第2部 第32話 「何とも盛観ですな…」 「こうして眺めているだけでよいのでしたから、そうですわね」 アリスティア公国の誇る円月防御壁の覗き窓からは、周囲を幾重にも取り囲む軍勢が見えた。幾つもの瞳が虫の集団を思わせる禍々しい群れを睨み付けており、その中にはこの国の公女ファリナ・カティアスと、軍部の総指揮官マルティン将軍の姿もあった。 「ええ…今回に限っては、眺めているだけで終わると言うことはあり得ませんでしょうな」 マルティン将軍の口調に、苦い物が混じる。 通常であれば、これは先の見えた籠城戦であるはずだった。アリスティア公国は小国ながら豊かな水源と土壌を持つ自給自足が可能な国家であり、数ヶ月どころか数年であっても物理的には籠城に耐えられる。 だが、それも相手が《人間》であればのことだ。 人間であれば、ともかく本国からの補給を保たねばならず、籠城に掛かる費用はいつしか国庫を破綻させるか、なにがしかの国内問題が起きてアリスティアから手を引かざるをえなくなる。 しかし…彼らの殆どは超常的な力によって動いている《傀儡兵》なのである。その力の源も定かでない以上、一体この包囲網が何時まで継続されるのか予想もつかなかった。 それでも今のところ国内から大きな不安の声が上がっていないのは、軍の総指揮官マルティン将軍が負傷をおいながらも健在であること、そして、ポラリス大公の娘ファリナ公女が堂々と籠城戦を指揮していた為だろう。 大陸の女性としては珍しく長身のファリナは、鞭のようにしなやかな体躯と、鞭並みに強靱な舌鋒と心根の持ち主でもあった。多少口が悪いせいか悉く縁談が壊れて未だ独身の身であるが、このような非常事態にあってはなまなかな男性よりも度胸が据わっている。 それでいて、油断なく包囲網の様子に気を配りながらも、毎日きっちりとお化粧をしてお茶を嗜むことも忘れない。 「ふぅ…籠城が続いて困ることと言えば、白粉と紅が切れてしまう事かしら?お茶は色々と種類があるから、贅沢を言わなければもつのだけれど…」 「ふふ…流石は公女殿下」 このような状況にあっても《日常》を失わないのは、女性ならではの剛胆さというべきか、はたまた図々しさであるのかは不分明であった。ファリナ自身は《どちらかといえば後者であろう》と思っているが、周囲の人間達は前者を選択してくれるらしい。有り難いことではあるが、それはファリナ個人に対する畏敬の念というよりは、偉大な父の七光りが強かろう。 『七光りでも何でも良い。私の役割はどっかりと座っていることだわ』 幼い頃から親しくしているマルティン将軍の前でなければ、敢えて《眺めているだけでよいのでしたら…》等と、不安を喚起させるような発言もしなかったろう。 内心の怯えはともかくとして、悠々とティーカップを傾けながら《壮大な包囲網を眺めながらのお茶というのもおつなものですわね》くらいは言ったろう。 『ですが、父上…私やマルティンには、この状況を破綻させないように維持させることは出来ても、根本的な解決はとても出来そうにはないのです』 今までに体験したことのない超常現象を前にして、心の底から剛胆であり続けられる者がいたら、それはよほどの勇者であるか…愚者であろう。 ほぅ…とちいさく溜息をつくファリナの前で、突然状況に変化が起き始めた。 フォ…… フォォオオオオオ…… 「……っ!?」 角笛の音。 だが…これは、傀儡兵達のものではないし、アリスティア公国正規軍のものでも、友好国のものでもない。 一体、どこの軍勢だ? 『もしや…眞魔国軍?』 ファリナはポラリス大公が眞魔国との友好を計る為に赴いたことが、どう転ぶのかについては全く理論的な思考展開を辿ることが出来なかった。かの国についてはあまりにも情報が少なすぎるからだ。 父の影響で魔族が決して残虐な種族でないことは理解していたものの、長年にわたって《人間の敵》として見据えられていた連中だ。小国の大公風情が手土産一つ持たずに協力を依頼したところで、喜んで手を取って入れるとは考えにくかった。 『万が一そのようなことがあれば、彼らはこの国に大きな利用価値を感じているか…』 あるいは…考えにくいことだが、よほどの《お人好しで》あれば、その可能性もあるかも知れない。 魔族に対して《人が良い》という表現も何だが。 フォォォォオオオ……っ!! 益々いや増していく角笛の音と共に、とうとう遙か彼方の丘陵地に新入軍勢の旗印が見え始めた。遠目にも煌めく金糸の彩りは、間違いなく眞魔国の象徴…獅子の紋様を象っていた。 「眞魔国軍…っ!」 認識するや、ファリナとマルティンは迅速に指示を出していた。 彼らがどういうつもりでアリスティア公国に向かっているかは分からないが、少なくともポラリス大公を手土産として聖騎士団に恩を売りに来たという雰囲気ではない。少なくとも、彼らはこの虫の集団めいた包囲陣を崩しに来てくれたのだ。 ならば、こちらも眞魔国軍の動きに敏感に反応し、呼応した戦いを見せねばなるまい。 * * * 「ほう…眞魔国軍が来たか。待ちかねたぞ」 聖騎士団の指揮官、ベックマン・カポーティーは天幕の中から姿を現すと、苛立たしげにまとわりつく砂を落とした。傀儡兵は糧食を必要としないので、食べ物も水も豊富にはあったのだが、本来は気候の穏やかな聖都で裕福な神父暮らしをしていた彼には、あまりにも過酷であった。 それでも、長くなるだろう包囲戦を放棄するつもりはない。 『私は、退くことは出来ぬのだ』 それは決して、神への信仰心や、ましてやウィリバルトへの個人的崇拝から出たものではないことを、ベックマンはよく自覚している。これは欲得づくの願望と、恐怖心からでた選択なのだ。 『ウィリバルトは間違いなく、悪魔的な存在と手を結んでいる』 聖都に於いて傀儡兵等という存在を生み出す以前から、ベックマンはその事に気付いていた。彼が《奇跡》というにはあまりにも禍々しい事象を幾つも起こしていたからだ。それを受けてベックマンが起こした行動は、彼を告発することではなく迎合することであった。 周囲に何と思われようと…それこそ、閨に侍っていると噂されようとも(少年好きの彼は青年期に差し掛かったベックマンには興味ないようだが)、へこへこと媚びてきた。 ベックマンの望みをひとつ、叶えて貰う為に。 『そうだ…その為なら、私はこのような辺境での包囲戦でも耐えてみせよう…』 一人頷くと、ベックマンは傀儡兵達を指揮して門扉近くの布陣を一層厚くしようとして…ふと考えた。 『待てよ?寧ろ、誘い込むように布陣を薄くした方がよいのか?』 考えようによっては、眞魔国軍の参戦は好機とも言える。あの分厚い円月防御壁を破壊することは出来ずとも、友軍を迎え入れる為には必ず跳ね橋を降ろさなくてはならない。そうであれば、薄い布陣によって《隙あり》と思わせた方が有効かも知れない。 この程度の策は向こうも考えの内に入れているだろうが、それでもアリスティア公国軍と合流することなく戦を進めていくのが不可能である以上(流石の眞魔国軍も、彼らだけでこの聖騎士団を全滅させることは出来まい)、門扉を目指す道を選ばざるを得ない筈だ。 『良し…』 ベックマンの指示に従って、疲れ知らずの傀儡兵達は整然と動く。機械的に、敵を屠る為の布陣が整いつつあった。 * * * 『ふむ、やはり門扉方面の布陣を薄くしてきたか』 フォンウェラー卿コンラートはちいさく頷くと、指揮棒のような采配を振るって各旅団長達に作戦の最終確認をする。 「すごいね…あれ、ぜんぶ教会の人らなの?」 「殆どが《人》じゃないのが救いかな」 今まさに聖騎士団に向かわんとするルッテンベルク軍の中にあって、不思議なことに…最高指揮官たるコンラートの愛馬には王太子ユーリが同乗している。 幾ら仲の良い恋人同士であるとはいえ、これは如何にも奇妙なことであった。 有利を深く愛しているからこそ、コンラートは彼を危機に晒すことを由とはしないはずだ。しかし、コンラートとはまた別ベクトルで有利を溺愛しているはずの村田ですら、この行為を止めようとはしなかった。そればかりか、武闘派とは懸け離れた彼もまた、グリエ・ヨザックの馬に同乗しているのだ。 今から遠乗りに行くというのならともかく、極めて不利な戦いに赴くとは到底思えないような状況だ。 しかし、作戦の意図を説明されている旅団長達の動きには迷いはない。 彼らはただ《真正面から戦って勝つ》ことを至上命題とする戦争屋ではなく、戦いの結果なにがもたらされるかを認識している軍人であった。 フォォオオオ……っ!! 高らかに角笛の音が吹き鳴らされる。 「全軍、突撃…っ!!」 コンラートの号令一過、騎兵を主力とするルッテンベルク軍の、凄まじい突撃が始まった。 それは直線を描いて、門扉へと直進していた。 * * * 『やはりそうか…!』 ベックマンはにやりと微笑んでルッテンベルク軍を待ち受ける。 彼らは凄まじい勢いで突撃してくるが、そのうち速度を緩めるはずだ。アリスティア公国との間に白鳩便などの空中連絡網が使われた形跡はないから、場合によってはポラリス大公が音声をあげて開門を求めるかも知れない。 そうなれば、傀儡兵達はあっという間にルッテンベルク軍を取り囲むことが出来る。幾ら精強を誇るルッテンベルク軍と言えど、騎兵の本領は速力を生かした突撃だ。一度でも減速すれば大きな馬体は格好の的となり、次々に射殺されてしまう。勢いのついている今は巧みに長剣や槍を振るって傀儡兵を蹴散らしている彼らも、すぐ劣勢に立たされるはずである。 ドドド…… ドドドドド……っ!! それでも、迫り来る騎馬の地響きは臓腑を凍えさせた。実は剛胆とは言いにくい自分の心を奮い立たせて、《有利な状況なのだ》と信じ込ませることに一苦労する。 その内、ベックマンはあることに気付いた。 眞魔国軍であることを示す獅子の旗印の中に、白鳥を象った旗が混じっているのだ。あれは…聖騎士団の紋様ではないのか? 「……っ!」 ベックマンは息を呑んで、旗印を担う男達を見つめた。その中に、彼が求めていた…何を代償にしてでも手に入れたいと望んだ男がいたのだ。 『ソアラ…っ!』 何故ここにいるのだ? アリスティア公国を陥落させれば、褒美としてウィリバルトは彼をくれると言ったではないか。それが今、どうしてルッテンベルク軍などと帯同してベックマンに向かってくるのだ? 困惑するベックマンを余所に、ルッテンベルク軍は今や先鋒隊の表情を確認出来るほどの距離まで詰め寄っている。 そこには、信じがたいことに双黒の美しい少年達もいた。眞魔国の掌中の珠ともいうべき、王太子と大賢者ではないか?それが何故、先鋒隊にいるのか。 しかも…ベックマンの思惑を余所に、ルッテンベルク軍は突撃を続けている。 全く減速することなく、門扉に直進しているのだ。 「な…っ!ど、どういうつもりなのだっ!?」 訳が分からない。 このまま減速しなければ、彼らは続けざまに上がったままの門扉に激突することになるではないか。門扉の方はカタリとも動かず、静まりかえっているというのに…。 * * * 《門扉を開ける必要はない》 丘陵地からアリスティア公国内のみに通じる手旗暗号によって、その指令は伝えられた。マルティンもファリナも信じがたい思いであったが、伝達してきた者がポラリス大公である以上、従わないわけにはいかなかった。 「お父様…」 ドドドドド……っ!! 地鳴りを上げて突撃してくるルッテンベルク軍の中には、確かにポラリス大公の姿がある。だが…彼らは気でも狂ったかのように突撃を続け、真っ直ぐに門扉を目指しているではないか。 「どういうおつもりなのでしょうか?…そろそろ減速せぬと…いや、こちらが機を計って跳ね橋を降ろさねば、少なくとも先鋒隊は激突死を免れませんぞ?」 マルティンの副官であるボードンが不安そうに声を上げるが、マルティンとファリナは全く同じ不安を抱えながらも跳ね橋を降ろすように指示はしなかった。 何か考えがあるはずなのだ。 あのポラリスが…そして、協力してくれるルッテンベルク軍が国の至宝たる王太子と大賢者を巻き込んでの激突死など望むはずはない。 「揺るがぬ事です」 どっしりと構えて、ファリナは両腕を組んだ。常人の考え得るところではなくとも、信じ抜くしかないと腹を据えているのだ。 それでも、今まさに先頭の馬が門扉に激突するという時には、思わず、ぎゅ…っと目を閉じた。轟音を響かせて、父の肉体が挽肉になる様を想像してしまったのだ。 * * * 「な…にぃ……っ!?」 ベックマンは呆然と口を開けて、信じがたい光景を見守った。 なんと言うことだろう。彼の目の前で…ルッテンベルク軍の騎兵達が、次々に門扉の中へと吸い込まれて行くではないか…っ! 「お…追え…っ!!」 不可思議な技によって、彼らは頑丈な円月防御壁をすり抜ける術を持っているらしい。だが、そうであれば聖騎士団とて同様に壁をくぐれるはずだ。 しかし…そうはいかなかった。 感情を持たぬ傀儡兵は忠実にルッテンベルク軍を追ったのだが、するりと壁を抜けた敵兵とは対照的に、勢いよく壁に激突してしまったのである。 ドォン…っ ボゴォ……っ!! 命を持たぬ物体に過ぎぬとはいえ、硬い岩壁に激突して粉砕される姿は、無惨としか評することが出来ない。 「何故…っ!?」 ベックマンが叫ぶ中、ルッテンベルク軍は悠然と…そして、猛然として壁の中に飲み込まれていった。 かつて魔族が技術の粋を集めて建造した、円月防御壁の中へと…。 * * * 『なんと言うことだ…っ!』 スル…っと薄い水膜の中をすり抜けていくような感覚の中、ソアラ・オードイルは如何にも頑強な壁の中を通過した。 この突撃に先立って、大賢者は全軍を前にこう告げていた。 《円月防御壁は僕が命ずれば、必ず開く。しかも選択的透過性を発揮して、法力で作られた傀儡兵は通れない。だから迷い無く、減速無しで突っ込んでくれ》 あまりにも奇想天外な発言に、オードイルは言葉を失った。魔族達も耳目を疑っていたようだが、それでも反論する者はいなかった。誰もがこの小柄な少年を、《四千年の記憶を持つ双黒の大賢者》として認識している為だろう。 『どうする…?』 迷いはあったが、何しろ先鋒隊をルッテンベルク軍の主力部隊が占め、ウェラー卿コンラートだけでなく王太子までが参加するというのだ。怖じ気づいて引いてしまっては、武人の名折れであろう。 結局、オードイルはまともに動ける少数の部下と共に突撃部隊に志願した。 しかし…こうして実際に壁を越えるまでは、自分に待っているものは凄絶な衝突死に間違いないと絶望しかけていたものだから、本当に自分が死んだわけではなく、安定した土壌の上で息をしているのだと理解した時には身体中から力が抜けるのを感じた。 一拍の間をおいて気付くと、周囲には唖然とした様子のアリスティア公国兵が居並んでいた。先に突入を果たしたコンラートと有利、ヨザックと村田、そしてポラリス大公の姿もある。彼らは既に馬を降りており、何事か長身の女性に話しかけていた。 おそらく、留守を勤めていた公女ファリナだろう。 * * * 《跳ね橋を降ろす必要はない》 手旗信号によってそう告げられてはいたものの、地鳴りを上げて騎兵隊が突撃してきた時には…その中に父の姿を認めた時には、呪わしき魔法に掛けられた軍勢が狂騒的な行為に臨んでいるのかと恐怖した。 しかし、事態はやはり魔法のように展開していった。ファリナ達も予想もつかぬ方法で…だ。 「怖じ気づくな…っ!突撃を続けろ…っ!!」 「双黒の大賢者たる僕の前に、円月防御壁は閉ざされない…っ!」 まだ幼さを残した少年が、武人達の精神を鼓舞させるように大音声をあげている。その言葉通りに、彼らは壁を突破していった。 ドドドドド…… ドドドドドド……っ!! フゥン…っと耳の傍を風が抜けていくような音を交えて、騎兵達は壁を抜けてくる。 《怖じ気づくな》という命令に従って、忠実に駆けてきた彼らではあったが、それでも心理的には大きな動揺があったことだろう。 不条理としか思えない命令に従い続けた馬たちもだが、騎乗していた兵士達も殆どが涙目であったり、顔色を真っ青にしていたりと自らが体験した《奇跡》に驚愕しきっている。 だが、その衝撃からいち早く立ち直った者達もいた。 ふわりと栗毛の馬から舞い降りた長身の青年が、同乗していた愛らしい少年を連れてファリナの方に向かってくる。その後ろには父ポラリスもいたのだが、大変申し訳ないことに…(無事を確認できていたからこそだろうが)ついついファリナの瞳は青年と少年の姿に釘付けとなってしまう。 『まぁ…まあまあ…っ!』 何と麗しいのだろう? また、なんと凛々しいのだろう? 歌物語の登場人物のように美々しい青年は、渋銀の光沢を持つ鎧を纏ってはいたものの武張ったところはない。優雅な仕草で双黒の少年を導くと、滑らかな声音で挨拶をした。 「お初にお目に掛かります。ファリナ・カティアス殿下。ルッテンベルク軍団長、ウェラー卿コンラートと申します。約束を取り交わすことなく御訪問致しました無礼を、どうかお許し下さい」 「まあぁ…こ、こちらこそ何の御用意も出来ず失礼しました」 「こちらは我が国の王太子殿下で在らせられる、シブヤ・ユーリ殿下です」 「はじめまして!おせわになりますっ!!」 ぴこんっと腰を折って勢いよく挨拶してくれる少年の、なんと愛らしいことだろう!見守るコンラートもまた、《愛らしくて堪んないデスよ実際》という顔をしている。 『双黒は呪われた存在だなどと、一体誰が言い出したのかしら?』 長身のファリナを見上げる眼差しは実に澄み切っており、王太子という立場にも関わらず奢ったところの一切ない態度には、清々しい好感を覚える。更にはくりくりとした愛らしい印象が、彼を撫で転がしたいほど無邪気な小動物めいて見せていた。 『ああ…っ!王太子殿下でなければ今すぐ撫で撫でするのに…っ!!』 いかん。母性本能だか萌え心だかで胸がキュンキュンする。 思わずにこやか(ニヤニヤ?)な表情になって見守っていると、横合いからやはり双黒の少年が現れた。こちらは些か急いでいるらしく、焦れたような口調で早口に捲し立てた。 「ファリナ公女、失礼します。僕は村田健…眞魔国で一応、大賢者なんて呼ばれている者です。いきなりで申し訳ないんですけど、《鏡の水底》を可視できる神殿に連れて行って貰えますか?」 「……っ!?」 極秘事項を大勢のいる前でさらりと暴露されたファリナは、血の気の引くような思いで村田の口を塞ぎ掛けた。しかし、その手は父によって止められる。 「良いのだ。《鏡の水底》は今から、この方々によって昇華される」 なるほど、既に彼らは二つの《禁忌の箱》に引導を渡している。それでは勿体つけることなく、今すぐに我が国の困り種、《鏡の水底》も始末してくれるのだろうか? 『それでは、おそらくこの方々は《お人好し》の方なのだわ』 軽く苦笑するような思いでファリナは心に頷いた。本当に、魔族というのは呪われた箱を利用しようというのではなく、迅速に無力化させる為だけに軍を動かしてくれたのだ。 『多くの《常識》が、これから覆されていくのでしょうね…』 人間の中にはあくまで《常識》にしがみつき、頑なに魔族を否定し、鈍い続ける者もいることだろう。しかし、ファリナは自分がそうではないことに深く感謝した。 大国のエゴによってねじ枉げられていない《真の歴史》を継承するアリスティア公国…その民として生まれたことは、今後の変遷に富んだ時代を生き抜く為には得難い事であるに違いない。 「さあ、こちらにいらして下さいな」 ファリナはにこやかに顔を上げると、新たな同胞に向かって行く手を示した。 その手の先に、見たことのない雄大な世界が広がっていることを予感しながら。 |