第54話 澄んだメゾソプラノの響きが切なくも美しく大気を震わせていくと、観衆達の唇からは意識せぬ吐息が漏れる。マーシャ姐さんの言葉通り、見事な歌声である。 歌姫の一人が独唱によって物語の主題を描いていき、そこに他の歌姫達がハミングを重ねていくが、この二人も一座の主役であろう歌姫に負けぬ技量の持ち主だ。三人の声音がえも言えぬ調和を描いて流れていくと、心地よい波動に淡く鳥肌がたった。 歌の主題は、ウェラー卿コンラート…《ルッテンベルクの獅子》だ。 アルノルドの激戦を乗り越えて、英雄の名を不動のものにしたコンラート。その後も幾多の功績を挙げて、混血でありながら軍部・政治の枢軸となるべく十一貴族の座に就任するというまさにその日、アルザス・フェスタリアの予見によって運命を狂わされる。 日増しに厳しくなっていく情勢…掌を返したように冷淡な対応を見せる宮廷人達。 しかし、そこで心意気を見せたのがフォンヴォルテール卿グウェンダルであった。 思わず、有利は《待ってました!》と声を上げそうになってしまったが、すんでのところで止めた。 どうやらこの歌は観衆達にとっても初めての演目であったらしく、コンラートについて断片的な噂しか耳にしていなかった人々は(正式な就任報告などは年越しの宴の席で為されるのである)、瞳を輝かせ、集中して聞き入っていた。うっかり無駄口を叩こうとした酔っぱらいなどは、横合いの主婦から手酷い肘鉄を食らっていたくらいだ。 『凄い…みんな、コンラッドの歌をこんなに集中して聞いてるんだ…!』 コンラートは何とも複雑そうな顔をして眉根を寄せているが、有利はもう嬉しくってしょうがない。わくわくと胸弾ませながら、両手を握りしめて集中した。しかし…その内、有利は単なる観衆としてこの演目を楽しむことは出来ないのだと悟った。 歌物語が流れ流れて…コンラートと有利の《運命の出会い》へと繋がっていったのである。 個人的には、照れ隠しに《運命の出会い(笑)》としたいところである。 『う…うぉおお…は、ハズカシー…っ!』 成る程コンラートが羞恥に頬を染めるはずだ。第三者的な視点から自分のことを語られるというのは、何とも内腿がもぞもぞするようなむず痒さがある。 それでも、容赦なく歌は紡がれていった。 有利の健やかな愛らしさに心惹かれ、許されないと知りながらも否応なしに惹かれてしまうコンラートは、兄への誓いとの狭間で狂おしく葛藤する。 切ない歌声に繊細な娘達は涙を滲ませ、主婦達はその辺りの感傷を懐かしみながらうっとりと瞼を閉じた。 この辺りの詳細さ…どう考えても、ヨザックが事の次第を(推察・脚色も含めて)一座の誰かに伝えていたとしか思えない。 ジャン…っ! 曲調と歌声がここで突然、激しいものに変わった。 ホーラト山脈の麓にある農村…カルナスでの襲撃事件に話が進んだのである。 旧友ヨザックと共に襲撃を止めようとするコンラートだったが、盗賊の暴挙によって開放された法石の力には太刀打ちできず、有利を含めた女達の一団は燃え盛る炎に包まれてしまう。 しかし…絶望的な状況の中、無力な少年に思われた有利が凄まじい魔力を発揮したのであった。巨大な水蛇が大火を消し止め女達を救い出した下りでは、みんな身を震わせて歓喜を表していた。 魔族の民が、人間の女達が救われたことを素直に祝福しているのだ。 『この歌…ちょっと恥ずかしいけど、でも…凄いな』 魔族に理解のある人間が作り出した歌だからだろうか?現場に居合わせて、人々と心を通わせていた有利が耳にしていても、違和感なくその歌は心に染みていった。人間と魔族は互いに愚かであったり、卑怯な部分も持っているけれど…それだけでは決して無く、誇り高い勲や暖かい真心が高らかに歌い上げられていくのである。 そこには何らかの勢力に対する侮蔑も阿(おもね)りもない、真実を追いかける芸術家の魂が燃えているようだった。 コンラート達を魔族と知っても、きちんと恩人に対する礼を尽くしてくれた村長ドント、《禁忌の箱》を開くことに協力してしまったものの、土壇場で身体を張ってウルヴァルト卿エリオルを護ろうとしたフリン・ギルビット…。 そして最後は…自分の栄誉を奪った者さえも赦し、偉大な成長を遂げたコンラートを讃えてクライマックスを迎える。 登場する人々への愛情が、じんと染み入るように広がっていく…そんな歌だ。 気が付けば、涙を浮かべていたのは年若い娘達だけではなかった。年老いた老人もちいさな子どもも一心に歌へと耳を澄ませ、これほど激動の運命を辿ったコンラートが、悲劇でなく大いなる栄光を掴むことが出来たことに深い喜びを感じているようだ。 『嬉しい…なんか、すっごい嬉しい…っ!』 有利はきゅう…っとコンラートの手を握って喜びを分かち合おうとしたのだが…突然、舞台上で耳障りな破壊音が響いたかと思うと、歌姫達の伸びやかな声が高い悲鳴を上げた。 調和の乱れたその声が、歌の一部でないことは明瞭だった。 「きゃぁあああ…っ!」 「な…なに?なんなのっ!?」 歌姫達の悲鳴が響き、場内が騒然とする。 人々の注視を浴びてゆらりと立ち上がったのは、如何にも《無頼》という感じの男達5人組であった。いずれも筋骨隆々とした大男で、かなり酒に酔っているようだ。 * * * 「な〜んだよぉ…。こんな歌、誰が歌えっつったよぉっ!」 「評判を聞いて折角来てやったって言うのによぉ…。あぁん?混血が国の中心で偉そうにふんぞり返れる時代が来たぁ…?」 「ふさげんなっ!これまで眞魔国を支えてきたのはよぉ…俺たち純血じゃあねーのかよっ!」 グワラァン…っ!! 男の一人が通路に置かれた酒樽に蹴りつけると、木枠の樽は勢いよく吹っ飛んで破裂してしまう。強い酒気と赤紫色の飛沫が噴き上げて、観衆達に降りかかると悲鳴の領域が一層拡大していった。 「わ…わわっ!」 酒売りの少年カリカは真っ青になって零れた酒に手を伸ばすが、今更掬えるはずもない。赤紫の液体はどうすることも出来ないまま、石席と衣服の染みになっていった。 本来は観衆の間を縫って売り捌くべき品物だったのだが、歌に聴き惚れるあまり背に負っていた酒樽を降ろして立ち止まっていたのだ。 「ああ…な、何するんだよぉ…っ!お、親方に怒られるよぉ……っ!」 酒が一杯分余っても殴る親方なのだ。酒樽ごと砕かれたと知れば、とんでもない目に遭わされてしまう。最悪の場合、仕事を奪われてしまうことだろう。 『困る…困るよぉおっ!仕事がなけりゃあ、おまんまの食い上げだ!畜生…こいつら、なんだってそんなにウェラー卿が嫌いなんだよっ!』 《何故》と問えば、《混血なのに生意気だ》との返答が寄越されるのだろう。 カリカだって、純血の自分がこうして日夜働いてもかつかつ食べていけるかいけないかの瀬戸際にあるというのに、恵まれた混血の子が良い服を着ていたりすると、《混血のくせに…》と嫉妬していたのは事実である。 けれど、カリカはそれが無意味で非生産的な怒りであることを知っていた。 カリカが貧乏なのは飲んだくれの親父と見栄っ張りで浪費家のお袋がいるためであり、決して混血が優遇されているからではない。 混血であれば純血よりも遙かに過酷な条件の中から生活を改善していったはずなのであり、その子の親はきっと死に物狂いで働いたか、相当に優秀なのだろう。 それでも嫉妬する気持ちはある。 何かを恨みたくなるのも、痛いほど分かる。 だが、今日に限っては…マーシャ一座の歌を聴いたこの時くらいは、素直に感嘆したって良いではないかと思うのだ。あれほどの闘いと葛藤を乗り越えて幸せを掴んだコンラートを、少しくらい祝福してあげたって罰は当たらないと思う。 「こんの…大人げない馬鹿親爺共っ!そうやってクダ巻いてる暇があったら、ウェラー卿の半分で良いから踏ん張って、自分の人生何とかしろよっ!!」 「なにぃ…?」 向こうっ気の強いカリカは男達に食ってかかるが、どうにも太刀打ちできるような相手ではない。《ヤバイ…》そう感じたのは、骨張った大きな手で掴まれた肩が、砕けるのではないかと思うほどの痛みを訴えた後だった。 「テメェ、ちんこはついてんのか?それでも男かっ!混血を讃える歌なんか聴いて、調子に乗ってんじゃねぇよ!」 「わ…っ…」 少年は肩をどつかれた後、陰部を鷲づかみにされそうになると悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。あんな力で握り込まれたら潰されてしまう! しかし覆い被さってくるかに思われた大男は、いつまで経っても青年に触れてくることはなかった。 「止めておけ」 凛…と響くその声は、歌姫達とはまた違う麗しの音色を奏でた。 『ひょ…っ!何てぇ佳い声だい。それに…こりゃまた役者みたいに格好の良い男じゃないか?』 状況も忘れて、カリカは救いの手を差し伸べてくれた男に見入ってしまった。深茶色の髪は陽光を受けると時折金の綾取りを纏い、端正な容貌とも相まって、彼を噂のウェラー卿コンラートに似せている。 銀の光彩が氷の粒のようにひかり、琥珀色の涼やかな眼差しが冷然と男達を睨め付けた。 『へぇ、なんてこった。瞳まで噂に聞くウェラー卿みたいじゃないか?』 この時、まさか本人が自分を歌いあげる演目の座に列席しているとはカリカも思わない。 「な…なんだテメェ…っ!俺たちを誰だと思っ…イッ…っ!」 均整のとれた長身の青年は大男の手首を無造作に掴んでいるように見えたのだが、怒声をあげて大男が襲いかかろうとすると、軽く前腕を撓らせる動作一つで苦鳴を上げさせる。 相手が酔っぱらいとはいえかなりの体格差があるというのに、随分と余裕のある所作だ。細身に見える青年だが、実はかなり場馴れしているのだろうか? 「無粋も大概にしておけ。歌姫…それも、国際認可ギルドに所属する歌い手を害したとあれば、眞魔国全体の恥となる。あんたは魔族の文明度が低いと詰(なじ)られても平気なのか?」 青年の指摘に観衆達はうんうんと同意の頷きを見せるが、男達は尚も下卑た叫びをあげて歌姫達を罵倒した。おそらくは、彼女たちにとって最も屈辱的な言葉で。 「なぁ〜にが国際認可ギルドだ!どうせ淫売の集まりだろうがよっ!!」 シャリン…っ… 男の一人が罵声を上げるや否や、目の据わったマーシャが円月剣を引き抜いた。 ハシバミ色の瞳は怒りに燃えて緑の焔を揺らめかせており、釣り上がった眦と口角からは朱に染まった粘膜が覗く。 「淫売たぁ…うちの歌姫をさして言ってんのかねぇ…?」 ドスの効いた声音に、男達が一瞬怯んだのが分かる。 《円月斬のマーシャ》…その通り名は、彼女を旅の一座として以上に世界へと鳴り響かせているのだ。 『凄ぇ迫力だ…!』 溢れる殺気の波濤に、同じ方向に居合わせたカリカまでがぞっと背筋を震わせる。 確かに吟遊詩人や歌姫の中には、男達の言うように身体を売る《淫売》を生業としている者もいる。だが、その一方で誇り高い歌い手達はそんな連中を忌避しており、ことにマーシャはそんな手合いを軽蔑していることで有名だ。 また、マーシャ達を《そのつもり》で扱おうとしたり、閨に引き込もうとするような輩には激甚な報復が与えられると聞く。 マーシャを筆頭とする自衛団は精強を極め、先日も女と侮って襲いかかってきた十人ほどの盗賊が全員陰茎を切り落とされ、往路に晒されていたそうだ。 『こりゃあ…血を見ずには終わらないぞ!?』 慄然とするカリカの前で、尚も男が何か言おうとするが…《ゴガ…っ!》と、鈍く強い打撃音が男の鼻面で炸裂する。どうやら、カリカを助けようとしてくれた美麗な青年が強烈な裏拳をお見舞いしたらしい。 「ぽぐが…っ!?ひぐ…びぐぅう…っ!!」 「こ…この野郎…。お前ら、やっちまえっ!」 鼻血を噴き上げた男がのたうち回ると、残る四人の男達は一斉に抜刀して青年へと殺到する。そこへ円月刀を閃かせたマーシャが飛び込んできたのだから、観客席は流血の舞台へと変ずるものと思われた。 しかし…青年が身を撓らせて独楽(コマ)のように回旋すると、男の一人は急所を蹴り飛ばされて悶絶し、他の一人が憤怒して握った剣は青年の手元で《バツッ…っ!》という弾発音が数回響くと同時に取り落とされる。どうやら、石礫(つぶて)のようなものを指を弾く動きで投じたらしい。 「貴様…な、舐めた真似しやがってぇ…っ!」 「舐めてんのは…」 《テメェだろうだよっ!》…マーシャの円月剣が閃くと、まだ元気のあった男二人が《ぐげっ!?》と蛙を潰したような音をあげて地に突っ伏した。げぇげぇと嘔吐しているところからみて、腹部は切断されるのではなく、剣の柄元でしたたか打ち付けられたようだ。 青年は素早く立ち回ると動けなくなっている男達の剣をとりあげ、所持品検査もして危険物を回収してしまった。その動きは単なる腕自慢のそれとは違っているようだ。どこか、本職としての慣れと確実さが感じられる。 「相変わらず見事な腕前だね。一撃で急所を捉えている」 青年が讃えると、マーシャは憮然として唇を尖らせた。 「本当ならこんな不届き者、真っ二つにしてやりたいんだがねぇ…。あんたの連れが、血を見たくないってんだろ?」 見れば、青年のすぐ脇には驚くほど愛らしい少年がいて、心配そうに青年達の様子を見守っている。どうやら、あの子が流血沙汰にならないようにと青年に頼んだらしい。 「そうでなくとも、折角の歌を聴くために集まった人々の前で流血沙汰は拙いだろう?」 「まぁ…ね」 トントンと肩に円月剣の刃のない部分を弾ませていたマーシャだったが、多少物足りなさそうに鼻を鳴らしながらも鞘へと収めた。まだ怒りが収まらないのだろう。 しかし、この連中よりもマーシャの方が先に抜刀していたのは明確なので、如何に罵倒されたと言えど、殺したり大怪我を負わしたりすれば罪に問われるのはマーシャの方なのだ。 「コンラッド…手、いたくない?」 「ああ、平気だよユーリ」 はた…と、辺りにいた人々の動きが止まる。 いま、何か妙〜に気になる固有名詞が彼らの口から漏れなかったろうか? 「あ…あの、ま…まさか……ウェラー卿と、双黒の…君?」 「いいや、人違いだよ?」 「でも…でもでもっ!そっちの子…ユーリ、ううん…ユーリ様は噂に聞くとおり片言の眞魔国語を使ってるしっ!」 青年はカリカの問いかけに対して全く動ずることなく、さらりと勘違いを指摘した。 「俺はレオンハルト・コンラッドというんだ。この子は確かにユーリだけど、偶然の一致だよ」 「そ…そう?」 カリカはまだ疑念を払った訳ではないが、コンラートが少し困ったように弁明するものだから、それ以上は追求できなかった。決して、恩人である彼を追いつめたい訳ではないのだ。 『でもさぁ…こんなに格好良い剣士様と、たまらなく可愛い男の子の組み合わせなんて…偶然って事があるのかなぁ?』 ユーリと呼ばれた少年はきょとんとして小首を傾げているが、その様子も山間で見た仔栗鼠のように愛らしく、こんな時でなければ飽かず盗み見してうっとりしていたろうと思う。 「このひとたち、どうなる?」 「憲兵に引き渡すしかないだろうね。でもまぁ…興行の邪魔をした程度だから、それほど大きな罪にはならないと思うよ?」 ユーリはどうしたものか、コンラッドという青年の言葉を耳にしてもなかなか安心した顔にはならなかった。 手際の良いコンラッドが男達を後ろ手に拘束しようとすると、何故かその手を止めさせて、まだ鼻や腹部の痛みに苦鳴をあげている男達の前にちょこんとしゃがみ込んだ。 「あんたたち、どうしてコ…ウェラー卿きらい?」 「う…ぐ。…な、なにぃ…?」 「おれ、ウェラー卿だいすき。きらいなひといるの、かなしい」 「知るかよ、そんなもんっ!嫌いなもなぁ嫌いなんだ!」 「すきにりゆうない、でも、きらいにはある」 「……う…」 どうしたものか悪態をついていた男達も、じぃ…っと至近距離からユーリの瞳を受けるとそれ以上無碍には出来なくて、黙って返事を待つ少年に向かってぽつりと呟いた。 「ウェラー卿がどうこうじゃねぇよ…。俺は…ただ、怖かったんだ」 「なにがこわい?」 「…そりゃあ……。混血が高い地位に就くようになりゃ、どうしたって純血の中でも下っぺりの方にいた俺たちは割を食うじゃねぇか。今まではさ…俺たちの下に混血がいるってんで、貧乏でも我慢できたんだ。それがよ…混血が上に行くってなりゃあ、どうしたって俺たちが最下層じゃねぇかよ…」 「いちばん下、きもちがきめること。こんけつ上がるなら、じぶんも上がる!」 「簡単に言ってんじゃねぇよ。お前…どうせ良いトコのぼんぼんだろ?何にも苦労してないからそんなことが言えるのさ」 「くろうしてたら言える?なら、ウェラー卿はたくさん言える。だって…」 《ウェラー卿…たくさん、たくさん…くろうした。でも、ぜんぶのりこえた》…噛みしめるように呟かれる言葉は深い愛情に満ちていて、やっぱり《コンラッド》が《ウェラー卿コンラート》でないなんて信じられないと思う。だって…黙って状況を見守るコンラッドの眦には、うっすらと水膜が掛かっているのだから。 「ね…しんじて?ウェラー卿は、混血のみぶん上げるために、純血おとすとかナイ。おなじになりたいだけ」 「同じ…?」 「そう。混血とか純血とか、そういうのがない…同じ、《魔族》なりたい。誰よりくろうしたから、ウェラー卿はとくにおもう。ずっとずっと、ふしあわせなままなのはヤダ。ぜったい、がんばったらしあわせになれる国、したい。ウェラー卿は、そういうひと」 「………」 不思議だ。 ユーリの声は決して大きなものではないのに、気が付いたらその場に居合わせた全員が固唾を呑んで彼の言葉に耳を傾け、両手に抱くようにしてその内容を汲み取ろうとしている。 「おねがい。上にいこうとするひと、下からひっぱる、しないで。それは、とてもさみしいくるしいこと。みんなで下にかたまるのダメ。ね…いっしょに、しあわせになるが良い」 ほわ…っとユーリが微笑むと、白い春告げ花が綻ぶような暖かさが辺りを満たした。 頑なに顔を強張らせていた男達も一様に目を見開き、暫くのあいだ沈思していた。 「そうだ…!今日…ほんとうは、なんの歌ききたかった?」 ユーリはぽんっと手を叩くと、男達に問いかけた。 そういえば男達が陣取っていた席は結構良い場所で、その席を取るときには騒ぎになっていなかったところから見て、彼らは普通に順番待ちをしていた筈なのだ。最初はこの男達だって、何かの歌を聴きたかったからに違いない。 男達はぽつらぽつらと歌の題名を口にした。それはいずれもシュピッツヴェーグ領の辺境地に伝わる歌謡で、彼らが出稼ぎの番兵か何かであることが伺える。シュトッフェルの失脚によって王都に居を構えるシュピッツヴェーグ貴族は撤退を余儀なくされている者も多いと聞くから、それで割を食って失業したのかも知れない。 「歌、ききたい?」 「そりゃあ…聞きたいさ。だから長いこと並んで順番待ちしたんじゃねぇか」 拗ねたような物言いの男達はまるで子どもみたいで、ちいさく華奢なユーリに甘えているように見えるから不思議だ。 「だったら、やることあるよね?」 にっこりと笑いながらユーリが言うと、男達はバツが悪そうに顔を見合わせたが…一人がぎくしゃくと首を曲げて《悪かった…》と呟くと、ぼつらぼつらと他の者達も見習った。真っ直ぐ前を見ることはまだ出来ないようだが、それでもマーシャの心証は悪くない様子だ。 「ふん…。一曲だけだよ?こいつらみたいな連中が、暴れてごねるたびに希望曲をやるんじゃあ身が持たないからね」 「………面目ない…」 一度思い切って謝ったことで踏ん切りがついたのだろうか?あるいは、今頃になって酔いが醒めてもきたのだろうか。リーダー格と思われる男が頭を下げると、マーシャは手筈を整えて、自ら一曲歌ってくれた。 それは、どこか土臭さの混じる素朴な農村歌であった。こんな大都会には似合わない、洗練度の欠けた歌ではあったが、それだけに故郷を離れて久しい者の胸には迫ってくるらしい。男達は誰もが肩でリズムをとり、瞼を閉じて歌に聴き惚れていた。 マーシャのハスキーな歌声が余韻を残して大気の中に消え去ると、ほぅ…っと誰からともなく吐息を漏らした。 そんな中、ユーリがぽつりとひとこと呟く。 「ね…こう言うときに、ガラガラドンって音、なる。どんなきもち?」 「…………」 その声には責めるような辛辣さはなく、しんみりとした共感に満ちたものであったから、男達は気まずくて黙っているというより、自分たちのしたことを本当の意味で振り返り、反省しているようでもあった。 掛け替えのないものを汚されることが、どれほど悔しくて辛いことであるのか…自分たちにとって大切な歌の後だからこそ強く感じられたに違いない。 「申し訳…なかった」 最後に五人揃って下げた頭は、腰まで下がるほど深々としたものであった。 そんな彼らを見ながらカリカは思った。 《どうにもならないような愚か者》に見える奴でも、語り合うことで変わることがあるのではないかと。 『俺…そういえば、親父やお袋とちゃんと話したことあったっけ…』 幼い頃から悪い面しか見たことのない両親を軽蔑しきっていたから、彼らに給金をくすねられないようにと、それだけを注意して生きてきた。 それでも見捨てられなかったのは、どこかで彼らと分かり合いたいという望みを捨てきっていなかったからだろうか? 『出来るのかな…』 ユーリのように気の利いた台詞を口にすることも、コンラッドのように強靱な武力も持たないカリカだが、今の現状を変えるため、本当に限界まで頑張ったろうか?カリカなりに、もっと方法があるのではないだろうか? 《いっしょに、しあわせになるが良い》…ユーリの言葉が、心地よい波紋のように胸に広がっていく。簡単に出来ることではないと分かっていても、変わらない現実に打ちのめされて蹲ったり、誰かのせいにして足りない物ばかりを数えているよりも、遙かに意識は清澄に感じられた。自分を取り巻く環境を、まず自分から変えていこうという指針を立てた途端、急に視界が開けてきたような気がする。 『ま、親より先に酒売りの親方に謝るって大仕事があるけどさ』 それでも殴られたり蹴られたりはあっても、流石に殺されることはあるまい。 怠けて聞き惚れていたのは事実なのだから、平身低頭して全力で謝ろう。 そう考えていたら、急に仏頂面をした男の一人が近寄ってきたのでびくりと肩を震わせる。しかし、男の手にあったのは丁度酒樽一つ分くらいの金であった。 「親方に渡せよ」 「あ…」 ばつが悪そうに、男達はすぐに踵を返してその場を立ち去ろうとする。その背中に向かってカリカは叫んだ。 「まいどありぃ…っ!」 いつもの癖で、酒を買ってくれた客に向けるのと同じ…威勢の良すぎる声であった。 「馬鹿!こんなこと毎度毎度あってたまるか!」 《ごもっとも》…と、誰もが苦笑した。 あれほど殺伐としていた劇場に笑いの波動が広がっていく。 「さぁさ、皆様方…少々観客席の方にお気を取らせすぎて申し訳ありませんねっ!今度は我ら一座の歌をお楽しみ下さい。闖入者の願いを聞いておいて、静かに聞いて下さった皆さんは無視ってんじゃ割に合わない。折角だ、皆さんどうぞお好きな曲目を呼ばわって下さいよ!」 マーシャがそう声を掛けると、会場はまるで競り会場のような熱気に包まれたのであった。 |