第6話







 もぞ…

 胸元で身じろぐ気配に覚醒する。
 ユーリの香りと体温を感じながら眠る間に、随分と疲れが取れていることに気付いて驚いた。短時間ではあるが、かなり深く眠っていたらしい。
 
 コンラートはもともと眠りが浅く、ちょっとした刺激ですぐに覚醒する。
 特に眞魔国を出てからは周囲全てが敵と言っても過言ではない状況であったため、常に意識を研ぎ澄ませていた…筈である。

『…不覚』

 葛藤によって精神的疲労を覚えていたのは確かだが、まさか会ったばかりの他人と抱き合って熟睡するとは思わなかった。
 勿論、他に不審な気配や物音がすれば瞬時に飛び起きていたろうが、それにしたって不用心極まりない。

「ん…」

 ちいさく声を上げたものの、ユーリは《ふにゅ…》っと仔猫のように身を縮めてから身体の収まりをつけ、またすぅすぅと寝息を立て始めた。こちらは誰かと一緒に眠ることなど何の問題もないのか、すっかり安心しきっている。悪戯心を出してちいさな鼻を摘んでみたら、《ふぐ〜…》と不満げに鼻面へと皺を寄せるので、可哀相になって離してしまった。

『………何をやってるんだ、俺は…』

 また安心してすりり…っと頬を寄せてきたユーリに、つい微笑みを浮かべる自分に頭を抱えてしまった。

『今日から厳しくするんだろう!?』

 ガツンと強めに自分の頭を殴ると、コンラートは心を鬼にして冷たい声を出した。

「起きろ、何時まで眠っているつもりだ?」

 ユーリは肩を荒っぽく揺さぶられたこと以上に、コンラートの声が冷たいことに吃驚したようだ。ぱちくりと一瞬目を見開いたかと思うと、心持ち顔色を青ざめてわたわたと起きあがった。
 
 その様子にずくずくと良心の呵責を覚えながら、コンラートはユーリの口に乾肉を銜えさせる。

「噛んでろ。朝食はそれだけだ」

 指先でぐいっと口の中に押し込めば、えづいたようにユーリが苦しそうな顔をする。
 けれど、文句は言わずにちょっとだけ指で引き戻すと、あにあにと懸命に噛み始めた。
 そして切れっ端を割いて《チィ》と呼んでいるキトラに差し出すが、草食の生物なのでぷぃ…っとそっぽを向いて草むらに走ると、何かの木の実を頬袋一杯に入れて帰ってきた。すぐにユーリの懐に入ったから、まだまだついてくる気満々なのだろう。

『髪と目を…どうするか?』

 昨夜唐突に方針転換をして、生きたまま眞魔国に連れ帰ることを視野に入れた。だが、明け始めた空の下で見るユーリは、あまりにも大きな課題を抱えていた。

 髪も瞳も…群を抜いて愛くるしいその容貌も、全てが隠密行動に向いていない。
 かといって、あからさまに頭部を隠した姿も逆に目を引く恐れがある。

『どうする…?』

 いきなり行き詰まってしまったが、それでも安易に首を落とすことは躊躇われた。
 ユーリは朝になって急に冷たくなったコンラートに戸惑ってはいるようだが、それでも懸命に役に立とうとして、寝床の布地を畳んで荷袋の中に入れたり、それをノーカンティーの元に持っていこうとしている。特に重い缶の袋を抱えている様を見ると、グ…っと喉奥に迫り上がるものを感じた。

 ユーリの首を、腐らないよう保存するための缶。
 それをユーリ自身が抱えて、よろよろと歩いているなんて…なんと皮肉なことだろう?

 堪らなくなって、乱暴に缶の入った袋を掴むとノーカンティーの背に乗せた。主人の心に敏感な彼女も、《どうかしたの?》と言いたげに長い睫を瞬かせた。

『ユーリを…殺したくない』

 荷物を持って貰ったことに素直に笑顔を浮かべているユーリを、包み込むようにしてマントを着せ掛ける。取りあえず、街に近いところまで来たら変装道具を仕入れねばなるまい。

 コンラートは複雑な心境を押し隠すように無表情を装うと、ユーリの後ろに乗って手綱を引いた。



*   *   *  


 

『コンラッド…何か怒ってるのかな?』

 有利はコンラッドの体温をすぐ傍に感じているのだが、何故か昨夜よりも彼との距離を感じていた。昨日は夜の帷の中で大胆に振る舞ってしまったが、いい年をした高校生に擦り寄られたコンラッドは内心困っていたのかも知れない。

 もしかしたら…結構不愉快だったのかも。

 そう思って意識的に身体を離そうとしたのだが、揺れる馬上ではなかなか上手くいかなくて余計に疲れただけだった。

 暫く走った頃、まだ周囲の景色は見渡す限りの木々と岩場だったのだが、突然コンラッドは馬を止めた。そして有利を無造作に降ろすと、また乾肉を口に突っ込んでから…縄を取り出して、有利の両手首を結んで低木にきっちりと縛り付けたのだった。素人目にも、ちょっとやそっとでは解けないようなしっかりした結び目であることが分かる。

 有利は、家畜のように木に繋がれたのだ。

 ぎょっとしてコンラッドを見るが、何か単純な言葉を繰り返して地面を指さしている。
 《ここに居ろ》…そう言っているのだろうか?

「ここに居ろ?」

 同じ言葉をオウム返しに繰り返すと、コンラッドはこくりと頷いた。
 正直、人として生まれた身で繋がれることは決して嬉しくない。コンラッド以外にされたことであれば何としても暴れて抵抗したことだろう。
 だが…きっと、コンラッドの行動には意味があるのだ。決して、有利はここから離れてはいけないのだ。
 
 コンラッドは、捨てて行くつもりではないのだと思う。その証拠に、彼は乗ってきた馬もその場に置いたまま小さな荷袋だけを腰のベルトに取り付けている。
 
『でも…馬は繋がないのに、俺は繋ぐってのは…信頼されてないって事だよな?』

 寂しいが、それが嫌なら有利は頭を使わなくてはならないだろう。

 どすん…っ!

 勢いよくその場に座り込むと、有利は身振り手振りで地面と自分を指さした。
 
「有利、ここ、動かない。コンラッド、信じて?」
「…ここ、うごかない?」

 通じたのだろうか?
 コンラッドが反復した言葉をまた有利も繰り返してこくこくと頷くと、地面をばしばしと叩いてから両手首を掲げた。

「解いて」
「……」

 意図は伝わったのだと思う。だが…それでもコンラッドは迷うようだった。
 有利を信じて良いのが、確信を持てないのだろう。

 それでも、有利には繰り返すことしかできなかった。
 心を込めて…コンラッドに信頼して貰いたいのだと、己の主張を重ねて態度で示す。

「解いて…お願い。コンラッド、信じて?」

 コンラッドは迷った。眉根を寄せ、琥珀色の瞳を眇めて唇を引き結ぶ。
 それでも…その指は最終的に、有利の縄を解いてくれたのだった。

「コンラッド…ありがとうっ!」

 ぱぁ…っと心が晴れ渡る思いでコンラッドを見あげたが、彼は一瞬微笑みかけた表情をすぐに引き締めて、被っていたマントをぐいっとずり降ろしてきた。
 待っている間、有利はここを離れないことの他に、マントも脱いではいけないらしい。

『何でだろ?』

 よく分からないが、縄で縛られることに比べればマントを脱がないことなどなんと言うこともない。有利はこっくりと頷くと、自分でもマントの縁を下ろす仕草をした。コンラッドも頷いていたから、意図は通じているのだと思う。

 ひらりと身を翻してコンラッドが離れていく。
 捨てられたわけではないのだと信じたいのだが、彼の背が茂みの向こうに見えなくなっていくと、急に涙が込み上げてきた。

 寂しい。

 強烈な孤独感に急き立てられて後を追いたくなるが、約束を思い出してじっと待つ。同じように寂しいのだろうか、《ノーカンティー》と呼ばれた馬がヒィン…っとちいさく嘶(いなな)いたので、恐る恐るたてがみを撫でつけてみた。
 暖かくて、しっとりとした感触だった。

 大人しく撫でられながら、ノーカンティーは濡れた鼻面を有利の頬に押しつける。《ご主人様がお戻りになるまで、よい子にして待っておくのよ?》先輩格の馬に、そう諭されているようだ。

「うん。コンラッドを信じて待とうな?」

 有利はそう言うと、すとんと地面に腰を下ろして体操座りをした。



*   *   *




 コンラートはユーリを繋いだ時にノーカンティーは連れて行くつもりで居た。しかし、《置いて行かれるの?》と言いたげに彼が恐怖の色を浮かべるものだから、安心させるために置いてきてしまった。ノーカンティーは賢い馬だから、いざとなったらユーリを護ってくれるのではないかとも思ったのだ。

『全く…どうかしている』

 おかげで、目的の街に入る頃には夕暮れ近くになっていた。
 早く目的の物を集めて帰らなくては、暗闇の中で待つユーリはさぞかし心細いことだろう。

 《コンラッド…!》待ち侘びているだろうユーリが、ぱぁ…っと顔を輝かせてコンラートを呼ぶ様子が瞼に浮かぶ。目元に涙をにじませて、《寂しかったよ?》という顔をしているのも…。

 早く《帰りたい》。

 そう思っている自分に苦笑が浮かぶ。
 おかしなことだ。昨日まで殺そうと思っていた少年のもとに、《帰る》など。
 コンラートの主体はあくまで自分自身であって、故郷を離れた日から《帰る》場所は眞魔国以外には無かったというのに。

 食料を買い込む際にも、普段は決して買わない菓子を無意識のうちに買っていた。桜色の唇の中に、ぽんっと飴玉をいれてやったら…あの顔が幸せそうに綻ぶのではないかと思ったのだ。

 しかし、そんなほのぼのとした表情で居続けるには、この街…ガーダナには不穏な気配がある。ここは大シマロンの属国のひとつであり、ユーリを発見した大樹海からもそれほど離れていないことから、何か不審な目撃情報を残せば足取りを追われてしまう可能性があった。

 今のところ、大シマロンを含めた各国の軍勢はユーリが既に連れ去られていることを知らずに大樹海を取り囲んでいるようだが、それも時間の問題だろう。何しろ力ある占い師達にとってユーリの存在は強く反応を示すものであるらしいから、数日中には存在位置が知られてしまう。
 そんな中では一つ所に留まるだけでなく、直線的な進路を取るだけで先回りの危険性を高めてしまう。

『海路が使えなくなったらおしまいだ』

 眞魔国と人間国家の国境は常に紛争が続く緊張状態にあるから、あの中をユーリを連れて突っ切るのは自殺行為だ。

 考え事をしていたせいか、突然声を掛けられたコンラートはびくりと肩を震わせた。

「よっ」

 声を掛けられた瞬間に身体が防御姿勢に入ったのだが、すぐにその必要はないのだと気付いた。

「…ヨザ!」
「はぁ〜い!やっと見つけたわよぉ!あんたってば、なかなか見つからないんだもん…」

 鮮やかな歌姫の装束を身につけた《男》は、屈託なく笑う。
 久しぶりに目にした旧友の女装姿に、コンラートはつい半笑いになってしまう。

「お前…相変わらずだな?」
「相変わらず綺麗でしょ?」
「言ってろ」

 自然と笑いが込み上げてくるが、男の用件を思うと少々苦い物も感じる。

『そうだ…こいつは、兄さんの腹心の部下だ』

 元々はコンラートの部下として戦場で勇名を馳せたグリエ・ヨザックだが、近年では諜報員としての腕を高く評価されている。あらゆる国と民の間へと自然に溶け込み、極めて精度の高い情報を集めてくるからだ。

 間違いなく、彼がコンラートを探していたのは双黒探索の首尾を確認するためだ。
 双黒は見つかり、確保した。だが…その事をヨザックに知らせるべきだろうか?

『こいつは兄さんの方針を知っている。どうしたって迅速な行動を求められる今回の件については、強硬に首を落とすことを要求してくるだろう』

 その一方で、情報通で隠密行動が得意なヨザックの手腕には得難いものがある。コンラートも得意とはしているのだが、ユーリを連れての行動となれば、斥候としての役割を果たせる彼の協力がどうしても欲しい。

「ヨザ…頼みがある」
「ん〜?なーに、改まっちゃって…。一発犯らせてくれとか?」
「いや、それは結構だ」

 本心から手を振るが、ヨザックは唇を尖らせて不満顔をして見せる。

「んもぅ…つれないわねぇ。で、頼みってナニ?」
「女装の手配を頼みたい」
「…あんたの?」
「……必要があればしても良いが、女三人旅では余計に怪しいだろう」
「は?」

 ヨザックは何とも珍妙な表情を浮かべた。
 


*   *   *




「呆れたねぇ〜…あんた、逃避行の寂しさでどうかしちゃったの?」

 ガーディーの街から出てホーラト山脈の麓に広がる森に入ると、馬は《重い》と苦情を訴えるように嘶いたが、たてがみを撫でて何とか我慢して貰う。ガーディーの街で安く買い叩いた一時凌ぎの馬だから、体格に優れた男二人が乗ったのでは文句を言われても仕方がない。

 馬上で揺られながら情報交換を行っていたわけだが、ヨザックは馬とは違って体力的な問題ではないところでへたり込みそうになっていた。

「否定は出来ない」

 コンラートが溜息混じりに応えるものだから、ヨザックはより一層ぎょっとしてしまう。

『こいつは、重傷か?』

 よもや、コンラートが双黒を捕らえながら未だに首を落とさずにいるとは思わなかった。彼は言葉や態度で示すよりももっと深く、グウェンダルを兄として慕っていることを知っていたからだ。不器用な兄が示してくれた、明確な初めての愛情表現にコンラートは強い衝撃を受けていた筈なのだ。決して、裏切ることなど出来ないとヨザックは考えていた。

『くそ…。あのインチキ占い師の予言が的中するってか?』

 否応なしに、抗い難い力に誘引されるようにして道を踏み誤る…人生には時として、そんな選択を余儀なくされることがあるのだと、ヨザックも百数十年にわたる人生の中で何度か目にし、実体験もして知っている。
 しかし、そんな苦々しさをコンラート相手に感じることになるとは思いも寄らなかった。

 ウェラー卿コンラートは、おそらくヨザックが知る中で最も理性的な判断が出来る軍人だ。情に絆されることなく、かといって冷酷に寄りすぎることなく大局を見定めて指針を決めることが出来、またその方向に自分を含めた人々の行動を持って行ける。

 その彼が、何故無謀な方針転換など計ったのだろう?

 その疑問に何より雄弁に答えたのは、待たせていた双黒の少年を目にした瞬間の、コンラートの表情だった。

「コンラッド…っ!」

 帷が落ちかけた深い森の中で、待ち侘びていたのだろう…少年は歓喜に声と身体とを弾ませて駆け寄ってきた。彼を目にしたコンラートの瞳は鮮やかに輝き、その唇は見たこともないほどやわらかい笑みを浮かべていた。
 
 《嬉しい》《ちゃんと、無事でいてくれた》《俺の存在に喜びを感じてくれている》…瞳に煌めく銀の光彩は、きらきらと瞬いて雄弁に語る。
 それが、ヨザックに絶望に近い感情を抱かせているとは知らずに。

『こいつは…駄目だ。イカれてやがる…』

 気付いていないのだろうか?
 コンラートは、この双黒の少年を愛してしまっている。もはや、まともな判断など出来ないほどに心を喰われているのだ。

 しかし、ヨザックはそんな思いを綺麗に覆い隠すと、殊更屈託のない笑みを浮かべて声を上げた。

「あーら、この子が例の双黒?なかなか上玉じゃないの。こりゃ飾り甲斐があるわ」
「あまり調子に乗るなよ?目立ちすぎては元も子もないんだからな」
「分ーかってるって。あたしだって大切な旦那の身を案じてるんだからぁ〜。この子を無事に眞魔国へと送り届けて、北の塔から愛しの旦那を救い出したいわよ」
「…フォンヴォルテール卿の前で、あんまりくねくねやるなよ?」
「あらやだ失礼ねぇ!」

 鼻を鳴らして文句を言えば、つぶらな瞳をした双黒の少年はきょとんとしてヨザックを見やると、すぐに自分を指さして《ユーリ》と名乗った。えらく人懐っこい子だ。

『隊長の言うとおり、この子は多分…何も分かっちゃいないんだろうな』

 確かに邪気や下心のありそうなタイプには見えない。
 素朴で素直な愛らしい少年。それ以上にも以下にも見えなかった。とても、世界の命運を握っているような鍵には見えない。

『だが、生かしておくことは出来ない』

 けれど、今は駄目だ。
 自然な動きに見せかけて、コンラートは必ずユーリとヨザックの間に一定の距離を保っている。剣を抜きざま横殴りに薙ごうとしても、必ずコンラートの剣の軌跡に入る。戦って倒せるかどうかは五分五分と言うところだが、ヨザックとしてはコンラートを傷つけたくはなかったし、彼の手で死ぬのも嫌だった。

『時期を見定めるんだ』

 幸い、ユーリ自身は警戒心に乏しい唯の少年のようだから、コンラートさえ油断させれば簡単に殺すことが出来る。見たところ、コンラートはグウェンダルに持たされた缶は廃棄することなく所持しているようだから、首を落とすという選択肢を全く否定しているわけではない。多少気落ちすることはあっても、ユーリに致命傷さえ負わせてしまえば諦めるだろう。

「まあ、お肌すべすべねぇ…。羨ましいったらっ!えい、抓っちゃうっ!」
「ゃう〜っ!」

 少年のすべらかな頬に指を沿わせながら、ヨザックは着実に確認していった。

 《いざという時》、剣先を走らせる間合いの取り方を…。
   






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