第2部 第13話 《歌謡祭》の当日は残念ながら雲間に月が隠されていた。しかし、気候に合わせて臨機応変に舞台準備を進めたマーシャ達は、その闇夜を活用した照明を施している。 ぽ… ぽぅ……! 真っ暗な中に、ほぼ一斉に火が灯されると…舞台の上は百花繚乱の花園と化す。大型の扇子を二本合わせて軸芯を合わせると、大きな華のようになるのだ。歌姫達が一斉に扇を開いて灯籠と共に舞い踊れば、鮮やかな光彩の群れが宵闇の中で咲き乱れた。 ただ、灯火台に近い数人は少し不思議にも思っていた。灯火のすぐ脇に、何か小石のような影がちらついているように思えたのだ。 しかし舞台上の明かりが眩しさを増していくと、そんなことはすぐ忘れてしまった。 うわぁあああ……っっ!! 大歓声と拍手が地を打つほどの勢いで響き渡ると、中心の一人が《ドン!》…と舞台を踏み鳴らしたのを皮切りに、《ドンドンドン》…っ!と威勢の良い足踏みが波濤のように続く。次いで、伸びやかな美声がよく知られた春の歌を謳い上げた。普通は春の盛りに謳われるものだが、舞台上の華やかさを思えば、まだ冬の最中にあるカロリアでも違和感は感じられない。寧ろ、一夜だけでも春の暖かさに身を任せたいと誰もが思った。 軍人や地域の青年団が設営した舞台は非常に大きく、また、なるべく多くの観客が目にすることの出来るよう、高台から臨むことも出来るように配慮されていた。幾らか遠目にはなるものの、拡声器などを通してギルビット港の住人達全員に音が聞こえるようにと配慮されていた。 流石に美々しい舞台を直接目にすることの出来る面子は、お偉方と多額の出資をしてくれた富裕層に限られるのだが、そもそも彼らから金を搾り取る為の企画なのでこれはご容赦願いたい。 『おお、相変わらず見事な歌声だ…』 『技巧だけでなく、情感にも磨きが掛かったようじゃないか…』 ほぅ…と感嘆の吐息を漏らしながらも、誰もが声で大気を震わせようとは思わなかった。マーシャの歌声は自分の無粋な声で邪魔するには、あまりにも見事だったからである。 マーシャは歌姫ギルドや吟遊詩人会の顔役なので、組織力ばかりが印象に残るが、そもそも当人の技量が並はずれているのである。また、彼女は指導にも余念がないから、多くのギルドから期待の新人を任されたりしている。今回の企画も、彼女の同意がなければ実現することは無かったろう。 『魔族の依頼でこのような催しをすると聞いたときには、マーシャもついに焼きが回ったかと思ったが…なんのなんの、素晴らしい舞台じゃないか』 オープニングの群舞の段階で、既に何人もの支援者が納得の頷きを繰り返していた。 何しろ、今回の企画参加者は他に類を見ない豪華な顔ぶれなのである。世界的に名を知られた歌姫や吟遊詩人、あるいは、近年注目を集め始めている踊りの名手が一同に揃っている。個性が強く、癖のある芸術家達はお互いの主張が強くて滅多に同じ舞台には立たないから、今宵の《歌謡祭》が実施に至ったのは奇跡とも言える。 マーシャの歌声に合わせて当代随一を誇る歌い手達が巧みな声質の重なりを、天鵞絨のように極上の耳障りで描き出してくれる。 うっとりと吐息を漏らす人々はいきなり絶頂感を味わっていたが、それは如何に言っても早すぎる。ここからが本番なのだから。 ふぅ…と舞台上の灯りが変わる。白と黄色、そして淡紅を主体としていた光が薄青い物に変わると、灯された明かりもゆるやかに揺れる蝋燭に置き換えられた。 一瞬の暗転の間に、舞台には二人の少年と一人の女性が佇んでいた。 少年達はお揃いの銀の長衣に、蒼と紅の色違いの華を付けている。この季節に咲くものではないから造花なのだろうが、舞台上では実に映える。華奢で伸びやかな体躯とも相まって、シャラ…と揺れる布地もなんとも美しい。 この二人が、世界有数の強大国たる眞魔国の王太子と、小シマロン王なのだろう。そう考えると、先程までとは別の意味で《豪華》な舞台であることが認識される。 女性の方は、銀色の髪を普段はきりりと結い上げているフリン・ギルビットだ。今日はくるくると綺麗に巻いて流しており、年齢相応の艶やかさを醸し出している。身につけた清楚な白のドレスも、彼女がまだ若く美しい女性なのだと言うことを再認識させてくれた。 『ああ…女神様のようじゃないか…っ!』 カロリアの人々にとっては、オープニングに現れた歌姫達よりも美しいと感じられたことだろう。フリンが自分たちの領主として正しく認められたことも知っていたから、誰もが誇らしげに彼女を見守っていた。 「皆様、この度はカロリア復興の為の《歌謡祭》にお集まり頂き、誠にありがとうございます」 朗々と響く声は眞魔国製の拡声器の力も借りて、伸びやかに響いていく。おそらく、遠くの山間で耳を澄ませている連中にも伝わっているに違いない。 フリンは型どおりの挨拶を美しい声で紡いでいったが、挨拶が終わるか…と思えたその時、一息吸い込んでから意を決したように顔を上げた。 「ここにお集まりの皆様に、どうしてもお伝えしておきたいことがあります。…と申しますのは、私は大恩ある眞魔国に対して、その友誼に十分応えてきたとは思われないのです」 観客達は意図を計りかねて小首を傾げた。彼らはそれぞれの情報網によって今回の件を判断していたが、確かに眞魔国がこのような企画をしてまでカロリアを復興させようとしているのか、その理由を推し量ることは出来なかったのである。 フリンはそもそもの由来…《地の果て》開放実験に於いて、自分が果たした役割を告げた。自分の罪深さも認めた上で、更に語ったのは眞魔国の貴族、ウルヴァルト卿エリオルについてだった。 彼は自らの肉体を実験台として使われ、獣のように牽かれていくというその場に於いて唯一度フリンが庇ったというだけで、名を伏せて救援物資を送り、更には王太子ユーリと共にこのような復興企画を実施してくれた。 「私は…卑怯者です。エリオル様の友誼を感じていながら、《魔族と通じた女》と言われたくないが為に、表だって友情を示すことなくこの日まで来てしまったことを…心からお詫びしたい。その為に、今回の企画準備に当たっても眞魔国軍の方々には多くの不快な思いをさせてしまったことを、お詫びしたい…!」 自責の念に駆られて謝意を示すことに執心しているフリンを、ふ…っと掌で双黒の王太子が止めた。 「そのきもちだけで、じゅうぶんです。おれたちは…むくわれました」 「ユーリ殿下…」 「エリオルは、フリンさんにあやまられることを望んでるんじゃない。エリオルはいってました《まことに時にぶなしめじ》…あれ?」 「《まことに時に示された信義は、命をかけて護るべき価値がある》…だね」 すかさずサラレギーが苦笑しながら補足する。 《まことの時に示された信義は、命をかけて護るべき価値がある》…それは、古くから知られる言葉ではあったが、それだけに実行できているものが如何に少ないかを示してもいた。 そもそも人間の間では、それがかつて眞王が語った言葉…劣勢を覆すべく獅子奮迅の闘いをした人間の王、ウェラーに捧げられた言葉であること自体忘れられている。 「そうそう。だから、エリオルがほんとうに困ったときに、からだをはって助けてくれたゆうきは、すごくすごく、すごいことなんです」 王太子の笑顔と言葉は深く…暖かく観客の心に沁みていく。 たとえ慣用句を正しく暗記していないのだとしても、共用語を正確に発音できないのだとしても…揺るぎない真心は、精一杯《伝えよう》とするその声と態度から伝わってくるのである。 『昔…神様の言葉を十年掛けてやっと、一節しか覚えることの出来なかった男の話があったっけ…』 人々はその男を馬鹿にする一方で、全ての神の言葉を記憶し、つらつらと語ることの出来る男を賞賛した。だが、後者の男はいつしか自分の知識をひけらかして傲慢な物言いをするようになり、ついには神の言葉を自分の考えた言葉だと考え違いをして、人々を誑かすようになった。 その時、初めて一節を覚えきることの出来た男が叫んだ言葉が、やはり先程の言葉ではなかったろうか? 知識有る男について行った者達は堕落して地獄に落ち、初めて一節を覚えることの出来た男と、彼について行った者達は天国に招かれたという。 その話を知ったときには、結末部分を死後の世界についての寓話だと思っていたのだが…双黒の王太子を見ていると、生きている間でも同じ事なのではないかと思えてきた。 まことの時の信義を忘れず、尽くすことのできる心。 その恩義をやはり忘れずに報いようとする心…。 それらを持つ者達は、生きながらにして天界に在ることが出来るのではないだろうか? サラレギーは巧みな言葉を駆使して《地の果て》開放実験について詫び、双黒の王太子との友愛を盛んにアピールしていたが、観客達の中でも見る目を持つ者達はその言葉に重さを感じ取ることは出来なかった。 真実を持たない言葉の空虚さを感じていたのである。 しかし、その違和感もすぐに消えた。場面が展開して、今度は本筋の舞台が始まったのである。 楽団の調べと共に勇壮な歌が流れれば人々の心は浮き立ち、繊細なアリアが星屑を連ねたような調べを紡げばその切なさに涙した。 また、第一部の終わりにはカロリアでよく知られている民謡が奏でられ、足踏みでリズムを取りながらの演奏に、人々は立ち上がって歌い始めた。 歌の輪は広がって広がって…きちんと席を設けた観客席は勿論のこと、音だけを頼りに聞き惚れていた人々もまた歌い始めて、大音声の群れが大気を震わせた。それは音程が乱れていたり、リズムが外れたりはしていたけれども…それを凌駕する一体感を人々に与えたのだった。 いつしか歌の輪はルッテンベルク軍や小シマロン兵にまで広がり、人々は人形のように無表情だった小シマロン兵が、初めて笑み解れるのを目にしたのである。 彼らはこの時、まだ気付いてはいなかった。 闇の中に蠢く悪意が、羽音を震わせて人々の友愛を唾棄していると…。 * * * 舞台から下りてきたフリンは、少しぼんやりしていた。 気分の高揚のせいで空回りしたような気もするし、ちゃんと言いたいことが伝わったのかどうか不安は残る。それでも…数夜に渡って《必ず言おう》と思っていたことだけは、多くの人の前で告げられたと思う。 《ほ》…と息をつくフリンのもとに、そっと飲み物が差し出された。バンドン商会の屋台で名物となっている、大きなマグカップに入れた蜂蜜ワインだ。 「どうぞ。寒かったでしょう?」 「まあ…ありがとう、エリオル様」 「様なんてよして下さい」 「そう?でもあなたは立派な家系の貴族様ではなくて?」 「あなたと違って私は自分の領土も持たず、領民に対する責も担っておりません。私の方が、あなたに対して敬意を払うべきでしょう?」 くすりと苦笑したエリオルは、初めて会ったときよりも随分と大人びて見えた。以前は12歳程度の、如何にも育ちの良いお坊ちゃんという感じだったのだが、今では2、3歳は年嵩に見える。表情や姿勢によっては、成人した男に見える瞬間もあった。 純血貴族の彼はそうすぐに成長するはずもないのだが、身の内から放たれる威風といったものが、呼び捨てに出来ない重厚さを醸し出していた。 「ん…」 スパイスを幾らか振った温かいワインを飲み下すと、か…と胃の腑が一気に暖まる。 「美味しい…!それに、暖まるわ…」 「ええ、薄着で頑張っておられましたからね」 エリオルはフリンおつきの侍女に目配せをして、ふわりとショールを羽織らせた。この辺りの気配りは流石に貴公子である。 「お恥ずかしいわ…未亡人がこんな格好で張り切って…」 「あなたはとても美しいですよ」 さらりと言われた言葉が小娘のように嬉しく感じて、照れ隠しについ厳しい語調になってしまう。 「そうかしら?何だか…随分とお口が上手になられたのね?眞魔国では宴席で幾人もの貴婦人を泣かせているのではなくて?」 「私は不器用な達ですから…失礼な言い回しをして怒られるのが関の山ですよ。それに…宴は苦手です。特に華やかな貴婦人方とは何をお話してよいか分かりません」 「まあ、そうなの?」 「ええ…ですから、今もあまり上手く言えないのですが…とにかく、あなたはとても綺麗です」 大真面目な顔をしてエリオルが繰り返すから、ついつい口元を覆って噴きだしてしまった。何ともかんとも…この子は何処までも大真面目なのだ。 「ねぇ…エリオル、あなたはお幾つなのかしら?」 「正確には覚えておりませんが…確か40くらいだったと思います」 「え…っ!?あ、そ…そうなのね。そういえば、魔族って実年齢よりも若々しいのだったわね」 見かけの若さでエリオルに対して引け目を感じていたフリンも、生まれてからの年月が40年なのだと知ると、急に《少年》ではなく《男》として認識してしまうから不思議だ。 「エリオル…」 《あなたの目に、私はまだ女として映れるのかしら?》…思わず口に出かけた柄にもない台詞は、結局口にせずにすんだ。 まだ幕間の休憩は続いていたはずなのに、舞台上が急に騒がしくなったからである。 * * * ブブブブブ………っ ブブブブブ………っっ!! 最初、人々はその音を耳鳴りか何かかと思った。 万が一の事態に備えてカロリア衛兵も、一応は小シマロン兵も連動して防御陣を固めていたのだが、その音は次第に高まり、大きくなって行くに従って人々の心に底知れない恐怖感を増幅していった。 ただ、その中で比較的ルッテンベルク軍だけは落ち着きを保っていたのは、経験値の差によるものだろうか? 『この音は…天上から響いているのではないか?』 ブブ… ブブブブン……っ! 次第次第に明確になっていく羽音は天を覆い尽くしていき、正体を確かめようと振り回される松明の炎が閃くたびに、信じがたい《敵》の姿が掠めていく。 ゴォオオ……っ!! 「う…っ!」 突然の強風に煽られて、松明や篝火の焔が危険な程に舞い上がる。それはまた、遙か上空でも同様であったらしい。分厚く空を覆っていた雲が風に払われると、眩い月が辺りの事物を照らし出す。 地上に犇(ひし)めく人々と…彼らに影を落とす天上の生き物、巨大な昆虫の群れを…。 「な…んだ、こいつら……」 蜻蛉のような羽根を盛んに羽ばたかせているが、その身体を覆っているのは蜂を思わせれる甲殻であり、釣り上がった三角形の複眼がおぞましくぎらつく。そいつらはざわざわと羽音を響かせながら距離を詰めていくものの、巨大な鎌に似た前脚を掲げて威嚇姿勢をとるばかりで攻めては来ない。それが余計に不安感を誘い、誰もが手を出せずに息を潜めていた。 いや、動きがなかったのはおそらく数分のことだろう。 一際大きな体躯を誇る蜻蛉が鎌をもたげたかと思うと… ボゴォオ…っ! 無造作に突き込んだ瞬間に高速の波動が大木の幹を貫通する。鋭い鎌が何をもたらすのかをまざまざと見せつけた蜻蛉達は、物言いたげに自分たちの鎌をもたげていく。 『一撃であれほどの力を発揮する鎌が…無数に?』 人々がその意味を十分に把握して慄然と背筋を震わせたその時、先程の一撃をもたらした蜻蛉が大気を震動させる《音》を発すると、きしるように不快な音は一つの意味をもって人々の鼓膜を揺らした。 “《鍵》を渡せ” “さすれば、お前達は生かしておいてやろう” 「鍵…」 「な、何のことだ…?」 ざわめく人々の中で、怪物に向かってすたすたと歩み寄る男が居た。 「欲しいのは、俺か?」 そこにいたのは《ルッテンベルクの獅子》…フォンウェラー卿コンラート。 異世界に渡り、失ったはずの《左腕》を帯びて帰還した男。 《鍵》…《左腕》 その符号が人々を震撼させた。 ここ近年、大陸庶民の間でも歌を通じて広まっていた《禁忌の箱》に関するキーワードが、人々の心に激しい動揺をもたらしていた。 「まさか…まさか……」 「《風の終わり》…なのか?」 「《鍵》を求めて…来たって言うのか…?」 ざわめく観客達を宥めるように手を翳しながら、コンラートは静かに訊ねた。 「地球にいたときには問答無用で攻めてきた癖に、何故このように行儀良くしている。狙いは…魔族と人間の分断か?」 “流石は察しが良い” 誰もが頸椎の可動に突然、違和感を感じていた。 きし…きし……と僅かに動くたびに抵抗感を覚えるのは、すぐ傍にいる連中の顔を真っ直ぐに見る勇気がないからだ。 歌の盛り上がりに任せて大合唱を愉しむ間に、言葉にはまだ出来ないけれど、人間と魔族の垣根は急速に取り払われていた。 そう思っていた、先程までは。 しかし…それがひょっとして幻想に過ぎなかったのではないかということを、彼らは激甚な方法で思い知らされていたのだ。 『フォンウェラー卿コンラートを売れば、自分たちは襲われない』 『魔族は俺達を疑っているんじゃないのか?』 『疑いを起こした魔族が、俺達が妙な動きをした途端に…斬りつけてくるんじゃないか?』 疑心暗鬼という闇が、どんよりとした…不気味な触手を伸ばして人々の心を揺るがしていく。 人間に比べればまだ冷静なものの、ルッテンベルク軍の兵士達も《いっそ闘いが始まってしまえばいい》と祈らずにはおられなかった。そうすれば、勢いに任せて闘いに没頭することが出来る。こんな風に疑いを感じて心を軋ませることもないではないか。 だが…何故かコンラートに動きはない。そればかりか、静謐なまでに澄んだ眼差しを浮かべた彼は、剣の柄にすら手を掛けていない。 その姿を見つめた者の内、数人だけは思い出していただろう。 数日前にコンラートが示したあの言葉を。 『争いではなく、赦しと協調によって魔族と人間が結びつくことを、何としても叶えてやりたい』 呼応してくれるのを待っているのだ…限界まで。 自分が自分でないものに変えられてしまうかも知れないという恐怖と闘いながら、彼は…待っているのだ。 今、この…《まことの時》に。 |