかねるのはマルコリーニも同じだ。だが、百聞は一見にしかずという。特に、先入観に振り回されることの少ないバルトンの目で確かめられれば、文献を凌駕する信頼性を得られることだろう。

「頼まれてくれるか?」
「了解しました」

 力強く頷くと、バルトンは早速踵を返す。いつもながら鮮やかな心意気と、思い切りの良さだ。

『頼むぞ…』

 親としては聖騎士団等の護衛をつけて送り出してはやりたい。だが、無用な衝突や疑いを掛けられぬ為にも、バルトンは唯の旅人として赴く必要があった。
 そのことを申し訳ないと思いながらも、マルコリーニは頼もしい息子に期待を掛けるほか無かった。

 ふと、マルコリーニの脚が動きかける。素早く旅支度を始めているだろう息子に、ある《事実》を明かしておこうかと思ったのだ。だが…暫く躊躇した後、結局は深く椅子に腰掛けた。

『バルトンは信用がおける。だが…それだけに、いい加減なことを伝えては判断が鈍ろう』

 この《事実》は誰にも知られてはならないことであった。ことに、野心家のウィリバルトや大・小シマロンに知られるわけにはいかなかった。
 
 この聖都に残されていた古文献の中に、《箱》の存在を指し示す情報が記されていたことなど、決して知られてはならないのだ。
 法力使いを多く輩出している某国に、何時の頃からか存在する謎の《箱》。
 その箱の指し示す要件が、あまりにも《凍土の劫火》に酷似しているなど…。



*  *  * 




 ピィイーーー…
 ヨォオーーー……

 遠くで鳥の啼き声が聞こえる。
 うたた寝していた有利は淡い意識の中でそれを感じつつもかくりと船を漕ぐが、ずり落ちかけた躰は腰に回された腕にがっしりと受け止められた。

「馬の上でのうたた寝は危険だよ?」
「ぁ…ぅん…」

 目をゴシゴシと擦ろうとしたら、コンラートが腰に掛けた小袋から濡らした布を取り出して目元を拭ってくれた。

「砂塵が少し舞っているから、直接目を擦っちゃダメだよ?」
「ん…」

 甘えるように背を預けると、コンラートは愛おしげに頬や口元も拭ってくれる。砂塵のせいでぱさついていた顔がすっきりしたことで、何とか目も覚めてきた。

「こんなに雪に覆われてるのに、どうして砂塵が舞ってるんだろ?」

 ルッテンベルク軍は既にウェラー領まで一日程度の範囲に入っているから、この地方の特性なのだろうか。丘陵の多い起伏に富んだ地形は一面雪に覆われているのだが、空が白っぽく見えるほどに砂塵が飛んでいた。

「これは風に乗って、大陸から渡ってくるんだよ。あちらは冬でも雪が降らず、乾ききった砂漠があるからね。普段はこちらに雪があると結晶化して、砂塵にはならないんだけど…どうやら余程量が多いと見える」

 そういえば大陸では《地の果て》開放実験以降、雨が降らない領域が拡大していると聞く。特に、元々領土内に砂漠を持っていた国では水不足が深刻化しているとのことだ。

「へぇ…まるで黄砂みたいだ」

 地球でも見られた気候的特性を口にしたら、朧に霞む景色にも何やら親しみを覚えてしまう。心なしか、上空を旋回している鳥も地球の大鷲に似ているな…と感じた。

『地球…かぁ……』

 ふ…っと息をつくと、微かに目線が揺らぐ。思えば、眞魔国にやってきてから毎日がジェットコースターのような激動続きだった。状況を受け止めるのに精一杯で、後ろを振り返るような余裕など無かったから、まだ旅程とはいえ他にすることもなく馬に揺られていると、急に色んな事を考えてしまう。

『みんな…どうしているのかな?』
 
 家族…友人、チームメイト達…沢山人たちの顔が浮かんでくる。
 二度と会えないというわけではない。いつか《禁忌の箱》を始末したら眞王もかなりの力を蘇らせるだろうし、村田だって力を貸してくれるだろうから、里帰りすることも可能なはずだ。

『だけど…今は、まだダメだ…』

 《地の果て》を奇跡的に昇華させることに成功したものの、已然として三つの箱がこの世界には残されている。それらが今どんな状態であるのか分からない以上、里帰りに魔力を使うことは憚られた。

 けれど、理性で分かったり納得したりすることと、寂しいと感じる心はまた別のものだろう。村田は血盟城に残ってなにやら算段をしているようだから、余計に寂しいのかも知れない。

「ユーリ…どうしたの?」
「ううん、何でもない…」
「俺に嘘をつかないで?」
「う…」

 責めるような言葉の割に、コンラートの瞳は寂しげだから…強く出られるよりもより胸に訴えるものがあるのだった。

「別に…大したことじゃないんだ。少し地球のことを思い出してただけだよ?ほら…黄砂と、この砂塵って似てるなって…」
「それで、友達やミコさん達のことを思い出したの?」
「う…ん」

 聡いコンラート相手に、こんなに密着していて感情を隠し仰せることなどできようはずもない。易々と言い当てられた有利は恥ずかしそうに唇を尖らせる。

 そういえば、コンラートが日本語で話しかけてくるものだから、自然と母国の言葉で会話していた事にも気付いた。コンラートが地球にいるときには、基本的に日本語を使ってくれていたのに…。

「はずかしい。コンラッドは、がまんしたのに…おれ、このくらいでさみしいとか言う」
「恥ずかしがることなんかないさ…。寂しいと感じるのは当然のことだよ」

 コンラートの琥珀色の瞳が、切なげに揺れた。

「ゴメンね…俺のために、君には沢山の我慢をさせている」
「もー、コンラッド自分せめる、ない。おれ、こっちのことも好き。ちっとも嫌いない。ね…だい好きだよ?」

 眞魔国も…当然、コンラートの事も大好きだから平気なんだよと言外に告げれば、コンラートの琥珀色の瞳は柔らかく綻んで美しい微笑を浮かべる。
 本当に、見惚れるほどに綺麗な人だ。

「嬉しい…」

 《人目がなければこのまま唇を重ねるのにな…》と互いに思う恋人達は、自分たちの姿が周囲からどう映るかという客観的な視点は持たなかった。 

『仲睦まじいことで結構ですが、独り身には目に毒ですね…』
『ああ…ナタリー、君に早く会いたいよ』
『コンラート閣下…仕方のないこととはいえ、あなたは双黒の君のものなのですね…』

 生暖かい視線の中で、二人は傍迷惑なほどにいちゃつきながら里帰りの路程を進んでいた。



*  *  * 




 ウェラー領主館があるのは、ウェラー領の丁度端にあたる。万が一の場合に備えた堅牢な防衛塀と館とが一体化しており、《民を護ってこその領主》という立ち位置が実に鮮明となっている。

 ルッテンベルク軍が嬉々として角笛を吹き鳴らすと、防衛塀からも高らかに角笛が呼応してきて、峡谷の間を木霊も含めた音響がひびき渡っていく。

 《ウェラー!》
 《ウェラー…っ!!》
 《コンラート閣下万歳っ!!》
 《ルッテンベルク軍万歳…っ!!》
 
 わぁあああ……っ!!大歓声と共に跳ね橋が降ろされると、老若男女が街路の脇に陣どって両手を振っているのが分かる。誰もが目元に歓喜と涙を浮かべ、彼らの信奉するコンラートとルッテンベルク軍へと祝福の声をあげた。

 そして、更には馬上でコンラートに抱えられた有利を目にすると、人々の熱狂はいや増していく。

「おお…っ!」
「あ、あれが双黒の君なのか…?」
「何と愛らしい…」
「この世の者とも思われぬ麗しさだ…!」

 当の有利からすると、お尻がむずむずとして堪らなくなる程の賛辞が浴びせられ、仲睦まじい二人を祝福するように花束が捧げられた。

「双黒の君と領主様に祝福を!」
「どうぞ、永遠の愛をお守り下さいませ!」

 有利はすっかり照れてしまったものの、こぶりながら薫り高い野生の花に鼻先を埋める。真冬にこれだけの花を集めるにはどれほどの苦労があったのだろうか?星形の可憐な花弁を見つめながら、有利は御礼の言葉を丁寧に返していった。

「ありがと…ども、ありがと。うれしい、はな…きれい!」

 あどけない眞魔国語に歓声が上がり、二人を包み込む熱気は雪をも溶かさんばかりであった。



*  *  * 




「凄ぇなぁ…。見たか?双黒の君をよ」
「いやぁ…俺はコンラート様のお顔の方に見惚れちまっててよ」

 山羊乳売りの少年達は、前掛けに入れた乳瓶をぶちまけてしまいそうな勢いで、鼻息も荒く語り合った。その内のベンという少年は有利に見惚れて涎を零さんばかりであり、もう一人のバスはうっとりとコンラートに見惚れていた。
 人々の騒ぎは二人の姿が見えなくなっても続いていたから、自然と少年達の会話も怒鳴るような声音になってしまう。

「そりゃあコンラート様もお綺麗だがよ?双黒なんて希少なお方を前にしたら、自然と目が行かないかい?」

 友人が同じ意見でなかったのが悔しいのか、ベンはバスに咎めるような声をあげた。しかし、大柄でおっとりとしたバスはふるふると首を振って反論した。

「綺麗とか、どうとかじゃねぇよ…だってよ?俺はもう、二度とコンラート様にお会いすることは出来ないだろうって思って、毎日泣いて暮らしてたんだ…。それがどうだい?あんなに幸せそうな笑顔でお帰りになられたんだ。俺はもうもう…嬉しくってよう。《おめでとうございます》って気持ちを伝えたくて、わぁわぁ叫んでコンラート様を見守もっちまったんだよぉ…」

 それは多くの民にとっても同じ気持ちであったろう。少年達の会話を聞いていた老人が残った山羊乳を全部買ってくれると、周囲の観衆にも振る舞ってから少年達に語りかけた。

「コンラート様と双黒の君は、末永く二つさくらんぼのように寄り添っておいでになるって話だ。そしたら、どっちの幸せを祈ったって同じ事さ。コンラート様の幸せは双黒の君の幸せで、逆も同じなんだろうからな。だから…おめぇ達も仲良くやんな」
「は…はいっ!」

 思いがけず、お小遣いまで貰った少年達は有頂天になって駆けだした。
 折角だから今日のことを忘れないようにと、出店で記念の品を買って帰るつもりなのだ。

 出店に出ている記念品の数々は、なかなかの代物であった。
 ハート形に抜かれた大きなクッキーに、二人の姿を模したカラフルな練り砂糖が盛られていたり、色粉を混ぜ込んだパンで二人の笑顔をかたどっていたり、ブローチやお人形の形で売られていたり…。

 後々それを目にした有利たちはこう思ったという。

『二人でウェラー領に帰っただけでこの記念品なら、結婚したときにはどんなことになるんだろう?』

 …と。 
  


*  *  * 




「あ〜…スゴイかんげい!」
「みんな君の愛らしさに見惚れていたね」
「いやいやいや…」

 真顔で言われると頬が染まってしまうが、今更なのであまり言及はしない。

 領主館に入ってからは、地元だけあって大急ぎで祝宴を開くような忙しなさはなかった。みんなコンラートと、何より有利の体調に気を配り、《長旅の疲れが癒えるまでは》とそっとしておいてくれた。
 心遣いに感謝しながら、有利は既に用意されていた湯殿へと身体を沈めた。

 賓客が訪れたときのみ湯を張られるという浴槽は、実に肌あたりが柔らかい。この辺りの山脈特産の、肌理が細かい岩石を丁寧に磨いて作られたものらしい。

 有利の胸から出てきたチイも(平熱の高い小動物は冬には重宝する)、嬉しそうにぱしゃぱしゃと水面を泳いでいった。

「ん〜…気持ちいい……」
「良かった…気に入ってくれて」

 《はふ〜》…と湯船に凭れれば、にっこりと微笑むコンラートが身を寄せてきた。大きく逞しい骨組みの手が湯を掬っては、滑らかな有利の肩に掛けてくれる。濡れた手はするりと肌をなぞってから、ちゅ…っと悪戯なキスを落としたりする。
 有利ははしゃいで笑い声を上げていたが、ぱしゃ…っと両手にお湯を掬いながら、懐かしげに目を細めた。

「なんか、なつかしい。コンラッドはじめてあったころ、外でおフロはいったね」
「うん…」
  
 コンラートも思い返しているのだろう。
 あの頃…有利は恐ろしく心細くもあったのだが、初対面のコンラートと心の繋がりを感じた瞬間だけは、何とも言えぬ安心感に包まれて…それだけがあの時期の有利を支えていたのだと思う。

「コンラッド、あのころ…おれのことどう思ってた?」
「ん…」

 湯のぬくもりに瞼を閉じていたコンラートは、少し複雑そうな表情で唇を開く。
 
『質問が拙かったかな?』

 何しろ、当時はグウェンダルの命令を受けて有利を殺すつもりで居たはずなのだ。それがいつ頃から変わっていったのか…愛してくれるようになったのか、女の子ではないがやはり気になってしまう。

「何て可愛いんだろうって…思ってたよ」

 コンラートの腕がゆるりと有利の肩を抱き、至近距離で甘く囁かれる。
 その声は、どこか掠れて…切なげな響きを滲ませていた。

「どうして…こんな子を、殺さなくてはならないんだろうって…胸が軋むような心地だった」
「コンラッド…」
「君を殺せないと悟った後は、兄上に申し訳ないという気持ちで激しい自己嫌悪に陥っていたね。まさか…この俺が恋に狂うことがあるなんて…と」
「そ、そっか…」

 申し訳ないのだが、狂ってしまうくらい恋しく思っていてくれたことを嬉しいなんて感じてしまう。

「地球に渡って君を殺さなくても良いんだと知るまで、本当に苦しかった…」
「ありがとね、コンラッド…殺さずに、がまん。ありがと…うれしい」
「ユーリ…」

 重ねられた唇の甘さに酔いしれながら、二人は互いの繋がりを確かめ合う。
 これから進もうとしている路に、臆さず進んでいけるように…。






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