【第2部】 第3話





 新年の宴後に行われる大きな催しは、年明けの月中旬に血盟城前の大広間で開催される閲兵式である。
 十貴族…いや、新たにルッテンベルク軍(書面等に掲載される正式な登録名は《ウェラー軍》なのだが、通称としてはこちらが用いられる見通しだ)を含めた十一貴族軍が一堂に会し、その武威を誇らかに示すのだ。

 流石に全軍が一同に集うわけではないが、それでも大概は旅団規模の軍を集結させ、特色ある武装を誇らかに示す。

 既に旧十貴族軍は王都に到着して鎧甲を磨くことに余念がないが、ルッテンベルク軍は白鳩便による知らせを受けて取り急ぎ進軍している。
 《コンラート閣下の為にも、恥ずかしい姿は見せられねぇ…っ!》との想いが強く、可能な限り迅速に駆けつけて装具を整えようとしているらしい。

 閲兵式を済ませればどの貴族もそれぞれに自領へと戻っていくから、その前に今年の大方針を決めるべく、新年の宴の数日後には再び十一貴族会議が招集された。
 議長は引き続き摂政職に留まることとなったフォンシュピッツヴェーグ卿ロドレストが勤め、彼を中心として進められた会議の中では、新たな潮流を感じさせる議題が数多く決定した。

 その代表的なものが、《カロリアの復興支援計画》であろう。

 世界に散らばったと《禁忌の箱》を始末するためには、人間国家との繋がりが必要不可欠である。その取っ掛かりとして、まず《カロリアの復興義援計画》を通じて小シマロンを《味方》とまでは言わないものの、《連携可能な国》にすべきだと有利は主張した。

 未だ独立国家の体を為している国々の内、特に大シマロンの植民地主義に対して警戒心を持つ国々と結束を繋げられれば最も良いのだが、おそらく眞魔国が《大・小シマロン両国の敵》という立ち位置にある限り、公然と手を差し出す国はないだろう。
 内心の計算はともかく、両国からの制裁が恐ろしいのだ。

 だが、小シマロンが形式上であっても眞魔国と手を結ぶ構えを見せれば、これらの国々とはぐっと連携しやすくなってくる。

 特に、それらの国々と会談する場が《歌を通じて義援金を集める》という平和的な計画となれば、あからさまな邪魔立てをすることは大シマロンの国家としての格を下げることになる。一応、彼の国は《文明国》であると自負しているのだから。

 最初に有利が提案したときには、ヴァルトラーナは当然のように反対した。その意見の主幹となったのは、以下のような内容であった。

『そのような提案に小シマロンが応じるはずがない。あの連中は手酷い形で実験に失敗したのだ。およそ羞恥というものを持ち合わせているのなら、如何に愚劣な指導者であろうとも…いや、そうであればこそ、その傷痕を他国に晒したりするものか』

 ある面では、これは実に常識的な意見と言える。(心情的には、王太子派とされるグウェンダルの方がより苦々しく感じているに違いない。悪辣な手口で少年を浚い、呪われた箱を開くような輩と手を握れと言われているのだ。個人的な恨みで言えば、その手を付け根からもぎ取りたいような気持ちでいるのだろう)

 だが最終的にはヴァルトラーナを含めた反対派も、双黒の大賢者の説得に応じる形で承認した。
 
 その説得とは、一つには公的な記録にも残る明確な内容であったのだが、実のところ、ヴァルトラーナが含みのある笑みを浮かべて自案を下げた理由は、村田が漏らした《ぼやき》によるものだと思われる。

 前者については、ヴァルトラーナの懸念を逆手に取った内容であった。
 確かに小シマロンは実験の失敗を恥じている。だが、同時に恐怖してもいるのだ。何しろ《秘密兵器》であった筈の《地の果て》が無力化してしまった以上、もともと大シマロンに劣ることが明確な武力しか持たないのだから、非常に心許ない状況になっている。大シマロンは常に元々同一国家であった小シマロンを併呑しようと舌なめずりしているのだから、少しでも隙を見せればすぐにつけ込まれてしまう。

 しかも、あの実験が《どこを仮想敵国としていたか》という点で、非常に大シマロンの警戒心を刺激してしまっているのだ。《勿論眞魔国ですとも》と小シマロン王は弁明するが、状況的にとても大シマロンを納得させることは出来ない。

 これまでは《とても大シマロンさんには敵いませんよ〜》といった態度で、表面上は従順さをアピールしてきたのだが、内実もそうであったのなら《地の果て》を入手した時点で大シマロンに差し出すべきであったのだ。しかし、実際には独自に鍵を手に入れて、開放実験まで行っている。これは、何をどう捉えても敵対行為と見なされてしまうだろう。

 この状況下で小シマロンがどう出るのかという点について、村田はこう述べた。

『小シマロン王サラレギーは野心家だ。このまま大シマロンの国力が単独で強化され、じわじわと小シマロンが併呑されていく事は望まないだろう。上手く交渉していけば、眞魔国と手を握る可能性も十分にある。それに、小シマロンの懐を痛めずにカロリアを復興するって言ってるんだから、少なくとも復興支援コンサートくらいはやらせてくれるさ』

 そう告げる端で、村田はふぅ…っと気弱げな少年の貌を掠めさせて、こう呟いたのだ。

『ただ…心配なのは、一般民間人の皆さんの生理的嫌悪だよね…』

 それは見事に《思わず零してしまった》という風情であり、はっとしたように怜悧な表情に戻した村田は二度と会議中に弱音を吐くことはなかったのだが、実のところ…これはヴァルトラーナに《旨味》を感じさせるための演技であった。

 大・小シマロンは一応は《文明国》としての体面を掲げる以上、公然と条約を破ったり非道な行為に出るわけにはいかない。だが、そんな制約があるのはほんの一握りの人間…極論すれば、王だけだ。

 《民の暴発》という形なら、実行者を処分するだけで制約を突破できるのである。

 そのような事態に結びつく《生理的嫌悪》…それは、偶発的にせよ人為的にせよ、実に起こりうる反応なのである。実際問題、村田も本気で懸念はしている。
 
 眞魔国と異なり、大・小シマロンを筆頭とする人間国家では、民の識字率は極めて低い。教養として歴史や社会情勢を認識している者となれば更に低いだろう。それが何を意味するかと言えば、たとえ眞魔国側がどれほど情理を尽くして義援を行おうとしても、それを受けるはずの民自身が疑惑と恐怖に駆られ、王太子を物理的に傷つける可能性があるのだ。

 殆どの民にとって魔族は、その国の支配階級から教えられたままの《化け物》であり、善意など持ち合わせているはずがない存在なのである。それがもっともらしい顔で助けに来たところで、《上手いことを言って俺達を頭から食べる気なんだ》と疑い、恐慌状態に陥る民は幾らでもいるだろう。

 《暴発》を起こした実行者がどの勢力の手によるものであるかで眞魔国の出方は大きく変わるから、いずれも爪牙が自国には向かわぬよう、絡め手を使いながら《暴発》を誘導する可能性が高い。

 大シマロンは小シマロンと眞魔国が噛み合うことを…小シマロンは大シマロンと眞魔国が噛み合うことを、それぞれに切望することだろう。

『無事お帰りになられることを、祈念しておりますよ…』

 議決後のヴァルトラーナは、皮肉げに微笑んでいた。密やかに、有利の碑文を読んでいたのかも知れない。
 《悲劇の王太子》として有利が暗殺されれば、これを切っ掛けに堂々と大シマロンなり小シマロンなりに報復戦を挑める上、一気に眞魔国王宮内の権勢はヴァルトラーナ側に傾くからだ。

 その結果どれほど凄惨な戦争が引き起こされるかまで考えているかは不明だが、そこは自分の裁量でどうとでもなると考えているのだろうか?

『でも、今はそれでも良い』

 村田はヴァルトラーナの心情を十分に察した上で、満足げに頷いた。
 これで、少なくとも有利の望む国際支援が合法的に行われるのだから。

 続けて提案された内容に関しても、やはりヴァルトラーナは不快を示しつつも賛同した。
 それは王太子を擁してカロリアに向かう部隊に、ルッテンベルク軍を用いるという案であった。

 嫌悪を示したのは混血の割合が極めて高い連中が人間の領土に入り、魔族に徒為すような行動に出やしないかということであったのだが、流石に会議の席で明確な根拠のない言いがかりをつけるわけにも行かない。
 しかも法力の影響が濃い人間世界で王太子が狙われたとき、純血魔族が力を発揮できなければどうなるのかと問われれば流石に効果的な抗弁は出来なかった(《それを期待している》とは流石に言えまい)。

 現在師団規模であるルッテンベルクを軍単位に編成し直し、練兵するに際して、有利は閲兵式後、コンラートと共にウェラー領に滞在することになる。その間、王宮は正式に小シマロンと文書による交渉を交わし、カロリアでの行動を保全するよう求める。

 そしてそのまま彼らは魔王陛下の親書を携えてカロリアへと赴き、春までに帰還する予定となっている。



*  *  * 




「ユーリ様…!無事、提案が通ったのですね?」

 会議室から出てきた有利に、控え室で待機していたウルヴァルト卿エリオルが駆け寄ってきた。有利の表情から事の次第を汲んだようだ。

「うん、これでちゃんとフリンさんたち、おうえんできる」
「ありがとうございます…本当に、何と御礼を言って良いのか…」
「おおげさ、おおげさ」

 抱きつかんばかりにして感謝の意を示すエリオルに有利は苦笑し、コンラートも横合いからぽんぽんと肩を叩いた。

「全ては始まったばかりだ。小シマロンとの交渉も、これからの事だしな」

 小シマロンの王サラレギーは若干16歳の少年ながら、極めて高い能力と共に、厄介なほどの野心を抱いている。有利やエリオルの捧げた灯火が踏み躙られることを予感して、コンラートは眉を顰めた。

『いっそのこと、何か眞魔国にとって有益と思われる事情でも捏造した方がよいのではないか…』

 魔族も人も、基本的に自分の心以上の尺度で物事を推し量ることは出来ない。有利やエリオルの澄み切った心は蒼穹や大海の如き広がりを持っているのだから、到底欲得づくで行動する(…と、コンラートが見なしている)小シマロン王に、《困窮する者への無条件の愛》など汲み取れるはずもない。

 《理由が分からない》というのは、誰にとっても気持ちの良いものではないが、特に世界各国の動静に気を張りつめ続けている王侯にとっては不快を通り越して、恐ろしい程の悩ましさであることだろう。

 そのような疑念を抱かせないためには、《なるほどこれなら眞魔国が金と労力を使ってもおかしくない》と思わせるだけの理由が必要だ。

 そのような悩ましさを抱えていたせいか、コンラートの顔色は会議後のお茶会になっても少し優れなかった。



*  *  * 




「どうした、コンラート」
「どうもしませんよ、グウェン」

 《よ、》と《グ》の間に、心持ち間が空く。
 その一瞬に、愛称を呼べる事への照れくささだとか、嬉しさだとかが綯い交ぜになるのだ。

 そういう気分は明瞭に相手にも伝わってしまうらしく、グウェンダルは殊更大きく咳払いをして見せた。

 血盟城の一室は、こういったお茶会に適した瀟洒な家具に囲まれている。たっぷりと薪を積んだ暖炉にはあたたかな焔が燃えており、室内環境は窓の外に広がる雪景色が信じられないくらい快適だ。

 グウェンダル、コンラート、ギュンター、そして有利と村田の五人は革張りのソファに腰掛けて語り合っている。珍しくその会話に主題はなく、単に会議で疲労した脳と身体を休めているだけだ。

 ただ、常とは異なる疲労感を漂わせるコンラートに、グウェンダルは先程から気を揉んでいたらしい。

「ふむ…何ともないなら良いが。お前は今後、王太子殿下の計画を支える上で最も重要な役割を担うのだぞ?体調管理には万全を尽くすべきだろう」

 ついつい叱責口調になってしまうのだが、コンラートの方はその下層に隠された思いやりの心を十分に感じ取っているのか、どこか嬉しそうに微笑むのだった。

「はい、兄さん」

 《い、》と《兄》の間に、心持(以下略)。

 ともかく、二人の兄弟は端から見ていて恥ずかしいくらいに仲良しであることは確かだった。ギュンターなどはそれが余程嬉しいのか、相好を崩して微笑んでいる。ただ…次に村田が告げた言葉を耳にすると、その菫色の瞳は少し燻るような色合いを湛えた。

「フォンウェラー卿はさ、ちょっぴり不安なのさ。渋谷の想いが人間の国に、本当に伝わるのか…って事がね」

 くすりと笑みを浮かべて、村田がお茶を口に含む。侍女ではなくグウェンダル自らが煎れた紅茶は実に芳醇な味わいであり、うるさ型の村田もこの味には満足げだ。
 一方、心の中身を筒抜けにされたコンラートは憮然としている。

「見透かされておりましたか」
「まあね、僕だって心配がないとは言わないし、警戒は十分にしていくべきだ。だけど、あまり気を回して妙な方策を練ったりしない方が良いんじゃないかな?」
「そうでしょうか…。俺は、ユーリの真心が曲解されるのではないかと不安なのですが…」
「そういうのは、どんな手を使っても完全に防げるものではないさ。だけどね、一番拙い方法は色々と手を講じすぎて、逆に不審を買ってしまうことだよ。真実でない、表向きの言動や行動というのは、結局の所何処かで破綻するものだからね」

 《策略大好き村田君》とのイメージが強い彼の発言としては意外なものであったが、それだけに、過去の事例に基づいているのだろうと伺われる。
 有利もこくこくと頷いて同意を示した。

「うん、おれも村田にさんせい。だって、こまってる人たすけたい、箱、しまつしたい。そのまんまだもん」
「そうだね。真実が、一番強い。綺麗事に聞こえるかも知れないけど、こういう《世界の滅亡》だなんて大仰な事態に対処する時ってのはさ、案外腹蔵を全部晒してしまった者が勝つんだよ。綺麗事を口にして、それを誰の目にも明らかな形で実行する…それだけが、綺麗事を《世間の常識》にする唯一の手立てなんだ。空気なんてものは、《読んでる》だけじゃ新しい潮流なんて作れない。自ら《作り出し》て、広めていかなくちゃならないのさ」
「そうでしょうか…」

 コンラートはまだ半信半疑という様子だし、グウェンダルも表情には出さないが同じような懸念を持っているものと思われる。
 また、村田も懸念すること自体を否定するわけではないようだ。

「うん…君が心配するのも無理はないことだよ。何しろ、君自身が大陸に向かうこと自体、実に危険性が高いんだからね」

 コンラートの左腕が《風の終わり》の鍵であることは公的には知られていない。だが、グウェンダルが《地の果て》の鍵であったこと、また、《失ったはずの左腕を異世界ですげ替えられた》ことは既に知られているだろう。この《左腕》というキーワードによって、コンラートが箱に何らかの関係を持っていることは疑われてもおかしくない。

 大シマロンがどのような形でコンラートに接触してくるのか察知し、対応するために、こちらは鋭敏な情報網を敷いておかなくてはならない。

「だから君たちは、二つ気をつけて貰わなくてはならない。一つは、鍵を狙う連中に捕まらないこと、もう一つは…」

 こく…っと口の中を紅茶で潤してから、村田は重々しく最後の一言を口にした。

「…死なないことだ」

 真冬にしては明るい日差しが降り注いでいたはずなのに、一瞬…日が陰ったのか、酷く肌寒く感じた。
 有利はことりと茶器を受け皿に戻すと、静かに真正面を見据えながら自分自身に言い聞かせるように明言した。

「しなない。ぜったい」

 誓って生き残れるものなら、この世に死者などいない。
 だが、それでも今は誓いの言葉を口にせずにはいられなかった。誰よりも、話を振った村田自身がそれを求めているように感じたいからだ。  
 
「そうだね、十分に気を付けてくれ。可能な限り打てる手は打つ…だけど、最後に戦うのは君だ」
「うん…」

 鍵を体内に持つコンラート、ヴォルフラム、そしてユーリ…。
 彼らはあらゆる精神的・肉体的攻撃に耐え、箱の持つ憎悪を昇華しなくてはならない。それらのどれが欠けても、世界はいつ終わりを迎えてもおかしくはない。彼らは、自分自身の為はもとより、大切な者達の為に《死んではならない》という義務を背負っていると言えよう。

「おもたい、しんどい。でも……がんばりたい」
「ユーリ…」

 そっと寄り添うコンラートを見やりながら、有利は思った。

『頑張れるよ。だって…俺たち、世界中から《禁忌の箱》を開く疫病神って思われてた時にも、あんなに頑張れたんだもん。今は…大事な人たちに、こんなに心配したり、応援して貰ったりしてるんだもんな?』

 一人一人着実に、理解の輪は広めていける。
 なによりまず、そのことを信じたい有利だった。



*  *  * 




 悲壮感と希望が綯い交ぜになった大気を引き裂いたのは、勇ましい角笛の音であった。

 フォーン…
 フォオーーーン……っ!

 コンラートは突然はっとしたように顔を上げたかと思うと、その瞳に眩しいほどの輝きを浮かべた。

「グウェン…これはっ!」
「うむ。予定よりも随分と早く到着したものだ。よほどお前に早く会いたかったのだろう…」
「ええ、この特徴的な音色…まさしく、ウェラー領のものですね」

 角笛の原材料となる六角牛の角は生まれ育ちによって様々形状が違う為、その音色には領土独特の音色がある。深みがあり、遠くまで喨々と響くこの音色は…まさしくルッテンベルク軍を示す角笛に相違ない。

 フォオーーーン……っ!

 音色だけでなく、角笛が決められた音階を辿るとますます確信は深くなる。懐かしいその響きに、コンラートは目元が熱く滲むのを感じた。思い入れたっぷりに吹き鳴らされるその音色からも、コンラートへの想いが伝わってくる。

 一体、彼らはどれほどコンラートの事を心配していたことだろうか?
 既に白鳩便によって主要な旅団長4名や、留守を託した領主代行には密に連絡を取っていたものの、直接目の前にして抱きしめ合わねばお互いに実感が湧かないことだろう。

「コンラッドのともだち、きた?」
「ああ…っ!」

 ぴょん…っと、こちらも弾むような勢いでソファから飛び上がった有利の身体を受け止めると、その手をとって勢いよく駆けだしてしまう。
 《まるで小さな子どものようだ》と軽く羞恥を感じはするが、どうにも止めることが出来ない。

 部屋の扉を蹴破るようにして廊下に飛び出し、階段を落下するような勢いで降りていくと、既に気配を察知した門兵が喜色を湛えて城門を開いていた。コンラートを信奉してくれている老兵は純血魔族ながら、戦場の勇ルッテンベルク軍にも高い敬意を払っているようで、少々はにかみながら構えた敬礼は、右の拳をこめかみに当てるというルッテンベルク式のそれであった。

 ゴゴゴゴゴ……

 大がかりな仕掛けが稼働して、重々しい門扉がゆっくりと開けられていく。
 ズゥン…と地響きを立てて城門が全開にされたとき、そこに居並んでいたのは…まさに、長きにわたってコンラートの心に在り続けた、仲間達の姿だった。
 
 このままではとても、閲兵式には参列できないだろう。ウェラー領から強行軍を強いてきたと思われる軍勢は些か草臥れた旅装であったのだ。
 だが、馬上にある男達の瞳に疲労の色はない。皆、弾むような歓喜を湛えてコンラートを見つめていた。

「全軍、フォンウェラー卿コンラート閣下に対し…敬礼!」

 血で染め上げたような髪と瞳を持つ男…旅団長アリアズナ・カナートが大音声をあげれば、一斉に男達はルッテンベルク式の敬礼を捧げる。
 反骨精神の強いこの男達は、かつて強制的に幾つもの小隊に分離させられ、《便利屋》として十貴族軍の旗下で働いていた。だが、その期間中に培われたこの敬礼によって、彼らは自分たちのアイデンティティーを保ち続けていたのだ。

 ルッテンベルク兵の心には常にこのような誓いがあり、敬礼の真意は目の前の指揮官を通り越して、真に彼らが尊崇を抱く相手に向けられていた。

『我らの敬礼が向かう先は、唯一絶対と信奉するコンラート閣下だけだ』

 何度《眞魔国正規軍共通の敬礼をしろ》と命令され、罰則を食らっても従わないでいたら、その内周囲の方が諦めてしまった。おかげさまで、今では誰も咎める者はいない。

 ザ…っ!

 こめかみに押し当てられた拳は堂々たる力強さを持っている反面、小刻みに震えてもいた。感動が高ぶりすぎて、静止に耐えられなかったのだろう。

「コンラート…っ!!」

 真っ先に静止を断念したのは、よりにもよって一軍を率いてここまでやってきたアリアズナであった。ぶるる…っと身を震わせ、紅瞳を潤ませると…馬上から跳ねるようにして降り、いっさんに駆け出してコンラートに飛びついてしまう。

「コンラート…っ!あっはは…畜生、この大馬鹿野郎…っ!心配かけさせやがって…っ!」

 この行為に怒る者、同調する者、感情の爆発に身を委ねる者で、その場は大混乱に陥った。

「あ…っ!旅団長殿、抜け駆けとは酷いです…っ!!」
「閣下ーっ!!お久しぶりですっ!」
「ご無事で…っ!」
「ああ、凄ぇや…閣下にまたお会いできるなんて…っ!」

 わらわらと馬から下ると、ど…っと押しかけて取り巻こうとする兵士達に、雷鳴のような声が轟いた。


「全軍、静止!」


 ぴた…っ!

 コンラートが指先を伸ばし、腕を振るったその一閃と獅子吼によって、面白いくらいにルッテンベルク軍の動きが止まる。大真面目な顔をした兵士達がぴたりと動作を止めるその姿には、まるで《だるまさんが転んだ》を見ているようなおかしみがあった。 

「長の旅路、ご苦労だった。今夜は宴席を設けるから、各自配備された宿舎で旅埃を落として来い。全く…指揮官自らがっついてるんじゃないぞ?」

 ぽかりと拳を受けたアリアズナは《面目ない》と頭を掻いたが、大して悪びれた風はない。

「ま、俺みたいな突撃型の男に取り纏めなんか任すお前が悪いんだ。俺は斧をふるって先鋒隊として敵陣をこじ開けて行くのは得意でも、持久戦なんてものにゃ耐えられねーよ」

 ひらひらと掌を振ってそう嘯(うそぶ)くアリアズナに、部下達は一斉に苦笑を浮かべた。コンラートとは違った意味で、何だかんだと好かれている。
 コンラート不在の間、如何ともしがたく重くなるであろう空気を何とか陽性に向かわせる為にとの配置は、アリアズナ当人が思う以上に上手く働いていたらしい。

 そもそもこの男はあまり気楽な肩書きにしておくと、ひょーんとウェラー領を飛び出してコンラートを追いかけて来かねないので、やはりこの選択は正しかったのだ。

「安心しろ。これからは、俺が全て仕切る」
「ああ、そうしてくれ!」

 アリアズナは満足げに笑うと、埃まみれの身体を嫌がらせのように擦り寄せた。その仕草はまるで、仲間と戯れる悪戯猫のようであった。






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