第53話





 三日目のトップバッターを務めたのは、カーベルニコフ家の兄妹であった。
 初対面となる妹アニシナの印象はというと…とりあえず、《衝撃的な人》だった。

「お初にお目に掛かります!」

 えらく滑舌の良い、賢そうな女性だ。
 小作りな体つきは実に俊敏そうで、ぴぃんと勢いよく跳ね上がった眉と、きりりと釣り気味の猫目は《気が強いです》という看板をでかでかと掲げているようだ。彼女がヤンキーなら、長ランの背に《天上天下唯我独尊》としたためそうな感じである。

 だが、有利が驚いたのは彼女の容姿に関することではない。
 それでは何に度肝を抜かれたかと言えば、彼女の脇で諦め顔をしたデンシャムが、《鉄の処女》のような立位棺桶風容器にはめ込まれていたことである。

「あああ…あの、デンシャムさん…なにしてる!?」
「ああ、お気になさらないで下さい。うちの愚兄が甚だ侠気に欠けたつまらぬ行動に出ていたようですので、お詫びの印に年越しの宴で花火でもご披露しようと思ったのです」
「はな…?」

 《花火》を意味する眞魔国語はまだ分からなかったのだが、取りあえず年越しから年始に掛けての宴の席で何かを披露してくれるらしい。

「で…でも、まだ日がある…ずっと入ってる、くるしい…」
「お気になさらず。この《魔力回収装置ホイホイちょホーイ★座布団一枚取ってくれヤマダ君》は実に良くできているのです。何と、三日間に渡って容器に収まったまま飲食・排泄が可能なのです!」

 可能なのとやって良いのとは違うんじゃ無かろうか?
 だが、自信満々にふんぞり返っているアニシナに意見するのはかなりの勇気を必要とした。噛みついたりはしないだろうが、滔々とこの装置の有益性について語り尽くされそうなのだ。

『いつも…この調子なのかな?』

 たらりと背筋を冷たい汗が流れていく。
 道理でグウェンダルやギュンターが激しく警戒していたわけだ。

「あの…おれのまりょく、いるですか?お兄さん、ずっとはくるしい。おれ…すこしかわるです」
「まあ、なかなか見上げた根性をお持ちですね!素晴らしいっ!!」

 《や〜…ほんと、良い度胸だよね〜…助かるよー》…ぐったりしていたデンシャムが喜色を浮かべるが、アニシナはクイっとその鼻面を摘んだ。

「デンシャム。あなた…どの面下げて交代したいなどと言うつもりですか?自分が何をしたかまだ分かっていないようですね…」
「い…いやぁ…だってさぁ、ヴァルトラーナがミルト鉱山の採掘権を…いやいやっ」

 何やら正直に告白しようとした鼻面を、千切れそうなほど摘み上げられてデンシャムは苦鳴を上げた。

「いやぁ…ほら、眞王陛下に逆らうのって勇気いるじゃない?」
「…で、グウェンダルを裏切るような真似をしたわけですか?なんと情けない!」

 アニシナの鼻息は凄まじい勢いであり、全く兄を解放する気はないらしい。

「双黒の君、あなたが私の高邁な精神に共感して魔導実験に参加したいのであれば、いつでも機会は設けて差し上げましょう…。幸い、私はあなたの教育官の一人として選ばれたようですしね」

 そう、十一貴族から選定された代表者は有利が王太子になるならないにかかわらず、重要人物である彼に眞魔国や世界の情報を伝える《教育官》という役職に就くことになる。他に重職を持っている者も多いのだが、そこは兼務ということになり、基本的には血盟城内に部屋も設けて生活することになる。

 教育官は数名の秘書官や補助員を雇うことも許されているから、どうしてもはずせない仕事の間は領土に帰るなど、講義時間の調整もしていく予定だ。

「おねがいするです」

 どんなことを教えて貰えるのか色んな意味でドキドキするが、当面、一番ドキドキしているのはこのままデンシャムがどうなってしまうかだ。有利は妹による兄拷問死に繋がるのが怖くて、懸命にフォローを試みてみた。

「おにいさん、あなたのことほめてた。りょうどで、いちばんゆうしゅうっていってた」
「ええ、事実です」

 褒めていたことを伝えれば多少大目に見てくれるかと思ったのだが、甘かった…。アニシナはふんぞり返って認めている。物凄く自己肯定感の強い人らしい…。

「さて、愚兄が傍にいてはお目汚しになりますからね…。とっとと立ち去らせます」

 アニシナが胸から下げていた大きな装置を操ると(基盤に2本のジョイスティックが着いている様は、鉄○28号のそれに激似である)、《鉄の処女》はガション!ガション!と機械的な重低音を鳴らしながら、自動的に動き出した。
 このファンタジック世界でリモコン装置を作り出すとは…確かに恐るべき英才である。

「これで落ち着いて話ができますね」

 席に腰を落ち着け、優雅に紅茶のカップを手に取る様子は流石に優雅であった。
 やはり、破天荒とはいえど立派に上流階級に所属している人なのだ。

「何からお話ししましょうね?」
「えと…あの、カーベルニコフ、どんなとこですか?」
「商業が盛んな、賑やかな街ですよ。ウィンコット領とヴォルテール領の間にあるので、自然とその二つの領土とは親交が深いですね」

 そう語るアニシナの瞳はどこか優しさを帯びていて…猫のような瞳を懐かしそうに細めると、じぃ…っと有利を見つめる。

「…その首飾りは、コンラートが差し上げたものでしょうか?」

 言われて思い出すと、黒い長衣の上で蒼く輝いているのはコンラートに貰った魔石であった。彼が大切そうにしていたものだが…どういう謂われがあるのかはまだ聞いたことがなかった。

「はい、はじめてあうころ、もらったです」
「よく、手放したこと…。やはり、殆ど言葉の通じない頃から、よほどあなたを大切に思っていたのでしょうね」
「やっぱりこれ、たいせつなもの?」
「ええ…スザナ・ジュリアが、アルノルドに出征するコンラートの無事を祈ってあげたものですよ」
「え……」

 しばし、沈黙が訪れた。
 アニシナは少し瞼を伏せたけれど、意識してきりりと顔を上げると力強く語りかけた。

「スザナ・ジュリアは、私の親友でした。ですから、彼女の成し遂げたことが今こうして花開こうとしていることが…とても嬉しいのですよ」
「あ…あの、きく、良い?ジュリアさん、コンラッドの…だいじなひと…?」

 次の一言を呟くのは、ちょっと苦しかった。

「……すきなひと?」

 会議の席で自分の魂がスザナ・ジュリアのものであったのだと知った時…そして彼女の父と弟に会ったとき、その度に有利は気にしないように努めよう、あるいは、受け入れた上で彼女に恥じない生き方をしようと心に決めていた。

 けれど…やはり人の心というのは、そう簡単に肯定的な思いだけを強く持ち続けることは出来ない。
 ことに、《恋は盲目》とはよく言ったもので、コンラートがスザナ・ジュリアを愛していたのではないかという疑いが掠めると、胸が苦しくて堪らないのだ。

「誰よりも、尊敬していた女性です」

 明確な嫉妬を示す有利を、アニシナは軽蔑したりする様子はなかった。
 恋というものが持つ不条理な感情を、頭ごなしに否定する人ではないようだ。

「私も大好きでした。多分…コンラートの感情と私のそれは、同義のものですよ。アーダルベルトの馬鹿にやってしまうのは悔しかったですが、彼女はあの馬鹿を愛していた。ですから、私たちはジュリアに幸せになって欲しいと…ずっと思っていましたよ」
「アーダルベルト…ジュリアさんと、けっこん?」
「ええ…。見てくれの割に破天荒な女でしたから、随分とアーダルベルトは振り回されていたようですけどね。それでもあの男はジュリアにベタ惚れでしたし、彼女は彼女なりに深く愛していたようです。駄目な男ほど可愛いと言うことですかね」

 フォングランツ卿アーダルベルト…。直接有利が目にしたことはないが、昨日会った父親ユールヴァスによく似た男性であったらしい。がっしりとした偉丈夫のユールヴァスは、若い頃は剣豪として知られた人であったそうで、グランツ領民も全体的に尚武の気質を持っていると聞く。

 だが、昨日の少し重苦しい会話では、アーダルベルトの出奔から数十年にわたって、グランツの民がどれほどの苦渋を舐めたかを察することが出来た。アーダルベルトを勘当しても他の十貴族からの風当たりはきつく、特に、去り際にアーダルベルトが罵倒していったシュトッフェルには、どんな場所で会っても気を使わねばならなかったようだ。

 ユールヴァスとの会話で唯一救いであったのは、《スザナ・ジュリアの死は、悲劇だけをもたらしたわけではなかったのですね…》という言葉だった。
 義娘となるはずだった女性を喪い、自慢の息子に背かれ、《裏切り者の跡継ぎを持つ十貴族》との烙印を押されたユールヴァスは、ある意味ではスザナ・ジュリアの死に最も傷つけられた人であるのかも知れない。

『アーダルベルトって人に、会う機会はあるのかな…』

 人間世界で傭兵のような事をしていると聞く彼は、今でもジュリアの事を愛し続けているのだろうか?だとすれば、有利の魂がかつてはジュリアのものであったという事実は、彼にとって救いとなるのだろうか、それとも…より深く傷つけることになるのだろうか?

『ユールヴァスさんや、グランツの人たちがそんなに苦しんでいたのなら、何とかして仲を取り持ってあげたいな…』

 気持ちの問題だから、ヴォルフラム同様余計に揉ませてしまう可能性だってあるのだが、想いだけは持ち続けていたいと思う。
  
「アーダルベルトのことが気になりますか?」
「うん…」
「世界平和などと、世界征服よりも遙かに難しい野望をお持ちの双黒の君のこと、人間世界に赴けばあの男にまみえることもありましょう…。その時、あなたがどれほど充実した命を輝かせ、幸せでいるかで印象も随分と変わるはずです。私は、あなたの命を輝かせる一助となりましょう」

 自信満々で強引で俺様気質のアニシナは、こんな時にはありがたい存在なのかも知れない。揺らぎかけた有利の心を奮い立たせ、《共に歩もう》と微笑みかけるアニシナに、有利は力一杯頷いた。

「うん!おしえる、おねがい」
「ええ、ビシビシと鍛えて差し上げます」

 ちょっぴり怖いが、アニシナの《教育》は色々と勉強になることだろう。



*  *  * 




「あ〜…終わったぁ……」 
「お疲れ様、ユーリ」

 十一貴族との会談を全て終えたのは、年越しの宴を翌日に控えた日のお昼だった。連日気を使い続けた有利は、宛われた居室でぐったりと脱力する。
 終盤に顔を合わせた面々とは少し上っ滑り気味でよそよそしい会話ばかりであったから、余計に草臥れてしまったのだろう。

 コンラートはソファに横たわる有利の肩や髪を撫でつけ、すべらかな頬にくすぐったいような軽いキスをたくさん降らせてくれる。
 少し恥ずかしいけれど、ふくふくとした気分がキス一つにつき掌一杯分くらいずつ、胸に注がれていくような気がする。

 しかも、彼は佳い声で耳元に囁きかけたりするのだ。

「そんなに疲れていたんじゃあ、城下街にお忍びなんて出来ないね?」
「え…えっ…。街に出られるのっ!?」

 現金なことに、そんな言葉を掛けられると勢いよく飛び起きてしまう。
 血盟城の中はとても豪奢で毎日が博物館状態なのだが、基本的にそういう畏まった空間は苦手だ。性根が一般庶民たることを自覚している有利としては、ぶらぶらと街を歩き回ることにいい知れない魅力を感じていた。

「行く行くっ!行きたい〜っ!」
「じゃあ、着替えようか?《双黒の君》と知れて騒ぎになると落ち着いて歩けないから、少し変装しようね」

 《お忍びなんて出来ないね?》等と言っていたくせに、コンラートは有利の行動様式をすっかり見切っていたらしい。小脇に抱えていた荷袋をひらくと、そこにはやや地味ながら着心地の良さそうな衣服が入っていた。如何にも動きやすそうな、街の少年風である。

「わ〜…楽しみっ!買い食いとかしようよ。熱々の軽食とか立ち食いできるとこある?このお城の食べ物って美味しいけど、たまにはヨザックやあんたと旅してた時みたいに、気軽な食事もとりたいよね〜っ!」
「勿論。良い店を知っているよ」

 わくわくと胸をときめかせて衣服を着こむと、コンラートは更に色硝子を瞳に填め、鬘(かつら)も被せてくれた。壁掛けの大鏡に映し出せば、懐かしい《庶民》の有利がいた。

「あー、凄っごい楽ぅ〜。俺やっぱり、気張った服よりもこういうのの方が良いな」
「ユーリは何を着ても可愛いよ」
「可愛いって言うなよっ!う〜…あんたは良いよな。何着てもメチャメチャ様になってて、格好良いもん」

 バカップル同士の褒め殺し合戦を、村田が傍で聞いていなかったのは幸いであった。耳にしていれば《君たち、頼むからいい加減にしてくれ!》と叫んでいたに違いない。

 しかし、実際の所コンラートは確かに格好良かったのである。
 これだけは譲れないと有利は思う。

『あの白い礼服も大好きだけどさ、こういう旅の剣士みたいな格好してると、初めて会った頃のこと思い出すな…』

 瞼を閉じれば、昨日のことのように鮮やかな映像が浮かんでくる。深い蒼色をした旅装に身を包み、一刀両断したスクルゥーの向こうに佇んでいた、あの日のコンラート…。
 冷然とした目元は氷のように凍てついており、凛とした美しさに一瞬にして心を奪われた。

 きっと…あの瞬間に、もう恋に落ちていたのだと思う。

『今も格好良いなぁ〜…』

 コンラートは目立たないように黒茶を基調とした長衣にベルトを二重に掛け、長い下肢には膝丈のブーツを着用している。愛刀も肩から掛けた革ベルトで装着し、隙のない美剣士ぶりだ。
 裏起毛のコートも有利のそれに比べると薄手で、しなやかな長身が一層映えて見えた。

「よぉっし!城下町のB級グルメ、食べに行くぞぉー!」
「夕食に響かない程度にね?」

 手を差し伸べられて《きゅう…っ》と握ると、楽しいプチ冒険の始まりであった。

『あ…これってさ、ひょっとしてデートみたいじゃない?』

 ふくく…っとにやけてしまう口元を引き締めようとするのだが、笑み崩れた有利はなかなか思うように表情筋をコントロールすることが出来ない。
 幸せ一杯の様子に、通りすがりの衛兵までが笑顔になったくらいだ。



*  *  * 




 年の暮れを目前にした城下街は、実に活気溢れた様子であった。
 降り積もった雪はしっかり除雪されて街角に固められ、上手に加工されて雪像のようになっている。殆ど土がついておらず、純白の雪質を保っているのが不思議だ。何らかの魔力によって作られているのだろうか?

 街路には元々建ち並んでいた商店の他、年越しの品を買い求める人々の為に、綺麗な縁起物や珍しい果実を売っている露天も建ち並んでいて、街路樹に繋がれた灯籠のせいもあってお祭りのような様相を呈している。

 威勢の良い呼び込みの声や、言葉巧みに値切ろうとする主婦のねだるような声音…ふぅんと鼻面を掠める香ばしい芳りに、目に鮮やかな新年飾りの数々…。おもちゃ箱の中身を広げたような街並みに、有利はあちらこちらに視線を送ってはちいさな歓声をあげていた。

「うっわ…良いなぁ。楽しそう!あ…ねぇ、あれは何をしているのかな?」

 大きな円形の広場には石造りのすり鉢型のステージのようなものがあり、そこには冬の寒さをものともしないような、小粋な薄手衣装に身を包んだ女性達がいる。周囲に大きな篝火を焚いているとはいえ大したものだ。

 竪琴や馬頭琴に近い楽器が弾き流され、歌姫達の声音が美しいハーモニーを奏でると、惜しみない拍手喝采が飛び、可愛らしいお仕着せをきた少女が観衆の間を回ってはおひねりを回収する。

「ああ…あれは、旅の歌姫達だね」
「旅の人達?舞台は随分しっかりしてるけど…特設会場ってわけじゃないよね?」
「ある程度の規模を持つ都市には、必ず随所に常設露店舞台があるんだよ。屋根付きの劇場よりも安価だし、手続きも数日前までに白鳩便で予約を入れておけば良いだけだから、市が立っているようなときに合わせてやってくるんだ。ただ、劇場みたいに決まった料金でチケットを売っているわけではないから、ある意味では一座の実力を試されることにもなるんだよ」

 なるほど。上手ければご祝儀をはずんで貰えるし運営費も格安で済むが、下手なら全く実入りがないこともあるわけだ。

 この一座はどうなのだろう…と耳を澄ませば、音楽にはそれほど興味のない有利にも、美しいと感じられる旋律であった。

『なんか…不思議なんだよね。こっちに来てから、結構音楽を耳にする機会があるんだけど…地球にいた頃よりも《気持ちいい》って感じるんだよな』

 地球にいた頃には特にご執心の歌手もおらず、村田に勧められたCDも最初の一曲目を聞いた途端に眠ってしまうような有様だったというのに、一体どうしたというのだろう?眠れぬ夜更けにコンラートが子守歌を奏でてくれたりすると、眠るよりももっと聞きたいとねだってしまうのだ。

 《それは恋のなせる技では…》と言われそうだが、コンラートがつま弾いてくれる弦の音や、甘く響く歌声そのものが有利の細胞を震わせているように感じるのだ。

 高く低く、切なく、朗らかに…歌声の中に込められたたくさんの想いが、心へとダイレクトに飛び込んできて、素直に感情が変化していくのを感じる。
 それが単にコンラートに対する思いだけによるものではないことを、有利はこの日再認識することになった。

「きれい…」

 うっとり目を瞑れば、歌姫の声が体腔内一杯に想像の翼を広げてくれる。これは…きっと、草原を疾走する駿馬の歌だ。聞いているとわくわくするような、一緒になって駆け出したいような衝動に駆られてしまう。その気持ちのままに喉を震わせると…出てきた歌声に自分で吃驚してしまった。

『あれ…?俺、こんな声出るんだ』

 鍛錬していない喉は声量の上では歌姫にとても適わない。けれど…大気を震わせるその振動は魅力的な響きを醸しだし、駿馬とはまた違った、子馬の元気さを感じさせた。

 ぱちぱちぱち…!

 拍手の音に驚いて目をひらけば、コンラートだけでなく有利の声音が耳に届いたと思しき観衆達が手を叩いていた。

「驚いたな…ユーリ。こんなに歌が上手いのなら、今度から君に子守歌を歌って貰わないとね」
「や…。あれれ?何か不思議…。あの歌手の人に釣られたみたいだ」

 ちょっとハミングしただけの気分でいたのに、予想外の拍手を貰って頬を上気させていたら、ぽんっと肩を叩く者がいた。

「大したもんだね…。坊や、良い喉と歌心を持っているじゃないか」
  
 振り返ると…そこには随分と長身の女性がいた。この辺りでは珍しい褐色の肌をしており、年は少しいっているようだが、均整の取れた体躯と彫りの深い顔立ちをしている。
 その面は派手な衣装や化粧を施しているのに決して下品ではなく、どこか叡智を感じさせる表情は《賢者》と呼びたくなるような一種独特の風貌である。
 きりりと一纏めにされた髪はコップを逆さまにしたような装飾具の中に詰め込まれており、頭の上に丈の高い装飾具がぽんっと置かれたような髪型をしている。

 艶(あで)やかなエメラルドグリーンのビスチェが引き締まった上体を包み、豊かで筋肉質な胸が盛り上がる。がっしりとした腰回りには色とりどりの宝石を鏤めた布が巻かれており、勢いよく闊歩すると垂らした房が靡いてとてもキレイだ。下肢を包んでいる布はゆったりとした白い布地で、少し透けているのが色っぽい。

 腰に掛けている円月剣は、舞台衣装の一部なのだろうか?
 それにしては…使い込まれたようにずっしりとした質感が本物っぽい。

「マーシャ姐さん!」

 コンラートが懐かしそうに呼びかける名前には聞き覚えがあった。
 確か、ヨザックが所属している歌姫ギルドの頭領であったはずだ。

 コンラートに向かってマーシャがにかりと笑顔を浮かべると、魅惑的な厚みを持った紅唇が勢いよく釣り上がる。似顔絵で描くとしたら、ぐいっと顔を横断するくらいの曲線にしたいような笑顔だ。

「コンラート!あんた、世界を滅ぼすってんで彷徨い人になってたんじゃないのかい?」
「あなたにしては情報が古いな、マーシャ」
「あはは!冗談冗談、ちゃんと知っているさ!十一貴族だなんだってのはどうでもいいが、あんたがあんたに相応しい地位につけるってのは喜ばしい限りだ」

 大口を開けて笑えば、真っ白な真珠を思わせる歯がこれまた並びよく顔一杯に広がって見えた。美女と形容するには難があるのだが、なんだか見ているだけで楽しい気持ちにさせてくれる、懐の大きそうな人である。

 マーシャはからからと笑った後、今度は少ししんみりとして目元を細めた。そうすると、年齢と共に刻まれてきた笑い皺が目尻に寄る。それは、老いと言うよりも人生の深みを感じさせる、表情の一部のようであった。

「あたしだって、これでも心配してたんだ。グリエの奴まで姿を眩ましやがったしねぇ…」
「ヨザはあなたのお気に入りだものね」
「あたしゃ、ああいうこってりと癖のある筋肉男が好きなのさ。あんたも良い線はいってるが…ま、ちょいと涼やかすぎるね」
「それが佳いと言ってくれる子もいるんでね」
「この子かい?」

 ぽんやりと横で眺めていた有利へと、不意に視線が動いたので吃驚してしまう。
 舞台用の化粧は実に派手で、瞬きをすると蝶の鱗粉のようなものが煌めいて見えた。

「こんにちは、ユーリいいます。はじめまして」

 焦っていたせいもあって、いつも以上に挨拶がしどろもどろになってしまった。

「んん…。あんた、共通語が巧く話せないのかい?」

 《共通語》という単語で、マーシャが人間世界の住人なのだと知れた。そういえば、ヨザックも《俺が男だって事も魔族だって事も知った上で協力してくれる》と言っていったけ。
 
 この世界は大シマロンなどがある大陸と眞魔国が陸地続きになっているせいか、長年仲が悪いわりにほぼ共通の言語を使っている。幾つかの島国や閉鎖性の高い小国家を除いては、多少の方言による聞きにくささえ我慢すれば会話が可能なのである。言語の表記法については各国家でまちまちなので慣れないと読みにくいらしいが、発音すると一緒の言葉になるというのだからちょっと不思議だ。

「あんた、もしかして…双黒かい?」
「はい。いまは目とかみ、かえてるです。ユーリ、いいます。よろしくです」
「は…!あんたがねぇっ!」

 周囲に気を使って小声にしてくれているのだが、それでも覆った口元には隠しきれない驚きがあった。

「こんなにちいさい子だったのかい。何とも可愛らしいねぇ…。こりゃ、コンラートが猫っ可愛がりしたくなる筈だ」
「………ヨザが言っていたのか?」
「言わなくたって分かるさね。あんた、どれだけ蕩けそうな目でこの子を見てるか、自覚ないのかい?」

 呆れたようにマーシャが鼻を鳴らすと、コンラートは何とも居たたまれないような顔でそっぽを向いた。仄かに目尻の辺りが紅色に染まっているような気がする。

「…我慢、してるつもりだったんだが……」
「あっはは!あんた随分と感じが変わったねぇっ!」
「がっかりした?」
「いーや、あたしゃ今の方が好きだね」

 マーシャは闊達に笑うと、ぽんっと軽快に有利の肩を叩いた。

「ま、良かったらうちの舞台をみていきなよ。懐が暖ったかけりゃたんまりと、寂しけりゃあそれなりにお捻りを弾んどくれ」
「はい!」

 有利が頷いていると、ふとコンラートが思い出したようにマーシャへと声を掛けた。

「そう言えばマーシャ。ヨザからもう話は聞いてくれたかな?」
「まだ詳しいことは聞いちゃいないがね。今夜奢ってくれるって話だから、その席でゆっくりと話すつもりさ。なんだい…あんた絡みの話なのかい?」
「俺個人というよりも、もっと規模の大きな話なんだ。あなたを見込んで、是非お願いしたい」
「なんだいなんだい…。妙に畏まってさぁ。まさか、あたしらをお抱え一座にしようなんて話じゃないだろうね?」

 マーシャの声が幾らか尖るところからみて、彼らは強く望んで旅を続けているらしい。

「自由を愛する鳥を、籠に閉じこめるほど無粋じゃないさ。俺達がお願いしたいのは、まさにその自由な気風を生かして貰いたいってことなんだ」
「ふぅん…。ま、あんたがそこまで言うんじゃ、聞いてみるだけの価値はありそうだね。夜が楽しみだ。だけど、今はちょいと座の方に集中させとくれ」

 ぴくんと瞼を揺らしたマーシャは、舞台に向かって目配せを送る。歌姫がこちらに気を取られて集中を欠いたのが気にくわなかったようで、大きく腕を振って何かを伝えると、歌姫もちらりと横目で確認して修正をかけた。
 なるほど…少しの違いなのだが、歌声が確かにより美しく響く。
 この人は座長として金銭や人員・旅程の調整をするだけでなく、歌唱の指導にも長けているようだ。

「コンラート、ユーリ、あたしらの舞台を見てっておくれよ。時間を取らせるだけの価値はあるはずだよ」
「はいっ!」

 マーシャに促されて観客席に行くと、石造りの円月状座列は既に押し合いへし合いの大盛況であった。場慣れした観衆は自前の布を座席に敷いて座り、そうでない者は客席を回る茣蓙(ゴザ)貸しに声を掛けて借りるか、そのまま石の上に座るようだ。

 コンラートはどうにか一人分の席を確保すると、茣蓙貸しから暖かそうな敷布を借り、有利を座らせようとした。

「良いよ、コンラッドのお金で借りたのに…」
「君を立たせて俺だけ座るなんて出来ると思う?」
「それいったら、俺だってそうだよ!」

 ぷんっと唇を尖らせば、《確かにね》とコンラートも笑った。
 結局互いに譲り合った結果、貧しそうな老女に座らせることに決まった。

 やっと落ち着いた二人だったが、その様子を確認していたかのようにマーシャの手が動くと、三人の歌姫が出てきて物語風の声音を響かせ始めた。

「あれ…?」
「……これは」

 暫く聞いてみて、有利とコンラートは互いに顔を見合わせた。
 その歌詞が…どう聞いてみても、コンラートのことを謳った内容であることに気付いたのである。







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