第2部 第17話 『この方は、腕を失うことを覚悟しておられたのか…?』 風が収まり、辺りの気配が一変したことを確認したハインツ・バーデスは、呆然としてコンラートを見つめた。 《ある男の左腕》が鍵だとは聞いていたが…まさか、箱が昇華されると共に失われてしまうとは想像していなかった。彼らの話に横で聞き耳を立てていると、どうやら《地の果て》開放実験の折にコンラートの元の腕は引き千切られてしまったらしく、何らかの方法で得た真の鍵は随分と昔の物であったことから、《風の終わり》が失われると同時にミイラ化してしまったらしい。 しかもコンラートは、《風の終わり》を昇華することで腕が失われる可能性を事前に認識していたようなのだ。 それでもなお惑うことなく昇華を選択したその心意気に、ハインツは跪きたいような衝動を覚えていた。 『ここに、尊崇に値する男がいる』 感嘆に震えるハインツは、熱くコンラートを見つめていた。 かつて人間世界に君臨したウェラー王家の末裔…その始祖は眞王と共に創主と闘った英雄である。 その尊き血筋を体現したような存在感に、ハインツは殆ど無意識の内に頭を垂れていた。 「フォンウェラー卿コンラート殿、いや…」 ハインツは振り向いたコンラートに向かって、居住まいを正した。 「コンラート陛下、どうか…我が主君をお呼びしても宜しいか」 周囲の人々の目が、点になった。 * * * 「…どういう意味だろうか?」 コンラートの眼差しが微かな警戒を示して眇められると、ハインツ・バーデスと名乗った男は怯んだように口元を強張らせた。人を騙してどうこうするには、真面目すぎる気質に見えるが…さりとて、大シマロン宮廷に仕える者の言葉を鵜呑みにするわけにも行かない。 「《風の終わり》の在処について助言を頂いたことについては感謝している。だが、君に主君呼ばわりされる謂われはない」 「あー、勝利さんを《お義兄さん》呼ばわりしたときに言われた台詞と同じだね」 「猊下、茶々混ぜないで下さい」 緊張感を解そうとしているのか破壊しようとしているのか知れないが、よく分からない介入をしてきた双黒の大賢者を軽く窘める。 「私は…かつてウェラー王家に仕えておりましたバーデス家の者です。本来の主に立ち返りたいのです。もう…非道なベラールの手足として働くことは耐えられません…!」 「眞魔国の臣下として働くと?」 「い…いいえ、そうではなく…コンラート様に、大シマロンの王として立って頂きたいのです…!」 ハインツの言葉にぴくりとサラレギーの眉が跳ねる。聞き捨てならない台詞を耳障りに感じたのだろう。 「へぇ…君の頭蓋内では、随分と甘い夢が繰り広げられているようだね?」 「サラレギー陛下もどうかこの場は介入なされませんよう、お願いします」 コンラートの言葉に引き下がりはしたものの、サラレギーは彼らしくもなく、苛立っていることを隠しもせずに皮肉げな表情を浮かべていた。 「…聞かせては貰うよ。大シマロンの裏切り者が何を考えているのか、小シマロン王としてはとても気になるところだもの」 《裏切り者》という言葉にハインツの拳が握られたが、否定する要素はないことも自覚しているのだろう。意識的に拳を解いた。 しかし若さ故の高揚というものは始末に負えないものである。小シマロン王、そして眞魔国の王太子の前で正々堂々(?)勧誘するという行為を、ハインツは途中で止める気はないようだ。 裏表のない人物なのだろうが…良くこの性格で大シマロン宮廷を渡ってきたものである。 「コンラート様…いえ、陛下…」 「そのような敬称で呼ぶべきではないよ。俺はフォンウェラー卿コンラート。ユーリ王太子殿下にお仕えする一臣下であり、それ以上でも以下でもない」 村田が口笛を吹いて《クワ○ロ・バジーナ大尉キターっ!》と叫んでいたが、意味はよく分からない。どこかの軍人の名言だったのだろうか? 「しかし、あなたの御身には尊き血筋が…!」 「その尊き血筋とやらは、臣下の反乱を受けて滅ぼされた血筋でもある」 内容は切り捨てるようなものであったが、ついつい声音は優しく窘めるようなものになってしまう。コンラートとしては立ち位置を明確にするしかないが、血統を無条件に崇拝する心境は分からないではない。 だが、気付いて欲しいのだ。 ベラールに忠誠を捧げられないハインツが、短絡的にコンラートを《現状を打開してくれる人》として縋っているだけでは、人の心を動かすことなど到底出来ないのだと言うことに。 それだけでは、とても《忠誠》とは呼べないのだと…。 「そ…そのような…」 「事実だ。だが、その事で俺は自分の血筋を《負け犬の家系》だとは思っていない。それは歴史の中で幾度と無く繰り返された、王国興亡の経過を辿ったに過ぎないからだ。俺は、ある面ではウェラーの血筋を誇りにしている」 コンラートは決して、自分の口にしていることが強がりなどではなく…間違いなく確信していることなのだと知らせるように微笑んだ。 「…我が父も、祖父もまた…己の運命を嘆いて自暴自棄になることなく、置かれた立場の中で最善を尽くしてきた。その事を、俺は心から誇りに思う」 コンラートはそう言うと、真っ青になって唇を戦慄かせているハインツの肩を残された右手でしっかりと掴み、目元を見つめた。 「君が誇りをもって生き行く為に俺に仕えようと思うのなら、眞魔国においで」 「私は…っ!」 「故郷たる大シマロンを捨てられないのであれば、そこで立て。例え道が果てしなく、可能性の糸口も掴めないのだとしても…君には、信頼できる仲間がいるはずだ」 言われて初めて、ハインツは周囲を眺めた。一体どうなることかと固唾を呑んで見守っていた連中に、今やっと気付いたと言いたげに。 「……申し訳…ありません。興奮のあまり、前後の見境を無くしていたようです」 「若い頃には、良くあることだよ」 コンラートはしょんぼりと肩を落としたハインツに悪戯っぽく笑いかける。唐突な申し出ではあったが、コンラートはこういう直進方向に大真面目な男が嫌いではない。 「いつか、君と我々の道が交わることもあるだろう。その時には、大シマロンとの間にも平和的な結びつきが為されていることを祈るよ」 「は…はいっ!」 ハインツは背筋をぴぃんと伸ばすと、真摯な眼差しでコンラートの右手を両の掌で包み込んだ。 「お約束します。いつか…いつか、必ず…一回りも二回りも大きくなって、あなたに相まみえますことを…!」 「期待しているよ」 悠然と微笑むコンラートに、ハインツは暫くの間うっとりと見惚れていた。 一方、コンラートの方はさり気なく後ろ手に、有利へと右手を伸ばして握りしめている。そうしたいように見えたからだ。 案の定、きゅう…っと握りかえされた手は温かく、力強いものだった。 『俺の未来は全て、君と共にあるんだよ…』 有利が望む未来のために、コンラートは国を問わず人々を魅了していく意義を感じていた。 * * * 柔らかな風に吹かれながら、人々は舞台を再構築していった。今夜は怪我人を応急の天幕に入れて治療しているが、幸いにして死人や重傷者は出なかったことから、明日の夜に第二部を繰り下げて披露することになったのである。 翌朝になると人々は強風によって破損した建物の修復も始めたのだが…この時、驚くべき状況が分かった。 なんと《風の終わり》を昇華するに当たってエリオル達、土の要素使いが共鳴したせいだろうか?ギルビット港修復に当たって最大の難関となっていた、地底構造が改善されていたのである。つまり、海底で屹立していた岩石が沈下したことで、大型艦船が停泊できるだけの水深を確保できるようになったのだ。 勿論、港に亀裂の入っている今のままではまだ大規模な乗り入れは難しいが、これは地上にある分、修復は十分に可能である。 『ギルビット港が、蘇るぞ…っ!!』 《風の終わり》が昇華されるという、一般庶民には認識しにくい事態以上に、このことはカロリアの民を感激させた。 * * * 「あ、コンラート様だ!」 「双黒の王太子殿下もいらっしゃるわ…!」 駆け寄ってきた子ども達が、手に手に持っていたちいさな花を捧げる。今朝目覚めた子ども達は、久方ぶりにすっきりと晴れ上がった空のもと、寒気を押しのけて咲く花々を発見していた。それを、ささやかながら感謝の印として有利たちに捧げようと言うのである。 「ありがとう」 「どうもありがとう、嬉しいよ」 花を受け取るのもこれで一体何度目だろう?有利たちはいつの間にか籠のようなものまで持たされ、いっぱいの花を抱えていた。けれど、その度に嬉しいのは間違いなくて、にこにこと浮かべる微笑みは、決して社交辞令などではなかった。 ただ…子ども達の瞳がコンラートの左腕を掠めるたび、痛ましそうに眇められるのが有利にとってはまだ辛かった。 「ユーリ、すぐに慣れるよ」 「おれをなぐさめないでよ…しんどいの、あんたの方なのに…」 「18歳になった君を抱くときに、片腕だと少し不便かな…と、心配な程度だよ。それに、君を抱く時に祖父の指が触れてしまう可能性は無くなったわけだし、逆に良かったのかな…とも思ったり」 「あ、あんたなぁ…」 子ども達の姿が見えなくなるなり、そっと色っぽい話題を振ってくるコンラートに、意図を分かっていながら頬が染まってしまう。 「その時にはよろしくね、ユーリ。君が上に乗ってくれれば、色々と頑張れ…」 「がんばるからっ!今はいわなくていいよっ!!」 ぱしんと痛くない平手を打ち付けて、有利は大股に歩いていく。 果たして、それが眞魔国の古式ゆかしき求婚方法だと知ってやっているのだろうか? 取りあえず、見ていて恥ずかしいくらいのいちゃつきぶりであることは、いつも通り本人達に自覚はない。 しかし、コンラートの方は常に周囲へと気を配っている。この時も、二人に近寄ってくる男の姿をすぐに捉えて対応した。 * * * 「初めまして、私はバルトン・ピアザという者です。《大地の果て》に続き、《風の終わり》を昇華された英雄に、少々お話を伺っても宜しいか?」 「えいゆうとか、そういうのじゃないよ」 「十分に、英雄たる資格がおありですよ」 あどけない口ぶりに、つい口元が緩んでしまう。 どうもいけない…この王太子殿下やルッテンベルクの獅子が一体どういう人物なのかを探りに来たというのに、可愛らしい容姿に絆されていては正確な判断が出来なくなりそうだ。 「どうでしょう?あちらの茶店で串焼きでも食べながら、ゆっくりお話できませんか?」 「ちょうどおなかすいてた。うれしい」 ああ…にこっと笑うと花が綻ぶように可愛らしい。 益々バルトンの目尻は下がってしまうが、対照的にコンラートの眦が釣り上がっていくのは気のせいだろうか? 『ふ…不埒なことを考えているわけでは…っ!』 全力で言い訳したくなるがそんなことをすれば余計に疑われそうで、バルトンは少々ぎこちなく笑うと茶店に向かった。 なかなかの健啖家らしい王太子は次々に串焼きを頬張ると、更に振る舞われた焼きむすびも美味しそうに食べている。見ていて気持ちいいような食べっぷりだ。 コンラートも淡々と食べているが、こちらは意外と小食な性質…というわけではなく、何時如何なる時にも戦闘に入れるように意識を配る習慣が身に付いているに違いない。 『確かに一山越えたとはいえ、大シマロンがこのまま引き下がるかどうかは分からない』 《風の終わり》が昇華されたとはいえ、まだ獅子と王太子はこのカロリアにいるのだ。鍵として機能しなくなった獅子はともかくとして、《禁忌の箱》を無力化してしまう王太子の存在はいや増して重要になってきた。 大シマロンにとっては手に入れることが最も望ましいだろうが、それが叶わないとなれば…殺害を狙ってくる可能性もある。 会話を重ねれば重ねるほど、バルトンはこのあどけない少年と獅子の気質に感嘆していった。想像していたような魔族の概念を覆し、極めて尊い平和思想の持ち主であることが感じられたからだ。 『聖都の奥で蠢いている連中に比べて、なんと清らかなことだろう?』 聖職者とは名ばかりの、美々しい衣を被った獣たちのことをバルトンは心から唾棄している。ことに、バルトンの親友を今なお苛み続けている邪悪な男…ヨヒアム・ウィリバルトはその最たるものである。 親友…現在、聖騎士団の部隊長を務めているソアラ・オードイルは幼少の頃、数年に渡ってウィリバルトの肉奴隷として無体な扱いを受けていた。オードイルは性を売る仕事を生業としていたわけではない。純真な信仰者として礼拝に参列していた彼を見初めたウィリバルトによって、半強制的に《稚児》として召し抱えられ…口に出すのもおぞましい扱いを受けてきたのだ。 そのことをバルトンが知ったのは、口さがない宮廷雀たちの噂話からだった。オードイルが成長して聖騎士になってからはウィリバルトの寵愛を逃れていたものの、こういった醜聞は宮廷でそうそう忘れられるものではないらしい。 『私、お酒をお持ちした時に…オードイル様がウィリバルト様に抱かれているシーンを見せつけられたのよ?あの方はまだ幼くて…ぼろぼろ泣いておられて、とても可哀想だったわ…。なのに、ウィリバルト様ときたら、それはそれは口に出すのも恥ずかしいような隠語を連発して、辱めておられたのよ?』 救いもせず、忘れてやることすらせず…あろうことか、噂の種にまでしているくせに、年嵩の侍女は如何にも《お気の毒》だと言いたげな口調で仲間に語っていた。 甲高い声がバルトンの耳に入ったことを認識したときの、オードイルの硬直した顔が忘れられない。何と言っていいのか分からなくて、結局何も聞かなかったふりをしていたバルトンを、彼はどう思っているだろう?変わらず彼を親友だと思っているのだが…バルトンのこともそう思っていてくれるかどうか自信が無かった。 『眞魔国では、そのような横暴は許されていないのだろうか?』 とても聞けるようなことではなかったが、きっと、無いのではないかと思った。万が一あったとしても、そのような者は犯罪者として正しく法の裁きを受けるのではないか…勝手な想像だが、バルトンにはそう感じられた。 『この連中と話をするのは、とても気持ちいい…』 爽やかな風に吹かれながら、バルトンは満足げな笑みを浮かべた。 「あ、コンラッド…ちょっとトイレかりてくる」 「うん。気を付けてね」 目線で他の警備の者に知らせると、コンラートは有利には付いていかずその場に残った。何よりも有利の警備を最優先させると聞いている彼としては意外な判断だ。 少し不思議に思っていると、じり…っと近寄ってきたコンラートが小声で語りかけてきた。 「バルトン、君は教会の中でどういう地位にある?今回は何が目的でカロリアに来たのか、教えて貰えるだろうか?」 「…っ!」 バルトンは教会の者であることを示す法衣など纏っていない。ごく一般的な旅装をしているから、カロリアの民ではないと思われたとしても、まさか教会の者だと気付かれるとは思わなかった。 「…フリン殿に聞いたのか?」 門扉で身分証明をする前に、白鳩便でフリンに口利きを頼んだ。もしかすると彼女から伝わったのかも知れない。そう思ったのだが、コンラートは首を否定の形に振った。 「いや、昨夜…君がふるっていた六節棍で推測した。伊達で見せつける奴はいるが、使いこなせているのは教会内の一部族にしかいない筈だ」 「…よく知っていることだ」 「百年も生きれば色々と…な」 「ふぅん…そうか。魔族とは…そういう種族だったな。会話をしていたらごく普通の気持ちの良い青年のようだったから、すっかり失念していた」 素直に驚いて頭を掻くと、コンラートはくすりと笑ったが、それは馬鹿にしたような表情ではなかった。 「俺もあんたから嫌な印象は受けなかった。教会には珍しい気質と言われないか?」 「お恥ずかしながら…」 自嘲しているのか、自分の所属している組織を恥じているのか微妙な表現になってしまった。 「私が尊崇する大教主猊下は、私以上に教会には珍しいお方だよ」 思い切って義父マルコリーニ・ピアザの話を出すと、コンラートは興味深げに相づちを打った。 「ほう?」 「教会の他の連中に知られると色々と都合が悪いんだがね…猊下は教会内の古文書を研究していく内に、《禁忌の箱》がとても人間に使いこなせるものではないと認識して、大シマロン王ベラールに忠告にも行かれたのだよ」 「本当か…!?」 「ああ、勿論却下されたがね」 「よく首が飛ばなかったものだ…」 コンラートは大教主とは言っても大シマロンお抱えの組織の長に過ぎず、国王の心づもり一つで容易に首が飛ぶことも認識しているらしい。 「実に不安定ながら、時流の波にどうにかこうにか乗っているのでね。ただ…勿論絶大な主力派というわけじゃない。不祥事を連発しながらも、気が付くと権勢を蘇らせている男が虎視眈々と狙っているしね」 「…その不安定な座にある聖職者殿が、一体何を知ろうとしているんだ?」 「君たちが信頼に足る人物かどうかだよ」 「君の見立てではどうだ?」 「信頼に足ると確信している。いや…確信したいと思っている」 「そうか」 率直な言葉を受けて、コンラートはにこりと笑うとトイレを終えて戻ってきた有利を招き寄せ、バルトンが大教主マルコリーニの意を受けてやってきた人物であることを明かした。 『眼鏡に適う人物でなければ、始末されたのかな?』 そこまではしていないかも知れないが、取りあえず有利が戻ってきたときにはここにいないよう取りはからわれていたような気がする。 そして、二度と近づくことは出来なかったろう。 親しみ深い態度の奥に潜む、良い意味で冷厳な眼差しにひやりとさせられる。コンラートという男は《平和》という綺麗事を、綺麗事で終わらせない為の眼(まなこ)を持つ男なのだろう。 『そういう男に認められたと言うことは、誇っても良いかな?』 少なくとも、バルトン個人としてはこの上ない喜びだと感じていた。 |