【第2部】 第1話







 ドン…
 ドドン……っ!

 夜空を埋め尽くす花火の煌めきに、血盟城の宴に列席していた面々も、城下町でホットワイン片手に待ち受けていた赤ら顔の民達も、老いも若きも一緒くたになって一斉に歓声をあげた。

 ドォン…っと撃ち上がり、滾るような爆発を遂げたかと思うと、天で弾けた光粒は儚いような余韻を残してちらほらと散華していく。雪のような、花弁のような散り際は…どこかもの悲しくもあり、そうであるからこそ新たな始まりを予感させもする。

 何かが終わり、そして始まろうとしている…その事を如実に感じさせる華達は、次々に舞っては己の使命を果たしていく。

「おお…何と見事な花火だ!」
「流石は当代一の発明家、フォンカーベルニコフ卿アニシナ様の御技!」

 アニシナは魔力持ちの一部の貴族からは《紅い悪魔》と呼ばれて恐れられているものの、実害を被ることのない民の間では非常に人気が高い。彼女の作り出す発明品は《成功》と呼ばれる場合は巨大な副作用をもたらすのが常なのだが、たまに《失敗》したときには効果はぼちぼちでも、副作用がほぼ存在しない妙薬や道具を生み出すことがある。
 それらは市場に安価で流通されて、民の生活を潤しているのだ。

 ことに、彼女は身体に何らかの不自由を持つ障害者や傷痍軍人の福利厚生には気を配っており、彼女の発明によって《第2の生涯を満喫できた》と感謝している者は枚挙に暇がない。それもあってか、彼女が大規模な実験やら出し物を企画する際には、民の誰もが瞳を輝かせてその日を心待ちにするのだ。

「いやぁ…アニシナ。僕にも半分で良いからその優しさを分けて貰えないかなぁ…」

 兄であるデンシャムの発言は、《自分が優しくなりたい》という殊勝な意図に基づくものではない。単に《自分が助かりたい》という切羽詰まった要望であったので、アニシナは器用に《パタム》と耳介を倒した。比喩などではなく、物理的に耳介軟骨が胸骨弓に張り付いてくるのだから、横で見ている見ているグウェンダルとしては気持ち悪…いや、心臓に悪い。(←心を読まれるとでも思っているのか)

「アニシナ…その耳………意図的にやっているのか?」
「は…っ!この程度の技は、私の優れた才能の中ではほんの小手先に過ぎません」

 アニシナは(強制的に)手伝わせているグウェンダルに向かって昂然と胸を張ると、《ははん》と鼻でせせら笑った。

「別に優れた技能として褒め称えているわけではない。その…自分が犠牲者になった時には本気で怖いから言っているのだ」
「全く、男というものはどうしてこう…怯えきった子鼠のように情けないのでしょうね?」
「お前相手の時だけだ…!」

 またしても都合良く《パタム》と耳介が倒されると、アニシナの指は《ぽちっとな》という風に巨大なスイッチを押し込む。すると、《鉄の処女》(念のため言っておくが、内部に肉を刺し貫くような棘は無い。代わりに無数の電極が張ら巡らされているのだ)に繋がれたデンシャムから大量の魔力が吸い取られ、一斉に花火を打ち上げる原動力となっていく。

 ドドド…
 ドンドンドン……っ!

「た〜まや〜っ!」

 元気一杯の声が響くと、アニシナの口元にも女性らしい笑みが浮かぶ。
 基本的に子どもと女性には優しい彼女のこと、王太子に任命された渋谷有利は《子ども》カウントで庇護対象となっているのかもしれないし、あるいは…彼の中に内包された魂の由来を知っているからこそ、つい視線が甘くなってしまうのかも知れない。

「よい子ですね、次代の魔王陛下は…」
「ああ…」

 同じく子どもと女性…ことに、あどけない《仔》には如何ともしがたいほどの溺愛を注いでしまうグウェンダルは、口元を覆っても隠しきれない笑みに困惑していた。

「何という顔をしているのです」
「…煩い……」

 自覚があるので有効な抗弁も出来ない。
 
「まあ…無理もありませんけどね。ふふ…コンラートも幸せそうな顔をして!」

 くすくすと、彼女にしては実に珍しい笑い方をしてアニシナが微笑む。これで背後デンシャムの凄絶な苦悶の表情(断末魔の呻きが口元から溢れている)さえなければ、聖母のようにも見えたろう。

「……」
「後はヴォルフラムが素直になれば、あなたにとっては万事解決なのでしょうけどね…」
「何とかする」
「おや…」

 アニシナの表情は先程までとは違った意味で、深い愛情を湛えたものになる。ただ、次の行程作業をこなすふりをしてグウェンダルには見せないようにした。
 この幼馴染みを見直しているなど…彼女の性格から言って、決して知られたくはなかったのだ。

「ヴォルフラムも決してコンラートを憎んでいる訳ではないのだ。おそらく…ビーレフェルトの血族の中で様々吹き込まれたことを消化することが出来ず、当たり易いコンラートにぶつけてしまったのだろう。まさかコンラートがあれほど傷つくとは…《嫌われた》と信じ込んで、傍に寄らぬようにするなどとは思わずにな。その事を後悔しても、あれの性格からいって素直に謝ることが出来ずにいるのだ」
「そこまで分かっているのなら、頑張りなさい」
「分かっている」

 長年連れ添った夫婦のような会話を交わしながら、二人は幸せそうに微笑み交わす王太子殿下と、堂々たる大貴族として朱のマントを翻すフォンウェラー卿を見守った。



*  *  *

 


「すごい花火!きれい、きれ〜い!」
「ああ…今日はグウェンも犠牲になっていないから、安心して眺めることが出来るね…」

 きゃっきゃっと天真爛漫な表情で喜ぶ有利に、くすくすとコンラートが笑い声を漏らす。

「いつもはグウェン、ひどいめ?」

 現在、有利とコンラートはグウェンダルのことを《グウェン》と愛称で呼んでいる。ツェツィーリエがそう呼んでいるのを聞いて、親しみを込めて有利が呼んでみたら特に抵抗がなかったからだ。

 ただ…《コンラッドもそう呼ぶ!》と勧めたときの、コンラートとグウェンダルの表情は見物(みもの)だった。

 促されて、初めて《グウェン…》とコンラートが呼んだときには、グウェンダルは眉根に深々と皺を刻んで口元を掌で覆っていた。不機嫌なのではなく…にやけてしまいそうなのを隠そうとしているのはもはや明確であった。 
 
「そうなんだ。グウェンは眞魔国でも有数の魔力持ちだし、幼い頃から親しくしているから気心が知れているんだろうね」
「おななななじみってこと?」
「《幼馴染み》だよ」
「んと、幼馴染み?」
「うん…上手だ」

 コンラートの舌遣いを目で見ながらもう一度発音すれば、褒められてにかりと微笑み返す。

「王太子殿下、随分と眞魔国語が上達されましたね」
「あ、デル・キアスン!」

 やわらかい薄水色の髪と瞳を持つ青年が親しげに歩み寄ってくると、有利も嬉しそうに手を振った。傍らには先程まで壁沿いの席に座っていたフォンウィンコット卿オーディルもいる。こちらは幾らか厳めしい顔立ちと純白に近い頭髪をしているが、薄水色の瞳が持つ優しさは青年と共通のものであった。

「ううん、まだまだれんちゅうちゅう」

 唇を尖らせて懸命に発音するのだが、どうも上手くいかない。
 ふくっと下唇が突き出てしまい、まるでキスをねだるような顔になってしまう。

「殿下、《練習中》ですよ?」
「れんしゅうしゅう?」
「れ・ん・しゅ・う・ちゅ・う、です」

 顔を寄せてゆっくりと発音してくれるので、引き寄せられるようにして至近距離で唇と舌を動かすと、不意に後ろから肩を引かれた。横で様子を見守っていたコンラートだ。

「ユーリ…《練習中》だよ?」

 微かに鋭いものを含んだ語調を訝しく感じながらも、じぃ…っと口元を見つめて繰り返すと、今度は上手に発音できた。

「練習中」
「そう…上手だ」
「えへへ…」

 にぱ…っと笑っていると、何ともいえない複雑な表情をしてデル・キアスンが咳払いをした。

「いや…なんというか…」
「ふむ……コンラート、お前がそのように執着心を露わにするようになろうとはな…」

 《余程惚れているのだな?》とオーディルに囁かれて、コンラートは気まずげに顔を顰めた。そういう顔をすると、この男は妙に長男との相似を示す。

「ちゅうちゃく?」
「《執着》ですよ、殿下」
「デル・キアスン…!余計な事まで教えなくて良いから…っ!」

 居心地悪げにコンラートが唸ると、デル・キアスンはどこか悪戯めかした眼差しでこちらを見やった。

「ふふ…でも、本当に殿下は少し気を付けられた方が良いかも知れませんね。練習熱心なのは結構ですが、そのように美しい眼差しを無警戒に近寄せられると…この僕でも二人きりでいたら理性を保てるかどうか自信がない。これから共に学んでいくことになる《教育官》などは尚更でしょう」
「………」

 コンラートが憮然として視線を巡らすと、話を聞きつけたわけではないのだろうが、件の《教育官》の一人が近寄ってきた。



*  *  *

 


 コンラートと有利が二人きりで濃密な大気を共有しているときには手出ししにくかったのだが、ウィンコットの御大と若旦那が近寄ってくると、幾らか入り込みやすい空気が出来る。

 フォンギレンホール卿サーディンは長いハニーブロンドを掻き上げて、優雅な足取りで近寄ると有利に会釈して見せた。100歳と少しの若々しい青年貴族は、かつてコンラートの同期生として士官学校に在籍していたこともあるのだが、彼らは互いにその事を口にしたりはしない。少なくとも、表面上は。

 今宵もサーディンが親しげに語り掛けたのは王太子の方であり、コンラートには目もくれなかった。

「今宵はお楽しみですかな、王太子殿下…」

 《殿下》との呼称に、有利は奇妙な具合に唇を枉げた。
 しかしその表情には不機嫌というより子どもが拗ねている風なあどけなさがあったから、巧みに造り笑顔を浮かべていたサーディンの口元には、当人もそうとは気づかないまま素の笑みが浮かんでいた。

「さっきから殿下殿下いわれるのがイヤ。キアスンもサーディンも、いっしょに勉強する。だから、ユーリってよぶの良い」
「ほう…?お呼びしても宜しいのかな?嫉妬深い恋人に怒られるのでは?」

 くす…っと意識して嫌みに嗤えば、コンラートの表情は静かに《整う》。

 そう、彼は昔からそうだった。からかわれて素直に表情を変えていたのは、それだけ肩の力を抜いていた証拠なのだ。今はサーディンを警戒しているからこそ、実に優美な《大人》の貌でそつのない佇まいを見せる。
 
 おそらく、初対面であればサーディンの注意力でも見抜けなかったろう完璧な仮面だが、流石に彼を知ってからの時間自体は長い。特に、表に出さずとも強烈にコンラートを意識し続けていたサーディンからすれば、憎々しいほど怜悧な表情に見えた。

『そうやって貴様は、我々に仮面を被るのだ…』

 サーディンは昔からギレンホールの血族の中では極めて優秀な部類であり、高い矜持を誇っていた。誰もがサーディンに一目置き、意見を求め、反発する者であっても意識野に強くサーディンを置いているのが分かった。

 だが…コンラートだけは違っていた。

 彼は常に遠くを見据え、ぶつけられる敵意も崇拝もどこか他人事の様に感じているのが分かった。殆どの者は気付いてもいなかったろうが、サーディンは強くコンラートを意識する故に、そのことを察知していたのだと思う。

『さぁて…この無邪気な王太子殿下と深い仲になっても、その仮面を被り続けることが出来るかな?』

 士官学校時代にはサーディン同様にコンラートを意識するあまり、彼を填めようとしたり、悪辣な方法で肉体を手に入れようとして玉砕していった連中が大勢いた。だが、サーディンはそんな輩を嗤っていた。万が一そんな方法が上手く行ったとしても、コンラートの意識野に存在を刻む込むことは不可能だと思われたからだ。

 彼が辛い境遇にあっても凛として耐えていられるのは、自分の意識野さえも巧みに《騙せる》からだ。肉体に刻まれた少々の疵など、彼は意識的に《無視》することが出来る。そういう性質なのだ。

 彼の意識に疵を付けた唯一の存在は…おそらくスザナ・ジュリアだけだろう。信頼し、心の柔らかい部分を初めて晒した相手であったが故に、喪った痛みは直接的にコンラートの心を打ちのめしたのだ。
 その魂を受け継ぐという有利は、おそらく現段階で唯一コンラートに疵を付けられる存在であるに違いない。

『刻みつけてやるよ、今度こそ…』

 闇い情熱を燃やしながらも人好きのする笑顔を浮かべると、サーディンは親しげに有利へと近寄っていった。コンラートが反発を覚えたとしても、この場であからさまな制止をかけるわけにはいかないと知っての行動だ。サーディンは公的に認められた有利の《指導官》なのだから。

 サーディンは悠々と有利の傍まで来ると、気の利いた台詞を口にしながら肩に手を回そうとしていた。
 だが…有利は不意にくるりと身体を回転させると、サーディンの長い腕を宙に舞わせた。

「あ…っ。見てみて、花火っ!あたらしいのっ!」
「お…や。はい…そうですな…」

 今度は花火に掛けて上手いこと有利の美貌を賞賛しようとしたサーディンだったが、今度は逆に驚くほど近く…武人であれば咄嗟に警戒態勢に入ってしまうほどの懐に双黒が入り込む。

 澄み渡る夜空を切り取ったような瞳は、ぱちくりと大きく開かれていた。
 なんて開けっぴろげな表情をするのだろうか?…と、状況も忘れて感嘆してしまう。

 続けて有利がとった行動は、サーディンを更に驚かせるものであった。

「サーディン、口になんかついてる」
「…っ!?」

 無造作に指で口元を拭われると、つぶらな漆黒の瞳が更に至近距離にあった。それがすぅ…っと吸い込まれそうなほど澄んでいることに、不思議な衝撃を覚えてしまう。まるでサーディンの中にある闇に気付かれることを恐れるように背筋を震わせるが、有利の方はまるで屈託なくにこりと微笑む。

「とれたとれた!」

 そのまま汚れた指を裾で拭おうとするから、慌ててコンラートが止めに入る。

「ユーリ…折角の正装が汚れてしまうよ?」
「あ、ゴメンゴメン」

 コンラートは有利の手を取ると、暖めたお手拭きを回遊しているメイドから受け取り、ふか…っとした布地で丁寧に指を拭ってやった。その動作は実に甲斐甲斐しく…仮面の下からはとろけそうな表情が透けて見える。

「はい、綺麗になったよ。おい、サーディン。君も顔を拭いてきたらどうだ?」

 くすりと微笑んだ顔からは、少しだけ仮面が剥げて見えた。嫌みな口調がコンラートの本心を表しているのだと思ったら変に嬉しくて、サーディンはそんな自分の心の変動に舌打ちした。

「あ…ああ……」

 《気障な美丈夫》として知られる身が、口元をソースか何かで汚したまま格好つけていたのが今更ながらに恥ずかしくて、サーディンはそのまま退散した。何とか体勢を立て直さないことには、精神的にも肉体的にも保ちそうになかったのだ。 
     


*  *  *

 


『ああ…今なら声を掛けられるかしら?でも…でも、殿方が談笑しておられる間に割って入るのは拙いかしら〜…』

 そわそわと繊細な細工を施した靴を踊らせながら、フォンラドフォード卿エレルラインはコンラート達の様子を伺っている。栗色の巻き毛とハシバミ色をした大粒の瞳が愛らしい彼女からは、大貴族特有の傲慢さは感じられない。
 その一方で、気を使いすぎるあまり大胆な行動に出られないのが短所と言えば短所であった。

 コンラートとエレルラインとの間では、コンラートが巫女アルザス・フェスタリアの予見によって失脚するまで、かなりの現実味を帯びて縁談話が推し進められていた。ほんの少女の頃から長くコンラート憧れ続けていたエレルラインにとって、それは夢のような話だったのが…ぱちんと弾けてしまった点もやはり泡沫の夢のように儚いものであった。

『きっと…コンラート様はもう覚えておられないわよね……』

 そもそもあの縁談には父が積極的であっただけで、コンラートがどう思っていたのかは一切分からない。宴の席で正式に顔合わせをする予定であったのだが、あの事件以降コンラートが公的な場に顔を見せることはなくなっていたのだ。

『今は双黒の君と恋仲だと聞くし…』

 そっと伺ってみれば、その噂話が如何に真実であるかをまざまざと見せつけられてしまう。有利を見つめるコンラートの瞳は甘く優しく…慈しみが売るほど溢れかえっているようだった。

 嫉妬するにはエレルラインとコンラートの仲は希薄すぎ、唯ひたすらに寂しくて…思わず泣いてしまいそうになった。
 エレルラインは後日、有利の《教育官》として血盟城に居室も設けられることになるが、期限も内容も明確には定められていないその任が、今となっては酷く苦痛に感じられる。

『こんな気持ちで、本当にラドフォード領の特徴を王太子殿下にきちんとお伝えすることが出来るのかしら?』

 父と共に有利と面談も行ったが、懸命に自己保身に努める父は一方的に喋ってばかりで、エレルラインはおろか有利までもが殆ど口を挟めずにいた。

『でも…少なくとも、お父様の印象をそのままラドフォードの民の印象にして欲しくない…!民には何の責任もないところで心証を悪くしてしまうなんて…そんなこと出来ないわ!』

 エレルラインにとっては優しく大切な父ではあるが、贔屓目に見ても才能がある男性とは言えない。十貴族の家名は持っていても、《家名以外には何も持たぬ》と揶揄される父だ。
 
『でも…どうしたら……』

 苦しげに眉根を寄せて俯いていたら、ふと肩に触れるものがあった。

「どうしたの?エレルラインさん…ぐあいわるい?」
「人混みに酔ったのかな?少し、バルコニーに出て新鮮な空気を吸った方が良い」

 甘い響きを持つ独特の声音にぎょっとして顔を上げれば、そこにいたのは…なんと王太子殿下であった。当然のように傍に控えているコンラートも、エレルラインの体調を慮るように優しく声を掛けてくれる。そっと白い手袋に包まれた手を添えられると、エレルラインは夢の中のようにふわふわとした足取りでバルコニーに向かった。

 何がどうなっているのか、咄嗟には理解できなかった。

「すこし顔、よくなった」

 《ユーリ…顔色だよ?》とコンラートに囁きかけられた有利は慌てて言い直しているが、エレルラインはそんな小さな事を気に留めている場合ではなかった。

「お声を掛けて下さって、ありがとうごどいます…。お心遣い、とても嬉しいですわ」

 しずしずと淑女の礼をとって頭を垂れると、ぱたくたと手を振って有利が笑う。
 ぱあ…っと辺りが明るくなるような、そんな表情であった。

「おせっかい、ゴメンね。でも、気になった。お父さんといっしょした時も、何かいいたい、いえない感じ。気になった」  
「まあ…」

 それでは、有利は気付いていたのだろうか?
 父の日和見な態度を恥じて、ラドフォードの民全てがこうではないのだと伝えたいのに上手く口に出来なくて、酷くもどかしい気持ちでいたのだと…。

『今言えなければ、私…お父様よりも酷いわ…!』

 エレルラインは心を励ますと、思い切って《教育官》として何を伝えていきたいのか、ラドフォード地方の民がどのような暮らしをしているのか、眞魔国全体に奉仕できる特性にはどんなものがあるのかを掻い摘んで語った。

 有利にはまだ言葉が難しいのか、全てを理解してくれたわけではなかったろうけれど、一生懸命に質問を交えながら《分かろう》としてくれることが嬉しかった。弁舌のたつ方ではないエレルラインにとっては、そのようなゆっくりと段階を追った理解の方が都合が良かったとも言える。

『もっとお伝えしたい…コンラート様への想いはさておき、この素直な性質をお持ちの王太子殿下に、教育官としての責務を果たさせて頂きたい…』

 エレルラインは淡紅色のドレスに包まれた胸をそっと押さえると、その中に芽吹き始めた蕾を大切に包み込んだ。


 


   

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