第2部 第37話






 スヴェレラではグレタやアニシナと帯同したほか、ニコラなど、魔族と結ばれた女性やその子ども達を馬車に乗せて、港町カロリアへと向かった。

 残念ながら、女性の中には寄せ場で出産した折、監察官達の杜撰な処置のせいで子どもを亡くしてしまった者もいたが、彼女たちも粗末な墓の中から骨を掘り返し、大切そうにくるんでお守り袋に入れていた。せめて、花々の咲き誇る眺めの良い場所に埋葬してあげたいものだ。

 カロリアへの旅は順調だった。
 鮮やかな陽光は新緑を揺らし、馬車の中にいてもちらちらと揺れる光が差し込んでくるし、吹き流れていく風には馥郁たる初夏の香りが含まれていた。

 先鋒隊を勤めるアリアズナ・カナートは、上機嫌で馬を進めていく。
 上級士官たる彼がこんな役回りをする必要は別にないのだが、戦場でも常に先鋒となって突撃していく彼は、常に先頭に立ちたがるのだ。
 あと、高いところにも登りたがるので、基本的に物見高い性格なのだろう。

『随分とこの辺も景色が変わったなぁ…』

 逆の経路を辿ってスヴェレラに進んでいた時には、このヴァリファント平原はくすんだ茶褐色をしていた。この差異は季節のせいだけではないだろう。あの当時だって、既に冬の気配はなくなっていたのだから。

『こいつぁー、三つもの《禁忌の箱》が始末されたおかげに決まってる』

 双黒の王太子殿下は数々の奇跡を起こして、眞魔国へ堂々と帰還することが出来る。本国で犇めき合っている純血貴族達も、こうなっては流石に有利を侮ることは出来まい。

 我が事のように嬉しくてにやにやしていると、鮮やかな緑野の片隅に何かが見えた。さふさふと揺れる牧歌的な光景の中、麦わら色の髪の毛が風に靡いている。
 どうやら、ちいさな子どもが一人しゃがみ込んでいるらしい。よく見ると足下には横たわった女性がいる。

『ピクニックか?』

 しかし…それにしては様子がおかしい。
 人間年齢で4〜5歳くらいの子どもは困り果てたように女性を揺さぶっているが、眠っているにしては動きが不自然だ。

「ちょっと見てくらぁ…」

 微かな胸騒ぎを覚えて、馬を降りてから親子連れに歩み寄ってみると、痩せた女性は疲れ果てて眠り込んでいるように見えたが、脈はすっかり止まっていた。

「おい、この人はお前の母ちゃんか?」
「うん。どうしてかなぁ…ずっとねんねしたままなんだ」

 《おなかすいたな…》と呟きながら、子どもはちゅぱちゅぱと指をしゃぶり続けている。傍らには乾パンか何かを入れていたと思しき袋があるが、中身は小さな屑に至るまで食べ尽くされている。

「お前さん、いつから食ってないんだ?」
「いつ〜?んー……」

 子どもはぽやっとして小首を傾げている。どうやら、覚えていないくらい前のことであるらしい。そのわりに晴れた春の空みたいな瞳にはがつがつと飢えたところがなく、このままだとぽんやりしたまま母に寄り添って、静かに死んでいきそうだ。

 それもまた一つの人生の終着点には違いないが、アリアズナにはどうにもこのままにはしておけなかった。
 がりがりに痩せて身寄りを失った子供に、自分の過去を重ねてしまったのかも知れない。

「なあ…母ちゃんは、もう動けないんだ。死んじゃったんだ。…《死ぬ》って言葉、分かるか?」
「しんじゃった?でも、しんぷさまがいってたみたいに、てんしとかとんできてないよ?」
「そういうのは…生きてる奴には見えないんだ」

 教会の教義を信じているのだろう子どもに、《そんなものはいない》と言うことは出来なくて、何とか言い繕ってみた。

「そっかぁ…てんし、みたかったなぁ〜…」

 《母ちゃんはてんしがみれて、いいなぁ…》素直に信じたらしい子どもは、相変わらず指をしゃぶりながらしょんぼりしている。羨ましそうなその眼差しが母と同じ運命を求めているようで、胸が苦しくなった。

「いいや…お前は、まだ天使なんか見なくて良い…お前は、生きなくちゃならない」
「どうして?」
「どうしてってお前…」

 きょと…と小首を傾げて見上げる素朴な瞳に、アリアズナは怯んでしまう。あまりにも根元的な《生きる》という意味を突きつけられて、少々戸惑ったのだ。

 それでも、アリアズナなりに言葉を探して、子どもに語りかけた。

「生きられる間は、精一杯に生きる…そいつは、命ある生き物の一番の使命だ」
「しめい?」
「生まれてきた意味だよ。教会ってとこは、天国なんて素晴らしいとこがあって、そこに行けば苦しみも哀しみも無いなんて言ってるらしいが…俺は、生きてる間に何か意味のあることを成し遂げなきゃ、死んでそんな大層なところに行ったって、心安まらねぇと思うのさ」
「じゃあ、お母ちゃんはどうなんだろ?」
「お前さんはどうだと思うよ?」

 アリアズナは答えを知っていて、敢えて聞いていた。少々すっとぼけた子どもではあるが、それでもこんな素直そうな子どもに育つと言うことは、母親が余程愛情を注いで育てた結果だろう。
 だとしたら子どもの目に映る母親が、無意味な人生を歩んでいる筈はない。

「…うん、そうだねぇ…お母ちゃんは、いっしょーけんめー生きてたよね?」
「ああ、きっと…だからこそ、お前さんは俺たちと会えたのさ」
「そっかぁ…。母ちゃんは生きれるだけ生きて、おれをここにつ、れてきてくれたんだね?」
「そーゆーこった」

 こんなだだっ広い平原の中でこの子を拾ったことは、単なる偶然とは思えなかった。信心深いところなど全くないアリアズナだが、やはり《母親の導き》というものを感じてしまう。

「お前、名前は?」
「おれはカール。おじさんは?」
「アリアズナ・カナート《お兄さん》…だ」

 そうは言いつつも、人間からすればお爺さんでもおかしくないような年なのだと思い出す。

「ま、なんでもいいや。お前、飯喰わしてやるから来いよ」
「母ちゃんは?」
「母ちゃんは…ここに埋めていこう」

 この陽気ではカロリアまで遺骸を搬送することはできない。可哀想だが、遺髪と遺品だけ預かって、この地に埋葬するしかなかろう。大きな岩の根方に墓標を立てておいて地図を残せば、この子が大きくなった時に改めて詣ることが出来る筈だ。

「えー?」
「嫌か?」

 腐ったり、動物に食われてしまう可能性を示唆することは躊躇われた。それでもアリアズナの様子からそれが仕方のないことなのだと理解はしたのか、はたまた《飯喰わしてやる》という言葉に惹かれたのか、カールはぽてぽてとアリアズナについて来た。

 

*  *  * 



 
 行き倒れの女性と子どもを兵が拾ったからと言って、普通これほどの軍がその進行を止めることはないだろう。
 だが、王太子有利がそのままにしていけるような人物でないことは周知の事実であった。

 あり合わせの木材を加工してではあったが、それなりの装飾を施した棺に沢山の華で埋めると、そこに死に化粧を施した女性を横たえた。
 彼女の僅かな荷物の中には日記があって、そこから…彼女の住む集落が《地の果て》の暴走と見られる災害によって全壊したことで、親戚筋を辿って点々としていた事が知れた。天性、気楽な性分であった女性…カリハナ・メルパは半ば旅を愉しむようにして移動を続け、カロリアを目指す途上で力尽きてしまったらしい。

 ギーゼラの見立てによると、おそらく心臓の冠状動脈攣縮による心筋梗塞が直接の死因であろうとのことであった。20分程度の急激な苦しみを経て、一気に亡くなったのだろう。元々、冠状動脈の先天的な奇形もあったらしい。

 カリハナの棺が竪穴の中に埋められ、土が掛けられていくと、母親に二度と会えないのだと漸く理解したらしいカールが鼻を垂らして泣き出した。アリアズナは無理に《泣くな》とは言わず、抱き寄せて思う存分泣かせてやった。

「うん…いっぱい泣いとけ。それが遺されたもんの務めだ」
「ふぇ…えぇえうぅぅ〜……っ…」

 カールを抱きしめて背筋を撫で続けるアリアズナの姿に、多くの女性達が瞳を潤ませた。

 彼女たちは禁じられていることを承知の上で魔族との愛に生き、寄せ場にまで収容された人々だった。迫害された上でのこととはいえ、人間の地を離れて眞魔国に赴くことに不安もあったに違いない。
 それでも、手厚く葬られるカリハナの姿に自分の身の上を重ねたのか、彼女たちは一様に安堵の表情を浮かべていた。

 魔族達は、いつか短い寿命の彼女たちが生を全うしたその時にも、決して杜撰な扱いはしないだろうと確信できたのだ。

『この人達と共に、生きていこう…』

 誰もがその決意を胸に抱きながら、カリハナの墓標に花を供えた。



*  *  * 




 さて遺されたカールはというと、面倒を見てくれる女手には事欠かなかった。過酷な運命の中で子供を失った女性達が、先を争って構いたがったのである。
 宿営地について一斉に夕食が始まると、痩せぎすだが可愛らしい子どもは引く手あまたとなった。

「慌てては駄目よ?」
「さ…ゆっくりお食べ?」
「ぁむ〜」

 口元にスプーンを宛われたカールは急いでスープを飲み込もうとしたが、咳き込みそうになって背筋を撫でられたり、女性達に抱きかかえられたりしていた。この分なら、面倒見の良い女性の手で育てて貰えることだろう。
 あるいは、カロリアの地にある孤児院で面倒を見て貰えるかも知れない。

 そう安心したのも束の間、お腹が一杯になったカールはぽてぽてと歩いてアリアズナの後を追った。

「アリアリさーん」
「ん?」
 
 ぱふっと脚に飛びついてきたカールは、そのままよじ登って背中に乗っかろうとしている。

「お…おいおい!何してんだ?」
「アリアリさん、おんぶ〜」
「いや、お前…」 

 二人の様子に、女性達は苦笑気味にくすくすと声を漏らした。

「あらあら…懐かれてしまいましたね?羨ましいわ…」
「いや、俺に懐かれても…っ!」

 そうは言いながらも、無邪気な子どもがにこにこしながら引っ付いてくるのを拒絶することはできない。
 
「しょうがねぇなぁ…カロリアまでだぞ?」
「ん〜」

 困ったように眉根を寄せるアリアズナであったが、カロリアで本当にカールの手を離せるのかどうか、自分でも自信がなかった。



*  *  * 




『良いなぁ…』

 仲睦まじい親子を思わせるアリアズナとカールを眺めながら、ニコラは臨月間近の腹を撫でつけた。もしかすると、カロリアか…下手をすると眞魔国に向かう船上で出産してしまいそうなのだが、衛生兵達は《大丈夫。必ず母子共、無事に生まれるわ》と請け負ってくれている。

 でも、彼女たちにも約束できないことが一つだけあった。
 行方の知れないグリーセラ卿ゲーゲンヒューバーに、再び会えるかどうかと言うことだ。

 幾ら暢気な気性のニコラとはいえ、既に牢から逃れていたゲーゲンヒューバーが、自分の元に帰ってきてくれないことに忸怩たるものを感じずにはいられなかった。
 何か事情があるのだと信じたい。けれど…どうしても《捨てられたのではないか》との思いは拭えない。

 それに、コンラートから聞いたゲーゲンヒューバーの家柄は想像していた以上に高いものだった。純血貴族としての矜持に満ちた両親が、孕んでいるからと言って人間の女を息子の嫁として認めてくれるだろうか?

 数限りない不安は、底なしに明るいはずのニコラでさえ落ち込まずにはいられないものだった。
 
「う…っ」

 妊娠後期に入ってからはあまり感じなくなっていた悪阻(つわり)も、この頃は時折感じてしまう。振動の少ない幌馬車に乗せて貰っているとはいえ、やはり妊婦の身に長旅は負荷が大きいのだろう。

「ニコラ、大丈夫?」
「あ…っ!ユーリ殿下…っ!」
 
 気さく過ぎる有利は軽装で歩き回って、一兵卒だろうが寄せ場帰りの女性だろうがお構いなしに話しかけるから、大抵声を掛けられた方が吃驚してしまう。傍らには漏れなく軍団長コンラートもいるものだから、驚愕は視覚的にもいや増すのだった。
 
「きもちわるい?おかゆさん、もっとやわらかくにてもらおうか?」
「いいえ…大丈夫です。お気遣いなく!」

 ぶぶぶんと手と顔を振って匙を口元に運ぶと、無理に食べようとしたせいか余計に吐き気を覚えてしまう。

「ぅ…っ」
「むりしないで?」

 差し伸べた手は、思わず…といった具合にニコラの腹をさすり、次いで慌てたように離される。

「あ…ご、ごめん…っ…」

 女性の腹に不用意に触れてしまったことを詫びるが、ニコラはふるる…っと首を振ると、有利の手を取って腹に押し当てた。

「もっと触っちゃって良いですよ?ユーリ殿下に触って頂けたら、祝福を授かりそう」
「え〜?」
「次々に奇跡を起こして、乾ききったスヴェレラだって潤して下さったユーリ殿下ですもの。きっとそう!」
「キセキかぁ…ほんと、たまたまなんだけどね?」

 照れたように頭を掻くと、有利は優しい手つきで腹部を撫でていった。

「すごいなあ…こうやって、赤ちゃんてうまれてくるんだね?こっちの方がよっぽどすごいキセキだよ」
「確かに!」

 手を出したりはしないが、コンラートもまた不思議そうに膨らんだ腹部を眺めている。

「ひとつの命が、君の中にあるんだね?こんなに華奢な女性の中に、命を生み出す力がある…強いとされる男では、耐えられぬ苦痛や不安を、君たち母親は乗り越えていくんだ。それは…本当に素晴らしい事だね」
「まぁ…」

 感嘆に満ちた賞賛の言葉に、照れながらもやはり喜びが込みあげてくる。有利やコンラートに認めて貰うことは、掛け値なしに素晴らしい体験であった。

 はち切れそうに膨らんだ腹部を撫でながら、ニコラは想う。
 
『ああ…そうね。命が、ここから生まれてくるんだもん…これこそが奇跡よね』

 今はニコラの一部として息づいているこの命も、生まれた瞬間から別の生き物として存在し始める。ニコラの父母がそうであったように、ニコラもまた命を繋いでいくのだ。例え夫がおらずとも、ニコラは命を生み出した者として生きていくことになる。

『この子と、生きていこう…』

 そうだ、ニコラは誰からも見捨てられた孤独な存在ではない。こうして見守ってくれる人たちがいるのだ。ゲーゲンヒューバーの両親に対しても、恩情に縋りに行くのではなく、その思い出を共有する為に赴こう。寄る辺ない身を《面倒見てくれ》というのではなく、大切な宝物をくれたゲーゲンヒューバーに対する、お礼を言いに行くくらいの気持ちで向き合ってみよう。

 そうすれば、何かが拓けていくような気がした。 

 ぱくりと口に含んだスープに、今度は吐き気を催すことはなかった。《この一口が、赤ちゃんに行くんだわ…》そう想うと、スープの味わいが身体の隅々にまで広がっていくようだった。

『美味しい…』

 そう思える幸せを噛みしめながら、一口一口、ニコラは大切な食料を腹に詰め込んでいった。
  


*  *  * 




「フリン殿、そろそろでしょうか」
「ええ、準備は出来ておりますわ」

 ギルビット領主館で、フリンは簡素ながら細身の肢体によく似合うラベンダー色の服を纏うと、少しだけ迷ってから良い香りのする華を一輪、髪に飾った。
 部屋に迎えに来たウルヴァルト卿エリオルは、《よくお似合いですよ》等と気の利いたことを言える気質ではなかったが、扉を開けてフリンが一歩踏み出すと、長い睫の影を頬に投げかけながら微笑んだ。深い海のような色合いの瞳が隻眼であるのは勿体ないが、それは若い(魔族基準でだが…)彼を大人びて見せてもいた。
 成長著しい彼は、最近では時折フリンを包み込むような眼差しさえ浮かべてみせる。

「良い香りですね」
「ええ…好きな華なの。名前は…忘れてしまったけれど」

 昔から、花や草が薬として何に効くかは覚えていても、名前や花言葉などはすぐに忘れてしまう方だった。エリオルの方は博識なので、眞魔国での名は知っているのかもしれないが、敢えて蘊蓄を垂れたりはしなかった。

 ただ、満足そうに頷くだけ。
 その空気感が、フリンは気に入っていた。

『この方も、眞魔国に旅立たれるのだわ…』

 カロリア領の境に設けられた大門から、ルッテンベルク軍到着の合図があった。予定通りに進軍してきた彼らが素晴らしい戦果をあげて帰還したことは嬉しいが、駐屯していた部隊も含めてこの地を去るのだと思うと、突き上げるような寂しさに駆られた。

『何を考えているのやら…』

 このままエリオルが駐屯を続けていたとしても、堂々たる大貴族の彼に人間の嫁を娶るような気は無かろう。誘えば閨にだって来てくれたような気はしたのだが…ひとときの情交は余計に寂しさを増大させるような気がして、結局色めいた誘いはしなかった。

 エリオルの方からもそういった誘い掛けは無かったから、好かれているのではないかと思うこと自体、フリンの思いこみであるのかも知れない。

「さ、行きましょう」
「ええ」

 馬車に乗る時にも、自然にエスコートしてくれるエリオルの存在に馴れてしまっている自分に気づいて、ちいさく溜息をついてしまうフリンだった。



  

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