第2部 第26話






 兵士用の幌馬車から必要な物資を馬に載せていたヨザックは、思い詰めた表情の少女にしがみつかれた。これが成熟した女性であれば、背中にむぎゅっと胸が当たるところだろうが…実際には、太股の辺りに《むにっ》とほっぺが押し当てられた。
 これはこれで微笑ましくて素敵な刺激だ。

「ん…?グレタ姫、一体どうしたんで?」
「姫?」

 思いがけない呼びかけだったのか、グレタはきょとんとしている。

「ユーリ殿下とコンラート閣下の娘になられたのなら、俺にとっては姫様ですよ」

 にかりとヨザックが笑うと、グレタは泣き笑いの表情になった。
 それは幼い少女が浮かべるには、あまりにも深い感情の発露に思えた。

「すごいね…やっぱり、魔族はとても素敵な種族なんだよね?人間の…それも、ユーリを殺そうとしたグレタを、娘にしてくれたり、姫様なんて呼んでくれる」
「いえいえ、全部の魔族がそういう素敵ぶりを発揮してる訳じゃありませんがね?」

 グレタに丁寧な物腰で返事を寄越しつつも、ヨザックの動きには一切の無駄がない。速やかに旅装を整え、話をしている間にも必要な物資は全て馬上に揃った。
 しかし、グレタの発言はその動作をピタリと止めさせた。

「ヨザック、お願い…グレタを偵察に連れて行って?」

 これがグレタ以外の申し出であれば《子どものお遊びに付き合っている暇はない》と一蹴したことだろう。だが、グレタはスヴェレラ王宮内の仕組みに通じている。一方で顔を知られている分、目に付く危険性もある。
 ヨザックにとっても思案を必要とする申し出であった。

「お気持ちは分かりますが、姫様に何かあれば殿下が哀しまれますからねぇ…」
「でも、グレタはきっと…ううん、絶対役に立てると思うのっ!だって、たくさん王宮の中をお散歩してたから、人通りのない道や、兵隊さんがどこに立っているか全部知っているものっ!」

 グレタは必死だった。あのあどけない王太子殿下には、情を移した者達をこんなにも真摯にさせる何かがあるのだろう。
 ヨザック自身、そのことを感じてもいた。しがみついてくるグレタを振り払えないことが証明してもいる。

 ばりばりと頭を掻くと、ヨザックは観念したように天を仰いだ。
 結局、自分という男はこの手のタイプに押されると実に弱いのだ。

「…お咎めは、一緒に受けましょうね?」
「うん…っ!ありがとう、ヨザック…っ!」

 歓喜に頬を上気させるグレタに手早くマントを羽織らせると、そのまま荷と共に馬に乗せてから、ヨザックはメモ書きを残しておいた。流石にグレタ出奔の理由を標さずに出て行けば、有利が半狂乱になるだろうと察したからである。



*  *  * 




 案の定、翌朝になって事態を知った有利はひっくり返りそうになっていた。

「グレタが…いえでした〜っ!?」
「落ち着いて、ユーリ…」

 知らせを受けて駆け出そうとした有利を、コンラートは素早く抱き留める。もがもがと必死で手足を動かしてもどうにも出来ないほどに、拘束は厳しかった。

「とめるなよコンラッド!グレタがあぶないところに…」
「追いかけていって、君が捕まったらどうする?」
「でも…っ!」
「今だって、真っ直ぐ走っていたら天蓋の柱に当たるところだったよ?」
「…っ!」

 今の有利にとっては最も手厳しい言葉であり、状況を如実に示す指摘でもあったろう。今までだって危なっかしかった有利だが、今はなにせ目が見えない。バリアフリーで平和な地域ならいざ知らず、基本的に魔族にとって危険な領域であるスヴェレラになど到底連れては行けない。

「くそ…っ!」

 悔しさに歯がみする有利の背を優しく撫でつけながら、コンラートは優しく囁きかけた。

「今は堪えるんだ、ユーリ。そして、グレタを信じてあげるんだ。あの子は、君の為に何かしたくて堪らないんだよ…おそらく、あの子は物心ついてから初めて《愛されている》と実感することが出来たんだ。その相手であるユーリを失うような事があったら…それこそ、グレタは救われない」
「うぅ〜…うううう〜っ!!」

 背中に食い込む指先の強さを感じながら、有利は狂おしげに呻く。

「分かってくれ、ユーリ…。君は、俺たちにとって失えない子なんだよ」
「グレタだってそうだ…!あの子だって…うしなえない…っ!だいじなおれのむすめだ…!」
「だからこそ、俺は君を止める。あの子を泣かせないためにも…!」

 断固とした言葉と腕に阻まれて、有利は闇雲に伸ばした腕を握り締めることしかできなかった。

『グレタ、どうか無事で…っ!』

 祈りを込めて、有利は硬く奥歯を噛みしめた。
 天幕の中でそんな遣り取りをしていると、被布が捲られて不審げな顔をした男が覗き込んでくる。金髪碧眼の偉丈夫アーダルベルトだ。

「なんだなんだ?修羅場か?別れる気になったのか?」
「ならねーよっ!」

 有利は反射的に拳を振り上げて威嚇し、コンラートはというと…冗談にしても不愉快なのか、静かな覇気を漂わせてアーダルベルトに対峙する。

「アーダルベルト…俺を怒らせると、どういう目に合うか一度教えておいた方が良いようだな…」

 きっとコンラートの眼差しは、切れるように怜悧なのだろう…見えないのが残念だ。

「はん?《ルッテンベルクの獅子》は言うことが違うねぇ…何をしてくれるつもりだ?」
 
 まさか、剣でも抜くのでは…と心配になっていると、コンラートはくすくすとからかうような笑い声を漏らしながらそっと有利を抱き寄せた。そして、ちゅ…ちゅっと音を立てて頬やら瞼やら、時には襟元の辺りなんて場所にもキスを落としていく。
 しかも…《れる》と舌先を伸ばして側頸部を舐め上げていくのだから、有利はちいさく《ゃ…》と甘い声を上げてしまい、頬が真っ赤に上気してしまった。

「な…何のつもりだ!?」
「見せ付けているんだ」

 きっぱりとした声音は実に凛と爽やかで、とても開き直ったバカップルのそれではない。

「そらそら…どうする?アーダルベルト…」
「く…こ、この野郎…お前、性格が変わってないかっ!?」

 冷や汗を掻いてたじろいでいるアーダルベルトに、ちょこっと同意してしまう。確かにコンラートは最近…やや黒……いや、お茶目さんな部分が見え隠れしている。

『でも、そんなコンラッドもスキ…』

 自分で自分に突っ込みを入れたくなりつつ、有利はアーダルベルトに《見せ付ける》行為で結構な体力的・精神的エネルギーを消耗したのであった。

 果たしてコレが、グレタを心配するあまり心を病みそうになっていた有利への配慮だったのかどうかは不分明なところである。



*  *  * 




「ヨザック、こっち」
「ああ…」

 数日の砂漠旅の後、宵闇が訪れた刻限にグレタの手引きによって王宮内に忍び込んだヨザックは、内心このちいさな人間の子どもへの認識を改めていた。同行を申し出られた時には、多少は王宮内の構造について聞くこともあろうとは思っていたが、よもやここまで正確に兵士達の配置や盲点を記憶しているとは思わなかった。
 有利のことがあって必死ではあるはずだが、それ以上に、この子は予想外に賢明な頭脳を持っている。今もかつての居住地に対する思いはあるだろうに、感傷に浸ることなく的確な指示を出しては前進と潜伏を繰り返している。

 しかも、グレタは出かけるに際してアニシナには事情を話していったらしい。グレタの想いを汲み取ったアニシナは止めだとすることなく、幾つか護身用の道具も渡して応援してくれたようだ。
 《双黒の王太子》と《ルッテンベルクの獅子》を父に持ち、《紅い悪魔》の守護を得る廃国ゾラシアの皇女…。そのうち、歌物語の題材に取り扱われそうな少女である。

 おかげで、もともとグレタが知っていた侵入口がヨザックには小さかったにもかかわらず、魔力がなくても使える破砕道具によって、音もなく大人一人が通れる大きさに広げることが出来た。流石はアニシナ様々である。

「月の塔に誰か閉じこめられてる…。もしかして、あそこじゃないかな?」

 植え込みの中に隠れていたグレタがふと兵舎から視線を巡らせると、そこには月と呼ぶには少し草臥れた色の塔が立っていた。くすんだ卵色の壁はしかし堅牢なのは確かで、明かり取りの為の窓さえ最小限しか存在しない。人一人通れるのがやっとという扉が一階に一つだけついており、つるっとした壁面の周囲には木立が一切無いから、こっそり内部の者に音信を取ることも難しそうだ。

「あそこはどういう建物なんで?」
「スヴェレラにとって極めて重要な人を閉じこめていく為の塔だよ。ヒューブも最初はあそこにいたの。だけど、実験に失敗してからは警戒が緩んで、わりと大勢が収容されてる南第二塔に移されたから、グレタともお喋りできたの」
「ふぅん…」

 《ヒューブ》というのがグリーセラ卿ゲーゲンヒューバーであることは既に知っている。彼が強制された《実験》というのは、ヴォルテール家の血縁である彼を《地の果て》を開く鍵として使おうとしたらしい。実際、ある程度は反応を示して左目が無惨に焼けただれたと言うが、《地の果て》自体は開かなかったそうだ。
 もしもゲーゲンヒューバーがウルヴァルト卿エリオル並に《近い》鍵であれば、スヴェレラは既に《存在しない国》になっていたかも知れない。

『その鍵と同程度に扱われてるとなりゃあ、やっぱりあそこにユーリに勘違いされた気の毒な奴が捕らえられていると見た方が良いだろうな…』

 しかし、そいつが王太子本人ではないことを重々知っているヨザック達とすれば、この件は把握をしておくだけで十分だろう。素早く処刑されたりするのでなければ、後日《王太子殿下はちゃんと眞魔国にお戻りである》と伝えるだけで十分なはずだ。
即座に処刑されるとすれば…これはもうどうにもならないが、縁もゆかりもない偽物より、有利の視力の方が大事だ。

「温室はこの塔の南でしたっけか?」
「うん」

 グレタも同様に考えているようで、迷うことなく温室を目指そうとした。
 ところが…無視しようと決めた途端に、月の塔から小柄な人影が引き出されてきた。その人物は、遠目に見ると赤茶色の短髪が変装した時の有利によく似ていたのだが、よく見ると重大な差異があることに気付いた。

「あれ…女の人じゃない!?」
「そうですねぇ…。確かに顔立ちは似てるが、何だって間違えられたんだか」

 そう…捕らえられていた人物はまだあどけなさの残る少女で、しかも腹部が幾らか不自然に膨らんでいる。栄養失調という感じではないから、おそらく妊婦なのだろう。
捕らえた最初は有利の《女装》と思われていたのかも知れないが、詳しく調べていくうちに明らかに違うと気付いたに違いない。

 実際、警備が厳重な月の塔から連れ出された少女は無造作な扱いを受けており、警備の兵士も塔の中から一緒に出てきた男一人だ。しかしこの男…どうしたものか、えらく少女に対する風当たりが強い。
 
「あ…っ!顔をぶった…!」

 グレタがちいさな悲鳴を上げかけるが、咄嗟に口元を覆って食い止める。
 
 しかし、ユーリ似の少女も負けん気の強い気質らしく、兵士に喰って掛かると威勢良く啖呵を切った。
 急に音量の上がった会話から察するに、この兵士がそもそも少女を王太子と見咎めて連行してきたらしい。最初の内は大手柄と賞賛されたものの、別人と知れてからはこっぴどく上官に絞られたようで、その事を逆恨みしているようだ。

「間違えたのはあんたの方でしょ!?あたしはニコラ、魔族の王太子なんかじゃないって何度も説明したのに、無理矢理連れてきたのはあんたの方じゃないのっ!」
「うるせぇっ!豚が偉そうな口をきくんじゃねぇよっ!」
「豚じゃないわっ!ニ・コ・ラっ!!」
「可愛い顔して魔族に股を開き、挙げ句の果てに薄汚れた子を孕むような雌豚に名前なんて必要あるか!」

 兵士はニコラと呼ばれた少女を蹴ろうとするが、素早く避けられて更に逆上すると、今度は頭髪を荒々しく掴んで…よりにもよって、膨らみを帯びた腹を蹴ろうとした。第一撃はニコラが咄嗟に身を捩って避けたものの、髪の毛が抜けそうな勢いで引き上げられると、腹部を両手で抱えることしかできない。

 流石のニコラも追いつめられて悲鳴を上げた。

「止めてっ!」
「うるせぇ!どうせ寄場で産んだ魔族の子は、そのまま採掘場の土になるんだ。ここで堕ろしたって大した違いはねぇよ!」
「いや…ぃや…止めて、ヒューブの子なのよ…絶対おろしたりしないっ!」
「観念しやがれっ!どうせ捨てられたんだろうが?お前も子どもも、どうせ要らない命なんだ…ここで一思いに潰してやるぜ!」
「止めてぇえええーーっ!」

 悲痛な叫びがヨザックとグレタの神経を鋭い爪で掻きむしるが、他の兵士達は溜息をつきながらも止めようとはしない。少女が王太子でないと分かった以上、その身がどうなろうが構わないということは、ニコラには有力な身寄りがないのだろうか?

『寄場って言やぁ、魔族とデキた女が収容される法石採掘場のことか…』

 乾ききった土壌しか持たないスヴェレラではろくな収穫がないが、ある時期から急に法石が採取されるようになった。生活に困窮した女達は過酷な法石採掘に駆り出されることとなったのだが、特に魔族と通じた女は、相手の男を刺して《縁を切った》と証明しない限り、《寄場》に強制収容される。ここで《悔い改める》まで、出所することは叶わない。

 泣き叫ぶニコラと、しがみついてくるグレタの体温を感じながら、ヨザックの脳裏に苦い記憶が蘇る…。

『土になる…か』

 ヨザックが生まれたのはまだ大・小に分離する以前のシマロンだった。辺境地に置き捨てられた女達は来る日も来る日も荒れ地を耕し続け、糸杉のように痩せ果てて…力尽きるようにして死んでいった。
 母の墓に縋り付いたまま四肢を丸めて座り込んでいたのは、哀しさを通り越して何を考えることも出来ず、空腹の為に脱力していたからだった。

 きっと、ウェラー親子に救われなければあのまま荒野の土になったことだろうが、それ以前に…母がヨザックを生む段階で自分の幸福の方を優先させていたら、もっと確実な死を迎えていたはずだ。

『俺は土になることを免れた…お袋が、護ってくれたからだ』

 華奢な体つきのニコラは必死で腹を庇い、涙を浮かべながらも胎児を護ろうと身を縮めている。救いを求める声に応える者はなく、《いやぁぁああ……っ!!》という悲痛な叫びだけが夜風を震わせる。

『助けて…やりてぇ……』

 衝動がヨザックの精神を揺り動かして、目元に深い皺を刻む。

 以前のヨザックなら、多少はそんな想いが浮かんでも即座に《馬鹿馬鹿しい感傷だ》と打ち消すことが出来ただろう。
 だが…今、ヨザックの脳裏に浮かぶのは、亡き母と…そして、カルナスの地でコンラートに剣を向けられた時、身を挺して有利が庇おうとした情景だった。

『ユーリ…お前さんなら、迷わず駆け出すんだろうな…』

 その有利の視力を蘇らせる為に、ラパスケアの華が欲しい…。だが、彼は自分の視力の為に、救われたろう命が失われることを由とはしないだろう。
 ぐ…っと奥歯を噛みしめ、煩悶の中から選び出した答を口にしたヨザックは、どこか救いを求めるような声で絞り出すように問うた。
 自分の選択が、誤りではないと小さな少女に保証して欲しかったのかも知れない。

「姫様…あの子を、助けても良いですかねぇ…」
「ヨザック…そうしてくれるの!?」

 グレタがほっとしたように息をつく。彼女もまたそうしたいと思いながら、有利のことが気に掛かっていたのだろう。
 
「どうにも俺には、あの子をほっとくことが出来ねぇ…。可愛らしいのに気が強くて、魔族との間に出来た子を後生大事に抱えている一途さが、どうしても王太子殿下を思い起こさせるんですよ…」
「うん…うん…っ!グレタもそうだよ!」
「なら、このまま植え込みの中に潜んでて下さい。そして、俺が戻れなくても…必ず王太子殿下のもとに戻って下さい」
「ラパスケアの華は…」
「今回は固執しないことです。姫様が無事にお戻りになることが、殿下にとっては一番大事なことですからね」
「…うんっ!」

 こくんと頷くと、グレタはそのまま茂みの中に蹲った。
 それを見届けてから飛び出そうとしたヨザックだったが…どうも今回は不意の出来事が連発するものらしい。今度は別の方角から喧噪が響きだした。

 《止めろ止めろーっ!》《くそ…何という腕前だ!》…スヴェレラ兵士と思しき男達の怒号と剣戟の音が響き渡る。随分と腕の立つ侵入者か、脱走者がいるのだろうか?

 ザ…っ!

 ヨザック達が潜んでいた茂みを蹴り倒すような勢いで大跳躍を見せた男は、一見してこの辺りの住人とは思えない風体をしていた。持っている剣はスヴェレラ軍のものだが、おそらく奪い取ったのだろう。
 男は飛び出した先で腹を抱えてしゃがみ込んでいるニコラを見かけると、少し躊躇したようだが…結局見かねたような様子で駆け出し、向かってきた兵士を切り倒して、腹ポテの身体を抱え上げた。

「君…走れるか!?」
「は、はい…っ!」

 どうも、二人は知り合いと言うわけではなさそうだ。それなのに自分自身追われる身でありながら助けてしまったということは、この男も相当におめでたい性質なのかも知れない。

『しょうがねぇなぁ…』

 男の出自は分からないながらも、どうにも見捨ててはおけない。ヨザックは音もなく傍に寄って、男とニコラを斬ろうとした兵士を薙ぎ倒した。
 横合いから応援に駆け付けた兵達も、グレタが茂みから放ったアニシナ特製《ジャパ○ットアニシナねばねばねっとん》というトリモチ様投網で一網打尽にされると、染み込む薬品によってかすぐに眠ってしまう。

「君達は…一体!?」

 突然出現した人物をどう捉えて良いのか分からない様子で、男はじり…と警戒の態勢をとったが、流石に斬りつけてはこない。

「詮索は後だ。あんたの敵なのか味方なのかは俺にも分からないが…とりあえず、スヴェレラ王宮内で見つかると面倒な身なのは同じだろう。ともかく、一緒に逃げるぜ」
「了解した」

 即断した男はなかなか肝の据わった人物のようだ。まあ、そういう者でなければニコラを救おうとしたりはしなかったろう。
 ともかくも正体の分からない者同士、闇に紛れて逃走を開始した。

 

*  *  * 




『なんじゃあ?えらく騒がしいな…』

 スヴェレラ王宮の近くまでやってきたものの、そこから先が手詰まりになってうろうろしていたドント老人は、兵士達の怒号から何となく状況を察していた。どうやら、アマルが自力で逃走を企て、現在も逃げ続けているらしい。

『こりゃあ何としても助力せねば…!』

 ドントはきょろきょろと辺りを見回したが、先程から何度も回った外壁は高く、とても侵入できるような構造ではない。跳ね橋も夜間ということで上がっており、全く隙がないように思えた。

 …が、ふと見やると壁面に添って穿たれた堀の中から、何者かが出てくるのが見て取れた。そこは警備の穴になっているのか、兵士達も見咎めたりはしない。

「…っ!?」

 ドントは思わず息を呑んだ。
 堀から出てきたのはまさに探していたアマルであり、彼が捕まる要因となった有利似の人物の他、幼い少女と鮮やかな柑橘色の髪をした青年がいた。
思わず駆け寄ったドントに柑橘髪の青年が構えたが、急に拍子抜けしたような声を出す。

「あんた…カルナスの村長さんじゃないか」
「へぁ…っ!?あ、あんた…っ!!」

 その声には聞き覚えがあった。その記憶を辿って改めて観察すれば、なんと…それは有利と共に数日間滞在していた《歌姫》ではないか!

「よ…ヨザック、あんた…男だったのか!?」
「まあまあ、今はそんな場合じゃねぇよ。油張り合羽を着こんでた俺たちはともかく、この連中はびしょ濡れだからな…。あんた、なんか着替えを持ってねぇか?最悪男の方は裸体ショーかますにしても、こっちの妊婦さんは何か着こんでないと拙いだろう」

 言われて見やると、件の《ユーリ似》の人物が若い女性で、しかも妊娠しているのだと知れた。

「この子は…これが地毛じっゃたのか…」
「ああ、確かにユーリ…王太子殿下が女装してた時と髪の色が同じだし、少し顔立ちは似てるかな。つか…あんた、この子を知ってたのかい?」
「詳しい話は後じゃ。ともかく、早いとこ王宮から離れよう」
「ご尤も」

 苦笑すると、ヨザックはドントからマントを剥ぎ取って、更にニコラの衣服を瞬時に剥いでくるりとマントを巻き付けた。少々歩きにくそうな格好だが、ヨザックはそのまま抱えていく気らしい。
 こうして男装(?)の逞しい姿を見ていると、一体何故歌姫の時に性別を見抜けなかったのか不思議なくらいだ。

 とにもかくにも追っ手から逃れるべく、ドント達は逃走を開始した。



*  *  * 




 道中、ドントの促しでカマルという青年(捕まっていたアマルとは双子らしい)を拾ったヨザック達は、一路コンラート達の野営地を目指した。
 アマルとカマルの愛馬は最初に繋いだ宿屋にそのまま残されていたから、こっそり連れて出ることが出来た。ドントの乗っていた痩せ馬は姿を消していたから、おそらく名馬の二頭については欲をかいて買い取ってくれる相手を探していたのだろう。
 
「ユーリ…怒ってるかな?」
「まあ…一緒に謝りましょうね?」
「うん……」

 グレタはヨザックの前に抱え込まれたまま、しょんぼりとしている。今頃になって有利の怒りが気になり始めたのだろう。

「それに…あんな騒ぎになっちゃっただもん…。もう、王宮では警戒が厳しくなって、同じ道じゃあ入れなくなっちゃうかも知れない…」
「まあ、そう落ち込み過ぎない方が良いですよ。おかげで、意外な連中とお近づきになれたわけですしね」

 そう、今回の探索は決して無駄足という訳ではなかったのだと思う。

 ひょっとして《思いたい》だけなのかも知れないが、ヨザックはアリスティア公国とやらからやって来たアマル、カマルという人物から、なにやら曰くを感じている。腕の立つ武人であることに加え、彼らは見るからに育ちが良さそうなのだ。おそらく、貴族階級に属しているのだろう。そんな彼らが一介の老人であるドントに王太子との仲立ちを求めてくると言うことには、何か大きな意図を感じる。

 しかも、迷った挙げ句に救うこととなったニコラについても、驚くべき縁のあることが分かったのである。
 なんとこの少女…現在行方不明になっているグリーセラ卿ゲーゲンヒューバーの子を宿しているのだという。内戦で両親を喪った彼女は法石を採掘する仕事で日銭を稼いでいた折、魔笛を探しに来たゲーゲンヒューバーと恋に落ちた。しかし、それは異種族間の結婚が認められてないスヴェレラでは、認められない恋であった。

 駆け落ち者として拘束されかけたニコラは必死で逃げる途上でゲーゲンヒューバーとはぐれてしまい、彼が王宮に捕らわれてしまったことを知った。
 救い出す手立てもなかったニコラは、頼るべき相手を捜して幼い時期を過ごしたゾラシアの孤児院を訪ねたが、そこも皇国が滅ぼされた後の権力争いで国中が引き裂かれており、とても生活できるような場所ではなかった。

 日に日に重くなっていく腹を抱えて途方に暮れながら、せめてゲーゲンヒューバーの近くで生みたいとスヴェレラに戻ってきた彼女だったが、持っていた金はすぐに底をついてしまった。働こうにも、スヴェレラではここ最近めっきりと法石の出が悪くなっていたのである。結局、飢えに耐えかねて無銭飲食していたところで、ドント老人に声を掛けられて《王太子》として捕まったわけである。

 グレタと共に逃れたはずのゲーゲンヒューバーは《自分が身を退けばニコラの人生がこれ以上歪むことはない》と信じて姿を消そうとしたのだそうだが、実際問題として物凄く生活に困窮していたことになる。

 それに…実は、ここでもひとつ謎が残った。

 ニコラは自分が連れて行かれる先に魔族の王太子がいると聞くと、勢い込んで予想外のことを言いだしたのである。

『王太子って事は、そのうち魔王になるって事よね?』

 そう言ってニコラが差し出したのは、風変わりな黒い金属であった。掌に載るようなサイズで、笛のようにも見えるが、ニコラが吹いても音はしなかったらしい。
 彼女が言うには、それがゲーゲンヒューバーと共に遺跡から発掘した《魔笛》なのだそうだ。だから、もしかして魔王になることを約束された有利が吹けば、鳴り響いて雨を降らせるのではないかと期待しているらしい。

 スヴェレラ王宮に捕らえられた時に持ち物を没収されなかったのかと聞いたら、この少女…《テヘ》と笑って頬を染めつつも大胆発言をかましてくれた。

『女は一カ所、身体の中に《金庫》を持っているのよ』

 大体、想像はついた。

 なんというか…それが有利の口に触れるのかと思うと色々考えてしまうが、何はともあれ、恋人から預けられた重要なものを守るために、ニコラがどんな手でも使う女傑なのだということはよく分かった。

 さて、この魔笛…真贋はヨザックが見ただけでは到底鑑定できないが、それ以上に気になることがある。ゲーゲンヒューバーが二十年にもわたって探索し続けた笛をニコラに預け、そのまま失踪したというのがどうにも腑に落ちないのだ。

 ニコラとは別れるにしても、魔笛だけは手に入れて眞魔国に持ち帰ろうとする筈ではないのか。もしも帰りたくないのだとしても、魔笛は魔王以外に扱えるものではない以上、せめて郷里に残された家族の名誉のためにも、魔笛だけは届けるはずではないのか。

『奴(やっこ)さん、更にヘンテコな所に捕らわれてるんじゃねぇのかな…』

 かつては純血貴族の自負でふんぞり返っていたあの男が、何を思って人間の少女と恋に落ちたのかは分からない。だが…国元から追われる身になっても純情にゲーゲンヒューバーを愛し続ける少女を見ていると、彼がヨザックが知っていた頃の彼とは違うのではないかと思えてくる。

 少なくとも、こんなに中途半端な形でニコラも魔笛も放り出すのはおかしい。
 
『猊下にお知らせしないとな…』

 複雑な事情の一行を出来るだけ有意義に活用(?)するためには、何としても村田の頭脳と知識が必要になる。そう思って彼の姿を思い浮かべた途端、ヨザックはグレタ以上にしょっぱい顔になってしまった。

 今回の選択が全面的に悪いとは思えないのだが、それでも…有利を溺愛している村田を想うと、華入手の可能性を減じてまでニコラを救ったことに、激しく申し訳なさを覚えてしまう。
 
『怒られればまだマシなんだけどねぇ…』

 一番怖いのは、静かに…そしてザックリと彼の中のヨザック評が暴落することであった。
《君に期待するのは無駄と分かった》…そんな一言で叩っ斬られたら、精神的に即死しそうだ。

 しょぼぼん…と落ち込んだ二人を乗せて、愛馬は月の砂漠を直(ひた)走った。

  


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