第2部 第29話






 ぴっぴっぴぴっ!ぴっぴっぴっぴっぴっ!

 ぴっぴっぴぴっぴーっ!


 高らかな音はあまり《芸術的》とは言い難い音色であった。
 ただ、軽快な調べには妙に弾むような心地は覚える。

 それがサンバカーニバルなどでよく奏でられる音の調子だとは、スヴェレラの民には分からない。

 彼らに分かったことは…笛の音色が響いた途端にもこもこと群雲が沸き立ち、見る間にざあざあと雨が降り出したことだった。

「雨が…」
「ふ、降ってる…っ!!」

 わ…
 わぁあああ…っ!!

 勢いを増していく雨脚に、人々は半狂乱になって立ち騒いだ。

 未だに《毒水だ》と言い張って警告して回る者もいたが、何しろ同じ雨の中に魔族達もいるのである。
 《カサがない人はぬれちゃうよ》と警告した王太子も、これが危険性のない雨だと示すように掌で雨粒を受け、愛らしい舌をちょこんと伸ばして飲んだりしているものだから、殆どの者が説明されずとも《これは安全な水だ》と理解した。

 こうなれば、波及するのは早い。銘々が自分の家に駆け足で戻ると、家中にある桶やら壷やらを持ち出し、子ども達は思い思いの深皿を持ち出しては雨水を受け、傾かせてはごくごくと飲み干していった。

「おいしい…っ!」

 それは、乾ききった身体には甘露とも感じられる水であった。
 今日に限っては親に《飲み過ぎた》と叱られることはないのだからと、飲み過ぎて水っ腹になっている子どももいたが、不思議と腹を下すことはなかった。

「ああ…畑が、潤ってる…っ!」
「畜生…。種が残ってりゃあなぁ…っ!」

 大人達は一時の喧噪を越えると、今度は悔しそうに歯噛みした。飢え乾いた人々は種籾まで食い尽くしており、女達が掘った法石で他国から買い付けた食糧と、僅かな配給に頼っていたのである。農夫達は適度な湿り気を帯びた土を握りしめながら、最期の種籾や苗を食い尽くしてしまった瞬間を嘆いていた。

 しかし、ここで信じられない事が起こった。

 ダイクンの許しを受けてルッテンベルク軍がスヴェレラに入ってくると、兵士達が農家を回って種籾の袋を配布し始めたのである。

「今回は僅かだが、国交正常化の調印がダイクン陛下とツェツィーリエ陛下の間で正式に交わされれば、もっと本格的な支援が出来る。だから、当面はいつでも種蒔きが出来るように、畑の土壌を蘇らせておくといい」

 無償で種籾を配布しながら、ルッテンベルク軍の兵士に横柄な振る舞いをする者は一人もいなかった。そのせいか、最初の内は《魔族軍がスヴェレラに入ってきた!》と大騒ぎしていた連中も少しずつ兵士達にうち解けてきて、自然に言葉を交わすようにさえなったのである。  

「魔族の王太子は…何故、我々にこんなことをしてくれるんだ?」

 率直に訊ねてくる民に対しても、彼らは柔らかい物腰で丁寧に説明をした。
 王太子の人となりの崇高さがそもそも、飢え乾いた人々を放ってはおけないこと。そして、何よりもスヴェレラの姫であったイズラの遺児、グレタの養父となったことで、スヴェレラに対して浅からぬ想いがあるのだとも告げた。

「まぁ…イズラ姫の御子…」

 スヴェレラにイズラがいたのは十年以上前のことであるが、母親世代の女性達はよく知っていた。気さくで物惜しみをしない彼女はよく城下町に繰り出して、生活に困窮する人々を見つけては、両親に頼んで奉仕品を振る舞ったりしていたのだ。
 そのせいか、スヴェレラにはイズラという名前の娘が多い。母親達は、自分の娘もまたイズラと同じように心清らかな姫になるようにと、願いを込めてその名を付けたのだ。

 遺児であるグレタがスヴェレラ王宮に戻っていることは噂では聞いていたが、公式行事に顔を出すこともない少女については誰も知らなかった。同時に、眞魔国などと違って新聞・雑誌などがないスヴェレラでは庶民の情報網が発達しておらず、グレタが出奔したことや、最初は有利を暗殺しようとしていたこと等も知られてはいなかったため、ルッテンベルク兵に教えられた話で、イズラの遺児について知った者が多かった。

『イズラ姫の遺児が眞魔国の王太子に頼んで、この雨を降らせてくれた』

 その噂は瞬く間にスヴェレラ中に広まり、最期まで頑なであった民の心まで解し始めた。特に、今まで敵というより悪魔のように忌み嫌っていた連中に一方的な慈悲を《恵んで貰う》より、清らかな愛情の繋がりがこの雨に結びついていると思った方が、精神衛生上良かったこともあるだろう。

 とにもかくにも、この雨によってスヴェレラの民の心は日増しに変化していった。
 そのことを《即物的》と詰(なじ)ることは無意味だ。神への信仰心は人それぞれであっても、少なくとも、二年間血を吐くようにして祈ってきた降雨の願いが叶わなかったことは神の限界を示していたし、瞬く間に奇跡を起こして現証を示した有利を頑なに認めないとなれば、それは人として…生き物として誤った生き方だろう。

 スヴェレラの民は、降り行く雨の流れに乗せてそのように感じていた。

 ザァアアア……

 雨は適度に降り、そして時々止んだ。
 叩きつけるのではなく、潤すように。
 押し流すのではなく、包み込むように…。

 雨はスヴェレラの大地と民の心、両方の渇きを癒やしていく。



*  *  *




「どうですか?ユーリ殿下…」
「ん〜…まだよく分かんない…」

 アニシナに調合して貰った薬は、ラパスケアの華から抽出した点眼薬と飲み薬である。えらく染みる、そして苦い薬ではあったが、視力が戻るのだと言われれば飲むしかない。 勿論、ラパスケアの華は温室から強奪したものではない。適正な手続きの後に手に入れた…いや、贈られた華である。

「焦らぬことです。幸い、たっぷりと原料は手に入りましたからね。文献によれば、一週間程度の投薬を続ければ視力が回復すると言われております」
「一週間かぁ…」

 それまではスヴェレラ王宮に滞在することになっているのだが、それよりもじっとしていなくてはならないことの方が問題だった。退屈でしょうがないのだ。

「一週間と言わず、完全に回復するまではどうぞ滞在していって下さい」
「おコトバにあまえて、そうさせてもらいます」

 ダイクンの申し出には素直に頷いた。これまで魔族を毛嫌いしていた彼がこうして王宮内での滞在を許してくれるのだから、親切心はありがたく享受せねばなるまい。

 その間、ダイクンは意外なほど時間を取って有利をはじめとする眞魔国の面々と対話の時間を設けてくれた。取るに足らないことから大きな国際間の取引に至るまで話題は多岐に及んだが、その都度ダイクンは感銘を受けたように頷いていた。

 《私は、魔族のことを誤解していたようだ》…もはやそれは、ダイクンの口癖と化していた。
 多少陰鬱なところはあれど、ダイクンは基本的に王として必要な資質を十分に持っているらしく、コンラートや村田、アニシナの展開する政治論、経済論を真摯な態度で受け止めていた。国の仕組みが異なるのでそのままスヴェレラに応用することは難しいかも知れないが、それでも、基本的な原理として盛り込むことは有意義だと感じたらしい。

 その中で、ダイクンは王妃を筆頭とするウィリバルト派の教会勢力とは袂を分かつことになった。相手が相手だけに今後どのような手段を用いてくるかは気がかりだが、ひとまずスヴェレラの信仰事情は、《魔族憎し》との基本概念を和らげることになるだろう。

 いきなり180度転換とは行かないまでも、既にルッテンベルク師団の粘り強い奉仕活動も実って、民の間にも魔族に対する理解の輪が広がりつつある。少しずつ…少しずつ、この国も変わっていくことだろう。

 また、ニコラと出会った有利はもう一つ願い事をしていた。
 寄場と呼ばれる強制収容所じみた法石採掘所を解体することと、魔族と子を為したがために収容された女性については、希望者を募って眞魔国に連れて行きたいと申し出たのだ。
 ダイクンは教会に掛け合って、これを実現してくれた。

『スヴェレラが、変わりつつある…』

 しみじみとそんな感慨を味わっていたら、ノックの音もそこそこに、芳しいかおりと共に元気の良い足音が入室してきた。

「ユーリ、ダイクン陛下、温室以外の場所にもお花が咲き始めましたよ!」
「いいにおい…つんできてくれたの?」
「ほう…」

 まだ物の姿はぼんやりとしか見えないけれど、何となくグレタらしい人影と芳しいかおりが近づいてくる。そ…っと鼻の近くに花弁が寄せられれば、少し癖があるものの、南国らしいスパイシーな甘さが感じられた。

「イズラが好きだった花だ…。確か…そうだ、《グレイシェスタ》といった。花弁は小振りだが香りが強く、気持ちを強くさせる効力があると言われている」
「グレタの名前…もしかして、このお花からつけてくれたのかな?」
「ああ…きっとそうだ」

 ダイクンは不器用な手つきでグレタの頭を撫でつけているようだ。
 正妻であったリディアとの間には子どもがおらず、妬心の強いリディアに気を使って妾の子との時間を取れなかったダイクンにとって、こういう接触は機会の無かったことなのだろう。

「良い匂い…」
「ああ。そうだな…」

 ダイクンの声は、日増しに柔らかくなっていくようだった。

 

*  *  *




「あのスヴェレラ王を説得されるとはな…」
「ああ、運もあるだろうが…やはりあの王太子殿下には、何か大きな力が備わっておられるようだ」

 アマルとカマルは直接今回の件に関与することはなかったが、終始様子を見守っては大公への連絡内容を考えていた。
 自分たちの思念が混ざってしまいそうなのを何とか客観的な事実として書き纏めると、民間の白鳩便を雇ってアリスティア公国へと放った。

 その内容は…勿論、《双黒の王太子ユーリ殿下は、信頼に足る人物である》との内容であった。

 

*  *  *




 アマルとカマルからの報告書を受けたアリスティア公国の大公ポラリスは、暫くのあいだ瞼を閉じて物思いに耽った。

「ポラリス、息子達の報告はどうだった?」

 親友であるマルティン将軍に尋ねられると、大公は自ら急須を持って茶碗にお代わりを注いでやると、少々意地悪そうな声音で呟いた。

「案の定、王太子と獅子に絆されて内容が砂糖菓子のように甘くなっておる」
「…すまん」
「良いさ。試験薬のように反応の良い連中だからな」

 悪戯っぽく笑う大公は、これでもマルティン将軍の息子達を高く買っているのだ。まだ年若く、真っ直ぐすぎる気質ゆえに一軍の指揮はとても任せられないが、純朴な気質と国に対する忠誠心は、外観や先入観に囚われない印象をポラリスに伝えてくれた。

「あの連中がここまで絶賛するのだ。これは信じねばならんだろうよ」
「では、双黒の王太子をアリスティア公国にお招きするのか?」
「いや、私の方から赴こう」

 ポラリスの発言にマルティンは渋い顔をした。国の規模や、こちらからの頼み事を考えれば十分に筋は通っているのだが、別の懸念がこの将軍を悩ませているのだ。

「しかし…教会が大人しくこちらの行動を見逃してくれるだろうか?」
「そうは言っても事情が事情だ。王太子に対して、誠意を見せておかねばなるまいよ。何しろ…《禁忌の箱》を始末してくれと頼むのだからな」

 自分で口にしておいて、ポラリスは寒々しい顔になった。
 開放されかけただけで大陸を分断するような裂隙を生じさせた《禁忌の箱》…それが、アリスティア公国に姿を現したのは約半年前のことである。丁度ほうぼうの占術士達が、大陸に双黒が現れ《禁忌の箱》を開くと予見していた頃のことだ。

 出現した場所は、大公館の地下にある祭事場。教会勢力には極秘にしている、魔族との交流時代を忍ばせる場所であった。どういう構造になっているのか、そこは公国の中央に広がる広大なアリス湖と繋がっており、透明な一枚岩の水晶から湖底を見渡せるようになっている。

 その湖底に、突如として箱が現れた。

 異変を衛兵から聞きつけたポラリスが確認してみると、それは伝承に伝えられる禁忌の箱の一つ、《鏡の水底》と特徴が一致していた。形状と、表面刻まれた紋様…そして何より、呪わしい振動波がそれを物語っていた。

 一体何故、この箱がアリス湖に現れたのかは分からない。しかも、どういう訳だかその時期から、聖都からの使いが頻繁にアリスティア公国を訪れるようになっていた。しかも、相手はポラリス大公と親交のある大教主マルコリーニ・ピアザではなく、有力な教主の一人でありながら性的・金銭的な不祥事を連発しているヨヒアム・ウィリバルトの使いであった。

『大公閣下…あまりお隠しにならない方が身のためですぞ?アリスティア公国にはここ最近の間に何か異変が起きている…と、卦に出ておりますのでな。我々に対してあまり頑なな態度に出られますと、ベラール陛下も随分とお気を害されることになるやも知れませぬ…』

 ポラリス大公が公国内を探索して回りたいという使者の申し出を断ってきたのは、生理的な嫌悪感も強かったし、あのような連中…ことに、ウィリバルト派と強い結びつきを持っている大シマロンに《禁忌の箱》が渡ることが何をもたらすのか考えずにはいられなかったからだ。

 しかし、日に日にウィリバルト派の勢力は圧迫の度を増していく…。時には、強引ともいえる手口で使者が大公館に入り込み、こそこそと嗅ぎ廻った痕跡もあった。

 じきに発見されてしまうのではないかという不安の中、大公の元に《禁忌の箱》の一つ《地の果て》が、眞魔国に於いて完全に昇華されたとの知らせがもたらされた。

 暫くの間は信じられなくて、幾度も間諜を放って真実の程を調べさせようとしたのだが、眞魔国の国防壁は急激に緻密さを増しており、結局、一般に流通している程度の情報と占術士の予見くらいしか得られなかった。

 そうこうしている間に王太子が大陸に渡ってくるとの知らせを受け、誰をカロリアに派遣させるかで迷っている最中に、王太子と面識のあるドント老人が助力を願いにやってきたのである。
 運命の導きとしか思われなかった。

『アリスティアは今、歴史の分岐点に立たされているのかもしれん』

 おそらくは、本来依って立っていた魔族の側に立ち返れと言うことなのだろうと推察はしたが、すぐには思い切れなかった。そこで正邪に対する反応の強い若者達を派遣して、王太子の人となりを判定させることにしたのである。

 そして今…彼らの報告書が届いた。
 ポラリスの感慨としては、漸く思い切れたと言うところだ。

 

*  *  * 




 月のない宵闇は、岩砂漠に囲まれたアリスティアを暗い色に沈める。しかし、人目を忍ぶ出立であれば致し方ないことだろう。

 その時…ポラリス達は跳ね橋を渡ったところで思わぬ来訪者を迎えることになった。まだ公国を護る防御壁からは遠く離れてはいたのだが、地平線の向こうから隠しきれぬ蹄の音が響いてきたのだ。

 ドッドドド…
 ドドドドド……

「…っ!?規模が…大きすぎる……」

 月明かりに乏しい今夜は、星の明かりだけが頼りなために正確な推定は出来なかったが、幾度かの防衛戦を経てきたポラリスが見やると、恐るべき規模の軍勢が迫っているではないか。
 おかしい。これほど至近に迫られるまで、どうして斥候隊は気付かなかったのだろうか?しかも、大規模の騎馬隊が動いているにも関わらず嘶きの音一つせず、明かりも全く灯していないとは一体どういう訳なのか。尋常な軍隊の動きとは信じがたいものがあった。

 その軍勢は、速度も異様に速かった。異変に気付いてポラリスが反転命令を出した時には既に遅く、あっという間に極々至近まで寄られてしまったのである。そして…ポラリスは推測していた中で最悪の軍装を確認することとなった。

「聖騎士団…っ!」

 《聖》などという名を冠しているものの、実態は《大規模なる拷問団》とも称される代物であった。しかし…何故、今この時節に、これほどの規模で差し向けられたのか…。

 こうなると体面など気にしておられない。ポラリスは脱兎の勢いで跳ね橋に逃げ込もうとしたが、怒濤の勢いで駆けてきた騎兵部隊が跳ね橋を繋ぐ綱に向かって火矢を射掛けた。

「む、無体な…っ!」

 言いかけたポラリスの舌が硬く強張る。
 その騎兵部隊は…とても話が通用するような相手とは思えなかったのである。
 
 そもそも…《それ》は人ではなかった。

「な…に……?」

 近寄れば近寄るほど、その疑いは強くなっていく。遠目に見える軍勢の中には確かに人間もいるようなのだが、少なくとも、ポラリスの至近まで迫ってきた騎兵部隊は馬に似た怪物に跨る傀儡(くぐつ)であった。ぽっかりと洞穴のように開いた目と口は、仮面を付けた人間などではない。姿だけでなく、動きも、何より伝わる生命感が皆無なのだ。

 ポラリスは咄嗟に決断すると、後背に向かって大音声を上げた。

「跳ね橋を閉じよ…!」
「大公閣下、早くお戻りを…っ!」
「戻っている暇は無い…っ!早くせよ…大公命令だ…っっ!!」

 絶叫に近い命令を受けて、跳ね橋が軋みながら上がっていく。
 騎兵部隊はそれでも強弓を引いて跳ね橋を上げていく綱と鎖を射抜こうとしたが、すんでの所で跳ね橋は上がりきり、重々しい音を立てて閉じてしまった。そうなると、魔族の手で造られた比類なく強固な円月状防御壁は火矢も破城槌も寄せ付けない。

『ひとまず、踏み込まれるのは防いだ』

 しかし、当然の如く連中がそれで諦めるはずはない。
 ぐるりとポラリスの一団を取り囲むと、威嚇するように鍔鳴りの音を響かせた。

「これはこれは大公閣下…ご機嫌麗しゅう」

 麗しいはずがないのを分かっていて、神経を逆なでするような声音が響く。ここ半年の間に足繁く教会から訪れていた使者、ベックマン・カポーティーだ。周囲を強健な武人で固めているという余裕なのか、いつも通り白を基調とした神父服にを身につけているだけで、悠々と白馬を駆っている。

 年の頃はアマルやカマルと同年代の若手神父だが、ヨヒアム・ウィリバルトの懐刀として知られている男だ。それは権勢においても、閨に於いても同様だと噂されている。

「カポーティー殿…一体、そのような軍勢を率いてどちらに行かれるおつもりですかな?」
「既にお分かりであられることを、改めて尋ねられるとはお人が悪いですな…大公閣下。勿論、大聖教会に対して十分な協力を下さらないアリスティア公国で、適切な捜査を実施する為に参ったのですよ」
「これほどの規模の聖騎士団を動かされるということに、大教主猊下は同意しておられるのかな?」
「ふふ…大教主、ね…」

 嫌な笑いだ。
 もしかすると、恐れていたこと…聖都での反乱が発生したのだろうか?もともと大教主マルコリーニ・ピアザは穏健派には愛されていたものの、様々な快楽によって結びついているウィリバルト派はあらゆる手管で仲間を増やしていた。
 
「猊下はどうしておられる?」
「何もご存じでは無いでしょうよ」
「…どういうことだ?」
「見てお分かりになりませんか?この聖騎士団の陣営…その殆どがウィリバルト様の叡智によって《生み出された》ものなのですよ」
「…っ!」
 
 ぞっとするような感覚と共に、改めて辺りを見回してみる。
 《傀儡》と見受けられる聖騎士団員達は押し黙ったまま、洞穴のように無機質な瞳をポラリスに向けていた。

「生み出しただと…?それこそ、悪魔的な技ではないか!」

 ポラリスの指摘を風のように流してしまうと、カポーティーは軽やかに自分のペースを貫く。

「ポラリス殿…少々乱暴な手法を取らざるを得なかったのは申し訳ないが、これというのも閣下が平和的な交渉に応じて下さらなかったからですよ?」
「何度も申し上げているが、我々アスティリアは大聖教に対して何ら隔意を持っているわけではない。ただ、独自の聖域とも言える場所については他国の民を入れてはならぬと言い伝えられているだけです」
「ほう…隔意を持たぬ?」

 カポーティーは緩やかなウェーブを描く金髪を掻き上げながら、妙にねっとりとした表情で嗤った。

「では…先程貴国に届いた白鳩便の文書は、どう判断すれば良いのですかな…?神の敵である魔族を《信頼に足る》と評された武官は、貴国の者ではないと仰いますのか?」
「何のことでしょうか?」

 しれっとした顔をしつつも、ポラリスは背筋に冷たい汗が流れていくのを感じていた。

『白鳩遣いが…裏切ったのか!?』

 アリスティアでは白鳩便を使うに当たって、国事に関わる連絡には必ず信頼の置ける専属白鳩遣いを介して行っている。
 しかし、カポーティーの態度から見て彼らが何を知っているかは明白であった。おそらく、何らかの方法で白鳩遣いを抱き込んだ上に、書簡の合わせ鍵も巧みに開けてしまったのだろう。

 その上、ポラリスが直接防御壁の外に出てくるだろう事を見込んで、伏兵を敷いていたのだ。もしも出ては来ず、王太子を招くようであればそれはそれで、アリスティアにやってきたところを狙うつもりでいたのか。
 
『どうする…?』

 何とか跳ね橋を上げて侵入は防いだものの、公国の最高権力者であるポラリスが捕獲され、盾として脅されれば臣下達が応じないわけにはいかない。しかし、この状況で妖しい術を使って召還されたかのような傀儡達の軍勢を相手に、突破することが可能なのだろうか?

 しかし…絶望に打ちのめされそうになったポラリスは、チカリと瞬く明かりに目を見張った。

 チカ…
 チカチカ……

 それは明かりを使った、アリスティア公国独特の通信法であった。灯されているのは…円形防御壁の一部だ。

「……っ!!」

 示している内容を瞬時に読み取ると、ポラリスは無謀とも言える勢いで愛馬を駆った。

「往生際が悪いですぞ、大公閣下殿!」
「何とでも言うが良い!」

 嘲るようなカポーティーの声を一蹴すると、ポラリスは一騎駆けになっても構わぬと言う勢いで疾走していった。今回に限っては、身辺を護る衛兵が何人ついているかよりも、ともかく聖騎士団を振り切ることに専念せねばならないのだ。

 ドドドド…っ!

 長槍を持った傀儡の騎兵が恐るべき速度で駆けてくる。先程を上回る速度にひやりとするが、ポラリスの脇を掠めようとした穂先は、当たる寸前に傀儡ごと吹っ飛んでしまった。
 横合いから太く強い矢が放たれたのだ。

 矢は一本だけではなかった。

 油断しきっていた聖騎士団の横っ腹を貫くような勢いで幾本もの矢が打ちかけられたかと思うと、今度は大音声を上げてアリスティア軍歩兵部隊が抜刀して馬を切り裂いていく。

 騎兵に対して歩兵は不利だと思われがちだが、実は馬が低速走行、ないし静止している際には圧倒的に歩兵の方が有利だ。騎兵に利があるのは巨大な矢の如く敵陣を切り裂く《突撃力》にあり、静止している分には大きな馬体が格好の的となる。
 馬に似た怪物達も短い距離で十分な加速を得ることは出来ないのか、わたわたしている間に次々と槍兵に突き通されて横倒しになっていく。

「マルティン…っ!助かったっ!!」
「礼は後で結構。今はともかく、スヴェレラに向かわれよ!」
「分かった…っ!」

 今回の出立に際して、ポラリスは隠密行動をとるからと言い含めてマルティン率いる主力軍を国内に残してきた。しかし、今彼らがここにいるのは万が一を考えて幾らかの兵を事前に距離を置いて配備していたのと、跳ね橋の対角線上の防御壁から大量の縄ばしごを降ろして歩兵を繰り出してきたのだろう。

 キィン…
 カッ……っ!!

 剣戟の音が喧しく鳴り響く中を、ポラリスは駆けに駆けていった。
 操る名馬はある程度の距離を置けば、さしもの怪物馬にも追いつかれない。

 背後で響く絶叫が、自国の兵士のものだと察して歯がみしながらも、今のポラリスは前に進むしかなかった。

『《禁忌の箱》を…呪われたあの箱を、決してウィリバルトやベラールに渡してはならぬ…っ!!』

 まだ顔も見ぬ眞魔国王太子ユーリ…彼だけが、世界を救う力を持っていると信じて、ポラリスは宵闇の中を駆け抜けていった。




→次へ