第7話







 ノーカンティーと共にはらはらしながらお留守番していた有利は、無事にコンラッドが帰ってきてくれたのを見ると、堪らずにぴょうんと飛び跳ねて迎えに走った。

「コンラッドーっ!」
「ユーリ…」

 宵闇の中で薄ぼんやりとはしていたものの、コンラッドの方も微笑んでくれたのが分かった。琥珀色の綺麗な瞳に銀色の光彩が跳ねて、えもいえぬ美しさを醸し出す。

 しかし、コンラッドは一人ではなかった。
 仲の良さそうな女性を連れていたのだ。

『おお、こりゃ恥ずかしい』

 子どもみたいに寂しがって、前後の見境無くコンラッドに抱きついたのが恥ずかしくて、ちょっと頬を染めながら身を離すと、女性に精一杯礼儀正しく名を名乗った。

「こんにちは。俺、渋谷有利って言います」

 女性は《グリエ・ヨザック》というらしい。女性にしては随分とごつい名前のような気がするが…この地方では普通なのだとしたら失礼だ。

『《グリ江ちゃん》なら女の子でも通るしね』

 試しに《グリ江ちゃん》と呼んでみたら、結構気に入ってくれたらしい。
 愛称だと気付いてくれたのだろうか?

 ヨザックと遣り取りしていたら、横からス…っとコンラッドが何か差し出してきた。

「ユーリ」
「これ…くれるの?」

 コンラッドが無造作に押しつけてきたのは飴玉の入った袋だった。一つ口に含んでみると、自然な甘みがじんわりと口腔内に広がって、待っていた間の寂しさを溶かしていく。
 嬉しくてコンラッドとヨザックにも差し出したのだが、ヨザックは笑顔で口に入れたものの、コンラッドは断った。
 どうやら甘いものは苦手らしい。

『じゃあ…俺のために買ってくれたんだ!』

 こういう物を購入出来る場所があるのなら家に連絡を取れるように是非有利も行きたいのだが、何故かそれはコンラッドに阻まれている。

 だが、それはきっと意味がある事なのだ。

 そう自分に言い聞かせるためには、この飴玉は随分と威力があった。
 物に釣られているみたいでちょっと恥ずかしいが、そういうことではなくて、コンラッドが有利を思っていてくれることが伝わってくるから、彼のやろうとしていることに従おうという気になるのだ。



 しかし、三人川の字で眠ってから明けて翌日…有利はとんでもない目に遭いそうになった。

「え…?」
 
 ぱちくりと目を見開いてる有利の前には、鮮やかな色彩のドレスが何枚も置かれている。マントを草の上に敷いて、その上に広げられているのだ。いずれもサイズが合わない…とかいうより、そもそも性別が合ってないのだが、ヨザックとコンラッドはこれを《着ろ》と言っているようだった。ご丁寧に栗色巻き毛のカツラまである。

「いやいや…ち、ちょっと待って?俺…男……」

 抵抗しようとすると、がっしりと肩を掴まれてヨザックに顔を寄せられた。
 《笑っている》…形をしているけれど、よく見ると蒼い瞳の中には酷く冷たくて醒めた何かがあるのだと知れた。

 《着て?》ではなく、《着ろ》と、瞳は告げている。
 多分、有利には選ぶ権利などないのだ。

『そういえば…昨日のコンラッドも《マントを脱ぐな》って言ってたよな?』

 直接言葉として理解できたわけではないが、ゼスチャーからそうなのだと察した。
 有利は、《誰か》から姿を消さなくてはならないのだと。

『ここ…やっぱり、俺がいた世界とは違うんじゃないかな?』

 そして、何か事情があって有利は異世界から来たことを知られてはいけないか、あるいは、《有利》という存在であることを知られてはならないのだ。だとすれば、全く別人に変装《しなくてはならない》必然性も理解できる。

『だったら…もう、嫌とか言えないよな?』

 有利はせめて色合いだけでも好きな物を…と、蒼色のドレスを示し、勢いよくコンラッドから借りた服を脱いだ。

 ピュウ…っとヨザックは口笛を吹くと、有利の胸に掛けられていたペンダントを指先で弾く。

『これのこと、知ってるのかな?』

 コンラッドもヨザックに何か話しかけられて憮然とした顔をしているから、曰く付きの物なのかも知れない。
 よく分からないが、いつか言葉を覚えたら教えて貰おう。

『そうだ…言葉、何とかして覚えられないかな?』

 今は名前しか呼ぶことが出来ないけれど、いつかコンラッドと会話をしてみたい。
 彼がどんな人なのか教えて貰って、有利がどんな奴なのか知って貰うのだ。

 そんな事を考えながらドレスを着込むと(ヨザックが器用に丈が余っていること補正してくれた)、カツラを被らされた上に、コンタクトレンズのような薄い色硝子を入れられ、ご丁寧に化粧まで施された。鏡を覗かせて貰ったが、かなりどぎつくて色っぽい化粧だ。飲み屋のちぃママ風と言うところか。
 瞬きをすれば、睫の風圧で薄い紙くらいなら飛ばせそうだ。

 ヨザックは有利のドレスと自分のドレスを見比べて、並んだ時の配色が悪いと思ったのか、ばさりと脱ぎだした。

「……っ!」

 恰幅が良いとはいえ女性の着替えなど覗いては…っ!と顔を背け掛けたのだが、思春期の好奇心に勝てずにちらりと横目で見てしまうと、《彼女》ではなく《彼》の肉体に度肝を抜かれた。

『なんて立派な大胸筋から腹筋に掛けてのラインっ!』

 ぱぁあ…っと瞳を輝かせて、通じないと分かっていても賞賛の言葉を浴びせかけると、ヨザックの方は《着替えを見ちゃ駄目よ》とばかりにシナを作っていたのだが、結構満更でもない様子でガッツポーズをとってみたり、力こぶを膨らませて(これも大変立派だった)見せつけてくれる。

 手を叩いて感心してしまったのだが…よく考えたら、ヨザックが女装の麗人(?)であったことにまず驚くべきだろうか?

 

*   *   *




『…なんでこう、可愛いんだろう…』

 いい加減しつこいような気がするが、相変わらずコンラートはそんな感想を抱いていた。
 吃驚するくらい濃いめの化粧をしているのに、それでもユーリはどこか愛嬌があって可愛らしい。特にごついヨザックとドレス姿で並ぶと、さくらんぼのように可憐だ。

 《あんたも着替えるかい?》と、ノリノリになったヨザックに誘われるが苦笑して断り、流石に脳を切り替えて次の行動を思案する。

『ヨザックは…隙を見てユーリを斬る気でいるな』

 恨む気にはなれない。
 寧ろ、ヨザックの感じ方こそが当然だと思うくらいで、怒って激昂したりしないのは隙を探しているのと同時に、コンラートを傷つけずに始末をつけようと思っているからだと察する。

 この男は、自分で思っているよりも優しいことろがある奴なのだ。きっと、コンラートがユーリに惹かれ始めていることにも気付いているだろう。

『恋とか…そういうものでは無い筈なんだがな』

 それでも、ユーリに対して堪えがたい欲求を感じているのは確かだ。彼という存在を全くこの世から消してしまうことに、激しく躊躇を覚えるくらいには。
 
 ヨザックを納得させ、コンラートの目的を達するには何としても隙を見せずに安全性の高い経路で眞魔国に帰り着かなくてはならない。その為には仮面の協力であっても、ヨザックの力は必須になる。

「ヨザ、準備は良いか?」
「はいよ。流しの歌姫達の出来上がりよ〜ん。ま、この子は言葉が分かんないから、お酌させたりお捻りを集めさせたりするくらいだけどね」
「いや、飲み屋には入らない方が良いんじゃないか?」

 なるべくなら目立ちたくはない。
 ごついが会話と唄が上手いヨザックと可憐なユーリ、そして用心棒のコンラートという組み合わせはどうしたって意識に残りやすいだろう。

「軍資金は足りるのかい?隊長」
「………」

 痛いところを突かれた。

 確かに、港まで二週間程度の旅を乗り越えるには色々と心許ないものがある。
 海路にしても、万一ツテを辿れない時には後ろ暗い背景を持つ船に金を積んで乗せて貰わなくてはならないかも知れないのだ。
 何をするにしても、金というものは切実に必要だ。

「きっちり稼がなくちゃねぇ…。大国のお馬鹿さん達がこの子の所在に気付くまでに…ね」

 その大国の軍には眞魔国からの派兵分も含まれている。確か、フォンウィンコット軍を主力とする軍勢が、他国との衝突を巧みに避けながら大樹海の警戒に当たっているはずだ。

『ジュリアの弟が最高指揮官になっている筈だ』

 フォンビーレフェルトが真っ先に名乗りを上げたと言うが、今回は双黒を処刑することが目的なのだから、他国の軍とすぐに戦端を開いてしまいそうなあの軍は流石に忌避されたらしい。

 フォンウィンコット軍なら場合によっては頼れるかも知れないが、あまり積極的な選択肢には出来ない。《眞魔国軍に双黒あり》と知られれば、挙って他国の軍が奪取に動くはずであり、そうなった時…ユーリを救うために兵の命を擲たせることは流石に問題があるだろう。

『やはり自力で、船がつける場所まで行かねばならない』

 連絡さえ付けば、必ずしも警戒が強い港を使う必要はなく、小舟などで少し外海に出てから乗り込むことも可能なのだが、何にせよこの内陸部から出て海岸線がある国までは到達せねばならない。

 こうして、男三人の道中が始まった。



*   *   * 



 
 ヨザックとコンラート達が合流してから5日が過ぎようとする頃、ホーラト山脈を馬で越えた辺りで少し規模の大きい村《カルナス》に入った。

 ここは珍しく、大・小シマロンの支配下には無い辺境独立農村である。さほど豊かな実りもない代わりに大国からの搾取も受けておらず、村人の気質は基本的に大らかなようだった。
 ここに2日ほど腰を据え、飲み屋を宿代わりにさせて貰うことにした。



*  *  *




「ユーリ、お捻り集めてちょーだーい!」

 深夜を大きく回った頃、《これで引き上げよ》と示すように歌姫が呼ばわった。
 すると濃い化粧もどこか初々しく感じられる少女が、トタタ…っと客の間を渡って籠の中に小銭を受け取る。
 酔客達はニヤニヤ笑って少女の尻を撫でたりするが、真っ赤になって飛び上がる少女に更なる手出しをしようとすると、無愛想な用心棒の男にギロリと睨まれてしまう。

 なかなかに殺気の籠もった眼差しに、気の弱い男などは《ひぃっ》と息を呑んだりしていた。

「あーん、ごめんなさいねぇ?あの用心棒ってば見習い娘に夢中なんだけど、朴念仁なもんだから手が出せないのよ。でも、他の奴にも取られたくないもんだから、色目を使う男は片っ端から警戒してんの」
「へぇえ…あんなに佳い男だのに、随分と奥手なんだねぇ」

 気のよさそうな赤ら顔の親爺が、ヨザックの話に楽しそうに相槌を打った。

「遊び女との間には随分と浮き名を流してるんだけどね、生娘は初めてだから調子が掴めないみたいよ?」
「ほっほー、初めての子には純情って訳だ。いやぁ…初々しい恋話じゃないか。見たところ、娘の方も相当用心棒君にお熱みたいだから、ちょっと突けばすぐに懇ろになりそうなのになぁ…」
「ユーリも相当ウブだし、なにせ言葉が分からないからねぇ…。あの子、離島育ちみたいだけど、どうも性奴隷専門の人買いに売られたらしいのよ。多分、親が死んだか…もっとひどけりゃ、食い詰めた親が自分たちの食い扶持のために売っちまったのね」
「はあ、そりゃあ気の毒だ。随分酷い目にあったもんだね」
「ただ、売り物にするために仕込みを受けそうになったところを、あの用心棒が助けてね?一人で食い扶持稼げるまで面倒見てくれって、古馴染みのあたしに預けたって訳」
「ほっほー!」

 これには飲み助の親爺だけでなく、半分酔いつぶれていた他の連中も好奇の目を輝かせた。
 まるで歌物語のような身の上話に心が浮き立つらしい。

「あいつってば預けたならさっさと次の仕事でも探せばいいようなのにさ、《ユーリがちゃんと生きていけるか心配だから》ってぶつくさ言って、どこまでも付いてくんのよ」
「ほほぉ〜」
「あらあら、素敵ねぇ…!」

 酔客達はまだまだ話を聞きたそうだったが、《続きは明日ね》と告げて、ヨザック達は寝所に向かった。

 さて、この《歌姫見習いに焦がれる不器用な用心棒》という設定は予想外に評判が良かった。
 翌日の朝、往来に出て共用の井戸を使わせて貰う時にも、道行く人々は口々に声を掛けて冷やかしたり励ましたりしてくれたのだ。

「歌姫見習いちゃん、今夜はあんたも謳っとくれよ。こっちの唄を知らなきゃ、あんたの知ってる歌で良いよ」
「そうそう、きっと用心棒君もうっとりして惚れ直すよ?」

 《うふふ》と笑い合うおかみさん達は、懐かしい娘時代に戻ったみたいにはしゃいでいる。コンラートは憮然としていたが、ユーリが飲み屋のお手伝いを買って出て井戸の水を桶に汲んだりしていると、そっと傍に寄ってしまうものだから結局目線を集めてしまうのだった。

「重いだろう?」
「ユーリ、もつ」
「無理しなくて良いから…」

 あくまで自分で運ぶと言い張るユーリの手に、コンラートの手が重なると…何故だか二人して仄かに頬を染めてしまう。

「あらあら、仲の良いこと」
「あたしだって若い頃はさぁ…」

 コンラートは小さく溜息をつくと、おかみさん達の好奇の目を避けるように桶を担いでいった。ユーリはその後をとたとたと付いていく。その様子がまた可愛らしくて、おかみさん達はニヤニヤ笑いと噂話に花を咲かせるのだった。 


*   *   *




 夕暮れが近づき、飲み屋に再び明かりが灯る頃…ヨザックは歌姫らしからぬ雑な動作で頭を掻いていた。
 
『さーて…機会は掴めないかねぇ』

 5日の間共に行動してみて、コンラートが自分に対して油断しきっていないことを感じたヨザックは、搦め手で二人を引き離すことにした。とにかく、目立たない場所にユーリだけを連れ込み、首を落とさなくてはならない。

 ただ、予想以上にこの村の住人達はユーリを温かい目で見ているから、迂闊な相手を選べば騒ぎになってしまうだろう。
 
 ユーリを手込めにしようと物陰にでも誘い込んでくれれば、庇うふりをして喉笛を一気に引き裂いたり出来るのだが…今のところ、村人の中にそんな不届き者は見受けられない。

 受けが良いからといって、調子に乗って《用心棒と歌姫見習いの恋物語》なんかでっちあげたせいだろうか?みんな二人を引き裂くどころか、恋が実るようにと気を使ったりしてくれる。

 《儂も昔は…》が口癖の老人達はコンラートに娘の口説き方を伝授してユーリにけしかけるし、おばさん達はユーリの髪に香りの良い小花を挿して、色気のある仕草を教えたりしているのだ。

『ちぇっ…困ったもんだねぇ〜。こんなことなら、ユーリを《可愛い顔して、男と見れば誰でも銜え込む淫乱娘》とでも言っとけば良かったかな?』

 そうすれば、多少は男達の欲望も闇の方向へと傾いたかも知れない。
 
 だが、何故だかそれは躊躇われた。
 ユーリの様子から見て如何に言っても無理があるように感じたし、ヨザック自身…何かが咎めてそんな風評を口に出来なかったのだ。

「グリ江ちゃん!」

 《ちゃん》という響きは、ユーリの世界でもこちらの世界でも共通に、愛称として名前につけるものらしい。ユーリは覚えたての幾つかの単語をあどけない口調で発しながら、身振り手振りも交えて意思疎通を図ろうとしていた。
 早くこの世界に馴染もうとしているのだろう。

「なーに、ユーリ?」
「おかち、グリ江ちゃん」

 大きな葉っぱにくるまれた焼き菓子からは香ばしい匂いがして食欲をくすぐる。どうやら、農家のおかみさんに分けて貰ったのを食べろと言っているらしい。
 
「お菓子…ね。貰っていいの?」
「おかし、もらっれ、りぃの」

 焼き菓子を摘んで確認を取れば、こくっと頷いて更に手を差し出す。
 目線で礼をすれば、嬉しそうににこりと笑った。

『……ったくよぉ…可愛いなあ』

 舌打ちして、お菓子よりも甘くなりそうな瞳を意識的に眇める。
 ヨザックとて、この子が呪われた双黒等でなければ強く好意を抱いたろうし、コンラートがおよそ初めて見せた執着を呆れながらも応援してやったろう。

 だが、これ以上…情を深めては駄目だ。

 こんな旅慣れない子どもを連れて、無事に眞魔国へと連れ帰る事など出来ようはずがない。そんな事をすれば、コンラートの身にも危険が及ぶ。
 可能な限り早く、彼の存在が人々の耳目に乗らぬ間に首を落とす必要があった。

 カシ…っと囓った焼き菓子は、見てくれよりも苦く感じた。 



*   *   *




 カルナスでの営業は今宵が最後のつもりなのだと告げると、飲み屋に集まった人々は口を揃えて引き留めた。

「そんなに慌てるもんじゃないよ姐さん、ユーリちゃんだって随分とこの村に慣れてきてるじゃないか。なんだったら、しばらくここに腰を据えちゃあどうだい?」
「そうそう、そんなに金は稼げないがここは結構住み心地の良い村だよ?せめて、ユーリが言葉や習慣を一通り覚えるまではひとつ所にいた方が良いよ」
「うーん、残念だけど…あたしの馴染み客に呼ばれてるのよ。あと一月ほどで辿りついとかなきゃ、義理を欠くのさ」
「だったら、ユーリと用心棒だけ置いといちゃどうだい?」

 そう持ちかけてきたのは、印象的な顔立ちの老人だった。
 年の頃は80絡みというところだろうか。頭はぴかぴかにはげ上がっているのに、灰色のふさふさとした眉と立派な顎髭が伸びる様は、一種異相と言える。えらく落ち着いた物腰としゃんと伸ばした背筋は、やや短躯な体つきを無意識のうちに大きく見せていた。

 声も随分と朗々としており、人を惹きつけるじんわりとした味わいを持っている。

「村長さん、もっと言っとくれよ」
「そうさ、ドント爺さん。ここは良い村だもんな?」

 なるほど、この村の中では名士と呼べる存在であるらしい。
 
「なあ、あんたはどうだい用心棒君…ええと、名はなんと言ったかな?」
「…レオンハルトだ」

 飲み屋の隅っこで薄暗がりと同化していたコンラートは静かに答えた。
 ウェラー卿コンラートの名は幾ら田舎とはいえ口にすることを憚るため、コンラートは現在《レオンハルト・コンラッド》と名乗っている。《コンラッド》も引っかかるか…とは思われたのだが、ユーリが無意識に呼んでしまう可能性を考えると、《本名を隠している》事を不審がられるよりは良いのではないかと考えたのだ。

 ちなみに瞳に散る銀色の光彩もウェラー家特有のものなので、夜になっても目深に狩人帽を被ったままである。《あまり人と目を合わせたくない》という理由にしておけば、通らないこともあるまい。

「レオンハルト君、どうだい?あんたもそろそろ落ち着いた場所で所帯を持ってみては…」
「…ここで暮らせと?」
「そうだ。ユーリを嫁に貰って、このカルナスの地で所帯を持つんだ」

 《ぶふ…っ》…横で聞いていたヨザックが、勧められた酒を鼻から噴いて激しく噎せている。

「悪い話ではないはずだ。流しの用心棒なんてその日暮らしのヤクザな仕事からは手を切って、土を耕して妻を愛して日々を送るんだ。土地なら、儂の畑と離れの家を当座は貸してやろう。無論、金などいらんよ」
「お気持ちは嬉しいが、俺はこの仕事が気に入っている」
「何を言ってる。男にはな、人生の中でここぞと定めて大切にせにゃならん女に出会うもんなんだ。そこが人生の切り替え時だぞ?儂だって、昔は荒くれて腕試しに血道を上げておったが、婆さんに出会って儂が本来為すべき事が分かったんだ。一人の女を幸せにしてこそ、男としての本懐を遂げられる…とな」

 どうやら、ドント爺さんはコンラートとユーリにかつての自分と奥さんの恋物語を重ねているらしい。
 真心からの申し出と分かっているが、それだけに困ってしまう。

「それはあなたの人生であって、俺のじゃない」
「憎まれ口を叩きおる!」
「それに…何か誤解をしておられるようだが、俺は別にユーリをそのような目で見ているわけではない。ただ…行きがかり上、暮らしぶりが気になっているだけだ」
「ほれ見ろ、それを惚れていると言うのさっ!意地を張ってないで抱きしめてみろ、色んな事が言葉や思いこみよりもよく分かるってもんだ」

 そう言うと、ドント爺さんは老人とは思えぬほどの膂力を見せてユーリをひらりと抱き上げ、コンラートの腕へと強引に押しつけた。

「???」

 何が起こっているのかさっぱり分からないユーリは、きょろきょろとコンラートとドント爺さんを見ては、小首を傾げている。
 コンラートは期待に満ちた老人以下村民の瞳と、笑いに満ちたヨザックの瞳に晒されて居たたまれないことこの上ない。
 如何ともしがたい勢いで眉間に皺が寄るのを感じた。

「どうだ?堪らなくあったかくて、切ないものが込み上げてくるだろう?それが恋ってもんだ。夜を共にする欲情だけじゃなく、生涯を共にしたいって願望さ」

 確かにその通りであることが余計に苛立たしく、コンラートは意識的に声を厳しくした。

「……………ご老人、俺はそんな甘酸っぱいものと縁しようとは思っていない」
「ええい、この頑固者めっ!」

 ドント爺さんは子どものように地団駄踏むと、今度は戦法を変えてきた。

「もうお前さんには期待せんわい!ユーリ、ほれ…こっちにおいで。爺ちゃん家(ち)の娘になれ。たんまり持参金もつけて、良い男の所に嫁に出してやるからなー」

 ドント爺さんは懐から大きな飴玉を一個取り出すと、掌の上で転がしながらユーリを呼んだ。餌付けしようとしているのだろうか…。
 それにしても、随分とユーリを気に入ったものである。

「…それは……」

 困ったことになった。
 コンラート達の設定上、それはまことにもって《ありがたい申し出》の筈なのである。
 
 元々コンラートもヨザックもユーリと深い縁があるわけではなく、とにかく《暮らしていけるように》してやることが目的であるのなら、何もお荷物として付いていく必要はないのだ。
 そこそこ裕福な村長が義理の娘として可愛がりたいというのなら、断る筋合いはない。

「そら、このエリックはどうだユーリ。そりゃあこの用心棒に比べりゃあ男ぶりでは落ちるが、実直で優しい男だぞ?」

 飴玉をエリックと呼ばれた若い男に持たせると、ドント爺さんは甘い声でユーリを誘う。

「や…やぁ、ユーリちゃん。その…と、突然の話で戸惑うかも知れないけど…俺、結構君のこと気に入ってるよ?いや…そのぅ…初めて見た時から、実は物凄く気になってたんだ。そ…そりゃあ、そっちの男には顔では負けるけど、男の甲斐性では負けないつもりだよ?」

 エリックの方も満更ではないのか、とろけそうに甘い顔をしてユーリを呼んだ。

 意味が正確に通じたのかどうかは分からないが、ユーリは取りあえず《エリックとコンラートのどちらを選ぶか》という意味で問われているのは察したらしい。
 きょろきょろと二人を見比べていたが、無愛想にそっぽを向いているコンラートの腕に、切ない眼差しを浮かべて…きゅうっと抱きついた。

「……っ!」

 これにはコンラートの表情が、一瞬とはいえ完全に崩壊し掛けた。
 驚きと…誤魔化しきれない喜びが瞳を掠め、狩人帽の影に隠した琥珀色の瞳に銀色の光彩が跳ねる。

「……」

 ふと、村長の瞳が今までとは違う色を示したように感じた。 
 何かを言おうと彼が口を開き掛けたその時…唐突に、ガラガラとけたたましい音が屋外に鳴り響いた。 
   

   




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