第2部 第22話






『あれ?』

 グレタは小首を傾げた。

 暗殺者を拘束している牢の前で、鮮やかな紅髪が揺れていたのだ。一瞬、ルッテンベルク軍の兵士かと思ったのだが、それにしては随分と小柄だ。近寄ってみると、どうやら女性らしい。傍には村田と、大教主の使者バルトンがいた。

 とてとてと近寄って行くと、女性は腰を屈めて目線を合わせてくれた。どうやら子どもを尊重してくれる人らしい。ただ、薄水色の鋭い眼差しには全てを見通すような力があったから、子どもの権利を主張できる分、義務を怠った場合には大人と同じだけの叱責を加えられそうだ。

「あたし、グレタっていいます。あなたのお名前を伺っても良いですか?」
「ふむ。まず自ら名乗り、名を聞く。よろしいですね。人生の基本が出来ています」

 褒められた。
 ちょっと仰々しい言い回しだが、何だか嬉しい。

「私の名はフォンカーベルニコフ卿アニシナです。以後、よろしくお見知りおきを」
「あのぅ…こちらに何かご用ですか?」
「ええ、ちょっと尋問をしてみようと思ったのですよ。うちの王太子殿下に無体を働いた狂信者とやらにね」

 前半は飄々とした声色であったが、《うちの王太子》という時だけは…底冷えするような鋭さを感じた。どうやらこの人は、相当に有利のことを大切に想っているらしい。
 気持ちにはとても共感したが、それだけに心配にもなった。

「…っ!あ、あの…傷つけたりは…」
「分かっていますとも。野蛮な方法など採りません。魔族の名に恥じますし、何より…殿下が哀しまれますからね」

 凛とした面差しのアニシナに、グレタはきゅうんと胸が弾むのを感じた。ギーゼラとも仲の良いグレタは、こういう毅然とした女性に弱いらしい。

「じゃあ、グレタも一緒に行って良いですか?」
「覚悟がありますか?」
「え…?」
「覚悟があるかと聞いているのです。怪我はさせませんが、頑なに自白を拒む罪人を悔い改めさせる為には、それ相応の手段が必要です。中には、子どもの情操教育上健やかならざる影響を及ぼす因子があるやもしれません。それでも尚、傍で全てを見守る覚悟がありますか?」

 炯々とした眼差しに射竦められると、正直ぞくりとするくらいに背筋が緊張したが、それでもグレタは強く頷いた。

「は…はいっ!見たい…見たいです!グレタはどうしても、あの人がユーリを襲った理由を知りたいの…っ!誰かに頼まれたのか…お金で雇われたのか…どっちにしても、あのユーリを殺すのに、ちっとも躊躇わなかったのかとか、知りたいの…っ!」
「ふむ…よろしいでしょう」

 こくりと頷くと、アニシナはグレタを同行させてくれた。



*  *  * 




 狂信者…いや、当人の中では敬虔な教会信徒であるジーンスナーは、若い女性の来訪に失笑していた。魔族は色仕掛けで自分の口を割る気だろうか?確かに美しいが、少々険のありすぎる女性を選んだものだ。鉄格子越しに見ていると、紅い髪と釣り気味の水色の瞳が印象的な女性は、居丈高に胸を張ると堂々たる名乗りを上げた。

「私の名はフォンカーベルニコフ卿アニシナ。今から、あなたの尋問を勤める者です。良く覚えておくように」
「穢れた名を留めておく耳など持ち合わせぬ」

 きっぱりと言い切ったジーンスナーに食ってかかるかと思いきや、女性はにやりと嗤って頷いた。

「成る程、名乗りも挨拶も出来ぬとは獣以下ですね。尋問のし甲斐があります」

 随分な余裕だ。ひょっとすると、拷問具や薬を使われるのかも知れない。だが、いずれもジーンスナーの口を割るに足るものは無い筈だ。

『私には、強い信心がある…』

 それは全てに於いてジーンスナーを守る…筈であった。

 アニシナの懐から、ふと小さな小箱が出てきた。金属光沢を持つ、随分と精緻な小箱だ。
 それを構えると、アニシナは何も言わずにスイッチを押した。

 ジーンスナーは知らぬ事であったが、それは村田が地球から持ち込んだ小型カメラ《SAMURAI》であった。文化祭の時にポケットに入れていた村田は、そのまま眞魔国へと飛んできたのだ。太陽光発電ができるというエコ機能がついており、こちらの世界でも十分撮影可能である。

 更にナイスなのが、実はポラロイド印刷も可能な点だ。流石に専用のロール用紙を入れておかないといけないので、現像フィルムは持ち込んだ分しか持ち合わせはないが、あと30枚は印刷できるはずだ。

 ちなみに、SDカードには大量に文化祭でのアリス有利画像や、歌謡祭でのドレスアップ有利(上手にサラレギーは避けている)が収められているのだが…有利とコンラートには秘密である。

 アニシナは眞魔国にいる間にこのカメラのことを村田から聞いており、かなり執拗に《研究させて欲しい》と頼んでいた。しかし、一個しかないカメラを破壊されては堪らないので、そのお願いについては村田も拒否し続けていたのだが、今回の尋問に際して《貸して欲しい》との希望に対しては、多少の不安を覚えつつも手渡していた。

「さぁて…ふむ。出てきましたね?」

 ジー…っと音を立てて、小箱から紙切れのようなものが出てくる。アニシナは、ゆっくりとその紙をジーンスナーの前に掲げて見せた。

「…っ!」

 流石に少々驚いた。その紙切れには、ジーンスナーの姿が鏡に映したかのように描き出されていたのだ。魔力の見せた幻影だろうか?
 しかし、顔には努めて驚きを出さずに《それがどうした?》という表情を保ち続ける。

 アニシナもそれ以上口を開かないから、何とも奇妙な沈黙が流れた。

 暫くの間、無言で対峙していた。それは、ジーンスナーが焦れるほどの時間であったのだが、その間アニシナが一度も瞬きをしていないことに気付いた。完全に静止した姿は、まるでこの女の方が映し絵の中に入り込んでしまったかのようだ。
 《この女、一体何を考えているのだ?》居心地の悪さにジーンスナーが身じろいだ時、不意にアニシナは鋏を使って、ちょきちょきとジーンスナーの姿を背景から抜き出すと、精緻な紙人形をス…っと目の前に突きつけた。鏡写しになったような感覚に、少し頭がくらりとする。

 アニシナは…ふぅっと紙人形の右腕を摘んでから、一言呟いた。

「右腕が、上がる」
「……っ!」

 ジーンスナーの右腕が…反射的に持ち上がった。必死で引き寄せようとするのだが、アニシナから《命令があるまでは降ろせない》と言われた途端に頑として動かなくなる。
 
「貴様…な、何をしている…っ!?」
「左腕が、上がる」

 《上げなさい》という命令ではなく、《上がる》という端的な事実提示に、次々と身体が従ってしまう。なんと言うことだろう…如何なる尋問にも耐えられると自負していたジーンスナーは、指一本触れられぬ状態にもかかわらず、易々とアニシナの思い通りになっていた。

「うわ…っ!」

 今度は左腕が上がった。やはり、降ろすことが出来ない。
 そして…アニシナの口がまた動く。

「裸になる」
「ぬ…く……っ…」

 敬虔な教会信徒にとって、他人の前で肌を露出させることは重大なしきたり違反だ。それは重々分かってているのに、両腕が服に掛かるとどんどん脱いでしまう。ついには下着にまで手が掛かった時、これを食い止めたのはジーンスナーの意志力ではなく、ちらりと傍らを見やったアニシナが、《流石に子どもの教育上、粗末なものを見せるわけにはいきません》と呟いた為だった。
 《粗末なもの》扱いされた事に、予想外の傷つき方をしてしまったのも悔しかった。

『何故…何故、この私が…っ!』

 鉄の意志力を持つはずのジーンスナーを手玉に取るとは、何という恐ろしい技であろうか?魔族は大陸では魔力を殆ど使えないと聞いているのに…。この魔女は、王太子と同様に恐るべき魔力を持ち合わせているのだろうか?

「続いて、これを鼻に差してしまう…」

 鉄格子越しに渡されたのは、ちいさな花束であった。愛らしい花束を…この状況下で、鼻に差せと?それは、ある意味では半裸になる以上の屈辱であった。
 しかし…抵抗できない。

 ズボ…

 さっくりと鼻の穴に詰めた花束を、少女と少年が吹き出しそうなのを懸命に我慢しながら見ている様子が、余計に居たたまれない。いっそ大笑いして罵倒された方がマシである。

「も一つおまけに…『ひ…ひでぶっ!』と叫びながら悶絶する」
「ひ…ひでぶ…!」

 ぐね…
 ぐねぐね…ぐね……

 く、屈辱。耐え難い屈辱だ。

 もはや見守る少年少女の顔は真っ赤に染まり、口の端から《ぷ》…《くぷっ》という吹き出す寸前…臨界点を迎えようとしている。
 そのギリギリ感さえもがジーンスナーを追い詰めていた。

『どこまで言いなりになってしまうのだろう…』

 ジーンスナーは恐れた。
 ここまで口を閉ざしてきたことを、恐るべき魔力によってこじ開けられそうな予感がしたのだ。

 その不安に応えるように、アニシナは殊更ゆっくりと口を開いた。

「首謀者の名を、口にしてしまう…」
「う…うううぅう…」

 ぐぐぐ…っと口を閉ざそうとするのに、水色の鮮やかな瞳に射竦められ、自分にそっくりな紙人形の口元にキリリ…と鋏の刃が押し当てられ、ぎゅり…と刃先を抉り込まされると、刃先の動きに乗せてぱくぱくと動く口元に合わせて、ジーンスナーの口が開いた。

 その瞬間、ジーンスナーは自分の心が折られる音を聞いた。

「ヨヒアム・ウィリバルト…」
「シマロン大聖教で、大教主マルコリーニに次ぐ権勢を持つ男ですね?」
「そうだ…」

 後はもう…この女に問われるがまま、知っている限りを口にしてしまう…。

 純粋な恐怖に、ジーンスナーは自分の心が穢れていくのを感じた。もう…天国の扉は彼の為には開かれない。絶望の闇に突き落とされたまま、蕩々と問いに答えていってしまう…。

「それを証明するものはありますか?」
「署名の入った指令書が…ある」
「どこに?」
「……っ」

 必死になって喉を掻きむしろうとするが、紙人形の腕を拘束されるとぴくりとも動けなくなってしまう。
 結局…ジーンスナーは恐れていたとおり、知る限りの秘密を全てアニシナに語ってしまった。

『私は…どうなってしまうのだろうか?』

 ジーンスナーから聞き出せることはもうないと認識すると、アニシナは急に興味を失ったように溜息をつき、ぴらりと紙人形を振ってから、鉄格子越しに手渡してきた。

「あなたの自由は、あなたに戻りました。見苦しいから、服も早く着なさい。」
「……」

 もっと恐ろしいことを想像していたジーンスナーは、咄嗟にどうして良いのか分からなかった。きっと、利用価値が無くなったら処刑されるか、あるいは聖都に戻らされて…家族全員を自らの手で虐殺させられるのではないかと恐れていたのだ。

「私を…これから、どうするつもりだ?」

 声が思った通りに出る。拍子抜けするくらい簡単に、手足も動いた。それでは、掌の中にある、少々草臥れた紙人形は本当に持ち主の意向で動くのだ。見えない誰かに取られることを恐れるように、ジーンスナーは服を着ると慌てて懐に紙人形を入れた。

「小シマロン領カロリア自治区で殺人未遂を行ったのですから、この土地の法によって裁かれるでしょう。具体的な刑は、裁判官から聞きなさい。魔族として必要なことを尋問できた以上、私の方にはもう用はありません」
「王太子を殺そうとしたのに…これ以上何もしないだと?」

 ジーンスナーとしては、素朴な疑問を感じたに過ぎない。だが…アニシナは自分が王太子を軽んじていると言われたように感じたのか、目線で射殺せるくらいの鋭さで、火を噴くような眼差しを叩き込んできた。懐に隠した紙人形が発火しそうな幻想を抱いて、ジーンスナーは《ひっ…!》と身を竦める。

「個人的にしてやりたいことに全ての者が従ってしまったら、この世界は焦土と化します。そうさせない為の法でしょう?」
「法に、従うというのか…」
「そうでなければ、私と同じ空気を吸わせているはずがないでしょう?」

 アニシナはス…と指を上げると、形良い真紅の爪を突きつけてこう宣告した。

「いずれ、あなたは世界が変わりゆくことを知るでしょう。埋没していた狂信の世界から、一歩外界に踏み出してしまったあなたは、もう《神》という精神的庇護の中にはいられないのですからね」
「……っ!」

 そうだ、ジーンスナーは神への誓いを破ってしまったのだ。もう…神は彼を護ってはくれないだろう。

「初めて自分自身の目で見、耳で聞くことで、知りなさい。あなたが犯した罪の重さを。あなたが…傷つけてはならない者に対して罪を為したことを、心から後悔する日が必ず来る」

 紙人形はもう、アニシナの手にはない。
 なのに…何故か、断言口調の言葉はジーンスナーの心に、恐るべき束縛力をもって浸透していったのであった…。

 

*  *  * 




 収容等の外に出た途端、吹き寄せてきた風にグレタは《はふ…》と一息ついた。どうやら、息をするのも殆ど別れかけたままアナシナの《尋問》に集中していたらしい。同行していたバルトンも真っ青な顔をして、アニシナから少し距離を置いている。

「アニシナ…あの人形、凄い力を持ってるんだねぇ…」
 
 稀代の魔導師を見るような気分で少し恐る恐る聞いたのだが、アニシナはけろりとした顔をしてこう言った。

「ああ、あれは単なる暗示です」
「…あんじ?」
「紙人形に束縛力があると信じ込ませて、誘導しただけです。魔力でも法力でも、馬力でも何でもありません」
「でも…あの人、凄い頑固なんだよ!?そんな、思いこみの力くらいで…」
「グレタ、ああいう男だからこそ迷信には弱いものなのですよ。一度《そうなのだ》と信じてしまったら、理性が規制を掛けようとしても止められないのです。狂信者とはそういうものなのですよ」
「凄い…アニシナ!じゃあ、どんな人からでもああやって秘密を聞き出せるの?」
「そうはいきません。今回はたまたま上手くいっただけですし、丁度《右腕が上がる》という最初の提示をする直前に、あの男の右肩がぴくりと動くのを察知できたからです。一度《言われたとおりになる》というすり込みが出来てしまえばどうとでもなりますが、もっと理性的で慎重な者であれば、他の方策が必要になります」
「凄い…っ!」

 おそらく、アニシナが持っていた策はあれだけではなかったのだろう。多くの策の中でその場その場に適合するものを、瞬時に判断できる人なのだ。

「お願い、アニシナ…グレタを弟子にしてっ!」
「弟子?」
「うんっ!グレタは、ユーリの役に立ちたい…っ!アニシナから色んなことを学んで、二度とユーリが傷つけられることがないようにしたいのっ!」
「ふむ…」

 アニシナは華奢な顎を撫でながら少し思案するようだったが、身を屈めると、グレタの合わせた両手を自分の両手で包み込むと、しっかりと握り締めて約束してくれた。

「分かりました。立派な毒女になれるよう、鍛錬に励みなさい?何しろ、このアニシナの弟子になるのですからね。怠慢は赦しませんよ?」
「はいっ!」
「良いお返事です。やはりあなたは見込みがありますよ?」

 にっこりと微笑んだアニシナには、もう魔導師めいた恐ろしさはなかった。



*  *  * 




「さて、バルトン殿。あなたには仕事が出来ましたね」
「は…」

 呆然としていたバルトンはアニシナの声で我に返った。

「何を惚けているのですか?」
「申し訳ありません…」

 呆れたように責められると、バルトンは慌てて思索を再開させた。
 そうだ、バルトンはアニシナによってマルコリーニの対抗者であるウィリバルトが王太子暗殺を企てた首謀者であるとの確証を得たのだ。証拠の品である指令書がどこまでウィリバルトを追い詰められるのか、そもそも教義の中で《悪》と断じている魔族を殺そうとした事を、罪として認定できるのかどうかは分からないが、何らかの手を打たねばならないだろう。

 そこまで考えて、はたと気付いた。

『そうか…』

 今まで漠然と考えていたことだが、根本的に、バルトンは大聖教の教義そのものと戦わねばならないのだ。ウェラー王家がシマロン一族に滅ぼされたその時から百年以上に渡って、《魔族は神の敵》と断定されてきた。そこをまずどうにかしないことには、フリンに啖呵を切ったような《再び暗殺を起こさせない》なんてことは出来ないのだ。再発防止の前に、罪だと認定すら出来ないようでは話にならない。

「分かりました。すぐに聖都へと戻り、眞魔国を…魔族を、我々と対等な国家、種族として認定できるよう、尽力します」

 自分で口にしておいて何だが、それは途方もない妄想のようにも思えた。元々魔族に対する抵抗感が比較的少ないバルトンですら、直接触れ合うまでは誤解も多く持っていたのだ。それが、聖都の中で教義と権力にしがみついている連中を説得することが出来るのだろうか?

『マルコリーニ様がおられる。いや…まずは、私がいるではないか』

 今、大聖教を信奉する者の中でバルトンほど蒙昧を解かれて、魔族の真実を認識している者はおるまい。そうであれば誰に縋るのでもなく、まずはバルトン自身が立たねばならないのだ。

 少なくとも好悪の感情はともかくとして、《禁忌の箱》のもたらす絶望から世界を救う為には、あの王太子殿下の力が必要なのだと認識させられないようではどうにもならない。

「やります…私は、何としてもやる…っ!」

 己を奮い立たせるバルトンに、アニシナは《本当に?》等と水を差したりはしなかった。

 ただ一言、こう告げたのだった。

「信じるところを、為しなさい」
「はいっ!」
 
 教師に対する真面目な生徒のように…あるいは、上官に対する忠実な部下のようにバルトンは声を上げた。ただ、グレタを目にすると少々心残りがあることにも気付いた。

「そうだ…。スヴェレラにも行くつもりでいたのだが…」
「いいや。バルトンさん、聖都に行く方が先だよ」

 この時、ずっと黙ったまま状況を見守っていた村田が、静かに指摘をした。その表情には、正確な状況把握があるようだった。
 アニシナもまた村田と同様の結論に達したようで、きっぱりと断言した。

「猊下の仰る通りです。バルトン殿、あながまず向かうべきは聖都です」
「そう…バルトンさん、あなたがまず為すべき事は、大聖教会に於ける規準を変えることなんだよ」
「そ…そうですな…」

 バルトンが同行できれば、教会側は表だっては荒っぽい手段に出ることはしないだろうという予測は、あくまでもマルコリーニ・ピアザという希有な人物がウィリバルトを押さえていればという前提に過ぎない。
 こちらの《規準》から言えば明確な犯罪行為である暗殺も、魔族を《悪》とする《規準》が通るのなら正義の行為と認定されるおそれがあるからだ。
 
 そうなれば、現在バルトンが魔族と親しく行動している行為自体がマルコリーニの立場を危うくするかも知れないし、スヴェレラに於いて力を持つとされるウィリバルト派は、バルトンがいようがいまいが強攻策に出るかも知れない。

 そうさせない為の第一は、なんと言っても《禁忌の箱》を無効化できるのが有利だけなのだという事実を強くアピールして大聖教会の《規準》を変えてしまうことだ。

 おそらく村田はそのことに気付いてはいたのだろう。だが、彼の口から申し出ることは出来なかった。
 非常に不利な闘いである以上、バルトン自身が自発的に決断しなければならないことであったのだ。魔族に指示されてどうこうできる問題ではないのだから。

「分かりました。王太子殿下や領主殿に御挨拶を済ませたら、今日の内に旅立ちましょう」
 
 ひらりと衣の裾を払い、バルトンは駆け出していく。
 恐れも不安も当然あるが、それ以上に燃えたつものを抱きながらバルトンは走った。

 今、自分が歴史の分岐点に立っていることを漠然と認識しながら…。




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