第2部第30話






「ユーリ…見える?」
「うん…っ!」

 コンラートが顔を近寄せてくると、ぼんやりとではあるが顔の形が見て取れるようになってきた。まだきらきらと光る銀の光彩が見られないのは残念だが、それでも端麗なラインがふわりと背景から浮かんで見えるのが嬉しくて、有利は両手を伸ばすとコンラートの頬に掌を添えた。

「うれしい…ここにコンラッドがいるって、ちゃんと分かる…」
「俺も嬉しいよ…ユーリ」

 コンラートの声は甘く掠れていた。投薬を開始してから一週間で、着実な回復を示していることが嬉しくて堪らないのだろう。
 王宮内の来賓室でアニシナの治療を受けながら、有利は幸せに浸っていた。

「もうじきコンラッドのきらきらの目、みられるかな?」
「君が見てくれるのなら、星のように煌めかせてみせるよ…」
「コンラッド…」
「ユーリ…」

 唇を寄せ合わんばかりに(多分、人目がなければ迷わずやっていた)二人を眺めながら、アニシナは《げふ…》と呟き、アーダルベルトは《胸焼けがする》といって退室し、ヨザックと村田、グレタは生暖かい眼差しで見守っていた。

 一方、スヴェレラ国王ダイクンは妙に眩しそうに目を眇めている。



*  *  * 




「すみませんねぇ…うちのバカップルときたら、周りの空気を読まない連中で」

 村田が申し訳なさそうに詫びると、ダイクンは多少苦さを含みながらも笑顔を浮かべて見せた。

「いや…寧ろ、羨ましいのですよ。私はあのような恋とは無縁でしたからな」
「いや…大概の人は無縁ですよ?あそこまでラブラブなのは…」
「おや、大賢者殿はそこのグリエ・ヨザック殿と恋仲なのでは?」
「そういう関係じゃないし、万が一そうだったとしてもああいう遣り取りはしません」

 《ほう?》と言いつつも、ダイクンの眼差しは妙に生暖かい。
 それが、先程有利たちを見守っていた自分の目と似通っているように感じて…村田は変な汗を背中に滲ませた。

『まさか…僕まであんな風に見える行為をヨザックとやっていたのか!?』

 《いつ?どこで?》と、思考がぐるぐるしかけるが、ダイクンは若者を追い詰めることはなく、話題を変えてくれた。

「良いものですな、互いを良い方向に導く恋というのは…」

 元々のキャラではないことを自覚しているのか、言っておいて恥ずかしくなったように、ダイクンは口元を掌で覆った。

「陛下にも、愛おしい存在がおられるではないですか」
「ふむ…?」

 小首を傾げているダイクンの裾に、話を聞きつけたグレタがぺとりと引っ付いてくる。

「陛下…グレタは、陛下のことが大好きですよ?お母様もきっと大好きだったはずです」
「そうか?」

 まだグレタに向かって《大好きだよ》と返すには照れがあるのか、口にこそしなかったが…ちいさな頭を撫でつける手と眼差しには、溢れるような愛情が見て取れた。

「グレタ…ひとつ、頼みがあるのだが…」
「なんです?」
「その…私的な場では、《伯父様》と呼んではくれぬだろうか?」

 《ダイクン》と言いかけて咄嗟に止めたのは、いきなりハードルが高くなるとグレタ以前に自分が耐えられないと思ったからだろうか?
 グレタは驚いたように目を見開いたものの、こちらは素直に愛らしい声で呼びかけた。

「はい…伯父様」
「ふむ…ふむ」

 《伯父様》呼びで、既にダイクンの顔はとろけそうになっている。もしも妹のイズラに対してもこんな様子であったのなら、なるほどリディアが嫉妬したのも無理からぬ事では…と思ってしまう。

 なお、ダイクンはリディアを月の塔に閉じこめはしたものの、王妃の座から降ろすことはなかった。別れ際に狂おしい声で《愛しております…っ!》と叫ばれたのが応えているらしい。
 それに、リディアを嫌いつつも証拠を捏造してまで離縁しなかったところをみると、このダイクンという人は意外と情が厚いタイプなのかも知れない。妻としては愛していなくとも、何らかの形で愛着を感じている可能性もある。

 元通り影響力を持った王妃に返り咲くのでなければ、それもまた愛の形として認められる気がした。
 
『そうさ…僕のも、これはきっと《愛着》というやつなんだ』

 ちら…と視線を送れば、目の合ったヨザックが嬉しそうに手を振ってくる。そっぽを向こうかどうしようかと迷ったけど、敢えて驚かせようと笑顔でウインクしたら、一瞬目をぱちくりさせてから、にしゃりと笑った。

 妙に可愛い男だ。 

『きっと、こいつがいなくなったら世界はとても寂しいものになる』

 そう思えるのは確かだと、村田も認めざるを得なかった。



*  *  * 




 治療開始から十日が経過した朝…晴れやかな気持ちで目覚めた有利は世界が変わっているのを感じた。
 正確には、彼を取り巻く世界が変わったわけではない。

 何が変わったのかはすぐに分かった。

「コンラッド…っ!」
「ユーリ…?」

 布団からぴょんっと起きあがった有利に、気配を察知して隣のベッドに横たわっていたコンラートが駆け寄ってくる。

「見える…うん、見えるよぉ…っ!」
「完全に…見えるようになったのかい?」
「うん…うんっ!!」

 こくっと頷くのも勿体なくてコンラートを見つめれば、心待ちにしていた琥珀色の瞳と、きらきらと光る銀の光彩が見て取れた。

「コンラッドの目、だぁ…」

 もっとたっぷり見たいのに、感動のあまり涙が浮かんできて視界をぼやかせてしまう。ごしごしと寝間着の袖で拭おうとすれば、《傷ついてしまうよ?》と、気遣わしげに囁いて、コンラートが唇を寄せてくる。

 ちゅ…ちゅっと寄せられるバードキスが美味しそうに涙を啜り、すべやかな頬や唇にも寄せられていく。

「おめでとう…ユーリ。本当に良かった…」
「あ、あひひゃ…」

 《ありがとう》と言いたいのだが、一拍おいてすぐにコンラートの舌が口腔内に差し入れられたので、とてものことちゃんと返事をすることが出来ない。

「ほにゃむぐ〜…」
「ん?なぁに?」
「ん〜…まあ、いいや……」

 あんまりコンラートの舌が気持ちいいものだから、会話を一時置いてキスに耽ってしまう。ただ…スヴェレラ王宮内という場所が場所だけに、あまり盛り上がりすぎるのも考えものだ。(←一応、考えてはいるらしい)
 
 危うく舞い上がりすぎて下肢を絡めかけたその時…《寸止めの神》か何かが舞い降りた。

「早朝に失礼します!王太子殿下、フォンウェラー閣下、緊急にお知らせしたいことがございます!」
「…………」

 唇を重ねてベッドに横たわったまま、二人の動きが静止する。
 コンラートの腕はがっしりと有利の腰に回り、有利の大腿はきゅうっとコンラートの下腿に絡んでいるのだが、そこからちょっと…動けない。

「どうか起きて下さい、どうか…」
「はい…はいっと……」

 不承不承居住まいを正して出て行くと、二人はイチャイチャを止められた不満を吹っ飛ばすような事態に見舞われた。

 

*  *  * 




「ポラリス大公閣下…!」

 衛兵から知らせを聞いて駆けつけたアマルとカマルは、スヴェレラ国境の兵舎で疲弊しきった国主の姿に目にすると絶句してしまった。ポラリスの様子はそれほど凄まじかった。目は血走り、身につけていた衣服は何日も代えていないのか、砂塵にまみれて元の色を失っている。

「な…何があったのですか!?」
「白鳩便で伝えて下されば…」

 混乱しきってわたわたと言葉を紡ぐ兄弟に、ポラリスが掠れた…しかし、強さを失わぬ声で告げる。

「その白鳩便で伝えた文書が、盗み見られた」
「……っ!」

 さ…っと兄弟の顔色が変わる。それでは、二人の伝えた文書によって、恐るべき事態が生じたと言うことだろうか?

「だ…誰に……」
「ウィリバルト派だ。怪しげな傀儡の軍勢を駆り、出立時を襲われた。マルティンがすんでのところで護ってくれたが…彼がどうなったのか…」

 ぐ…っとアマルの喉がつかえるが、肉親の情は押さえるべきと考えたのか、すぐに表情を改めた。

「閣下がご無事であったことが何より重要です」
「必ず、反転攻勢を為しましょう!」
「うむ。お前達…その為にも、王太子殿下に話を通してくれるか?」

 アマルとカマルが返事をする前に、単独で馬を駆れるまでになっていた有利と、随伴してきたコンラートが兵舎にやってきた。

「おはようございますっ!」

 駆け込んできた少年と青年に、ポラリスは目を見開いた。

『なんと…美しい……っ!』

 魔族の美しさについては事前に聞き及んではいたのだが、幾ら予備知識があろうとも《真の美》に関して言えば、その威力が減じることはないらしい。
 瑞々しい若葉のような芳しさを漂わせる双黒の少年に、端麗でありながら自然な威風を感じさせる長身の青年…彼らが、眞魔国の王太子と《ルッテンベルクの獅子》なのだろうか?

「お初にお目に掛かる。我が名はポラリス・カティアス…アリスティア公国の大公位を勤める者です」
「あ、はじめまして。おれは渋谷有利っていいます」

 ぺこりん。
 
 なんと言うことだろう。思わず…年甲斐もなく《きゅうん》と胸を弾ませてしまった。そのくらい、一生懸命、上体を屈めてお辞儀をする有利は愛らしかったのである。

「お初にお目に掛かります、大公閣下。俺の名はウェラー卿コンラート…一応、現在は家名に《フォン》をつけております」

 コンラートは少々面映ゆそうに自己紹介をした。
 その様子がまた若々しいお茶目さを醸し出していて、新たな印象に《きゅうん》となってしまう。
 まこと、魔族というものは魅力的な種族であるらしい。

 しかし、一般に言われているような《淫らに誘惑してくる》という噂は、唯の流言に過ぎないのだとも思う。彼らは実に、胸がすくような清涼感に満ちているのだから。

「お国元では国の重鎮たる十一貴族に御就任されたと伺っております。まだ冠位に慣れておられないのですかな?」
「ええ…実のところ卿を付けるのも照れくさいのですよ。親から受け継いだ名はウェラーで十分だと思いますのでね」
「そっか。それでコンラッドって、ときどきじこしょうかいの名まえがちがうんだね?」

 小首を傾げて愛らしく有利が確認すると、コンラートは少し照れくさそうに頭を掻いていた。何とも微笑ましい二人である。

「ほう…コンラッドという通り名もおありか?」
「えと、これはおれがまちがえて覚えちゃったんデス。さいしょにあった時、まだこっちのコトバがぜんぜんわかんなかったから…」

 今度は有利が恥ずかしそうに頬を染める。淡く上気した薄紅色の頬はなんとも愛らしく(←しつこい)、あどけない言い回しにも目尻が下がってしまう。

「そういえばコンラッド…もう、なおした方がいいのかな?おれ、もうコンラートって言えるよ?」
「呼びやすい方で呼んでくれたら良いけど、俺はどちらかというとコンラッドと呼び続けて欲しいかな?」
「どうして?」

 問われてから一拍、間が開いて…はにかむようにしてコンラートが囁いた。

「特別な呼び名って感じがするから…かな?」

 有利の大粒の瞳はこれ以上ないほどに開大し、すべらかな頬は淡紅色の綾取りを纏う。

「んじゃ…ずっとコンラッドってよんでてもいい?」
「ああ、ユーリ…」
「コンラッド…」

 見つめ合いながら薔薇色の大気を漂わせる二人は実に仲睦まじそうな様子なのだが、妻を亡くしてから独身生活の長いポラリスにはちょっとしんどい…。
 …というか、本題を忘れかけていた。

「あー、すみませんね…大公閣下。うちのバカップルがご迷惑をおかけしております」

 変な汗を掻きながら、口を挟みかねてうごうごしていたポラリスは、新たに兵舎へと入ってきた少年に声を掛けられた。こちらは有利と同年代に見えるものの、受ける印象は随分と違う。やはり見惚れてしまうほどに愛くるしい容姿ながら、眼鏡の薄硝子越しに伺える双弁からは、底知れぬ叡智が見て取れる。
 
 《ムラタ・ケン》と名乗った少年は双黒の大賢者として知られる存在なのだと言う。
 彼は既にかなりの情報を得ているらしく、ポラリスから状況を聞く様子も《初耳》というよりは《確認》の要素が大きいようだった。

「やはり動いてきたねぇ…」

 重々しく呟くと、村田はコンラートに視線を移した。

「ルッテンベルク師団はあとどのくらいで足並みが揃う?」
「もう二日頂きたい」

 コンラートの言葉にポラリスは目を見開く。彼はアリスティア公国が怪しげな兵を率いた聖騎士団に襲われていると報告しただけで、まだ《禁忌の箱》に関する告白はしていないのだ。しかし、魔族達は全てを知っているかのように話を進めていく。
 
「こちらから言うのも何ですが…他国の争いに貴軍を投入して本国からの咎めは受けられないのでしょうか?」
「既に魔王陛下の了承は頂いております。『《禁忌の箱》の無力化に必要と思われる措置については、全権を王太子の判断に委ねる』…と」

 事も無げに村田が告げると、ポラリスはまたしても心臓がひっくり返りそうなほど驚いた。彼がここ半年の間、気も狂わんばかりにして煩悶し、その名を口にすることも恐れていた《禁忌の箱》について、あっさりと解決の目処を示されたことが不可思議でならないのだ。

「…っ!ご、存知…だったのですか!?」
「あくまで推測のひとつに過ぎなかったんですけどね。アマルとカマルを使者として遣わされた段階で、概ね確信していましたよ。貴国、アリスティア公国には《禁忌の箱》がある。いや…現れたのでしょう?渋谷…いえ、王太子がこの世界に現れたのと同時期に。そしてそれは、《鏡の水底》である筈だ」
「……っ!!」

 次々と言い当てられて、ポラリスは目を白黒させてしまう。
 有利とコンラートを目にした時には《魔族というのはこんなにも清々しく、愛らしい存在なのか》と胸を弾ませていたのだが、村田の言葉を聞いていると、まるで《考えを読む》とされる精霊に出くわしたかのような驚きを覚える。正直なところ、多少の不気味にさえ感じてしまった。

 そんなポラリスの心理状態まで把握しているのか、村田は苦笑の形に表情を変えると、肩を竦めて少年らしい様子を浮かべる。

「そんなに驚かないで下さい。なにも、僕は超常的な力によって貴国の事情を察したわけじゃない。元々《禁忌の箱》は魔族が作り出したもの…基本的に情報が多いのもお分かりでしょう?」

 そう言い訳(?)をすると、村田は《禁忌の箱》についてのポラリスの知らない情報を教えてくれた。ただ、聞けば余計に《超常的》としか思われない事情ではあった。

 村田は、魔族のうち数名が数千年の昔に《鏡の水底》を開放させない為《地球》と呼ばれる異世界に運んだこと、時を経て封印の緩んだ《鏡の水底》は、おそらく自らの力でこちらの世界に移動してきたことなどを告げた。
 ただし、《鏡の水底》がアリスティア公国にやって来たことは、村田にとっても多少想定外であったらしい。

「僕が最も恐れていて、可能性としても高いと考えていたのは、《鏡の水底》が教会勢力に召還されていることだったんだけど、それだけは何とか回避できていたみたいだね。やっぱり準備だけは怠らなくて良かったな〜…」

 これもポラリスにとっては驚くべき事実であった。
 なんと、この村田は四千年前に存在した《双黒の大賢者》の記憶を引き継いでいるそうで、アリスティア公国の成り立ちについても詳細に知っている。

 かつてこの公国は宗主国たるオリハルトァアの一領土に過ぎなかったが、内乱によってオリハルトゥアが滅んだ後にも公国は独立して存在を維持していくことになった。ただし、内乱の際に多くの歴史的資料が失われた為、最高指導者である大公家にも理解不能な古文書、遺跡が多く残されている。
 その中の最たるものが、アリス湖の水底を覗ける古代遺跡であるのだが、それは双黒の大賢者が大陸に数点残した《禁忌の箱》対策の一つであるのだという。

「《禁忌の箱》は最強の魔力を持つ眞王ですら滅ぼすことが叶わず、封印することしかできなかった。それも、忠実な四人の臣下の助力を仰いでのことだ。僕は…いや、当時の大賢者は何時の日か封印が解けてしまうことを恐れ、万が一発動した際のストッパーとして幾つかの建造物に《仕掛け》を残しておいたんだ」

 ただし、これは必ずしも《当てになる仕掛け》ではなかったらしいので、村田自身が《よく引っかかったなぁ…》と感心していたくらいだ。何しろ、地・水・火・風の四元素に関連した《禁忌の箱》が、その属性の《仕掛け》近くで暴発してくれなければ意味がないのだ。

 今回の空間移動についてはおそらく、白鳩便による連絡を傍受する前から疑っていたウィリバルト派が、何らかの儀式によって《鏡の水底》を召還してきたものと思われる。しかし、水の要素に関連する《鏡の水底》は、この甚だ当てにならない仕掛けの内、アリス湖底に設置された《仕掛け》に引っかかってくれたようだ。

 しかし、ここでポラリスは少し不思議に思った。

「お待ち下さい、ムラタ殿…。少々解せぬ事があります。《禁忌の箱》とはそもそも魔族が生み出ししもの…私は常々、古文献などを読むにつけ《これは人の手で使いこなすことは不可能》と認識しておりました。しかし…ウィリバルトは一体、どうやって《鏡の水底》を呼び寄せることが出来たのでしょうか?」
「封印したのは確かに魔族ですよ。けど、《禁忌の箱》自体は創主なわけしょう?」
「それはそうですが…だとしても、何故教会が創主の力を?」

 村田は《なるほどね》という顔をして苦笑した。どうやら、眞魔国では当然とされる事柄を、ポラリスは把握していないらしい。

「教会…少なくとも《シマロン大聖教》で御本尊とされている代物は、創主そのものですよ。連中は創主を崇め、信仰しているわけです」
「な…んですと…っ!?」
「元々教会そのものがそうだったとは言いません。特定の教祖を持たず、《人智を越えた存在がこの世界にはあり、良い行いを為していれば天国に行ける》という素朴な信仰心が原点ですからね。だけど…スヴェレラで見た教会のご本尊《聖茨》ってやつに貼り付けられていたのは、まさに創主の象徴です。あと、四千年前にもそうだったんだけど…人間の中には恐ろしく創主と感応性の高い連中がいる。そういった手合いは《神の啓示を受けた》と称して、創主の力と連動しながら攻めてくるんですよ。ウィリバルトって奴がそうであるのは、まあ間違いないでしょう。傀儡兵は四千年前の創主軍に酷似したやつがいたし」
「そうなのですか…」

 ふぅ…っと重い息を吐くと、ポラリスは恐るべき予測に目の前が真っ暗になるのを感じた。

「連中は陸続と集まってアリスティア公国を包囲していることでしょう。如何にマルティン将軍といえども、際限なく増殖する傀儡相手に殲滅戦など不可能ですからな。何とか防御壁の中に戻り、命長らえていることを願うばかりです…」

 暗い予測を立て出すと、どうしても不利な状況ばかりが目につくものだ。ポラリスは尚も絶望的な予測を立て続けた。

「岩砂漠である周辺領域は人間の軍にとっては乾きをもたらし、包囲線を困難にさせる要素を多く持っておりますが、相手が乾きと飢えを知らぬ傀儡とあっては…いかなルッテンベルク軍といえども、王太子殿下をアリスティア公国内へと安全に連れて行くことは叶いますまい…!」

 アリスティア公国はアリス湖という豊かな水源を持ち、自給自足の可能な国家だが、永続的に続く包囲を受けては流石に疲弊してくるはずだ。それに、村田が言うにはアリス湖底の《仕掛け》は完璧なものではなく、本格的な再封印の前の《仮止め》に過ぎないらしい。だとすれば、包囲を受けている間にアリスティア公国のど真ん中で開放されてしまう可能性さえあるのだ。
 最高指導者を失い、白鳩便という伝達方法にも信頼性が失われている今、アリスティア公国はまさに陸の孤島と化してしまった。

 魔族は見返りも求めずにルッテンベルク軍を動かすと約束してくれたが、幾ら英雄に率いられた軍勢とはいえど、超常的な存在が十重二十重に取り巻く壁を突破し、《鏡の水底》を無力化するのは幾ら何でも不可能に思われた。

 その時…絶望のあまり顔色を失っていたポラリスの手を、ぎゅっと力強く握るものがいた。

「王太子殿下…」
「あきらめたら、だめ。あきらめたら、そこで終わりですよ?」

 ちょこんと膝を突き、椅子に頽れるようにして座り込んでいたポラリスをどうにかして力づけようと、有利は力の籠もった言葉を紡ぎ続ける。

「おれたちは、こうしてちゃんと会うことができた…。それは、ポラリスさんがおれたちを信じて、ここまで来てくれたからです。おれたちはその信らいにこたえたい…!国と国…人と人がむすびあって、なか良くやっていくのをジャマするものを、おれはゆるさない…っ!」

 ぎゅ…っと握る手は何時しか痛いくらいの力を帯び、有利の眉間には深い皺が刻まれていた。ウィリバルトという個人を憎むと言うよりは、彼に代表される悪辣な意志そのものを憎んでいるようだ。

「ね…コンラッド、村田…。なんとかなるよね?」
「ええ」
「ああ…その為に、僕がいる」

 キラ…っと輝く眼鏡が、華奢な体躯の村田を冒しがたい威厳で包む。

 ポラリスは《おお…》と息を呑み、信じ難い思いで魔族達を見た。
 いずれの貌にも確かなものに裏付けされた自信が伺え、余裕すら感じさせる構えに、ポラリスは高鳴る胸の鼓動を感じていた。

『この方々は…やる気なのだ。やってくれるのだ…っ!』

 心を折りかけていた暗い予測が、乗り越えるべき…乗り越えることの可能な壁としてその概要を現していく。その壁はポラリスがたった一人で越えなければならないものではなく、共に手を携えて進んでくれる同士を伴っている…。

 強い希望の光が、思考を照らしていくのが分かる。

「ありがとうございます…っ!共に…戦って下さいますか!?」
「よろこんで!」

 立ち上がったポラリスは、有利と固い握手を交わしながら改めて思った。
 このちいさな少年が、全ての鍵を握っているのだ。

 双黒の王太子殿下…華奢な体躯にはどれほどの勇気と力が満ちているのだろう?

『この方は…世界に希望を広げていくお方だ…』

 泣きたいような感動を覚えつつ、ポラリスは熱く火照る瞼を伏せた。
 

  

 
 




  

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