第2部 第14話






 きしきしきし…

 耳障りな軋轢音が、まるでコンラート達を嘲笑するかのように宵闇の中を響いていく。
 気が付けば風は強度をあげており、近隣の人々が支えていなければ灯火が土台ごと吹き飛ばされていたかも知れない。

『試している…だと?』

 聖都から大教主マルコリーニの命を帯びてやってきたバルトン・ピアザは、思いがけない展開に息を呑んでいた。
 カロリアの人間達はこの時まで、魔族に対する認識を改めていた。少なくとも、この歌謡祭ではそうだった。確かに…そう見えた。
 第一部最後の合唱の時には、ピアザまでもがつい乗せられて歌声を上げてしまったくらいだ。

 しかし、《まことの時》に信義を示すことのなんと困難なことだろうか?
 怪物達に頭上を覆われ、その破壊力をまざまざと見せつけられたこの時に、第一声を上げられる度胸を持つ者が一体何人いることだろうか?

『拒否にしろ容認にしろ、最初の発言者は大きな勇気を試されることになる』

 卑怯者と罵られてもコンラートを売るべきか、あくまで信義を守って大量の被害者を出すべきか…。
 どちらを選んだとしても正解ということはなく、何かしら悲惨な結果が出るはずなのだ。

『どうするのだ…カロリアの民よ』

 身分を隠してここにいるバルトン・ピアザには、今の段階では発言権はない。だが、状況によっては…無為な混乱の中で一つの結論を導き出せる者がいないのであれば…バルトンは人々の先頭に立って決断を下さねばならない。

『私なら…どうする?』

 おそらくはこの場にいる全ての者が、突きつけられた難題に対する答えを心中に浮かべているのだろう。

 その恐るべき緊張感の中…不意に、行動を起こした者がいた。 


 カァアアアン……っっっ!!!


 派手な金属音が、舞台上に鳴り響く。
 舞台道具の金盥を蹴り飛ばし、優美なスカートをからげて一人の女性が現れたのである。

「ふ…」
「フリン様…っ!」

 緊張感に顔を真っ青にしたフリンは、色を失った唇を噛みしめて怪物達と民の前に立った。
 力一杯握りしめた布地は引き裂かれんばかりで、強張った手背には痛々しいほど筋が浮いている。

 “選んだか”
 “女領主よ…良き選択を期待するぞ”

 きりきりきり…
 きききききき……

 嘲笑が強風の間を囂々と流れ、フリンのほっそりとした肢体を押し倒そうとする。だが、フリンは倒れない。大きく脚を開き、土俵上の関取の如くに上体を沈み込ませると、ぎろりと怪物達を睥睨した。

「コンラート様を、売り渡せですって?」

 “そうだ…”
 “よく考えることだ、女領主…”
 “見ろ…お前の民を”
 “お前の選択一つで、この場は惨劇の顎(あぎと)に飲み込まれるのだぞ?”
 “全てはお前の選択に掛かっているのだ”

『狡い言い方だ…』

 バルトンは鋭く舌打ちする。悪逆な行為の責任を実施者たる自分たちではなく、選択した者に転嫁させる…それは、悪党の常套手段とも言うべき手法である。

 だが、効果的であるのは確かだ。

 自分では選択できなかった人々の視線は一気にフリンへと集中し、全ての責任と選択権を彼女に委ねようとしている。それは《信頼》と呼ぶことも出来ようが、ある意味ではこれも狡い《転嫁》なのである。全てを彼女に預けることで自分では選択の責を負わず、《文句を言う権利》は得ようとという心理もあるだろう。

 しかし…人の上に立ち、選択を為す者はそのような重責を負わざるを得ない。

『耐えられるのか…?この女性に』

 フリン・ギルビットは未亡人とはいえまだ年若く、麗しい姿は深窓の令嬢として宮殿の奥深くにあってもおかしくないほどだ。一見して、こんな苦しい状況のカロリアを治めていけるような器とは思えない。

 しかし次の瞬間…バルトンは自分の目が節穴であったことを思い知るのであった。



*  *  * 




 ダァッンンー……っ!


 華奢な造りの9pハイヒールが、舞台を砕くほどの勢いで踏み出される。

 舞台効果を狙った構造のためもあるだろうが、腹蔵に響くその音は怪物達の耳障りな羽音を薄れさせ、詰めかけたカロリアの民や招待客や商人達を瞠目させた。


「断る…!」


 フリンの発した大音声と、ビシィイ…っ!と怪物達に突きつけられた剥き身の剣に全ての衆目が集中した。

 “本気か?”
 
 嘲笑うような音はまだ止まらない。

「言った通りよ。私はカロリア領主としてここに宣言する…お前達の悪逆な企みに乗り、コンラート様を…いいえ……」

 深く息を吸って、フリンは高らかに告げた。


「人間の誇りを、お前達になど決して売り渡さない…っ!」

 
 この舞台上に駆け上がるまで、怪物達の囁きを耳にしながらすぐにこの結論に達したわけではなかった。言われずとも、フリンには民の生命がのし掛かっていることなど十分に自覚している。
 それでも、舞台上で天を仰いだフリンは感じたのだ。怪物達に覆われたその向こうに、無限に空が広がっていることを感じた瞬間、この一時に下した決断が未来永劫…フリン達の生涯が終わった後にも、《人間》の中を流れていくのだと言うことに。

『今コンラート様を売れば…最悪の事例が世界に刻まれることになる』

 見返りも求めぬ誠意を嬉々として受け取りながら、《まことの時》には掌を翻して恩人を売る。
 それは、犬畜生にも劣る愚行ではないか。

 確かにこのような選択をすれば、多くの被害者が出るだろう。
 夫を失った妻、娘を喪った父に殴打されても文句は言えない。

 それでもフリンは選ばずにはいられなかった。
 人間と魔族の間から信義を奪う事だけは、決してやってはならないことなのだと信じているから。

 声を張り上げ、フリンは高らかに告げ続けた。

「皆様…どうか、協力して下さい。人間の誇りを、次代へ…未来へと繋げていく為に、暴力に対して屈するのではなく、戦うことを共に選んで頂きたい…っ!」

 パン…
 パンパンパン…っ!

 怯えて硬直する人々の中、大小二つの影が立ち上がった。
 帽子を被った長身の青年と、蝶や花をあしらった可憐なドレスを纏うあどけない少女だった。緊迫した状況を笑い飛ばすように小気味よい笑みを浮かべた二人は、軽やかな拍手を舞台に向けて打ち鳴らす。

「フリン・ギルビット殿の御覚悟…ミッシナイのヒスクライフは確かに受け止めましたぞ…!」
「その娘、ベアトリスも同じですわ!」



*  *  *




 二人の行動に、最も感動していたのは横にいたグレタだったろう。
 今もヒスクライフとベアトリスの勇姿を惚れ惚れと眺めながら、グレタは涙を流して歓喜していた。ほんの数日前までは有利の命を狙っていた少女も、今は深い親愛の情を魔族に向けていたからである。
 
「ヒスクライフさん…ベアトリス。ありがとう…ありがとう…っ!」

 泣きじゃくりながら歓喜の声をあげるグレタにベアトリスが優しくハンカチを宛う。ヒスクライフはその様子を横目に確認しながら、再び高らかに宣言した。

「洋上で救われたこの命…大恩ある眞魔国の方々の為に尽くすことを、改めて誓いましょう…!」

 シャン…っと鞘走る音を立てて、鋭い刃先のレイピアが宙を斬る。
 その動き一つで、ヒスクライフが単なる自衛剣技に留まらぬ技量を持ち合わせているのだと知れた。一瞬にして頭上から飛来してきた蜻蛉の怪物が両断されると、気味の悪い体液を迸らせながら、どすんと力を失った断端が大地に落ちる。


 シャァアアア……っっ!!


 怒りに満ちた怒号が頭上を覆い、人々は自分たちがもう戻れないことを自覚した。
 何人かは惑乱して泣き出す者もいたのだが…一方で、カロリアの民の殆どは勇んで立ち上がると、手に手に小石や棒っきれを握り、自分たちの主と選択を共にした。

「フリン様、あなたの選ばれた道をついて参りますっ!」
「人間の誇りを護れ…っ!」
「恩人を売ったりするものか…っ!!」


 わぁああああ……っ!!


 大歓声が湧き起こり、悲壮感すらも熱に変えて大気を満たしていく。例え圧倒的な力を持つ怪物達に敵わないのだとしても、人々は《誇りを持って死にたい》と覚悟を決めたようだ。

 その反応をどう思ってるのか、ふ…っとコンラートは満足げな笑みを浮かべると、悠然たる動作で右腕を一閃させた。

「《まことに時》に示された信義…確かに受け取った!」

 ザ…っ!

 影に潜んでいた眞魔国兵が姿を現したのは、コンラートの腕が一閃した瞬間であった。



*  *  * 




 ヒュヒュヒュヒュ…っ!!
 ファ……ンっ!

 立ち上がった眞魔国兵は、かねてから指示されていた通りに弓弦の音が鳴らす。しかし、第一波が狙った場所は怪物達ではなかった。

「ひ…っ!?」

 人間達は低空に向けられた鏃(やじり)が自分たちに向かうのかと思って悲鳴を上げたが、勿論そんな筈はない。鋭い音を立てて飛来した矢は正確に、観客席の随所に配置された灯籠に当たったのである。明かりの消えていた灯籠が、矢を受けた瞬間に焔とは違う輝きを放ったかと思うと、矢羽根に取り付けられていた細い糸が同じ色の発光をみせた。

 フワァア……
 フワ……

 ほわほわと淡い光を放ちながら、網の目状になった糸の群れが風に揺れる。観客席をすっぽり包み込むような形になった糸は、少し手を触れれば破けてしまいそうなほど頼りないのに、襲いかかってきた怪物達は網に触れた途端、弾かれたように《ギイ…っ!》と悲鳴を上げて上空に逃れるのだ。

「これ…な、なんだ…?」
「俺たちを…護ってくれている?」

 そう…観客席は今や光る網に包み込まれ、怪物達の攻撃から守護されている。ただ、何しろ観客の量が多いから、席を外れた場所で眺めていた連中までは手が回らないのだが、丁度怪物達が覆い被さるようにしていた場所についてはほぼ完璧な守護網が出来ている。

 観客席の随所に設置された灯籠は照明用の物もあったが、幾つかは眞魔国から持ち込んだ魔石を設置していた。単体では力を発揮できない程度のものであったが、だからこそただ設置しているときには敵に察知されなかった。
 更に魔石粒をすり潰した液で糸を染め、それを矢羽根にくくりつけて灯籠と接続し、少人数随伴していた魔力持ちの兵に起動させることで、初めて魔石網は力を発揮したのである。

 フォローしきれなかった場所についても細かに弓兵が配置されている。彼らは怪物達の羽根を鋭い矢で劈いては、低空に落ちてきたところを剣で斬り裂いていく。そうなれば、後は武装していない民だって黙って護られてばかりではない。大ぶりな石を両手に持って懸命に怪物の頭を潰し始めた。

「コンラッド…っ!」
「ああ…」

 はらはらしながら待っていただろう有利が幕の影から飛び出してくると、コンラートはこれをくるむようにして腕の中に入れる。
 人間達がコンラートを売ることを選択したときに、有利が惑乱した連中に害されることがないよう、重々言い含めて隠れさせていたのである。

 最悪…人間達が裏切り、逃げるのならともかく暴徒化して魔族に襲いかかってきた場合には、矢の向きをより上空に向けて網を完成させることで、観客ごと怪物達を閉じこめるつもりだった。怪物達を網で捕まえただけでは殺すことは出来ないが、少なくとも動きは止められると見込んでのことである。

 その策が仕えないぶん戦闘としては困難になるが、それでも有利の心境を思えば随分と気が楽だ。

『兵達の士気も全く違う』

 当然と言えば当然のことだが、作戦会議の席では半信半疑という表情であったルッテンベルク軍の兵士達も、フリンの小気味よい啖呵を受けて意気揚々と戦闘を続けている。カロリアの兵士達は勿論、小シマロンとの息も合っている様子だ。

 腹の虫が治まらないのは怪物達の方だろう。まんまと人質になるはずだった連中を網で守護されてしまったものだから、標的をコンラートに切り替えて襲い掛かってきた。

 “鍵!鍵!”
 “我らの鍵ぃ…っ!!”

 有利を抱えたままの体勢でありながら、コンラートの剣技が冴え渡る。
 音も立てずに抜刀すると、灯火を受けて煌めく剣先が銀色の軌跡を残して宙を舞い、その度に怪物達が分断されて大地に叩きつけられる。それだけではなく、手首に仕込んでいだ礫(つぶて)を握って弾くと、それが怪物達の頭部に当たり、未練がましく蠢いていた触手がぱたりと止まる。

「凄い…」
「な、なんて技量だ…っ!」

 ざわめく人間達の中には、コンラートを愚弄した若い兵士の姿もあった。自分たちが一体何者を相手に喧嘩を売っていたのか今更のように思い知ったらしく、口を半開きにしてコンラートの剣筋を見つめている。
 その眼差しは、もう異質な化け物を見る瞳ではなく…無意識のうちに、伝説の英雄を眺めるような呆けぶりになっていた。

 一方、観客達の方もただルッテンベルク兵の勲(いさおし)を眺めているだけではなかった。
 《娘に勇姿を見せておきたいのでね》と茶目っ気たっぷりにウインクしながら、レイピアで正確な太刀を振るい続けているのはミッシナイのヒスクライフだ。
 また、彼の姿を見た人々の間からは思いがけない発言も飛び出している。

「おい…あの男は……」
「ああ、間違いない!出奔した王太子じゃないかっ!!」

 眞魔国とは国交のないカヴァルケードの商人達が目を剥いて叫んでいるのを、コンラートは戦闘の合間に耳にしていた。そういえば噂で聞いたことがある。カヴァルケードの王太子は知勇兼備で知られた逸材だが、留学中に知り合ったミッシナイ商人エヌロイ家の娘と激しい恋に落ち、堅苦しい宮廷にその女性を押し込むことを由とせず、王太子の身分を擲って出奔したのだと…。

 しかし、驚いたのはヒスクライフの出自に留まらなかった。こういう非常事態に際しては普段隠されている武勇がどうしても発現せざるを得ないらしく、観客の中に紛れ込んでいた屈強な男が、六節棍を武器に縦横無尽の活劇を披露しているのである。

 この六節棍は特殊な形状をしており、コンラートの目にはその出自が明らかとなる。

『あれは…聖都の僧兵仕込みじゃないのか?』

 どれほどの地位かは分からないが、かなりの腕前だ…聖都でも名を知られた存在であるのは間違いない。
 どうもこの観客席には、色々と曰く付きの連中が集まっているようだ…。
 
「は…っ!」

 有利を抱えたまま跳躍して、一太刀の旋回で三匹の怪物を切り落とすと、観客達の歓声は一際大きなものとなる。
 しかし…コンラートは知っていた。コンラートの武勇にせよ、思いがけない助力にせよ…こんな戦闘は、単なるその場しのぎに過ぎないと。

『まだか…っ!』

 実のところ、観客達を護っている魔石の効果は有限のものである。戦闘が長引けば小さな魔石から順に《燃え尽きて》いき、その効果を永遠に失うことになる。一方、怪物達は《箱》がある限り半永久的に《再生》を続ける筈だ。既に絶命した怪物は確かに動きを止めているが、まだまだ無数の怪物達が空に現れて、コンラート達を狙ってくるのである。

 怪物達の湧出を可能にしているのは言うまでもなく《風の終わり》。この《箱》を昇華しない限り、消耗戦の先にあるのは《敗北》の二字なのである(眞魔国語では二字にならないが…)。

 その為にヨザックを隊長とする部隊が哨戒に当たっているのだが、まだ報告はない。怪物達も考えたもので、どうやら出所が特定されないよう、散開して多方面からコンラート達を狙っているようなのだ。

『だが、連中は必ずカロリア内には来ている筈なんだ』

 村田はグウェンダルが巻き込まれた《地の果て》昇華事件によって、《禁忌の箱》の特性を幾つか判定していた。その内、特に重要なのは[こちらの世界では《禁忌の箱》も物理的な距離を超越することが出来ない]という事実だった。そうでなければどこからでも自由に襲撃を仕掛けることが出来るはずだが、《地の果て》はわざわざシュトッフェルを取り込んでグウェンダルを罠に填めようとしてきた。

 だとすれば、必ず今回もどこか舞台に近い場所から襲撃しているはずなのである。

『ヨザ、早く探してくれ…っ!』

 おそらく、フリンも把握していないルート…大シマロンに通じている村長の手引きで侵入しているに違いない。情報の少ない中で短時間に所在を特定することは確かに困難だが、やって貰わなくては話にならない。

『頼む、ヨザ…っ!』

 内心の焦りを表情に表すことなく、コンラートは愛剣を宙に閃かせた。 

 

*  *  * 




 コンラートの焦燥をこの場の誰よりも理解している人間は、大シマロン宮廷に仕えるハインツ・バーデスであったろう。

『一見鮮やかな作戦に見えるが…この戦闘の集結は時間の問題だ』

 招待客ではないハインツは丘陵部に設けられた仮設席から舞台を眺めていたのだが、主要な観客がいないせいか、こちらには怪物達も攻めては来なかった。それを幸いと、観客達は自分の家に逃げ帰る者や、侠気を発揮して舞台の方に駆けていく者もいたから、暫くの後にそこから戦闘を見つめているのはハインツとその仲間達だけになった。上層部を説得してカロリアにやってきたのは、ハインツの他にはほんの数人である。特にハインツと親しく、《地の果て》開放実験の悲惨な影響を調べたキーリィーが声を潜めて語りかけた。

「あの怪物達は…やはり、我が国の《風の終わり》によるものだと思うか?」
「ああ…陛下子飼いのベラルドン部隊が動いている」
「…っ!俺は聞いていないぞ?」

 ハインツの言葉にキーリィーが血相を変える。

「私だって正式には聞いていない。このようなことになるだろうと思って、連中の動きを探っていたから知っているだけだ」

 ハインツもベラルドン部隊が《風の終わり》を持ち込んでいるかまでは知らないが、どこに彼らが展開しているかは察しが付いている。隠密行動ゆえ港や門扉は使えないのだが、カロリア領内の村長の内、有力な者が自分の領土伝いにベラルドン部隊を引き入れるだろう事は察していた。ハインツはその村から舞台までのルートを知っているのだ。 

「獅子を捕らえるようなことになれば、陛下からも正式な通達があるだろうな」
「失敗すれば?」
「口を拭って知らぬ顔だろう」

 ベラールが《失敗》という事態を想定しているかどうかすら怪しいものだが、そうなった場合、大シマロンは大きな批判の矢面に立たされることになる。
 今回の《歌謡祭》は明らかに、《平和の祭典》と呼ぶに相応しい企画だったのである。協賛国である小シマロンが実際のところどう考えているのかは分からないが、少なくとも眞魔国のとった行為は信義から出ているものなのだろう。
 それをこのような方法で蹂躙することは、どう言い繕っても《卑怯》との批判を免れることは出来まい。

 しかも失敗に終わったとあっては、大シマロンの権威は地に落ちる。失敗とはすなわち《風の終わり》を失うことにもなろうから、武力的な意味でも大シマロンにとっては痛手となろう。

『どうする…?』

 大シマロン宮廷に仕える身としては考えるまでもない。今回の出張名目は[《地の果て》開放実験によって損傷を受けた耕作地の状況調査]であったが、国の行く末を決めるような闘いを前にして、利敵行為に走るなどあってはならないことである。

『しかし…っ…』

 ハインツの胸は震えた。
 双黒の王太子が示した《見返りを求めない友情》、見事応えたフリンの《くそ度胸》…それは、後ろ暗い陰謀によって世界を動かそうとするベラールに比べて何と潔く、美しい生き方だろうか?

 ハインツの脳裏に、フリンの言葉が蘇る。

『人間の誇りを、お前達になど決して売り渡さない…っ!』

 そうだ…。
 フリンの決断は、単なる個人的な友誼からだけ出たものではなかった。
 人間という種族が魔族に対して示す、歴史的な重さを背負う決断であったのだ。

『大シマロンの官吏として生きるか、人間としての理性に従うか…!』

 瞼を固く閉じて煩悶するハインツに、キーリィーは静かに語りかけた。

「なぁ…ハインツ、お前の親族はかつてウェラー王家に仕えていたんだろう?」
「そうだが…」

 今頃何を聞くのかと言いたげなハインツに対して、木訥としたキーリィーが静かに呟く。

「なら、ウェラー王家の血を引くコンラート殿の為に尽くすことは、筋の通らぬ事ではないんじゃないのか?」
「……っ!」

 周囲の仲間達が一斉に息を呑んでキーリィーを見た。だが…誰もがキーリィーを《裏切り者》と罵倒することはない。その様子に、彼らもまたハインツと同じような煩悶を味わっていたのだと知れる。

「ハインツ…少なくとも、《風の終わり》が《地の果て》と同様の力を持つのであれば、こいつが武器として機能することは、大シマロンの民にとっても永続的な意味で大きな被害をもたらすとは思わないか?」

 キーリィーと共に被害地の調査をしているダングルが強く主張する通り、《地の果て》は広範囲の土壌を汚し、動植物にも影響を与え続けている。それが、《風》にまで波及したら、一体どのような事態が起こるのだろうか?

「死の風が吹くのだとすれば…その被害はカロリアには留まらないだろうな」

 ハインツもそのような内容の意見書を提出したことがあるが、それらは黙殺されてきた。《そのようなことは上で考えるから、お前は本来の職務に集中しろ》と、上司は頭ごなしに押さえつけるだけである。

「陛下が何を考えておられるのか俺たち臣下には知るよしもない。だが、少なくとも領土に住まう民全体の利益よりも、御自分の権勢に重きを置いておられることは間違いない。俺は…大シマロンを完全に裏切り、魔族につくことは出来ないが、この大地が穢れることを知っていながら黙認することも出来ない」

 キーリィーが思い詰めたような表情でハインツの肩を掴んでくる。大きなその手は無骨で、官吏として机についているよりも、土を弄り、民の現実を知ることを自らの責務と知る男の手だ。

 ハインツにとって、誰よりも信頼おける男の手だ。

「…分かった!」

 汗の滲む拳を握りしめると、ハインツは頷いた。
 駆けていく先は…舞台際で戦っているコンラートだ。信じて貰えるかどうかは分からないが、おそらく、ここまで展開した《風の終わり》を止められるのは、あの獅子と双黒しかいないのだから。

  


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