第2部 第19話 『なんで…?』 呆然として、サラレギーは目の前の光景に見入っていた。 《法石がないと治癒は出来ない》そう言っていたはずのベリエスが、明らかに法石を持たずに治癒の力を発揮している。それに…この髪の変化は一体なんだというのだろう? 髪だけではなく、淡い燐光を白い肌から浮き上がらせているベリエスは、回り込んで見てみると瞳の色までが金色に変化しつつあった。 「ベリエス、お前…」 「お叱りは後で受けます。今は…あなたの御友人を救うことに集中致します」 《お叱り》…何故、叱らなくてはならないのか? つまりは、この男がずっと…サラレギーに嘘をついていたと言うことなのだろうか? その事に気を取られて、《御友人》という単語に引っかかっているような余裕はなかった。 『この男は…人間ではない。僕なんかよりずっと強い法力を持った、聖砂国の神族だ…』 だが、どうしてこれまで一度もその事をサラレギーに明かそうとしなかったのだろう?聖砂国と小シマロンは別に敵対しているわけではない。父はかつて難破した際に聖砂国へと流れ着き、そこで女王アラゾンと深い仲になった。だが、互いの国から離れることの出来なかった二人は正式に婚姻を果たすことはなく、父は聖砂国の船員が操作する船舶で小シマロンへと帰還した。その後に、サラレギーが生まれたのだ。 サラレギーはもともと法力が小さいと判定されており、3歳になるとアラゾンは《養育義務は果たした》と言わんばかりにサラレギーを追放した。もっと家柄の優れた男と結婚して、優秀な法力を持った王子が欲しかったに違いない。 父からアラゾンへと贈られた指輪をサラレギーに持たせたのも、身分を証明すると言うよりは、人間世界と完全に縁を切りたかったのだろう。 「く…ぅう……っ!」 ベリエスが全身を発光させるようにして法力をふるっている。これは…生半可な力ではない。おそらく、ベリエスは王家の血筋を引いているに違いない。サラレギーが幼い頃からあまり見かけが変わっていなかったのも、単に若作りだからとかそういうことではなかったのだ。魔族ほどではないが、神族も強い法力を持つ者…特に王家の正統な血筋では長い寿命と若さを誇るからだ。 普通通りに成長している混血のサラレギーとは違って、ベリエスは純粋な神族なのだ。 正直、腹も立った。唯一信頼していたからこそ、本人が口にしなければこれまでの出自など詳しく調べなくても良いと思っていたのに、こんな大きな秘密を持っていたのかと思うと何だか悔しい。 しかし今は、それ以上に不安なことがあった。 有利の負った重傷は、いかな純血神族とはいえどそう簡単に治せるようなものではなさそうだということだ。 「く…ぅ……っ…」 箪笥の角に足の小指をぶつけてもそのままサクサク歩く男が、額から夥しい脂汗を噴きだして苦鳴をあげている。どれほどの苦痛が全身を襲っているか予測が付いた。 法石として凝固したものを使うのならともかく、法力を直接使う場合は身体に大きな負担が掛かる。使いすぎた場合は魔力の酷使と同様の結果…つまりは、死の転帰を辿ることもあるのだ。 「ベリエス…」 「もう少しです。どうか、ご安心を…」 本当なら、労いの言葉を掛けたりした方が良いのかも知れないのだが、有利とベリエスの命を天秤に掛けるようで…怖くて出来なかった。だから代わりに、命令を下した。 「死なせるな」 「はい…」 ぽた…と、ベリエスの額から滴る汗が有利に落ちていく。その様子はまるで、全身に含まれる全ての生気を与えようとしているかに見えた。 全ては、サラレギーの命令に応える為にしていることだ。 「お前も死んではならない」 「…はい」 「お前は…私に生涯仕えると誓っただろう?」 「はい」 ベリエスの返事に小さく頷く。 今はこれで良い。この男が何者なのだとしても、サラレギーに仕える気持ちがまことでありさえすればそれで良い…。 『だから…生きろ』 ベリエスの背中にしがみついて頬を擦りつけていたサラレギーは、その身体がぐらりと傾いだ時にも何とか支えようと試みた。しかし、痩せ形とはいえ体躯に優れた長身の男を支えきるには、サラレギーはあまりにも繊弱に過ぎた。 「ベリエス…っ!」 「申し訳…」 微かな声音を残して倒れていくベリエスは、大地に叩きつけられる寸前で小シマロン兵に支えられた。首筋に当てた指先は弱いながらも規則正しい脈を計ったから、生命に異常はないだろう。 だが…そこまでの力を注ぎ込まれながら、有利の頬に生気は戻らなかった。 * * * 『ユーリ、ユーリ…ユーリ……っ』 一縷の望みを託していたベリエスが倒れた時、もうそこには有利の治癒が出来る者は残されていなかった。既に魔力が枯渇しているギーゼラはとっくに昏倒しており、ベリエスが治癒を行っている間に意識は回復したものの、とても魔力を使えるような状態ではない。 『どうして俺は…純血じゃないんだ』 『どうして今、左腕を持っていなかったんだ…!』 腕を失ったコンラートの為に有利が沢山泣いてくれたから、もう十分だと思っていたのに。まさか…腕を失った途端に、こんな皮肉な形で肉体の不備を思い知らされるとは…! 『君に俺の持つ全てをあげたいのに、どうして心臓を抉っても君を救うことにはならないのだろう?』 そうすれば有利が命長らえるというのなら、今すぐにでもそうできるというのに。 何故何故何故…どうして、こんなに無力なのだろうか? 『俺の命の全てを、君にあげたいのに…っ!』 風が逆巻く。 コンラートの感情の乱れを体現するように、囂々と唸りを上げて風が吹く。 不意に声が響いたのは、その時だった。 『フォンウェラー卿、力を貸せ…っ!』 覚えのある声が上様のものだと気付くまでに、一秒かかった。 『え?』 『ふむ…やっと通じたな。大賢者も聞こえたか?』 『上様…っ!』 横から村田の声も混じってくるが、彼が声を発していないのは横目で確認できる。村田は微かながら持ち合わせた治癒の力を、やはり極限まで使おうとして有利の傍に横たわるようにしていたのだ。 どうやら声は、直接頭蓋内に伝わってくるらしい。 『なんとしてもユーリを救わねばならんが、俺は治癒をやったことがない。俺の基礎になった連中も、自分に対しては使ったことがないようだしな。魔力はあれど、どういう回路を使って良いか分からないのだ。協力しろ。』 必死な語調のわりに時代劇がかった声が、希望の光をちらつかせている。まさか…本当に、コンラートにも何かできるというのだろうか? 『俺に出来ることなら、腕でも胸でも命でも持って行って頂きたい…っ!』 『いらん』 無碍に断られた。 『魔力自体は俺がたんまりと持っているし、お前の部品をこれ以上奪うと有利に泣かれる。俺は有利の涙には弱いのだ。番長が女委員長の涙とお願いに弱いのと同じ法則だ』 どんな法則だ。 『そこでだ、フォンウェラー卿。取りあえず有利に今すぐ口吻をするが良い。唇に、濃厚に、ぶちゅー!っとだ』 嫌な表現をしないで頂きたい。 …というか、そんな嬉し恥ずかしい方法で本当にどうにかなるのか。 『僕も渋谷にキスして良いの?』 『お前は蜜柑頭の筋肉マッチョと懇ろなのではないのか?浮気はいかんぞ浮気は』 『そういうんじゃ…!…つか、今それどころじゃないしっ!!』 村田の意識が危うく遠のきかけた。 希望を与えてくれるのと同時に、致命打まで与えてくれそうなお方だ。 『大賢者よ、お前は有利の手を握っているのだ。ある程度フォンウェラー卿と俺の力で回路が完成したら、そこに同調するがよい』 『回路を作るって…』 『魔力をフォンウェラー卿の体内に流し込んで、それを有利に戻す』 『…っ!正気…!?』 確かに上様の膨大な魔力を注ぎ込まれれば、下手をするとコンラートの肉体か精神が破損してしまうかも知れない。だが、そういうド根性を試されるような治療法は、体育会系のコンラートにとっては願ったり叶ったりである。 『是非お願いします…っ!』 治癒を行えないはずの混血のこの身が、有利の為に使えるのであればこれ以上の喜びはない。 覚悟を決めたコンラートは、観衆が見守るなか有利に深い口吻を送った。 おそらくは殆どの者がこれを、死を目前にした恋人に対する別れと見たろうが、実情は…命を救う為に闘いのゴングを鳴らしたに等しかった。 * * * 『ユーリ…』 遠くで声がする。 身体が熱くなったり寒くなったりして随分と慌ただしいのだが、その声はとても懐かしくてぴくりと反応する。きっと、自分に猫のような耳と尻尾があれば《ぴぃん!》と立たせていたに違いない。 『コンラッド?どこにいるの?あんたってば、いつも傍にいるって言ったくせにどこに行ってんだよ〜』 『ゴメンね、ユーリ…目を離している間に怖い目に遭わせて』 『いや、別に怖かった訳じゃあ…』 『そう?』 『…………嘘デス。寂しかったし、怖かったよ』 『そう…ゴメンね?』 『あ…あ、でも…今は平気!あんたがいてくれるからね』 『そう』 声が弾んだから、有利まで嬉しくなった。 気が付くと、コンラートは思いがけないほど傍にいて…唇にキスをしていた。えらく濃厚で…少し息が苦しい。 『はふ…ちょ、あんた…がっつき過ぎ…』 『君が欲しすぎて、深く交わりたくてしょうがない』 『あんた、最近エロ過ぎ…』 くすくすと笑いながらキスを享受していると、どんどん息苦しさが強くなってきた。正直、死にそうに苦しい。何故だろう? 『ちょ…マジ苦しい…』 『ゴメンね…お願い、もう少しだけ我慢していて?』 『あんたが言うなら…頑張る』 角度を変えて何度もかわされるキスは、次第に苦しさを増していく。 いや…その苦しさは実のところ、自分自身の胸にあるのだと気付いた時には、それは激痛に変わっていた。 『うっわ…痛い…いた…いたたたたた…ま、マジ痛いっ!胸に棒挿されてぐりぐりされてる級に…っ!』 それが比喩ではなく現実であることを知るのは、少し後のことになる。 『ゴメンね…』 コンラートの声が掠れて…泣き声混じりになっているのだと気付いたら、これは何としても踏ん張らねばならないと思った。だってコンラートとのキスは好きなのに、この苦しいのに耐えなければ二度とキスをしてくれなくなるかも知れない。 『ふんぎぎぎ…』 『そうだ、頑張れ…ユーリ!』 『へいへーい、あんたの為ならエンヤコラだよ…っ!』 『頼もしいな…本当に君は、強い子だ…』 『子ども呼ばわりすんなっ!』 以前にも交わしたような会話だと思いながら、有利は痛みに耐えて…突然、放り出されるようにして意識状態の変化を悟った。 * * * 「矢が抜けた…っ!」 「呼吸、血圧…急速に回復中…!」 「凄い…なんて回復だ…っ!」 は… ふ…… 浅く速い息は重傷者のようだと気付いたが、それが自分自身のものだと気付くまでには少し時間が掛かった。おまけに周りの様子も分からない。先程までに比べると明るいような気はするのだが、みんな陰影が朧気で、目を開けてすぐの焦点の定まらない状態がずっと続いているように感じられる。 「ユーリ…っ!」 ああ、この声は分かる。コンラートだ。 死にそうな声を出して、一体どうしたのだろう? 「…っ!」 背中に何かが押し当てられる感覚に激痛を覚え、実は死にかけているのは自分なのだと漸く気付いた。 『そういえば…グレタと喋ってる時に、背中に何かぶつけられたような感覚がして…』 その感覚は、背中から胸を貫くような勢いだった。思い返すと、喜色悪さにぶるる…っと背筋が震える。 それにしても困った。どうしてまだ周りが見えないんだろうか?自分の身体や周囲がどうなっているのか知りたいのに…と、有利は頭を捻った。 「コン…」 『良い、喋らなくて良いんだ…』 コンラートは一体どうやっているのか、直接頭に話しかけてくるので、有利はほっとして同じ要領で返事をした。正直、息苦しすぎてとても声が出せないのだ。…というか、唇を塞がれているし……。 『一体なにがあったんだろう?』 『君は…矢で射られたんだよ』 『え?マジ?』 『そう、マジで…』 コンラートの声は泣き出しそうなものだった。素っ頓狂で緊張感に欠けた有利の反応が、いつも通りで嬉しかったらしい。 『あのさ、グレタのこと見てやって。きっと…目の前で人が撃たれたとこなんて見たんなら、凄いショック受けてると思うんだ…』 『ここにいます。声を出さなくて良いから、手を握ってあげて?』 『うん』 懸命に右手に力を込めると、小さな両手が一生懸命に握り替えしてきた。有利の手にはその他にもたくさんの手が繋がっていて、これが命を繋いでくれたのではないかと朧気に感じた。 『ところで…コンラッド?』 『なに?』 『あのぅ…口になんか感じるんですケド…』 先程から気になっていることを問うてみたが、返答はさっくりとしたものだった。 『ああ、キスしてるのは俺だから安心して?』 『や、安心はできるけど…なんでキス?』 『深くて長い事情があるなんだけど、それは後々説明するよ』 『知りたいような知りたくないような…』 確かここは領主館の中庭で、相当な賑わいであったはずなのだが…そこで深々とキスをしているホモっぷるに周りはドン引きなのでは無かろうか?いや、いきなり矢で撃たれているだけでも十分どんでん引きか。 《矢負い王太子》…嫌な渾名を付けられそうだ。 『今はあまり深く考えないで。こうして戻ってこれたことを感謝していればいいから』 『うん…』 コンラート以外にキスをされている訳ではないのだから、一時受け流してしまっても良いことだろう。 * * * ヨザックは有利が射られた直後に射手の自決を防ぐと、すぐ部下に指示して命じた者の背景を調べさせたが、まだ報告は入っていない。フリンからその場で聴取して分かっているのは、その男が正式に通行証を持ってカロリア入りしたスヴェレラ商人だということだけだ。…が、商いを生業にしているとは到底思えなかった。 スヴェレラは大陸の中でも特に魔族蔑視が強いことで有名だが、それにしたってこの男とて《風の終わり》を昇華させた有利を間近で見ているはずである。幾らか思うところは残るにしても、一般人に至近距離から死兵覚悟で暗殺してくるだけの憎しみがあったとは思えない。 だとすれば、これは事前に重々に言い渡されていた任務である可能性が高い。実行後は即自決できるよう、奥歯に仕込んでいた被膜付きの劇薬錠剤と、手首に仕込んだナイフで喉を掻ききろうとした行動もこれを証明している。至近距離とはいえ見事に心臓を射抜いた腕前といい、どう考えてもプロの仕事だ。それも金銭的な職業暗殺者ではなく、狂信集団の香りがする。 指示をした者は大シマロンか…あるいは、他に残る《禁忌の箱》を所持する国の仕業か。 『何か証拠が無いと、特定は難しいな』 一つの手がかりは、犯行に用いられた弓と矢の鑑定である。弓は小型でありながら殺傷力を高める為に加工が為された特殊なもので、懐に隠し持っていたらしい。 そして今、どうにか息を吹き返した有利から引き抜かれた矢…。この矢羽の材質からもある程度地域が特定できるかも知れない。 そう思って手を伸ばそうとしたのだが、ふらふらと立ち上がった疲労困憊気味の村田が、震える手でそれを手に取った。そして…《くん》と鼻を鏃に近寄せたり、光に翳したりしている内に形相が凶暴に変化していった。 犯行者も、命じた者も…まとめて喉笛を噛み裂いてやりたい。 そんな顔だ。 「そこまで…渋谷が憎いのか…っ!」 吐き捨てるような声を上げて、村田はヨザックの腕にしがみついた。 「お姫様抱っこでも何でも良いから、僕を運んでくれ。それから、渋谷を射た男の持ち物を一切合切持ってこさせるんだ」 「へい!」 村田の疑念に察したがついた途端、ヨザックの背筋が震えた。 「フリンさん、あなたにもお願いしたい。研究室を見せてくれないかな?」 「研究室?」 「宝物庫か保管庫か…名前はどうでも良いから、この館に数千年に渡って伝わる《遺産》を見せて欲しい。それから、毒物の抽出装置がある?なければ早急に買ってくれ」 「…っ!は、はい…っ!あります…っ!」 フリンはさっと顔色を変えると、すぐさま村田とヨザックを案内していく。その後を追いながら、ヨザックは一息つきかけていた胸が再び捻られるのを感じた。 ギルビット家に伝わる《遺産》といえば、全ての毒に通じていたというウィンコット家の記録書ではないのか。 「猊下…鏃に、毒が使われていたんですか?」 「…可能性が高い」 先程、村田が叫んだのと同じ事を…ヨザックも叫びたかった。 |