第2部 第28話






 衛兵の告げた知らせに、スヴェレラ王ダイクンは耳を疑った。

「眞魔国王太子が、面会を申し出ているだと?」

 玉座の傍らで《汚らわしい!》という耳障りな声が響き、勢いよく立ち上がったために何かが倒れる音がしたが、ダイクンはそれどころではなかった。
 あれほど捕獲した王太子をどうしたものかと思案していたというのに、数日前にそれが偽物だと判明した上に、警備を緩めた途端に伴っていた武人とともに逃走されてしまったのだ。偽物であった以上捕まえておいても役に立たないのは分かっていたが、それでも不快感は拭えなかった。

 それが今度は、向こうから面会を申し出ているというのだ。
 一体どう言うつもりなのか…。

「は…っ!王太子と共に、もう一人双黒がおりまして、更にフォンウェラー卿コンラートなどが同席を求めておりますが…如何致しましょうか?」
「グレタはいるのか?」

 咄嗟に、何故その名をあげたのかは自分でも分からなかった。気にしていないようで、どこかイズラを忘れることのできない心が、その娘に引っかかりを感じていたのかも知れない。

 衛兵が《おられます》と答えると、また隣で王妃リディアが騒ぎ出したが、聞かぬ振りをして返事を寄越した。

「よい。連れて参れ」

 この選択が吉と出るか凶と出るかは分からないが、ともかくも…捕獲できるように警備体制だけは整えておこうと、ダイクンは矢継ぎ早に指示を出していった。



*  *  *




「キンチョーしてる?グレタ…」
「大丈夫…」

 有利の声掛けにそう返したものの、来賓室に通されたグレタは腹が痛いような気がして両手で腹部をまさぐった。お手洗いにも何回か行ったが、出そうで出ないもどかしさが残っただけだった。
 分かっている。これは、スヴェレラ王宮にいたときに何度も味わった緊張感だ。

 リディアについては《どうにもならないほど嫌われている》のだと諦められたが、ダイクンは亡きイズラの実兄ということもあり、どうしても気を引きたかった。だから、機会があるごとに笑顔で愛嬌を振りまこうと思ったのに、そう言うときに限って極度の緊張で雁字搦めになってしまい、ろくに声も掛けられないまま、冷たい一瞥を投げかけられるだけだった。

 一度だけ掛けられた言葉も…《つまらない子だ》との、ざくりと胸を抉る一言だった。

『だけど、グレタは今…ユーリに愛されてるもんっ!自信をもつんだっ!グレタはつまんない子なんかじゃないんだっ!』

 グレタは母の名を刻んだ左肩を掴んだ。母の守護を得て有利を守るのだという気概を込めて、グレタはきりりと顔を上げた。

 お仕着せを着た小姓がやってきて案内を申し出ると、一同は謁見の間に向かうことになった。長い通路を渡っていく間、またしても緊張が増してきたグレタの横で、何かを捜すように有利の手が揺らめいた。

「おれもキンチョーしそうだから、手をにぎっててくれる?」
「う…うんっ!」

 そっと握った手から伝わる温もりが、グレタを支えてくれた。概念の上ではなく、体感から伝わる愛おしさが、《絶対に有利を守るんだ》という力強い意志を与えてくれる。

 そのおかげだろうか?謁見の間でダイクンやリディアと対面したときにも、これまでにないほどきちんと背筋を伸ばして、淑女らしい礼ができた。

「何のご用かな?魔族の王太子殿…」

 慇懃無礼の生ける見本のような態度で、ダイクンは侮蔑を込めて有利を睥睨していた。王座は室内の中で数段高い位置に据えられているから自然とそうなる向きもあるが、心中にあるものも如実に伝わってくるのだろう。

「スヴェレラ王ダイクン陛下、はじめまして。おれはシブヤ・ユーリといいます」
「お初にお目に掛かる。魔族の王太子殿」

 ダイクンは有利の名を呼ぶ気は無さそうで、一応は肩書きで呼ぶものの、敬称をつけることもなかった。それでも、有利は気にした風もなく言葉を続けた。

「ダイクン陛下、あなたはこの地に水をもたらしたいとは思われませんか?」
「ほ…これは異な事を。砂漠地帯の王で、それを望まぬ者がありましょうや…」

 ダイクンの言葉を掻き消すように、リディアが狂ったような叫びを上げた。

「呪わしい…!穢れた口を開でないわ魔族よっ!!」
 
口元を布地で覆っているのは同じ空気を吸いたくないと言うことだろうか?それにしても、一応は国王が謁見を許可してこの部屋まで連れてきたというのに、《口を開くな》とは豪快な差し出口である。

「リディア、控えよ」
「いいえ…いいえ…っ!私には分かりますわっ!この者達はスヴェレラに滅びをもたらしに来たのですわ…っ!おお…ダイクン、何故私の諌言を聞かずこの者達と直接声を交わしたりしたのですか?毒の言葉が心に沁みて、あなたを堕落させてしまう…っ!」

 キンキンと頭に響くその声は、以前以上に聞き苦しく大気を歪めた。ダイクンは辟易したように眉根を寄せたが、それでも王妃の尻に敷かれ切っているわけではないようで、気怠そうではあったが腕を伸ばしてリディアを制すると、問いを続けた。

「眞魔国の王太子よ…そなたは、この枯れきった地に雨を降らせるという奇蹟が起こせるのか?」
「サバクでフエをふいたら、とりあえずしばらくのあいだ雨がふってました」

 ぴく…とダイクンの眉が震える。

「…あの雨が、王太子殿のもたらしたものだと申されるのか?」

 どうやら、ダイクンは予想以上に雨雲の分布には気を配っているらしい。砂漠国家にとって雨は重要物であるから、宮廷付きの専属予報者がいるのかもしれない。

「たぶんそうです。フエをふいたとき、あのへんの空気がきょうめいするのを感じました。なんか…《ふらせた》っていうより、ムリにしめつけられて、はねのけられてた雨ぐもがフエがなったことでやっと自由になったかんじでした。たぶん…その《しめつけ》をとけば、まえにそうだったのと同じくらいには雨がふるようになると思います」

 有利は胸元に吊していた笛を出すと、掌に載せてダイクンに見せた。

「それは…」
「見おぼえがありますか?」
「確か、文献で絵を見たことがある。我が国に伝わる呪術の道具だと…」
「これは、かつてスヴェレラの王に眞王がおくった雨をよぶフエだそうです」
「眞王…それは、魔族の始祖ではないか!?」
「そうです」

 こくん…と有利は頷く。

 村田が言うには、この魔笛に限らず大陸諸国に残された遺跡の中には、眞王を始めとする有力な魔族は、友好の証として魔力を帯びた品を大陸諸国の王に贈ったのだという。
 それは大抵、魔力のあるなしや魔王であることなど使用に限定があるものであったが、だからこそ、長くその国と眞魔国が友好を保ち続けられるようにとの祈りが込められてた。

 うち捨てられた神殿の様子を知るニコラに聞いても、それは証明されていた。神殿に残る見事な壁画には、かつて魔族と人間が親しく交流していた頃の様子が生き生きと描かれていたのだ。
 
 もしかするとこの国に《地の果て》が埋められていたのも、そしてそれが長い間魔族に敵対する人間達の目には触れなかったのも、スヴェレラ王家の祖先が信用に足る者にしかその存在を伝えていなかったからなのかも知れない。

 それが現代に於いて最も魔族を毛嫌いしている国に成りはてようとは、歴史というのはなかなかに皮肉なものである。

「おれはもう一度、スヴェレラと眞魔国に友好のれきしをとりもどしたいんです。おねがいです、ダイクン陛下…!雨をこの地にふらせるのとひきかえに、眞魔国と国交をもってください。ツェツィーリエ陛下にはもうお願いして…」
「国交ですって!何とおぞましい事を言うのぉおお……っ!!」

 《ひーっっ!!》と金切り声をあげたリディアが突進してくると、護身用に持っていた短刀を抜きはなって有利に襲いかかる。勿論、傍らにいたコンラートが有利の身に関しては万全の警戒をしていることは分かっていたが、グレタは反射的にぱっと飛び出すと、リディアの前に両腕を広げた。

「王妃様、やめて…っ!ユーリを傷つけないで…っ!」
「お退き、グレタ…っ!忌まわしいイズラの娘めっ!お前も母と同じように地獄に送ってやるわっ!!」

 悪鬼の形相で絶叫するリディアを取り押さえたのは、背後から飛び出してきたアーダルベルトだった。

「なんとまぁ…聞きしにまさる悪女だぜ。そうやってイズラ姫も殺したわけかい?」
「な…なにを…っ!」

 アーダルベルトの言葉に、ダイクンの表情も変わった。



*  *  *




「貴様…何を言っているのだ?」
「ゾラシアで皇族を革命勢力が倒したとき、本当ならイズラ姫は生かされていた筈だった…。ダイクン陛下、その事をご存じかい?」
「……っ!」

 確かにゾラシアで内乱が起こったとき、皇室は民にとって憎悪の対象であったが、イズラに限って言えば、気さくな性格と善意の行動によって民から愛されていたのである。皇帝に対して民の立場に立った施策を願い出たり、貧民窟にも自ら赴いて奉仕活動を行っていた彼女が何故革命に際して処刑されたのか、実はダイクンにとっても理解に苦しむところであったのだ。

 グレタを逃がしたのも、皇帝の種を異国に逃がそうと言うよりは、皇族としての権利と義務を放棄させる手続きを取ることで娘を守ろうとしたからだった。それは革命勢力とて認識していた。だから、革命が成功した後にもグレタの引き渡しを要求したりはしなかったのである。

 長年に渡る謎が今、解けた。

 ゾラシアの革命勢力に軍資金を流す代わりに…リディアは、イズラの処刑を要求していたのだ。

「あなた…っ!こんな賊の言うことを真に受けてはなりませんわっ!毒の言葉を信じたりなさったら、魂が穢れて地獄に堕ちますわっ!」
「地獄行きねぇ…。そこは夫の実妹を葬る為、ゾラシアの革命勢力に援助を送ったり、妾の息子を葬るために毒を飲ませるような女こそが行く所じゃねぇのか?」 
「何を根拠に!」
「残念ながら、イズラ姫の方は又聞きで知っているだけだが、そーゆーコトをやりかねない女だって証拠は持っているぜ?ほら…」

 アーダルベルトが胸元から取りだした紙切れを見て、リディアの顔つきが変わった。引きつった顔は真っ青に変色し、わなわなと薄い酷薄そうな唇が震えている。藻掻くようにして腕を伸ばし、紙を奪い取ろうとするが、屈強な男相手には何の意味も成さない。

「ダイクン陛下…こいつはあんたも欲しがってたものじゃないかねぇ?縁を切りたくても切れない古女房との間を叩き割ってくれる《証拠》が、これだよ」

 衛兵を介してダイクンにもたらされた物は、見覚えのある筆跡で認められた手紙であった。そこには、鑞に押されたリディアの押印も確認できる。その内容は…ダイクンが予測していたとおり、一番のお気に入りであった妾腹の息子殺害を依頼する内容であった。念入りに《この手紙は焼却するように》と書かれてもいるが、おそらくは脅しの道具として使うために残されていたのだろう。

「何故…そなたがこれを持っている…?」
「俺はここ二十年ほど大陸中を渡って傭兵やら賞金稼ぎやらやってたからな。裏街道の連中とも繋がりがある。そういった連中は各国の醜聞に詳しいから、この件についても噂だけは聞いていた。現物を手に入れるのは少々値が張ったが…ま、眞魔国の御大尽が後でたんまり払ってくれるって言ったら、何とか白鳩便で譲って貰えたよ」
「なんと…」

 長年連れ添った妻が何をしているかを薄々とは感じつつも、決定的な証拠が掴めずに嫌悪感だけがいや増していったダイクンにとって、これは個人的には魔笛にも勝る宝とも言えた。
 だが…それは、触れるのもおぞましい類の宝ではあった。

「あなた…あなた…どうか、信じないで?私は…ただあなたを愛していただけ…」
「愛するあまり、溺愛されてた実の妹が憎くて堪らなかった…ってわけかい?」
「ええい…っ!煩い…っ!!あの女がダイクンを誘惑したのよ…っ!実の妹のくせに、汚らわしい…っ!呪わしい…っ!!」

 ダイクンに向かって縋るような態度を見せていたリディアだったが、アーダルベルトに意地悪く指摘されると気狂いのようになって大暴れした。ヒステリー発作に陥ると、前後の見境を無くす女なのだ。

「何故…何故…っ!神よ、我が願いを聞き遂げては下さらないのですか!?あんなに祈ったのに…っ!ダイクンに愛されるために、どんな生贄だって捧げたのに…っ!!」
「生贄ねぇ…。おっそろしいもんを捧げてそうだな…」
「神よ…神よぉおお…っっ!!」

 大方、王太子暗殺を企てたのもその《生贄》の一環だったのではないか。そんな気がしてならない。



*  *  *




 ダイクンは見苦しく泣き叫び、悶絶するリディアを見ていられなくて、月の塔に拘束するよう衛兵に申し渡した。
 後に残ったのは何とも言えないえぐみを帯びた感覚だけで、おぞましい妻とやっと別れることが出来るのだとしても…予想以上の悪行を為していた女と幾度か身体を重ねたという記憶に悪寒が走った。

『イズラ…お前も、リディアの策略によって命を落としたのか…』

 どんな状況でも強く生きていた妹が、処刑台に登らされたときどんな感情でいたのだろうか?
 孤独と絶望に打ちのめされた妹が、最期に見た情景はどのようなものであったのだろうか?

 このように、真っ暗な心地だったのだろうか…。

『イズラ…っ!!』

 ダイクンを愛しすぎた女の手で処刑台に登らされた妹が哀れでならず、ダイクンは苦鳴をあげながら両手で顔を覆った。王座を縁取る金属や宝石がいつになく冷たく感じて、ダイクンは絶望的な孤独感に苛まされていた。

 けれど…その手に、ちいさな温もりがそっと寄り添った。
 見上げれば、そこにいたのはグレタだった。

 衛兵も傍にはついているのだが、王を思いやっているのかどうなのか、厳めしい顔立ちをしたその男はグレタの行動を制止することはなく、ダイクンに危害を加えないように多少の警戒を示しつつも、一歩の距離を置いて佇んでいる。

「陛下、この者がお傍におりたいと申しておりますが、如何致しましょう?」
「グレタか…」

 どうしたものか、両目に涙をたたえつつもグレタの眼差しには以前のような怯えの色はなかった。自分の母が奸計によって命を失ったことを知っても、ただ悲嘆に暮れるわけではなく、寧ろ…ダイクンを支えようとでもするように、ちいさな両手で左手を握ってくる。

「陛下…どうか、スヴェレラに雨を降らせて下さい…。お母さんも、きっと望んでいるはずです。乾き、餓えて苦しむ民のためにも、雨を降らせて下さい…っ!」
「降らせるのは王太子だろう」
 
 何も考えたくなかった。

 毒蛇のような妻もさることながら、雨を降らせる力を持った魔族の力を借りるのも面白くなかった。王太子を捕らえることも想定して警備陣を敷いてはいるが、ダイクンがあれほど調べても尻尾を掴むことの出来なかったリディアの犯行証拠を得ていたくらいだ、考えなしにここにいるとは考えにくい。

 自分がどうしようもない無能者のように思えて、ダイクンはがくりと脱力した。自然とグレタへの言葉も冷たいものになる。

 しかし…乾いた声音で突き放すように言っても、グレタは怯みはしなかった。

「それを許可するのは陛下です。ダイクン陛下こそが、この国の王様なんだもの…っ!陛下には、民を幸せにする力がおありだもの…っ!!」

 褐色の肌に映えるアーモンド型の瞳が、強い光りを湛えてダイクンを見つめている。
 挑むような…それでいて、ダイクンを信じているような…力強い眼差し。
 励ましの想いに満ちた、可愛らしい声音…。

 ダイクンは、この瞳を知っていた。
 声を、知っていた。

『イズラ…っ!』

 覇王樹の華咲くスヴェレラで、白い沙羅布を翻していた妹の姿が鮮やかに蘇る。

 《兄様は、きっと立派な王におなりですわ…!》屈託のない笑みを浮かべて、そう言ってくれた妹…。
 ああ…きっと、処刑台に登るその時も、あの妹ならば全てを恨んで死ぬようなことはなかったろう。グレタと共にスヴェレラに逃れる道もあったのに、嫁ぎ先の運命を見届けるまではとゾラシアに残った彼女なら、死へと向かう道もまた堂々と受けて立ったのではないか。

『ならば…私も立たねばならぬな』

 ぐ…っと下肢に力を入れて玉座から立ち上がろうとすると、関節からみしみしという音がする。寄る年波の影響ですっかり身体が鈍(なま)っていたようだが、一歩…二歩と降りていく内に関節軟骨は次第に滑らかさを取り戻していった。

 コツ…

 同じ目線の高さに立っても、王太子は相変わらず眼下に見下ろせる位置にいた。小柄で華奢な体格をしているからだ。けれど、ダイクンの眼差しからは、いつの間にか侮蔑の色が薄らいでいた。
 まだこの少年を正当な交渉相手として見なして良いものかどうか確信が得られていないものの、グレタによって暗殺されかけ…リディアの放った刺客によって死の淵に立たされ、今も視力を失っている彼が、ただのお人好しでないことはダイクンにも分かった。

 あれほどおずおずとして、病気の仔鼠のように頼りなかったグレタが、こんなにも自信を持ってダイクンに対峙しているのが何より証拠だった。

「眞魔国王太子、ユーリ殿下…魔笛を、スヴェレラのために吹いて頂けるだろうか?我が、同胞(はらから)として…」
「よろこんで」

 こく…っと頷いてから微笑んだ有利の表情は、どこかイズラに似ているように思えた。



*  *  *

  


 《ダイクン王が眞魔国の王太子と手を結び、魔笛という道具によってスヴェレラに雨をもたらす》…その噂は、一昼夜にして地を奔った。

『ダイクン陛下は一体何を考えておられるのか…』
『スヴェレラは魔族と手を結ぶことになるのか?』
『神の呪いが掛かるぞ!』

 公示されていた日にちには王宮前の広場へと人々が集まってきた。その中には貴族連中を初めとして、一般庶民も多く混じっていた。
 彼らがひそひそと囁き交わされる声が、広場の周囲で陰鬱に響いている。
 誰もが恐れを抱きながら囁き交わし、熱心な信者は聖茨と呼ばれる信仰の証を握りしめている。鋭い棘が刺さる不快感も、その痛みによる修行で魂が浄化されると聞けば、寧ろ喜びを持って享受できるのである。

 大広場に馬車がつけられ、そこから双黒の少年二人が降りてくると、人々は《ひっ!》とちいさく悲鳴を上げて退いたが、続けてダイクンが降り、双黒の少年と言葉を交わしても特に雷に撃たれることも、大地が割れて真っ逆さまに落ちていく様子もないのを見て取ると、少し冷静さを取り戻して観察を始めた。

 《呪わしいほどに美しい》との噂であった双黒の王太子は、一見して…あまり《妖艶》というタイプには見えなかった。
 確かに美しいのだが、《妖しい》というよりは《可愛い》のである。
 
『小動物のような愛らしさで人心を乱す気なのか…!?』

 そう思おうとするのだが、グレタ姫に手を取られてよちよちと歩く姿は如何ともしがたく清らかで、たまに公式行事で遠目に見ていたリディア王妃よりも遙かに親しみを感じてしまった。

 何というか、こう…人を《誑し込む》というタイプには見えない。
 これが直接自らの目で確かめることの大きな意義だと言うことに、彼らはまだ気付いていなかった。

 大広場の中央に立つと、王太子は周囲をきょろきょろと見回してからス…と両手を口元に持ってきて、大きく息を吸ってから注意を呼びかけた。

「あの…っ!カサをもってない人は、服がぬれちゃうから気をつけてくださいね…!!」

 し…ん。

 静まりかえった場でどうして良いのか分からない様子でわたわたしていると、落ち着けさせるように傍らにいた青年がぽんぽんと背を叩いた。あれが王太子の恋人と目されている、フォンウェラー卿コンラートだろうか?素晴らしく美麗で優しげな姿に、ついつい女性陣の目は釘付けになってしまう。

「ま…あ、魔族って本当に見た目は綺麗なのね…」
「馬鹿!そんな口をきいたら、呪われるわよ?」

 若い貴族の奥方が思わず感嘆の息を吐くと、糸杉のように痩せた友人が鋭く肘で突く。

「でも…ねぇ、本当に雨は降るのかしら?」
「降ったとしても、きっと毒水だわ。おお…呪わしい…っ!」

 そうは言いつつも、こうして大広場にやってきた連中はまだしも物見高く、実際に雨が降るかどうか興味津々な連中であろう。心から毒水が降ると信じ切っている連中は、家屋の奥深くに填り込んで神に祈りまくっているに違いない。

 

*  *  *




『わ…何か、緊張してきた…』

 相当なアウェー感を覚えつつ、手を閉じたり開いたりしていたら、優しく頭髪が撫でつけられた。

「落ち着いて…ユーリ。大丈夫、ここでもきっと雨を降らせることが出来るよ?」
「そっかな…」
「今も、貧しい身なりの子どもが、じぃ…っと君を見ている。例え魔族であっても、子ども達にとっては飢えと乾きを癒してくれる君の方が、素直に救い主と感じられるはずだよ」
「子ども…のど、かわいてるみたい?」
「ああ、とても…。この国ではお金を出さないと水ですら手に入らない。でも、君が降らせる雨がきっと彼らを潤してくれる」
「そっか…!」

 コンラートの言葉を受けて、有利は口元に黒い魔笛を添えた。
 
 どう触っても《これ、ホイッスルですよね?》という姿の魔笛が今…緊張感の張り巡らされた大広場に、高調音を響き渡らせた。




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