第2部第34話






 白亜の塔が建ち並ぶ聖都にあって、一際豪奢な建築様式を誇る大教主専用の教会…その無駄に広い一室で、異変は起きた。

「ぎぎぃいいいぃぃぃ〜〜っ!!」

 突然仰け反ったヨヒアム・ウィリバルトに、聖騎士団長ボン・プーロルはぎょっとして身を引いた。つい先程までなんと言うこともなく今後のことを話し合っていたのだが、大教主にのみ許された《玉座》とも言うべき席に着いていたウィリバルトが、蟹のように泡を吹きながら白目を剥いたのだ。
 
「どうなさいました…っ!?」
「うぐぐ…ぅぐぐぅ…っ!わ、儂は…」

 もごもごと口泡の混じる叫びは聞き苦しく、意味のある言葉を汲み取るのは難しい。年齢のこともあって、脳血管障害による卒中発作を疑った。
 力業で権力を手に入れたものの、年には勝てぬと言うことか…プーロルは軽く諸行無常を感じていた。とはいえ、個人的にそこまでこの老人に思い入れがあるわけでもないので、脳は早速別の人物を候補に上げようとしている。一体誰を据えておけば、無難だろうか?

 マルコリーニのような穏健派も聖騎士団の規模拡大には邪魔だが、さりとてウィリバルトのような野心家も何をしでかすか分からない不安がある。そもそも…思った以上にこの男には胡散臭いところがある。

「儂は、全てを統べるのだぁああ……っ!!」

 とうとう、口泡を飛ばしてウィリバルトは腹蔵に籠もった野心を、実に正直に叫び始めた。およそ聖職者とは思われぬ発想だが、それ自体は今に始まったことではなく、薄々気付いてたはいた。問題なのは…彼が繕わなくなったこと。いや…繕おうと《出来なく》成ったことではなかろうか?

『この男は、依るべきではない力に頼っているのではないか』

 潔癖とは言い難い行業のプーロルですら、多くの民の前で我を失ったウィリバルトが見せた《この世のものとは思えない》怪異ぶりには慄然とした。
 
 元々犯罪の噂が絶えないこの男に、清廉たることなど望んではいないが、物事には限度がある。
 
「ウィリバルト様、ご乱心」

 溜息混じりに稚児へ告げると、医師を呼ぶように申しつける。しかし、惑乱したウィリバルトは小走りに稚児が駆けていこうとすると、獣のような動きで足首に取り付いて小柄な少年を転がした。

「な…何を…っ!?」
「ぎぎぎ…儂から逃げようとするか…っ!きぃぃいいい……っ!!」
「きゃーーっっっ!!!」

 もうこの男は駄目だ。
 右目と左目が全く違う方向を向いたままぐるんぐるんしており、元々薄着であった稚児を見る間に剥くと、プーロルの目の前でいきり立った逸物を突っ込もうとするのである。

 見るに堪えず、プーロルはウィリバルトの首筋に手刀を叩き込んで意識を失わせようとした。しかし…なんという動きだろう?ぎゅろん…っと身を反転させたウィリバルトはプーロルの手首に噛みついたかと思うと、恐るべき力で噛み千切ろうとしたのである。

「ひ…っ!!」

 こうなっては穏やかな方法など採っていられない。遠目に見ている分には冷静でいられても、人間、自分の身に直接恐怖が降りかかってくると慌ててしまうものだ。それは黒くて素早い害虫が、自分に向かって飛んできた時に似ている。
 本能的な恐怖によって、プーロルは腰に帯びていた長剣を振るってウィリバルトの首を落とした。
 
 すると…ほっとしたのも束の間、断ち切られた首から赤黒い影が飛び出したかと思うと、瞬く間に空へと飛び去っていった。

「な…っ!」

 何が起きたのが、当分の間プーロルには理解できなかった。
 彼が我に返ったのは、踏み込んできた近衛兵達が彼を拘束した後だった。



*  *  * 



『儂はなんだ』
『儂は、儂は…?』

 闇い支配欲と、滾るような性欲。
 おぞましい思念の塊となって飛ぶ、《ウィリバルトであったもの》は、一路ある方向を目指していた。
 
 何処に向かっているのか、自分では分からない。
 ただ、数年のあいだ自分を突き動かしていた、衝動めいたものに導かれていることは分かる。《そこ》は、ウィリバルトにとって居心地の良い場所であるはずだ。

 もしかすると、呼んでいるのは彼が召還しようとした《鏡の水底》であるかもしれない。

 ウィリバルトは絶対的な権力が欲しかった。常に何かに飢えていた彼は次から次へと欲しいものを手に入れ、特に《禁じられた行為》《清らかなもの》を踏み躙るのが大好きだった。
 そのような行為に没頭している時、言いようのない優越感に浸れた。
 《儂、生きてる!》という実感を得ることも出来た。

 しかし、その快楽は実に一過性のものであり、同じ悦びでは以前ほどの興奮を味わうことは出来なかった。極めて中毒性の高い欲望だったのである。だからこそ、《次を》、《もっと上を》と渇望し続けていたのであろう。

 餓鬼のように貪り、同時に飢えきっていた。
 
 おそらくはその波長が極めて創主に合致した為に、ウィリバルトは導かれるようにして《禁忌の箱》を求めたのかも知れない。思わぬ邪魔が入ってアリスティア公国に箱を《奪われた》時にも、激しい渇望によってありとあらゆる計略を巡らせ、とうとう大教主の座を占めるまでになった。

 だが…上様と激しく交戦する《鏡の水底》に呼応してしまったことが、ウィリバルトの命運を決めた。
 今やウィリバルトは、濃縮された欲望の塊として天を駆けていく。

 そしてズゥンという衝撃を感じながら、巨大な竜の中へと取り込まれていった。

 見れば、大地を埋め尽くす傀儡兵の中からも無数の赤黒い塊が飛んで竜と同化していく。どうやら《鏡の水底》の本体と思しき竜は、激闘の中にあって他に力を回す余裕が無くなってきたらしい。

 ガブ…っ!
 
『うぉ、痛ぇええ……っ!』

 脇腹(?)に激痛を感じた。竜と同化しているためか、横っ腹に水蛇が噛みついてくると、その痛みも同調してしまうらしい。

『い…痛いのは嫌じゃっ!』

 嗜虐趣味は大量に持ち合わせているが、被虐趣味は全く持たないウィリバルトのこと、自分が噛まれているという感覚に悲鳴を上げた。
 しかし、痛みはそこだけに留まらなかった。
 次々に噛みついてくる水蛇は竜の身体を噛み裂き、食いちぎり、その傷口に凄まじい水流を叩きつけて肉片を削ぎ落としていくのだ。

『いでで…いでぇぇええ……っ!!や、止めてくれ…っ!痛い、痛いぃぃ…っ!!』

 苦鳴を上げて泣き叫ぶと、竜もまたびちびちとうねって水蛇を弾こうとする。しかし、なおも執念深く食らいついてくる水蛇に、ウィリバルトは未だかつて味わったことのない恐怖を覚えた。

 全く抵抗することが出来ず、一方的に踏みつけられる。

 それはかつて、彼が多くの者に味合わせてきた悪虐な行為の一端に過ぎないと、自覚することは出来ない。そんな反芻が出来るようならあそこまでの行為を続けられるはずはないのである。


 ギャアァァアア……っ!!
  
  
絶叫をあげて、ウィリバルトの精神は地獄界の底辺を這いずり回った。もはやそこに《個》は存在せず、混じり合った苦痛の一部と成り果てていた…。

 これが多くの者を傷つけ、苦しめてきた男の真の《最期》であった。



*  *  * 




『どうしよう…憎しみが、固まっていく…っ!』

 水蛇が噛みついていくことで確実に竜の力は弱まっていく。しかしその分、凝ったように憎しみの力が結集していくのを感じる。
 水の持つ湿気の為だろうか?大地や風に比べて実に怒りの波長がしつこいような気がする。

 滲むような憎しみの波動はぶつかってくると言うよりも絡みついてくる感じであり、あまりに醜悪な憎しみに感情に、上様の深層に控えていてすら吐き気を催す。

『苦しい…』
『渋谷、大丈夫!?』

 苦鳴をあげる有利に寄り添うようにして、村田が力を注いでくれる。きゅ…っと腰に感じる暖かさもまた増してきた。優雅な尾を振るうマーリンもまた、気遣わしげに顔を覗き込んでくる(破壊力も強いのだが…)。

 《見守られてる》…そう感じた途端、苦しみの中にも力が沸いてくるのが分かる。

『おれだって、だれかを見まもりたい』

 ふん…っと居住まいを正すと、矢面に立って踏ん張っている上様の苦しみが伝わってきた。有利を苦しめまいとして、一刻も早く始末を付けようと焦っているように見える。

『だいじょうぶ。上様…ありがとうね?おれ、だいじょうぶだから…あせらないで?』
『ユーリ…』

 ほっとしたように上様が息をつくのが分かった。
 同時に、ぴくん…と竜の中の憎しみが動いたのが分かる。

 絶え間ない苦しみの中で孤独に呻いていた《鏡の水底》が、目の前で示された優しさの波動に少しだけ感応したらしい。

 ねばり強く語りかけていけば、もしかして…説得できるのではないだろうか?

『もういちど、かんばろうっ!』

 差し伸べた手を一度弾かれたからといって、諦めたらそこで終わりだ。
 《助けてあげる》のではなく、《助けたい》。
 この苦しみの直中で、優越感と劣等感という二律背反した感情に扮動される存在を、何とかして開放したい。


 流れていこう…?


 小さな流れであることを恥じないで。
 支え合い、寄り添いながら流れていくことで、何時しか大きな河となろう…海となろう。
 そうすれば、きっと誰に勝たなくても大きなものを手に入れることが出来る。

 本当の《しあわせ》を感じることが出来る。

 疑いながらも、じり…じり…っと水の要素が躙り寄ってくる。
 その存在に手を差し伸べた有利は、またびしりと弾かれた。

『ユーリ…っ!』

 上様が怒りに燃えて竜へと噛みつこうとするが、それを制して有利はもう一度手を差し伸べる。
 何度でも、そうするつもりだった。


 流れていこう…?

 
 もう一度、心を込めて囁きかけた時、パァ…っと水の要素が散華していった。



*  *  * 




 ガク…っ。

 コンラートの腕の中で、華奢な肢体が頽(くずお)れる。
 
「ユーリ…っ!」

 今までと違い、自らが鍵として作用したせいだろうか?身体が酷く冷たく、がくがくと震えている。可憐な唇は可哀想なくらい血の気を失っていた。水と呼応しすぎたせいで体温を奪われたのかも知れない。
 見れば、同じように倒れてしまった村田をヨザックが大切な宝物のように抱えていた。泣き出しそうな…それでも、誇らかな眼差しは、人智を越えた戦いに勝利していく少年を優しく見守っていた。

 きっと、コンラートも同じような顔をしていることだろう。

「ありがとうございます…」

 不意に銀の鈴を振るような美しい音が響いたかと思うと、硝子を填め込んで湖底を見られるようにしている場所に、美しい人魚が姿を現した。瑞々しく伸びやかな上肢と、長く優美な尾。特に男の夢(?)である貝殻の胸当ては、細身な割に豊満な胸を申し訳程度に覆っている。

 薄水色の長い髪を水中に揺らめかせる人魚は、麗しく微笑んで手を振った。

「君は…」
「私はマーリンと申します。この湖底で《鏡の水底》を封じておりました、水の精霊です。四千年の昔、眞王陛下によってこの湖の守護を任された者です」
「ありがとう…君が、ユーリを支えてくれたんだね?」
「ふふ…支えたなど、お恥ずかしい限りですわ」

 はにかむように微笑むと、ふわりと尾を翻してマーリンは一礼した。

「どうぞ、お二人によろしくお伝え下さい。お会いした時には少々疲れておりまして、姿を取り繕うことが出来なかったものですから…なりふり構わず、真の姿でお目見えしてしまったのです」

 恥ずかしそうにマーリンは尾を振るが、この辺りは女性特有の恥じらいだろう。男の目から見れば大した違いはないと感じられても、ちょっと化粧がはげていただけで、酷く容色が落ちたように感じるものらしいから…。

 この時のコンラートには、その程度の差異なのだろうとした思われなかった。

「是非、お元気になられたら今の姿も見て頂きたいわ」
「ああ、必ず伝えるよ」
 
 約束すると、コンラートは有利を抱きかかえて立ち上がった。マーリンに対する感謝の気持ちもあるが、涼しすぎる地底から早く出たいのだ。
 マーリンの方もそれは分かっているのか、もう一度丁寧にお辞儀すると何処かへ泳ぎ去った。



*  *  * 




『体温がなかなか戻らない…』

 大公館の客間に通されたコンラートは有利を寝間着に着替えさせると、湯たんぽを抱かせたり毛布を掛けたりしていたのだが、なかなか平常の体温に戻らない有利に焦れてきた。
 
 そして…ふと、《こういう時は、やはり生肌が一番だろうか?》と思いつく。

『決して…ああ、決して…下心とかではないのだ…っ!』

 強く主張したい。
 特に、有利との付き合いに《節度》を求めてきた渋谷家の面々に対しては、力強く申し上げたい。

 これはあくまで医療行為の一環なのだと…っ!

 …とか何とか言いながら、コンラートはいそいそと衣服を脱ぎ去ると、逞しい肢体をするりと布団の中に滑り込ませる。気温の高いアリスティアで厚手の布団にくるまるのはかなり汗を掻きそうだが、抱き寄せた有利の身体かぜあまりにも冷たいものだから相殺されてしまう。

「ユーリ…」

 一抹のスケベ心(やっぱりあったのか)を一蹴させて有利から寝間着を剥ぐと、腕や下肢を絡みつかせてぴたりと密着する。
 少しずつ…体温は伝わっていくようだ。

『ユーリ…ユーリ、俺の持つ熱を全て君にあげられたらいいのに…っ!』

 狂おしく抱き寄せ、重ねた唇は哀しいほど冷たかった。
 自然に…頬を涙が伝ってしまう。

 あと一つ、有利は《禁忌の箱》を昇華させなくてはならない。毎回命がけの戦いを繰り広げて、着実に要素を開放していく有利…無償の愛を生きとし生けるもの全てに注ぐ彼だからこそ、あんなにも怒りと恨みに滾っていた要素達も支配ではなく、開放を求めたのだろう。

『それでも俺は、時々怖くなるんだよ…』

 世界の為、民の為…なにより、有利自身がそう望むから、コンラートは彼を止めようとはしない。
 それでも…素直すぎるこの心は、恐ろしさに幾度も震えているのだ。

『君を失うようなことがあれば、俺は生きていけない…どうか、早く元気になってくれ』

 生きていたとしても、もう色も味も感じ取れないように思う。
 突き上げるような恐怖心から、コンラートはむしゃぶりつくようにして有利の身体をまさぐり、掌で全身の皮膚を擦過していく。摩擦によって少しでも熱を得られないかと必死だったのである。

 そのおかげだろうか?暫くすると有利がちいさく《ん…》と甘い声を上げた。

「ユーリ…っ!」

 勢いを得たコンラートは続けて胸や腰、内腿の付け根など冷たいと感じる場所を、それはもう《ごっしごっしごっしごっし》と擦り上げ…ふと、何か濡れた感触を自分の腿前面に感じた。

「ん…?」

 見れば、有利の頬は血の気を蘇らせている…というか、あえやかな淡紅色に息づき、微かに開かれた珊瑚色の口は《はぁ…》と甘い息を漏らしている。
 何より、濡れた場所にそっと手を添えてみると…びくんと跳ねたそこはますますとろりとした蜜を零していた。

 いかん。
 あらぬところが《元気》になってしまったらしい。

「…………っ!!!」

 コンラートは慌てて手を引くが、意識した途端に、今まで有利を失うのではないかという恐怖で縮こまっていたものが《あ、失礼します》と言いたげに鎌首を擡げ始める。

 何て正直な身体だろう。
 まだまだ若いという証明だろうか?

『いや、そういう場合じゃないから…っ!』

 そんなつもりではなかったのだ。
 決して決して…疚しい気持ちや、下心など無かったのだ…っ!

 強く主張しながらコンラートは腰を引き気味にするが、意識のない有利は熱源が離れたことを寂しいと思うのか、眉根を寄せて拗ねたような声を上げると、するりと脚を絡めて擦り寄ってくる。

「………っ!」

 何て嬉しい。そして、苦しい責めであろうか?
 互いの高ぶりがぴとりと密着して、えもいえぬ感覚を沸き上がらせる。でも、それを貪ることは出来ない。

 結局、コンラートは一睡もしないまま、有利の身体を思いやることと欲望の狭間で、揺られ揺られてフラメンコ状態を味わったのである。 





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