第2部第33話 ヒュウゥウウウ……… 轟音を上げて突撃していった騎兵隊を見送った後、ベックマンは包囲陣の中に誰一人脱落者を残すことなく、ルッテンベルク軍が突入作戦を成就させたことに気付いた。 だが、ここからどうして良いのか分からない。 幾ら補給いらずの傀儡兵を率いているとはいえ、戦う敵が目の前にいないのではどうしようもないではないか。 『ず…狡い…っ!!』 戦争なのだから、やられた方がこんな事を言い出しても通らないのは分かっている。でも、敢えて声を大にして《狡い》と言いたい。 『くそ…くそぉお…っ!ソアラまでいるなんて…っ!』 《狡い》といえば、ソアラ・オードイルのこともそうだ。 彼がルッテンベルク軍に帯同しているなんて、一体聖都では何があったというのだろうか? 聖都を出立する時、確かにウィリバルトは約束してくれたのに…。アリスティア公国を陥落させることが出来たら、その時は…ソアラ・オードイルを自由にして良いと。 二度と、ウィリバルトがその身を穢すことはないのだと…。 『ソアラ…っ!』 美しい…そして、哀しげな横顔を思い浮かべながら、ベックマンは泣きべそをかきそうになった。 彼は薄幸の少年であった。 幼い頃から聖都の中で誰よりも美しく賢いと評判であったのに、まだ10代になったばかりの頃、《稚児》という名目で半ば強制的にウィリバルトの傍仕えとして用いられると、夜毎未成熟な肉体を蹂躙されていたという。 神学校で一歳年上のソアラを敬愛していたベックマンは、目の前で彼が犯される様子を見せつけられたことがある。おそらく、ウィリバルトはベックマンの淡い恋心を知った上で、奉仕させられるオードイルを見せつけたのだ。 『見ないでくれ…っ!』 悲鳴のような声が脳裏に蘇るたび、臓腑が煮えくりかえるような憎悪と共に…隠しようのない劣情が沸き起こる。 ああ…そうだ。まだ幼かったベックマンはあの時、歪んだ形で性の萌芽を迎えてしまったのだ。そして飢えるような思いで、オードイルを求めた。 神学校で高い成績をあげ、教会内での権力も次第に握っていく中、何とか隙を見つけて彼を抱こうとしたのだ。 けれど…出来なかった。 自慰の間には幾らでも汚すことの出来るオードイルも、いざ目の前にすると、どんなに老人の手で汚されているのだと知っていても、芯に決して崩れぬ清らかさを持っているように感じられた。 謀略によって抱くことは出来たかも知れないが、彼に軽蔑の目で見られるのは怖かった。だから、恋心を抱いていることすら告げることが出来なかった。 そんな悶々とした暮らしの中、転機が訪れたのは数ヶ月前の事だった。突然ウィリバルトに呼び出されたベックマンは、信じがたい《協力》を依頼された。 後から考えると、聖都の制圧とアリスティア公国攻略の二方面作戦を平行して行おうとしたウィリバルトは、聖都に於いては自分の側が《正義》であることを印象づけるべく、聖騎士団正規軍を用い、アリスティア公国に於いては《欲得づく》で自分に従う、多少後ろ暗さのある人物を選ぼうとしたのだ。それは、どれほど言い繕ってもこの傀儡兵達が《正義》には見えないからだろう。 『のう、ベックマン・カポーティー…ソアラ・オードイルが欲しくはないか?』 《東の島国から手に入れた特殊な媚薬を用いれば、ソアラはお前に跪いて…尻を振りながら愛を請うぞ?》…そうねっとりと囁きかけてくるウィリバルトに、すぐには返事が出来なかった。 媚薬なら、実は個人的に幾つも入手している。それが使えなかったのはタイミングの問題と言うよりも、単に怖じ気づいていたからである。 だが…焦れたようなウィリバルトが《断るのならば致し方ない。聖騎士団員のボンバーにでも頼むか》と言った途端、掴みかかるような勢いでベックマンは立候補した。それはもう、《ハイハイハイハイ…っ!》と、教員に接近していく児童くらいの勢いで。 自分と同様、ソアラに恋い焦がれている男にやられるくらいなら、嫌われようがどうしようが力づくで奪ってやる。やっとのことでそう決意したのだ。 『良かろう…お前に任せるぞ。アリスティア公国を陥落させれば、必ずやソアラ・オードイルをお前だけのものにしてやろう。ちと年を取ったとは言えあの容色だ…儂も、多少後ろ髪引かれはするが、二度と手はださんと誓おう』 ああ…こん畜生っ! あんな老人の言葉など信じるのではなかったっ!! 煮えくりかえる臓腑の痛みに、ベックマンは乾いた土を蹴りつけた。 ガ… ガガガ…っ! その土が突然、ポッ…と色を変えた。 ポ…ポポ… 次々に色を変えていく大地と、生ぬるいような匂いに、雨が降ってきたのだと知れる。 『この時期に雨だと?』 不思議に思って見上げた先で、信じがたい現象が起きていた。 ゴォオオオ……っ!! 突然に暗雲が立ち込めたかと思うと、何かが渦を巻きながら…天地の間を上下し始めた。 あれは…あれは…?一体何なのだ。 全身を禍々しい朱に染め、鱗をぎらつかせて蜷局を巻く《あれ》は一体…。 「竜…?」 それも、《竜殺し(ドラゴンスレイヤー)》達の手で絶滅寸前まで追い込まれた大型蜥蜴もどきなどではない。5本の爪を持つ、巨大な竜だ。 しかもその横には、竜よりは小振りながら猛々しい風情でやはり咆吼をあげ、機を見計らっては巨体に食らいつく水蛇達がいる。 そいつらは、天から降るのか地から沸き上がるのか分からないような、どす黒い水の中を唸りを上げて旋回飛行していた。 その姿を見上げると、突然に傀儡兵達が震えだした。 感情を持たぬ身で恐怖したというわけではなさそうだ。ブルブルブル…カタタタタ…っと震えたかと思うと、突然がくりと糸の切れた操り人形よろしく大地に崩れ、その代わり、身体の中から飛び出した赤黒い塊がビュン…っと飛んで天を目指す。 いや、目指す先は正確には天ではなかった。 巨大な竜の口の中へと入り込むと、天地を繋ぐ渦巻きがまた太くなったような気がした。 * * * 時を少し戻そう。 ベックマンが地団駄踏んでいた丁度その頃、有利たちは迅速に地下神殿に潜ると、すぐさま《鏡の水底》との交感を始めていた。 この箱の鍵は、封じられた四千年前には《まだ生まれていない子ども》であった有利の血。それ故に、有利を支えるコンラートの眼差しには、自分を鍵として使った時以上の緊張感が漲っていた。 『俺が、盾になれたらいいのに…っ!』 強くそう望んで有利の腰を背後から抱きしめるが、村田と額を合わせ、両手指を交差するように組んだ有利の、物理的な支えにはなり得ないと知っている。 彼の肉体を治す為、上様の力をループさせたあの時とは事情が異なるのだ。 『どうか…無事でいてくれ、ユーリ…っ!』 狂おしい思いを込めて、コンラートはぎゅ…っと有利を抱きしめた。 * * * 一方、村田と額を合わせて上様に呼びかけ始めた有利は、次第にトランス状態に入っていった。肉体と精神の境目が漠然とし始めたと思うと、急に《鏡の水底》がグン…っと近寄ってきたような気がして肩が震えた。 しかし、ぎゅ…っと抱きしめてくるものがある。 暖かい…覚えのある、腕の感覚。 再び双腕を取り戻した、コンラートの腕の感覚だ。 『コンラッド…!』 唇に笑みが浮かび、臍下に力が籠もる。 『来るなら来やがれ…っ!』 迎え撃つ気概が高まった有利の前で、挑むように《鏡の水底》が揺らめいたような気がしたが…その間に、有利へと寄り添うようにしてふわりと舞い降りてきた光がある。随分と疲れているような印象だが、これは…。 『ああ…やっと来て下さいましたね!お待ちしておりました…っ!!』 ひら…っと舞う優美な尾びれに、青少年の心がぽわんと弾む。もしかしてもしかすると、これは…人魚というやつではなかろうか? ビバ、人魚。 ビバ、貝殻の乳バンド。 人並みに青少年としてのときめきを持つ有利は、先程恋人に支えられたことも忘れてちょっぴり期待感に胸弾ませた。 村田もやはり同様で、ちょっとはにかむようにして口元を緩めている。 『村田、鼻の下のびてるよ?』 『渋谷こそ好きねぇ〜』 思わず状況も忘れて、きゃぴきゃぴと突き合う(精神体でだが)二人であった。 『だってだって…人魚だよ?お姉様系の艶っぽい人魚かな?』 『僕はどっちかというとロリ系に期待だね』 わくわく… どきどき… ときめく二人の前に姿を現したのは…大変な、お姉様だった。 だが、《有利の勝ち》とは言い難かった。 『……』 『…………』 …何というか、《昔お姉様》だったのかなというか…八百屋・魚屋では大抵《お嬢さん》と呼ばれて複雑そうな顔をする方の《お姉様》なのだ。 女性相手にこんな言い方をしては何だが、正直…《梅干し婆さん》との印象が強い。貝殻の下に隠された《梅干し》は、ポロリがあっても絶対直視したくない。 『は…じめ…ま、して…。あの…おれ、有利っていいます……』 『あ〜〜……はじめまして、僕…村田健です……』 二人がちゃんと(?)名乗れたのは奇跡に近い。 ぎょろりとした目の《お姉様》は、入れ歯なのかどうかが無駄に気になる見事な歯並びを《くわっ》と剥き出しにして微笑んでくれた。 『存じておりますわ、ずっと…お待ちしておりましたもの…っ!私は眞王陛下にこの国の守護を任されております、マーリンと申します』 『すてきなおなまえですね…』 『いやぁ…ほんと』 言語系統が違うはずなのに、如何にも人魚っぽいというか…。でも、湖なら《レイコ》とかでも良かったのではないかと、色々とどうでも良いことが思い浮かぶ。 『ほほ…ま、お上手』 涼やかな声は、それだけ聞いているとかなり妄想が膨らみそうだが、目を瞑るわけにもいかない。 『マーリンさんは、四千年待っててくれたんですか?』 『いいえ、命の尽きるまでこの湖に住むことは既に、お役目として承っているのですよ』 その言葉を聞くと、村田が下唇をきゅ…っと噛んだのが分かった。老いさらばえたマーリンの姿に、同様の記憶を持つ自分を重ねたのかも知れない。 『私がお待ち申し上げたのは、呪わしい儀式によって聖都へと召還されつつあった、この《鏡の水底》を拘束した時からですわ』 『あなたが…つかまえててくれたの!?』 『ええ、時空を越えて聖都に移動しつつあった禍々しい気配が、丁度アリス湖の直上を横切ろうとしたのです。私は全勢力を上げて湖の水を逆流させ、箱を捕らえたのですわ。それから…ずっと、《鏡の水底》が偉大な眞王陛下のお力で封じられるのを待っておりました。私の力だけでは完全に封じきることが出来ず、本体をどうにか拘束し続けたものの、創主の力は封印をすり抜けて、かなりの量が外部に漏れ出てしまったもので…』 なるほど、これで一つ謎が解けた。 《鏡の水底》は有利と同時期にこちらの世界へと召還されたはずだったのだが、何故か眞王はその位置を正確に認識していなかった。創主に半ば侵されていた彼は、有利を召還したのと同様、意識を奪われている時期に《鏡の水底》を呼び寄せてしまったのだろう。 だが…それを何とか食い止めてくれたのがマーリンだったのだ。 《梅干し婆さん》なんて言ってゴメンなさい。 心情的に、《小梅ちゃん》くらいにしておきたいところだ。(←ちょっと可愛い気がする) 『ありがとうね…長いあいだ、しんどかったでしょう?』 『ええ…ですが、私は報われました。こうしてあなた方が来て下さった…。《地の果て》と《風の終わり》が昇華されていくのを感じながら、今か今かと待ち続けていた日々は、今日の為のものだったのですわ…!』 『うん。それは、あなたがずぅっとまもってきた、この国の大公さんが勇気をだしてくれたおかげだよ?』 そう。有利達はこの国の湖底に《鏡の水底》が眠っていることなど知らなかった。もしもマーリンの封印が限界を迎え、暴発するまで気付かなかったらと思うとぞっとする。何もかもが、手遅れになっていたかも知れないのだ。 『そうですわね。ポラリス大公…!洟垂れだったあの子が、立派になって…』 流石は四千年見守っていた古強者。50代のおじさんも洟垂れ小僧扱いである。 『では、参りましょう…。《鏡の水底》を、昇華致しましょう…!』 『うん…っ!』 疲れ切ってはいるようだが、マーリンはくるりと旋回すると残された力を奮い起こすように尾ひれと上体とを蠕動させ始めた。その動作は実に年齢を感じさせない荒々しさであり…何故かリンボーダンスを連想させられる。 ふん…っ は…っ! ふん…っ は…っ! 乳首に星形の飾りをつけるのだけは勘弁して欲しい。 いや、今はそんなことを考えている場合ではないが…っ! 『が…がんばるぞぅ…っ!』 『お、おう…っ!!』 必死で意識を鼓舞すると、有利たちは再びマーリンと共に集中し始めた。既にかなり開き始めている《鏡の水底》は、怒りを示すようにガタガタと震えて開放を求めるが、有利と村田の意識体は水底を泳ぐようにして箱に近づくと、宥めるように寄り添った。 『怒らないで…』 『あんたが、ほんらいそうであったものにもどろう?』 凝った怒りの塊ではなく、大地を潤し、生き生きと流れ、大気に広がって雲となり、股山々に降り注ぐ…ただの水となって世界を渡ろう。 そう呼びかける有利に対して、《鏡の水底》は余計に怒りを高ぶらせていった。 『ただの水だと…っ!?この俺が…っ!!』 グラ…っ! 驕慢な自負心が地鳴りのように水を震わせる。 『俺は…世界を統べる者…っ!!』 グララララ……っ!! 干渉してきた有利たちの思念を蹴り倒すようにして、ドウ…っと箱から溢れ出たものがアリス湖の水面を目指す。 『上様…っ!』 『うむ…っ!!』 こうなっては、呼びかけは後回しだ。まずは暴れようとする《鏡の水底》に対して捕り物劇を繰り広げねばなるまい。 有利は咄嗟に、意識を上様に切り替えた。 * * * 「これは…っ!」 ソアラ・オードイルは湖上に飛び出してきた巨大な竜に度肝を抜かれていた。付き従っていたポルプ・ホートンなどは面白いくらいにひっくり返って、尻餅をついていた。おかげでオードイルも心の準備をする余裕が出来たような気がする。 「大丈夫か?」 「は…はい…。しかし、あれは一体なんなのでしょう?」 「竜のようだが…あれほど大きなものは初めて見たな」 教会では竜を《悪の化身》と見なしており、時には懸賞金を掛けてその首を狩らせ、竜を倒した者に《偉大なるドラゴンスレイヤー》の称号を与えている。しかし、彼らが聖都に収めてきた竜は《体の大きな蜥蜴》という感じで、わざわざ狩らねばならぬほど邪悪な生物とも思われなかった。知能の高い竜は結束して攻撃してくる人間を餌とはせず、自分のテリトリー内の生物しか補食しないからだ。 しかし、アリス湖から飛び出してきた竜のなんと禍々しいことだろう? あのぞっとするような目は、どこかで見たような気さえする。 『邪悪で淫らな…あの男のようだ』 ぞ…っとして身震いする身体を、オードイルは無意識に抱きしめていた。 力無き子どもであった時分、我が身を蹂躙した男を思い出したからだ。 そんなオードイルをどう思っているのか、真摯な眼差しでポルプが二の腕を握った。つぶらな瞳をした、まだあどけなさの残る少年兵。オードイルは半ば忘れかけていたが、昔神学校で、あくどい神父の魔の手から救ったことがあったようだ。 『この子の目は、私を蔑んでいない』 彼だけではない。そういえば…出世街道を自ら外れ、このような道を進み始めた自分には、信じられないくらいの兵がついてきてくれた。彼らは欲得づくではなく、オードイルを信じてついてきたくれたのだ。 『彼らにとって、信じるに足る指揮官でありたい』 オードイルは今までのような、《隙を見せない》為の気負いではなく、暖かな気持ちの満ちる実感によって両脚を踏ん張った。 見上げた先で《ケケケケケケ…っ!》と竜が嗤った時に、ポルプのように腰を抜かさずに済んだのはそのおかげであったかも知れない。 「俺は世界の覇者…っ!そう、誰よりも偉大で、力ある者…っ!」 銅鑼声は人の声なのか、獣の咆吼なのか判別尽きがたい響きで天地を引き裂こうとしている。禍々しい竜の口が開閉されているから、そいつが喋っているのだろう。 しかし…竜の身体に小振りながら元気の良い水蛇達が噛みつき、鱗や肉を削いでいくと、声は動揺を示すように混濁していった。 「俺は…」 「儂は…」 「全てを統べるのだぁああ……っ!!」 その声は嗄れた老人のようだった。 まるで…ヨヒアム・ウィリバルトのような…。 |