第2部 第24話





 斥候隊の兵が有利たちの馬車に馬を横付けにすると、窓を僅かに開けてコンラートに耳打ちした。

「アーダルベルトだと…?」
「周囲も捜索しましたが、あの男以外には手勢はおりませんでした。如何なさいますか?」
「…会おう」

 選択は早かった。会わなくてはならない理由はないが、無視して先に行くには縁がありすぎる人物だ。

「コンラッド…アーダルベルトって、エリオルをゆーかいするの手伝った悪いヤツだろ?そんなのに会いにいってだいじょうぶなのかよ…」
「心配しないで、ユーリ…。少し、話をしてくるだけだよ」
「うん…」

 無意識の内にコンラートの左腕をがっしりと捕らえていた有利は、優しく囁かれると躊躇いがちにではあったが、何とか手を離した。
 けれど…指先にコンラートの体温を感じ取れなくなった途端に、突き上げるような寂しさに襲われる。見えないからと言うよりは、自分の意志で上手く動けないもどかしさが寂しさを増強させているような気がする。無茶をして、こっそり後を追うことが出来ないからだ。

「はやく…帰ってきてね?」
「ああ、一瞬でも早く…君に会いに帰るよ」

 切ない眼差しが交錯し、ある種の擬音…《いちゃいちゃいちゃいちゃ》という表現が適切であろう雰囲気が流れる。
 
 その空気に耐えられなくなったのは報告中の兵士である 

「あの…軍団長殿……」
「ああ、すまない。すぐに行こう」

 危うく別れのキスにまでしてしまうところだったコンラートは、居心地悪そうな部下にせっつかれて馬車を後にした。

「アーダルベルトのヤツ、何しに来たんだろうな?」

 有利がぷくっと頬を膨らませて文句を言っているのは、別にキスを邪魔されたからではない。
 ああ、決してないとも。

 そんな有利をからかうこともせず、村田は珍しく真面目な顔をして低い声を出した。

「…多分、フォンウェラー卿が阻止してくれるとは思うけど、もしも会うことになったら、あいつの言うことをあまり気にするんじゃないよ?」
「どゆこと?」
「彼は、フォンウィンコット卿スザナ・ジュリアの婚約者だった男だ。《シマロンとの大戦が終わったら結婚しよう…》なんて、如何にも死亡フラグの立ちそうな約束を取り交わしちゃってたんだ。おそらく、彼は今でもスザナ・ジュリアを愛し続けている。君を見る眼差しにも、どうしたってそういう意味合いが含まれるだろう。だけど…君は君だ」

 村田の言葉は彼には珍しく熱を帯びたものになっていき、気が付くと、二人は両手を硬く握り合っていた。
 村田の手が冷たいのは今に始まったことではないが、ちいさく震えているのは…村田の方が余程、有利がどう感じるかを不安に思っているのだろう。

「間違いなく、今生きて物事を為しているのは渋谷有利なんだ。スザナ・ジュリアは君の魂が経てきた人生の一つに過ぎない。彼女の人生は…どんなに惜しまれたって、もう終わったものなんだ…!」
「村田…」

 彼が今、どうしてそんなにも激しく言い聞かせているのか有利にはよく分かっていた。村田は誰よりも《前世》というものと向き合って生きて行かなくてはならないからだ。

 眞魔国で《猊下》と呼ばれて崇められている立場を最大限に利用しながらも、村田はあくまで《村田健》という高校生としての自分を失ってはいけない。
 多くの者にとっては《大賢者》の方が大きな意味を持つと分かっていても、他の誰でもない村田自身が、《村田健》であることを失ってはならないのだ。
 同様に、《渋谷有利》も失われてはならない存在なのだと強く主張しているのだろう。

 そう思ったら、何だか泣きたいような…それでいて、じぃんと胸が熱くなるような心地を覚えた。

「村田…おれ、お前がそばにいてくれて、ほんとうに良かった…」
「渋谷?」
「だって、おれがおかれてるたちばのしんどいコトとか、ありがたいコトとか…ぜんぶ、村田がいちばん分かってくれるんだもんな?」

 村田は面食らったように大粒の瞳を開大させていたが、ふ…っと微笑むと、照れくさそうに呟いた。

「僕だって、そうだよ…」

 村田はそれ以上は言わなかった。
 言わなくても、分かった。

 だから二人は静かに手を繋いだまま、コンラートが戻ってくるのを待っていた。



*  *  * 




 岩砂漠の中に、ぽつんと男の影が伸びる。
 中空に差し掛かった太陽に照らされて、熱せられた大気はゆらゆらと揺れながら男のシルエットを歪めていた。

『窶れたな…』

 アーダルベルトを一目見て、コンラートはまずその印象に目が行った。
 悠々とした態度を装ってはいるが、かなりの期間にわたって彼がどうにもならない苦しみを抱え、煩悶してきたことは如実に分かる。

 元々彫りの深い顔立ちではあったが、眼窩は今や落ち窪んで黒ずんでいる。ただ、何かを狂おしく切望する眼差しはぎらぎらと底光りしていて、そこだけが辛うじて全身の生気を維持させているように思う。

 何を求めているのか。
 正確には分からないが、少なくとも…彼がどうにかしたいと願っている対象だけはすぐに察しが付いた。 

「アーダルベルト…」
「よう…久しぶりだな。ウェラー卿…いや、今はフォンがついたのか?」
「おかげさまでな」
「グランツ家を潰して、十に数を合わせようって動きはなかったのか?」
「気になるか?」
「別に…」

 アーダルベルトの視線は遠くを彷徨う。全く気になっていないと言うことはないのだろうが、言ってみれば《今更》な話だ。
 この男をここまで憔悴させている要件は別にあるのだろう。

「そうだろうな。単身現れたのは、そんなことを聞きたかったからじゃないだろう?」
「察しは付いているのかよ」
「他にあるか?お前が我を忘れて駆けつける要件なんて、他にないだろう?」

 有利がジュリアの魂を受け継いでいるという話は、十貴族会議の席で正式に認められたこともあり、事情通であれば誰でも知っている。おそらく、暗殺未遂によって失明したという噂もこの男は知っているはずだ。

「分かっているなら話は早い。ジュリアの魂を受け継いだ子どもに会わせてくれ」

 予想通りの申し出に、コンラートは静かに返した。

「断る」
「…なら、何の為に出てきた?」

 腹の底から《ぐぁ…》と込みあげてくるような怒りのオーラが垣間見えたが、それでコンラートが動ずるはずもない。

「今の俺はユーリの為以外に動くことはない」
「ならどうして、わざわさお前が出てきた?大事なカワイコちゃんを置いておいてまで出てきたって事は、俺と直接会うことに意義を感じていたからだろう?」
「ああ…力づくで略奪しに来れば迷わず殺していた」

 それは確信している。振り下ろす刃先に、迷いなどあるはずがないのだ。
 
 アーダルベルトの方でもその辺の機微は分かっているから、襲撃によって強引に略奪する手も考えはしても実行には移さなかった。無茶なように見えて意外と計算の確かな彼は、金で雇った傭兵でルッテンベルク軍の精鋭を蹴散らせるとは考えられず(万が一成功したとしても、眞魔国全軍が黙ってはいまい)、コンラートの性格を読み取った上で正面から来たのだ。
 
「しかし、お前は正面から来た。そうであれば《見込み》はあるものと考えた…」
「ユーリとやらにとって、俺が有益な存在になると?」
「そうだ。ジュリアに対するしつこ過ぎる情念を考えれば…」

 心なしかアーダルベルトの表情がしょっぱくなったが、多少は自覚があるのか敢えて抗弁はしてこない。

「…お前は、最良の味方にもなるはずだ。だから、今のままのお前では会わせることは出来ないが、《修正済み》の状態まで持っていけば会わせることができる…そう思ったのさ」
「…ふん、俺の何を変えようって言うんだ?」
「まず、ユーリの前でジュリアの話はするな。特に、ユーリにジュリアを重ねて語るような真似をすれば、迷わず殺す」
「…そいつに、ジュリアの記憶はないのか?」

 呟かれた言葉には、いい知れない苦みが混じっていた。だから、コンラートの言葉は敢えて鋭く、叩き斬るようなものになる。

「あるわけがないだろう。全く別の命なのだから」
「そうか…」

 眞魔国でも地球同様《前世占い》なんてものが流行ることがある。だが、アーダルベルトはそういった迷信を一蹴するタイプだった。
 だが、自分のことはともかく相手が喪ったはずの恋人を偲ばせる存在であるとなれば、狂おしいほどにその影響が気になるに違いない。

「どういう子どもなんだ?」
「素晴らしい子だ。俺の全てを賭けたい…全てを尽くしたいと思える子だよ」
「ベタ惚れって訳か」

 《お前、変わったな…》と、アーダルベルトは驚きを隠せない様子で呟いた。その声には、半ば呆れも含まれている。
 《ルッテンベルクの獅子》と謳われた始めた頃のコンラートは、《氷の刃》とも揶揄されるくらいに冷たい印象の男だったからだろう。

「愛するというのは、そういうものだろう?」

 今までは、これほど純な気持ちが自分の中に在ろうとは気付きもしなかった。《コンラート》という男は全てに一定の距離を置き、埋没することのない男だと信じていた。
 そうではないのだと…市井の民と等しく、恋の前には盲目となることを知ったときには絶望も味わったが、今となってはそんな自分すらも愛おしく感じる。

 コンラートは変わった。
 ユーリの為に変わった…変えられた。

「なら、俺の気持ちだって少しは分かるだろうよ?」

 どこか縋り付くような色を忍ばせるアーダルベルトに、コンラートは噛んで含めるように説諭した。

「分かるから、妄執を断ち切りたいと思うんだよ。アーダルベルト…あの子は、ジュリアじゃない」
「分かっている…っ!」

 血を吐くような叫びを上げて、アーダルベルトが唸る。荒々しく毛先が乱れた金髪を振るい、顔を無骨な手で覆う姿は見ていて切なくなるくらいに苦しげだった。
 
「分かっている…。だが、それでも面影の一つも残ってはいないのかと、願ってしまうんだ…っ!」
「お前とジュリアの子というわけじゃないんだ…」

 アーダルベルトを説得する為の、道理を尽くした言葉だと思ったのだが…どうしたものか彼は真に受けてしまったらしく、えらく真顔になってしまった。

「当たり前だっ!お前に《お父さん》と呼ばれるなんてぞっとするぜっ!!」
「俺だってそうだ…!気持ちの悪いことを言うなっ!!」

 話が変な方向にずれた。
 とはいえ、仮説としてあげた《ジュリアの子》というフレーズはいたくアーダルベルトを刺激したらしい。

「ジュリア自身じゃあない…俺とジュリアの子じゃあない。確かにそうなんだろう…。だが…少なくとも、ジュリアの魂を受け継いでいるんだろう?そうだ…今は目も見えないんだろう?どうしているんだ?また見えるようになるのか?」
「簡単にはいかないが、方法はあるそうだ」
「そうか…うむ。ひょっとして、内陸に入ってきたのもその為か?」
「そうだ」
「ふ…ん……」

 ジュリアへの愛は決して庇護欲等ではなかったはずだが、その魂を受け継ぐ者が突然に不自由な暮らしを強いられていると思うと、居ても立てもおられない心地になったらしい。アーダルベルトは先程とは異なる雰囲気でそわそわと身動ぐと、伺うような眼差しでコンラートを見やった。

「なあ…コンラート、俺はそいつの為に何かできないか?」

 代償行為であるのかもしれないが、喪った恋人の代わりに息子へと愛を注ぐような心地になったのだとすれば、昇華されていく感情もあるかと思われる。

「ある…。人間の世界に通じたお前にしか出来ないことが、必ずある」
「…そうか」

 アーダルベルトは静かに瞼を閉じて、暫くしてからゆっくりと開いた。
 その瞳には、じりじりと焦がされるような憔悴の色は薄らいでいた。長年苦しめられてきた形の見えない衝動を、彼は何らかの形で解消しようとしているのかも知れない。

「来い、アーダルベルト。ユーリに会わせてやろう」
「ああ…」

 揺らぐ大気の中を泳ぐようにして、アーダルベルトはコンラートについていった。



*  *  * 




 アーダルベルトは詳細なボディチェックを受けた後、簡易的な天幕の下に通された。やはり折りたたみの簡易的な卓と椅子とが置かれており、壁となる幕は持たない。その代わり、壁のように配置された武装兵達が警戒を込めてアーダルベルトを睨み付けていた。彼らにとってアーダルベルトは、非常に複雑な感情を抱かせる相手なのだろう。混血として長い熱月を差別の直中で過ごした彼らにとって、純血でありながら眞魔国を裏切った男は《贅沢者》として映るだろうし、何より彼らにとって大切な軍団長の左腕が、過酷な運命を辿ったことにも関与している。

『しかし、こいつらの感情にまで配慮している余裕はねぇ…』

 腹の中にある焦れはコンラートと会話したことで多少は和らいだものの、まだ全てを受け入れたわけではない。
 未だ燻るような感情が、今から自分の前に出てくる《スザナ・ジュリアの魂を受け継ぐ》少年にどのような形で向くのか、予想することも出来なかった。

『美しい子だと聞いているが…』

 《地の果て》開放実験に際しても双黒の姿を現したと聞くが、その場を撤退していたアーダルベルトは目にしていない。また、もしも目にしていたとしても魔力を全開にさせた時と平常時とでは印象が違うと聞く。

 瞼を閉じれば、どうしてもアーダルベルトに思い起こせるのは亡くなる直前のスザナ・ジュリアだった。ジュリアの髪と瞳を漆黒にして想像してみたりするが、しっくりとは来なかった。何しろ、ジュリアは透き通るような薄水色の髪と瞳をしていたのだから…。

 ただ、一見儚げなほど繊細な美貌をもっているくせに、内実は相当に豪快な女だった。
 よく食べ、よく笑い、時にはスカートを翻して鋭い蹴りをぶちかますようなお転婆娘…。

 白いドレスが真っ青な夏空に舞い、ひったくりの犯人が真っ赤な鼻血を噴き上げて蹴り飛ばされた事件は、ウィンコット領の伝説になっているとも聞く。

 闊達な性格で多くの人々に愛された女性だったが、幼少時に失明すると共に、子どもを為す能力もなくなった。その事がグランツ本家の連中に知られたときには、婚約話を無かったことにされかけた。
 だが、アーダルベルトは引かなかった。子どもなど、従兄弟筋の家系から優秀な子を養子縁組すれば何の問題もない。大事なのは、アーダルベルトが彼女を愛していて、生涯を共にしたいという情熱を持っていること…それだけで、十分だった。

『ジュリア…お前がいてくれれば、俺は他には何もいらなかったんだ…』

 感慨に耽るアーダルベルトの前に、足音が近づいてきた。一つはコンラートと思しき、微かな軍靴の響き。もう一つは…《とてちてた》というような、軽くて、少し戸惑い気味の足取りだった。

『失明したばかりで、上手く歩けないのか…?』

 狂信的な教会信徒に矢で背中を射られ、生死の境を彷徨ったと聞く。しかも鏃には毒が塗られており、失明したと聞くが…。

 胸の鼓動を押さえながらゆっくりと視線を上げていく。
 目に入ったのは…コンラートに寄り添う、華奢な少年だった。

「……っ!」

 その子は、驚くほどに美しかった。

 見えていないとは信じられないくらい澄んだ漆黒の瞳は大粒で、対象物を見つけられないのか、今はアーダルベルトではない方向を向いている。
 砂漠の熱にも負けずにさらりと流れる素直な髪、真珠を思わせる肌理細かいで滑らかな肌…小ぶりで形良い鼻、顎と、ふくっとした印象の淡紅色の唇。

 今まで見たどんな子どもよりも愛らしい。
 けれど…コンラートが言うとおり、何一つジュリアには似ていなかった。

『ああ…違うのか、こいつは…』

 予想以上に落ち込んでいるのは、やはり何だかんだ言って期待していたからなのだろう。亡きジュリアの為に何か一つくらいは役に立ってやろうかと思うが、そう長く共にいることは出来ないだろう。
 この少年を目にする度に、《やはり違う》という事実を突きつけられそうだからだ。

「お前さんが…ユーリか?」
「あんた、アーダルベルト?」

 声を聞きつけて、ユーリの視線がアーダルベルトに向く。焦点を正確に定められないのか、やはり見ている先はアーダルベルトを越えてあらぬ場所を見つめていた。

『ああ…ここも違うな』

 ジュリアの瞳はけぶるような淡い色の睫に囲われていたが、夢見るような薄水色の瞳は、声さえ聞けば正確に対象物の位置に合わせることが出来た。異様に勘の良い女だったのだ。

 肩を落として溜息をついていると、何を思ったのか…有利は両手を伸ばしてとっとっ…とアーダルベルトに近寄ると、胸板にぽんっとぶち当たった。

「アーダルベルト…いっぱつ、なぐらせて」
「……は?」

 あどけない声のくせに、言っている内容は物騒だった。よく見ればつぶらな瞳も眦が釣り上がっており、ギン…っと上目遣いに睨み付けている。
 《一発やらせろ》よりはマシだが、それでもお人形さんのように愛らしい少年からそんな物騒な言葉が出ると、軽くぎょっとしてしまう。

「なぐらせて?」
「そりゃあ良いが…しかし、お前さん…そんなちっこい拳で殴ったら怪我しねぇか?」
「バカにすんなよっ!」

 両の拳を突き上げてぷんすか怒っているのだが、やはり無骨なアーダルベルトの身体にぶつけるには、造りが華奢なように思うのだが…。

「おい、コンラート…どうにかならないか?」
「そうだな…。ユーリ、これでも使うかい?」

 コンラートもどうやら同じ懸念を抱いていたらしく(《一発殴りたい》という要望は事前に聞いていたのだろう)、背後から殴打用の道具を複数持ち出してきた。
 有利は一つ一つ手にとっては、困ったように口をへの字にしている。

「いやいやいや…火かきぼうはマズいでしょ!?頭の骨へこんじゃうよ!つか、脳みそでちゃうしっ!」
「じゃあこれ?」
「これ、めちゃくちゃゴツいムチじゃん!?みみず腫れになっちゃうよっ!つか、お肉はがれそうっ!」
「うーん…困ったな」
「もーいいって!やっぱ、男はだまってコブシをきかすしかないよっ!」

 改めて右手を握り込んで、左手でアーダルベルトをぱたくたと探すから、掴んで自分の肩へと導いてやった。

「……なんだってそんなに殴りたいんだ?」
「なんだってもかんだってもあるかっ!あんたはエリオルをゆーかいして、コンラッドに怪我をさせた張本人じゃないかっ!小シマロンのへいたいとか、ほりょの人たちだって大ケガした人たちいっぱいいるんだかんなっ!いっぱつくらいなぐんなきゃ、気がすまないよっ!だいたい、国元にのこしてきた家族のこととかあんた、考えたことあんのか!?これが刑事モノなら《お母さんはないているぞっ!》っていうところだっ!」

 言っている意味が半分くらい分からないが、憤っていることだけは理解できた。

 《はー…》っと拳に息を吹きかけた有利は、宣告通りアーダルベルトの頬に一撃を食らわせた。体重の少なさを補うよう腰に重心を置いて遠心力をつけた、なかなかに応える一打であった。

『意外と応えるな…』

 しかし実際の痛覚よりも、距離感を掴めないまま全力で殴ってきた有利が拳を痛めたのではないかとその方が気になった。
 
「おい、手は大丈夫か?」
「だいじょーぶ」

 さすさすと拳を一方の手で撫でると、有利は満足げに笑ってアーダルベルトを見上げた。

「これでおれの気はすんだから、おれもなぐって良いよ?」
「良いよってお前……」

 殴れるわけがないだろう。

 覚悟を決めたように目を瞑って顔を出されても、華奢なつくりをした美しい顔に巌のような拳をぶつけていくなど、アーダルベルトの趣味とは懸け離れた行為だし、殴る理由もない。
 そもそも…斬り裂かれそうな勢いで叩きつけられるコンラートの視線が痛くてしょうがない。

「なぐってくんないと、おれの気がすまないもん。ホラ、はやくはやくっ!」
「いやいやいや…」

 急き立てる有利はきゅっきゅっと両手でアーダルベルトの拳を固めさせ、《む〜…デカイなぁ》と眉根を寄せて呟きつつも、ぎゅっと目を閉じて歯を食いしばった。長い睫がすべらかな頬に影を落とす様を見れば、どうしたって殴るより、口吻の一つもかましたくなってしまい、《ジュリア、これは浮気じゃないんだ…っ!なにかこう…本能的なアレなんだ!》と全力で謝りたくなってくる。

「じゃあ…」

 ゴチっ…

 拳を右頬に宛ってからちょっとこづくと、有利はぱちっと目を開けて不満そうに唇を尖らせた。

「今のなぐってないだろー?」
「いや、お前にやられたのと一緒くらいだ」
「あーっ!またバカにしたなーっ!?」
「お…おい、よせよせ。今度こそ拳を痛めるぞ?」

 眉根を寄せてぽかぽかと殴りつけてくる有利に、思わず笑ってしまうアーダルベルトだったが、相変わらずコンラートの視線が痛い…。
 
『何をやってるんだ俺は…』
 
 そうは思いつつも、何故か気分が軽やかに弾むのを感じるのだった。




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