第2部 第15話







「おい、お前達どこに行く気だ!?」

 いつ果てるとも知れぬ怪物達との戦闘中でも、ルッテンベルク軍の兵士達は自分たちの主に近寄る者を見落としたりはしない。幾らフリンの侠気を見せられたにしても、人間の全てを信用できるというわけではないのである。
 舞台脇から駆け足でコンラートに近寄ろうとしてきたマント姿の男を見咎めて、一兵卒のジャッカルが荒々しく声を上げた。

「ウェラー…いや、フォンウェラー卿に用がある。重要なことなんだ、すぐに取り次いでくれ」

 声を潜めて男が囁きかける。その声には切羽詰まった響きがあったが、武装した男を不要に近づけたくはなかった。
 
「剣なら預ける」

 ジャッカルの意図を読んだように男達は潔く武器を手渡すと、身体調査も辞さぬと言いたげに手早くマントを脱ぐ。

「…っ!」

 男の襟元に光る小さな勲章に、ジャッカルは息を呑んだ。それは大シマロンの官吏であることを示す、双頭の鷲を模したものだったのである。

「私の名はハインツ・バーデス…《風の終わり》について早急に伝えたいことがある。頼む…通してくれ!」
「…分かった」

 ジャッカルはまだ警戒は解かなかったものの、敢えて大シマロン宮廷の臣下たることを隠さないハインツをコンラートに会わせる気になった。何より、ハインツやその仲間と思しき連中の瞳に、後ろ暗い影が無かったからである。丹念に、しかし手早く暗器を忍ばせていないかだけ身体検査をすると、コンラートがいる方向に案内した。

『俺だってこの年までに色々な連中は見てきた。多分、こいつらは人間の中ではかなり上等な部類の気質をもってるに違いない』

 その勘が外れれば、誰よりも大切な上官を危機に晒すことになるから決して油断はしないが、この危急の時に際して信じるに足ると人間達に会えたことは、ジャッカルにとって喜ばしいことであった。



*  *  * 




『こいつぁ…』

 ルッテンベルク軍の中でも特に俊敏で、注意力に富んだ兵を選抜したグリエ・ヨザックは、歌謡祭が始まる前から入念に周辺の警備を進めていた。心の片隅に《猊下と賑やかな舞台が見たいもんだ…》という気分もあるが、任務を優先せざるを得ないのはしょうがない。

『無事で生きてりゃあ、そのうち猊下だって観劇の誘いくらいには乗ってくれるだろうさ』

 自分でもおかしくなるくらい、少年のことを考えると頬がぽわぽわしてくるので、意識的に頬の内肉を噛んで冷静になる。

 舞台の方で騒ぎが起こっているのにも気付いていたが、まだあちらに向かうわけにはいかない。
 コンラートや有利のことも気がかりではあったが、ヨザックには早急に果たさなくてはならない任務があるのだ。
 そして今、焦りを押し殺して捜索してきた成果が出ようとしていた。

 胸元に掛けていた魔石が《リィン…!》と音を立てて振動する。これは、特に《風》の要素に反応する魔石であった。

『あそこか…っ!?』

 視覚的に気づかなかったのも当然である。そこには大シマロン兵の気配はなく、ごく一般的な枸橘(からたち)が無造作に植わっているだけに見える。しかし、目敏いヨザックは見逃さなかった。ごく僅かだが、根方の土が掘り返された痕跡がある。しかも、そのことを悟られぬように細工してあるのが何よりも雄弁に、重要な何かを隠しているのだと告げていた。

「注意しろ。罠が仕掛けてある可能性がある」

 駆け出そう逸る兵を押さえて、幾つか仕掛けられていた罠を無効化する。単純な罠ではあったが、不用意に突っ込んでいたら2、3人は重傷を負ったことだろう。

 しかし、熟練したお庭番とてどうにもならない罠もある。人の手によらず、敵の接近を察知して自ら動き出す罠など、如何に言っても手に余るのだ。


 ゴ…
 ゴォオオ……っ!

 突然、枸橘を吹き飛ばして凄まじい風が押し寄せてきた。砂塵も木々も一緒くたになって叩きつけてくるのだから堪ったものではない。

 息も付けないような有様のヨザック達の前に、最早姿を隠すことを止めたらしき《風の終わり》が姿を現す。土中に隠されていたその箱は自分を覆っていた土塊を全て薙ぎ払うと、蓋と本体の隙間から魑魅魍魎の如く溢れ出してきた蜻蛉もどきを吐きだしていった。

「く…っ!」

 ヨザックは手首に仕込んでいたナイフを取り出しざまに一閃させると、第一波として襲いかかってきた蜻蛉の首を半ばほど切り裂く。だが、哨戒を主目的として動いていたヨザック達は機動力を優先される為に軽装であった。刃先の短いナイフでは蜻蛉たちの動きを完全に止めることは適わず、部隊の中でも経験不足な若手などは触手に目元を掠められてのたうち回った。

「散開するな!若い奴は3人一組で戦えっ!!勝とうと思うな、任務を忘れてんじゃねぇぞ!」

 ヨザックは若い兵に対して、一足飛びの上達など望んではいない。だが、自分の実力に見合った戦い方をしない阿呆は作戦行動全体の足を引っ張る。今のヨザック達が為すべき事は誉れの為に玉砕することではなく、一刻も早く《風の終わり》の所在地を本隊に知らせることなのである。
 
 しかし、若い兵達は襲いかかってくる怪物達への恐怖心から、どうしても反射的な戦闘にはいってしまう。懸念通り、怪物達は特に経験不足な兵を見抜いて襲いかかってきた。

「くそ…っ!人質にでもとるつもりか!?」

 ヨザックは捕まれて上空に釣り上げられそうになっていた兵を救おうと、数少ない武器であるナイフのうち一本を投げつけた。見事に触手を断ち切ったナイフはくるくるとブーメランのように旋回して、ヨザックの手に戻ってくるはずであった。

 …が、しかし。その予測を裏切るように突風が吹き荒れ、ナイフの軌跡を変えてしまう。手の届かない上空で樫の木に刺さってしまったナイフを回収することは困難であった。

「くそ…っ!」

 “グリエ・ヨザックだな…”
 “これは都合が良い…”
 “鍵の親友ではないか”

 きしきしとほくそ笑むような軋轢音に、ヨザックは慄然とした。冗談ではない、コンラートの盾となるべき自分が、彼の足手まといになるなど考えられなかった。

 最悪の場合、ヨザックは自決の為の仕掛けも奥歯に施してはいるが、これは最後の手段だ。

『あの方が、寂しがるからな』

 以前は任務の中で命を落とすことなど何とも思わなかったのに、今は命が惜しい。意外と傷つきやすくて意地っ張りな少年の為に、ヨザックは何としても生きていたいのだ。

「お前らなんぞに捕まる俺じゃねぇよっ!」

 そうだ。今やるべきことは一刻も早くコンラート達に知らせることだ。人質を取られることを恐れていたら、動きが取れない。 

 ヨザックは俊敏な動きで怪物達に背を向けると、羽根を持つ連中が襲撃しにくいルートを通って全力疾走していく。

『後でどうにかしてやる!』

 苦鳴を上げる部下達に胸が締め付けられるが、ヨザックは後ろを振り向かなかった。これが、自分たちの任務だとあの連中も分かっているはずだ。

 ザ…っ!

 勢いよく茂みを抜けたヨザックだったが…近道と思ったそのルートが、怪物達の想定内であったことに歯がみする。茂みを抜ければ障害物が格段に経るから、どこかで補足されるのは仕方のないことなのだが…群れを為してヨザックに襲いかかってくる連中を撃墜するには、手持ちの武器が少なすぎた。

『くそ…っ!』

 このまま死ぬことは出来ない。
 だが、人質になることも考えられない。

 捕捉される直前まで策を求めてあがこうとするヨザックの頭上で、その時…ヒュヒュヒュっ!と空を切る音が響いた。

 ギュギ…っ!

 錆び付いた戸を無理矢理開けたような絶叫が響き、何頭もの怪物がぼたぼたと地上に落下する。

「ヨザ…っ!」
「隊長…っ!ここから南南西に向かえっ!」

 ほっと安堵したせいだろうか、ついつい馴染みの肩書きが口をついて出た。
 そこにいたのは目指していたコンラートその人で、手に持った強弓は続けざまに矢を放ち続けている。彼についてきた弓の名手達も同様だ。

 兵士達に硬く守護された有利と村田もいる。
 …が、彼らの横に見慣れぬ男達がいたのが一瞬気になった。特に、襟元にちかりと輝く大シマロン章を目にしては尚更だ。

「おい、こいつらは…」
「今は追求するな。意図は分からないが、俺達に正しく《箱》の位置を教えてくれたのは間違いないようだ」

 ドドドゥ…っ!

 茂みの上空を抜けて無数の蜻蛉たちが飛来してくると、人々の頭髪が風圧によって掻き乱される。まるで小型の台風が押し寄せてくるかのようだ。

「来たな…っ!」
「ユーリっ!」

 コンラートと寄りそう有利の気配が変わった。まるで《風の終わり》に感応したかのように首筋の毛が逆立ち、あどけない容貌が凛々しく引き締まる。

『こいつぁ…』

 間違いない。有利の中の《上様》が発動しようとしているのだ。
 
 有利は上様が戦闘時だけ出現するのを気に掛けていて、実は村田にも手伝って貰って、平和な時分に召還できるよう何度か発動を試みていた。だが、どうやら相当に頑固に気質らしい上様は決して現れようとはしなかったのである。
 
『平和なときに美味しいもの食べて貰ったり、綺麗なもの見て欲しいのになぁ…』

 有利はそう言って残念がっていたが、村田はそっとヨザックに囁いていた。

『上様は、自分の存在が渋谷の人格を圧迫することがないように必要以上に気に掛けて居るんだろうね。それだけ、上様にとって渋谷は絶対的な存在なんだ』

 村田には上様の心境が痛いほど理解できるのだろう。
 四千年にわたる《大賢者》としての記憶はヨザックの想像以上に、この少年にとっては重い物である筈だ。それが有利の為に活用されるということで大きな救いとなっていたというから、上様の孤独と、背中合わせの幸福もまた感じ取れるに違いない。

 その上様が今、有利の呼びかけに応えて発動しようとしている。
 己の存在意義を果たす為、二つ目の箱を昇華させようとしているのだ。

 

*  *  * 




 “寄越せっ!”
 “寄越せ寄越せ寄越せ…っ!”
 “鍵を寄越せぇええ……っ!!”

 どうどうと吹き付けてくる風が、一層強くなったように感じる。
 鍵であるコンラート、増強者である村田と手を繋いだ有利は圧倒的な強風に目も開けられないような状態だったが、それはあくまで肉体的な目についてだ。

『見える…』

 至近距離まで迫っているせいだろうか?有利の脳裏には土の中から溢れ出してくる《風の終わり》の力が感じ取れた。箱の昇華には既に一度成功しているから、動揺も比較的少ない。

『大丈夫…出来る…!』

 ぎゅ…っと握った両手に、華奢な少年と逞しい青年の骨格が触れる。それぞれに頼もしい感触が、有利に力と自信を与えてくれた。適切な集中を見せて《風の終わり》に集中し、今回も暖かな気持ちで呼びかけを為していく。

『そんなに荒ぶってんじゃないよ!』
『心を開いて…』
『なあ、あんた達は自由な風だろう?』
『誰かを支配するんじゃなくて、楽しく世界を吹き回ったら良いんだ』
『もう…そんな一塊になってんのはやめようよ…!それぞれに、吹き回るんだ…っ!』

 一つの暴風となって吹き付けていた風が、戸惑うようにぐらついたのが分かった。これまでは大きな一塊であったものが、個々の要素となって振動している。

 “自由だと…?”
 “自由、自由……?”

 思った通り、土以上に風という要素は《自由》という概念に心惹かれるものらしい。各自の意志が迷いを見せた途端に、暴虐な破壊力を求める要素と、自由に吹き流れることを求める要素とがぐるぐると対流を立て始めた。

『出来る…』

 成功を確信して、ほ…と息をついた有利の肩を、突然後ろから引き寄せる者がいた。

『だ…れ?』

 限界近くまで《風の終わり》に集中していた意識は、咄嗟の物理刺激に対応できない。だから、相手の正体も掴めないまま印象的な声だけが耳朶に響いた。

 それは毒を持つ…忠告だった。

『良いのかい…?』

 問うてくる。
 どうしてだか、嘲笑するような声で。
 恐るべき指摘を突きつける。


『その《箱》を昇華するということは、君の大切なフォンウェラー卿の左腕を奪うことになるんだよ?』


 思いがけない言葉に、有利の心が驚愕に揺れた。



*  *  * 




『これは…っ…』

 コンラートは突然介入してきた声音に慄然とした。内容が思いがけなかったわけではない。気付いていて、敢えて有利には悟られないようにしていた可能性を、よりにもよって最悪のタイミングで囁かれたからだ。

 その可能性は、眞魔国にいる間に村田から伝えられた。
 《君の左腕は、真の鍵であった祖父の物だろう?だとすれば、箱が昇華してしまい、影響力を失うと同時に物理世界の法則に従って失われるのだと思う》…それは、実に可能性の高い想定であった。

 《希望的観測から言えば、ウルヴァルト卿エオルザークが持ち帰り、フォンヴォルテール卿が保管している本来の左腕がまた移植出来ることを期待したいが…こちらも超常的な状態で切断時の保存状態を維持している以上、やはり箱の影響下にあると考えられる。やはり、箱が昇華されれば切断された時の状況を反映して炭化してしまう可能性が高い》…厳しい状況観察ではあったが、仕方のないことだとも思った。
 コンラートは数々の戦場を渡る間に多くの仲間を喪い、身体に不可逆的な負傷を受けた仲間達のその後も見ている。

 しかしコンラートは自分が左腕を失っても、戦い続けることは出来ると確信していた。左腕を失った状態での地球生活がコンラートに与えたものはそれだけ大きかったのだ。

『だから、良いんだ…ユーリ。俺は左腕を失っても、君と共に生きていける…』

 コンラートは懸命に有利へと想いを伝えようとするが、有利の背後に魍魎の如く絡みついている少年は、恐るべき浸透力を持って心を犯そうとしていた。

『ユーリったら…自分の主義主張の為に恋人を不具にしても良いの?思ったよりも情のないことだねぇ…。普段は愛しているなんて綺麗事を言っているくせにぃ…』

 くすくす
 くすくすくす…

 楽の音のように美しく響くくせに、《風の終わり》以上に毒を含んだ声音が有利の心を追い詰めていくのが分かった。囁きかける言葉はコンラートにも聞こえているのに、何らかの力が邪魔をして有利に伝えることが出来ない。
 押し寄せる風を振り払うようにして視線を向ければ、サラレギーが黄色い瞳を爛々と輝かせてにんまりと嗤っていた。

『この目は…っ!』

 背筋をぞくりと奔るものがあった。《目が輝く》…それは決して、形容的な比喩などではなかった。まるで発光体を眼窩に填め込んだかの如く、サラレギーの瞳は自ら発光して妖しく輝いているのだ。その特徴的な目を見るのは、コンラートにとって初めてのことではなかった。

『この男は…神族だというのか…っ!?』

 神族…特殊な海域に存在する為、地図には示されていない《聖砂国》を本国とする一族だが、その民は大陸内にも散在している。ただし、それは基本的に《奴隷》という扱いなのである。神族は身分の格差が大きな国らしく、身分の低い子どもの内、強い法力を発揮する者は国外に売られていき、法力使いとして軍役につくことが多い。幸運な数名は退役後に占い師として身を立てることもあると聞くが、多くは売られたとき同様に奴隷階級から抜け出すことが出来ず、生涯を人間に尽くすことで終えることが多い。

 間違っても、一国の王が神族となる可能性など考えられないのである。
 このサラレギーという王子は、一体どのような経過を辿って小シマロンの王たり得たのだろうか?

 いや、今はそんなことを論じている場合ではない。何とかしてこの少年の心理的束縛から有利を解放しなくては、《風の終わり》を昇華することは出来ない。



*  *  * 




『酷い子…あんなに愛されているくせに、いざとなったら腕を失わせるのなんて平気なの?』

 違う。
 平気じゃない。

『勝手だなぁ…。結局、君は自分のことしか考えていないんだ』

 違う違う。
 知らなかっただけなんだ。

『さぞかしいい人気分を味わえて幸せだったことだろうね?影で恋人がどんなに悩んだり苦しんでいるかなんて、君にはどうでも良いことなんだ』

 違う…違うぅ…っ!
 泣き叫びたいような心地で有利は悲鳴を上げる。

『コンラッド…コンラッドぉお……っ!』

 言われてみれば、十分に可能性があることなのに…どうして気付かなかったのだろう?きっとコンラートや村田は賢いから、気付いていて言わなかったに違いない。
 
『俺が馬鹿だから、気付かなかった。気付いてあげられなかった…っ!』

 自分を犠牲にすることなんて何とも思っていない恋人は、全てを尽くして有利の為に行動してくれる。身体だけではなくて、心と未来までも護ろうとしてくれる。
 そのことに、甘え過ぎていたのだろうか?
 
『どうしよう…』
『やだ…やだよぅ…』
『コンラッドの腕が無くなるなんて嫌だ…!』

 地球での生活を思い出すと、ひらひらと風に舞っていた左袖がどうしても脳裏を掠める。

 ひら…
 ひらら…

 伸びやかで逞しい腕を包むはずの袖が、ひらりひららと舞う度に人々の視線が集まった。見惚れるほどに美しい青年の腕が無いという事実に、人々は感嘆を憐憫に変えて見つめていた。

 《可哀想に》…事あるごとに囁かれる言葉が、どれだけコンラートを傷つけているか知っていた。その度に左側からコンラートを抱きしめて、何も言わずに脇腹に鼻面を擦り寄せていたものだった。

 その腕が、思いがけない方法で得られたというのに…また、奪われてしまうのだろうか?

『嫌だ…っ!』
『ねぇ…そんなに嫌なら、方法があるよ?』

 甘い毒を滴らせながら、声音がずるりと耳朶に注ぎ込まれる。


『昇華させるんじゃなくて…従わせたら良いんだよ』


 どくん…っと胸の中で鼓動が跳ねた。




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