第5話









 有利を救ってくれたコンラッドはとても綺麗な男だったが、言葉が通じないせいか殆ど喋らず、表情を変えることもなかった。

 ぐねぐねした化け物が群れで襲ってきたから、初めの内はそれどころではなくて気付かなかったのだが、逃げ切れないと見たコンラッドが化け物に向きなおり、凄まじい剣裁きを見せて十頭ほどを斬り殺してから茨だらけの森を抜けると、人心地ついてきたせいか少し気になり始めた。

 最初の出会いに際して少しだけ笑ってくれたのも、ひょっとしたら勘違いなのかと思うほど、基本的に不機嫌な表情を浮かべている。

『うう…俺、めちゃめちゃ足手まといだったもんな…怒ってるのかも』

 きっとコンラッドだけなら、化け物と直接戦うこともなく逃げおおせることが出来たはずだ。彼は極めて身体能力が高いらしく、有利を抱えたまま直滑降に近い斜面を駆け下っても息を切らすことはなかった。

『さっき化け物といっぱい戦ったから、服とかもびしょびしょだ…』

 発酵した南国の果物のように不思議な匂いはきつく、赤紫色の体液はちょっと洗ったくらいでは到底落ちそうになかった。
 森を抜けた先には馬が待っており、コンラッドは有利を促して前抱っこ状態で乗せると疾風のように林道を駆けさせた。林道とは言っても本当に単なる田舎道であり、当然舗装もされていないから馬はかなり揺れる。それでも、文句など言いようがなくて有利はコンラッドの進む方向に身を任せるほかない。

『だってなぁ…交通手段が馬だよ、馬』

 テレビや動物園で見ることはあっても、直接身近に触れたのは初めてだ。驚くほどに顔が大きくて、そして優しい榛色の目をしている。艶やかな毛皮は丁寧にくしけずられていたから、コンラッドがどれほどこの馬を愛しているかが伺えた。
 かけ声から察するに、どうやら《ノーカンティー》というらしい。

 殆ど一昼夜駆け通しに駆けてから、有利が空きっ腹を抱えてうたた寝を始めた頃、闇の中でコンラートは馬を止めた。そして徒歩で岩道を行くと、松明に火をつけて大きな洞窟に入っていく。

 コンラッドはノーカンティーと深い信頼関係にあるらしく、その辺の枝などに繋ごうとはしなかった。ノーカンティーの方もゆるゆると小川の水を飲み、コンラッドの横で疲れた身体を休ませていた。    

 《ふぅ…》と息をつくと、コンラッドは突然服を脱ぎ始めた。

「…っ!」

 傍らの土に刺した松明の日に照らされて、逞しい肉体が薄赤く浮かび上がる。
 それは驚くほどに美しい肉体だった。

『わぁあ…良いなぁ、凄い実用的な筋肉って感じ!』

 不必要なものを限界まで削ぎ落としたような肉体は凛とした美しさを呈し、身体中に刻まれた大小の疵も、彼が歴戦の勇者である証として与えられた勲章のようだ。
 彼はまたお洒落さんでもあるのか、胸に銀の鎖のついた首飾りをしていた。精緻な紋様の入った蒼い石だ。
 それが彼の意外なほど白い肌に映えて、美しい色彩を為している。

 妙にどぎまぎしながら見守っていたら、有利も脱ぐように顎で促された。どうやら、汚れきった服を着替えろと言っているらしい。でも、何故だか着替えの服の提示がない。流石に素っ裸でいるには寒い気候だ(それ以前に、有利は原則として裸族ではない)。

『あ…そういえば、この匂いって…お湯の匂い?』

 コンラッドが向かっている洞窟の奥方向から、覚えのある香りが流れてくる。勘違いでなければ、多分お湯の香りだ。ひょっとすると温泉でもあるのかも知れない。

 わくわくした有利が勢いよく服を脱ぐと、懐でうたた寝していたチィがころりと転がり出て、不満を訴えるように《チィ!》と鳴いた。

「文句言うなよ。お前も綺麗にしてやるからなー」

 ふくく…っと笑うと、脱いだ服をコンラッドが着替えた服の横に大雑把に畳んで置いた。汚れは取れないかも知れないが、洗えば多少は清潔になるだろう。

 しかし…その衣服が清潔になる日は来なかった。
 いや、《滅菌》という意味では完璧だったのではあるが…。
 
「あ…っ!」

 コンラッドが松明を掴むと、衣服に押しつけたのだ。
 ぼ…っ!と燃え上がる炎があっという間に衣服を包み、単なる燃え殻に変えてしまう。

「あ…あ……っ!」

 有利は予想以上に動揺している自分を奇妙に感じた。
 先程まで有利を包み込んでいた衣服…学校生活の象徴のような学生服が燃えていくと言うことは、有利が持っていた唯一の《日常》を示す要素が抹消されたことを意味する。
 気がつくと双弁には涙が盛り上がってきて、全裸のまま呆然と燃えていく衣服を見守るしかなかった。

 今更炎の中に手を突っ込んでもどうにもならない。もう…殆どが灰になってしまって、衣服であった名残なんて見て取ることは出来なくなっているのだから。
 
 今の有利には、何一つ彼の所持品といえる物はなくなってしまった。
  
 《チィ》…涙を零す有利を心配しているのか、チィが地面に突いた膝に前足を乗せて伸び上がってくる。濡れた頬にちいさな舌が触れると、暖かさにまた涙が出てきた。

「ふ…ぅ……」
「ユーリ…」

 気配を感じて何気なく顔を上げると…そこには困惑しきった表情のコンラッドが居た。
 先程までの無表情とはまた違う…女子を泣かせてしまった小学生男子みたいに、えらくばつの悪い顔だ。

「あ…ご、ごめんっ!」

 きっとコンラッドは吃驚したのだろう。
 あの化け物の体液は絶対に取れないと知っていたから焚きつけにしたのに、有利が子どもみたいに泣き出したから困っているに違いない。

 だから、有利はごしごしと手の甲で涙を拭うと、精一杯の笑顔をコンラッドに向けた。
 けれど、コンラッドはどうしてだか…もっと困ったような顔になった。

「ごめんね、吃驚しただけなんだ。さ、お風呂入ろう?服は貸してくれるよね!」

 殊更元気いっぱいに振る舞って洞窟の奥に向かおうとすると、コンラッドは袋の中から肌に馴染む素材のタオルと、彼の物と思われる服を一式渡してくれた。

「ありがとう!」

 にこりと微笑んで言うとコンラッドはやっぱり困ったように頭を振り、ふと思いついたように首に掛けていた首飾りを外すと、有利に掛けてくれた。

「え…え!?い、いらないよ…。大事なものだろ?」

 首を振って固辞しようとするが、コンラッドは頑なに押しつけて、項のところでかちりと金具を止めてしまう。少し難しい構造なのか、自分で手を回しても外せなかった。

「あ〜…もうっ!外せないじゃんっ!」

 わたわたと外せない金具をがちゃがちゃやっていたら、コンラッドがくすりと笑った気がした。
 やっぱりこの人は笑顔が一番だ。

 《良いもの見た》という気持ちでふくふくと嬉しくなったので、有利は今度こそ本当の意味での笑顔を浮かべた。



*   *   *




 吃驚した。

 スクルゥーの体液がついた服は使い物にならないと知っていたから、コンラートは無造作に火をつけた。
 ユーリが着ていた服は奇妙なほど布地や縫い目が揃っている服だったが、それでも執着するほどの物ではないだろうと思ったし、どんな美服であっても、あれほど汚れていてはどうにもならないと判断したからだ。

 けれど、ユーリが涙を流しながら呆然と燃えていく服を見守る姿に、コンラートは彼が《何一つ知らないのではないか》ということに思い至って…愕然とした。

 双黒は異世界からやってきて、《禁忌の箱》を開く…確かに予言通り双黒はやってきた。
 だが…やってきた当人が、一体何故ここにいるのか分かっていないとしたら?
 コンラート同様に、押しつけられた運命を理解できずに戸惑っているのだとしたら…?

 少なくとも、帰り方が分からないのでなければこの反応は説明がつかない。
 突然異世界からやってきた彼にとって、この服は唯一元の世界を忍ばせるものだったに違いない。
 
 それを…コンラートは跡形もなく焼いてしまったのだ。

 それが理解できたから、何を言ってやればいいのか分からなくてコンラートも固まってしまった。

 コンラートの動揺が分かったのだろう。そして、焼いてしまったことがどうしてもないことだったのだろうとも悟ったのだろう。ユーリは突然、笑顔を浮かべた。
 おそらく、コンラートを困らせたくないと思ったからだ。

「……っ!」

 胸を鷲掴みにされるような心地で、一瞬…息が出来なくなる。
 
 どうして…どうして、こんなに健気な子が《禁忌の箱》を開くのだろう?
 この世界の言葉も分からず、頼る縁を何一つ持たぬ子だというのに。
 
 こんなに…他人の痛みを理解し、思いやれる子だというのに…。

『この子を…殺すのか?』

 切なさに締め付けられていた胸が、今度は痛みを訴えるほどに拉(ひし)がれる。
 グウェンダルを北の塔から救い出し、コンラートを彼本来の忠誠心と能力が指し示す位へと復帰させるためには、ユーリの首が必須なのだ。

 だが…それがこんなにも辛い選択になるなどとは考えても見なかった。

『他に方法はないのか!?』

 ないことはない。
 ユーリが何も知らないのであれば眞魔国に連れ帰って北の塔に閉じこめ、コンラートとの接触を断てばいい。

 だが、厳重な包囲網を突破して眞魔国に帰還するとなればコンラート一人の身でもかなりの困難が予想される中、旅慣れない様子のユーリを生きたまま連れて行くとなれば、これはかなりの難度になるだろう。

『難しいのは分かっている。だが…』

 元気なように振る舞って、楽しそうに温泉が噴き出している方に歩いていこうとする姿を見ていると、先程の涙を知るだけに…あっさり《無理だ》と断定することが出来ない。

『とにかく、もう少し様子を見ても良いのではないだろうか?』

 警戒網が厳重とは言っても、実際にはこうしてサマナ大樹海を逃れて来られたではないか。
 もしかしたら…連中を出し抜き、二人で眞魔国に向かうことも不可能ではないかも知れない。

 どうにも不可能だと分かったら…その時は、もう仕方がない。

 殺すしかない。

『一時…本当に駄目だと分かるまで、殺さないでおこう』

 そう判断を下した途端に、ふぅ…っと肩が軽くなった気がした。

 心なしか胸に掛けた首飾りも暖かく感じられて、ふと掌で転がしてみる。
 それは今は亡き友人からの贈り物だった。魔力を固めて作った魔石なので、混血であるコンラートが利用することは出来ないのだが、《お守りにしてね》と言って、首に掛けてくれた。

 お守りとしての効能は、強かったのかも知れない。
 コンラートにとっては皮肉なほどに。

 友人…スザナ・ジュリアは衛生兵でありながら魔力を酷使しすぎたせいで命を落とし、絶望的な戦地アルノルドに向かったコンラートは九死に一生を得た。

『もしかすると、この子も護ってくれるかも知れない』

 きっと、今この世界で誰よりも庇護を必要とする存在であろうユーリに、あげてはどうかと思いついた。

 ユーリはふるふると首を振って拒もうとしたが、一度決めたことは迷惑なほどやり抜く気質のコンラートが半ば強引に押しつけてしまうと、不器用なたちらしい彼は項の金具が外せなくて狼狽えている。

『金具の所だけ前に回したらいいのに…』

 ちいさな子どもみたいな慌てぶりがなんとも可愛らしくて、思わずくすりと笑ってしまった。
 すると…その表情が嬉しかったのか、ユーリは弾けるような本当の笑顔を見せてくれた。

 心の奥底がぽぅ…っと暖まるような印象的な微笑みは、彼の顔立ちをこの世界のなにものよりも美しく…清らかに輝かせた。

『ああ…なんて可愛らしいんだろう?』

 この子を、眞魔国に連れて帰りたい。
 グウェンダルはああ見えて可愛い物に目が無いとも聞くから、きっと幽閉はしても無碍には扱うまい。寂しさや退屈を紛らわすために菓子や玩具の差し入れでもやりそうだ。

 だが…ほわほわと夢想広がるコンラートの視界に、袋からはみ出す無骨な缶の一部が見えて…逃れようのない現実を突きつける。
 
 《そんなに甘いものではないだろう?》…ユーリの首を入れるための缶は、松明の揺らぎを受けて、まるで邪悪な何かが嗤っているように見えた。

 コンラートの笑顔はまた消えてしまったけれど、もう温泉目指して突き進んでいるユーリには見えなかったろう。
 


*   *   *




「ぁあ〜…生き返るぅ〜…」

 《はふぅ…》と満足そうに息を吐いて、有利は湯船に身を沈めた。
 商用温泉ではないから当然岩はごつごつしているし、少し動くと砂利で濁ったりするのだけれど、それでも疲れ果て、汚れ切った身体に暖かな泉水は染みいるようであった。

 コンラッドもきっと同じだろう。
 松明に照らされた薄闇の中、ほぅ…っとあえやかな吐息が漏れている。
 何かと色っぽい人だ。きっと女性にもモテモテなのだろう…かなり羨ましい。

 温泉の傍には燭台に載った小さな蝋燭が灯されており、微かな明かりを周囲に投げかけていた。
 電光生活に慣れた有利には少々心許ないが、それでも馴れてくると趣があるようにも思えてきた。

「これで石鹸とかあれば更に良いんだけどな。でも…自然環境に石鹸垂れ流しは拙いよな?」

 言葉が通じたのかどうか分からないが、しばらく湯船に使って汚れを浮かしたところで、コンラッドがふやかしたヘチマのようなものを半分渡してくれた。どうやら、元々は少し長かった物を半分に切ってくれたらしい。ヘチマよりもっと線維が細かいらしく、触ると少しぬるっとする。

 見ていると、コンラートが湯船に漬かったままぬるぬるヘチマで身体を擦りだした。見よう見まねで擦ってから湯で流すと、予想以上にお肌がつるつるになる。薄暗くてよく見えないが、多分汚れも落ちているのではないだろうか?

「うわ…凄い!」

 ぬるぬるしたものは湯の中に拡散していくから、きっと自然環境にも優しい成分で出来ているのだろう。これが普及すれば素敵なエコライフが送れそうだ。
 嬉しくなってごしごし擦っていたら、コンラッドの手が伸びてくる。彼はふるる…っと首を振ると、ヘチマもどきを取り上げてしまった。有利が不満げに唇を尖らせていたら苦笑して、一番擦れていた乳首を指し示した。

「あ…ホントだ。ちょっと赤くなってら」

 ぷに…っと乳首を押すと、ちょっと痛いような気がする。良く汚れが落ちる分、ひょっとすると角質を溶かしてしまう成分が多すぎて、擦りすぎると赤剥けになるのかも知れない。

「教えてくれてありがとうね」

 身体を洗うのはもう諦めて、湯船の中で両腕を上げて伸びを打つ。
 ちゃぷちゃぷと湯の中を泳ぐ(水は怖くないらしい)チィを肩に乗せると、ゆったりと胸を反らした。

 どうしてだか、コンラッドは口元を覆ってあちらを向いてしまった。



*   *   *




『どうかしている…』

 コンラートは自分で自分を窘めていた。

 泣き出したユーリの心情に気を取られて暫くは気付かなかったが、裸身のユーリは…目のやり場に困るほど綺麗な身体をしていた。

 まだ若木のように細いが、形良く伸びやかな四肢もほっそりとした腰も…薄く筋肉の乗った胸も真珠や象牙のように奥深い白を呈していて、しっとりと湯に濡れた姿は何とも艶やかだ。

 身体を洗うためのミスポの繊維(食品としては身が小さい内に加熱しないと食べられないが、大きくなったものを水につけて皮を剥ぐとスポンジ代わりになる)を渡すと、きゅきゅっと勢いよく擦りすぎて胸の桜粒が果実のように赤くなってしまい…これもコンラートの視線を彷徨わせた。

『この子は…誘惑しているわけではないのだよな?』

 多分…そうだと思う。
 《この仕草に食いついてくる》と分かると、自分の美に自信がある者は悩ましく身をくねらせてコンラートに擦り寄ってくるものだが、ユーリはあっけらかんとした顔をして湯船に漬かっている。

 コンラートの裸体にはきらきらとした眼差しは送ってくるが、あれは明確な憧憬の念だ。多分、年頃の少年らしく戦士の体つきに憧れているのだろう。

『困った…』

 捜索の旅の途上にも、情欲処理と情報収集の意味から娼婦を抱いたりはしたのだが、それもここのところ田舎ばかり回っていたせいでご無沙汰している。
 そこに、少年とはいえ魔族にとっては《至高の美》とされる双黒のユーリを目にしては、瑞々しい美しさについ劣情を覚えそうになってしまう。

『拙い…』

 目線を送ると、ちゃぷちゃぷと湯を跳ねてキトラが泳いでユーリの肩に乗っている。そのままぷるるっと毛を震うと、飛び散る飛沫にユーリが声を上げて笑った。

 可愛い。
 見れば見るほど可愛らしい…。

『…どうかしている』

 そこまで自分は飢えているのだろうか?
 あるいは…性的なものに、というより人のぬくもり自体に飢えているのではないだろうか。そんな自分が無性に情けなくて、コンラートは視線をユーリから外した。

 ぱしゃ…っ

「……っ!」

 水音を聞いて、反射的にユーリの方に視線を送ると、まろやかな双丘がぷくりとこちらを向いていた。無防備極まりない素肌に獣欲を感じそうになって、慌ててまた視線を外す。

『よせ…っ!やめておけ…あの子だけは』

 これ以上情が移ったりしたら困る。冷静でなくなれば、ろくな判断が出来なくなるだろう。

 努めて不機嫌そうな表情を浮かべて難しげな事を考えようとしていると、ユーリはふくふくとしたタオルで嬉しそうに身体を拭き、それからコンラートに与えられた着替えを身につけ始める。
 けれど服の形が難しいのか、それとも規格が彼には大きすぎるのか、何とか着るだけは着たものの、うまく着こなせなくて困っている。特に袖や裾はぶかぶかで、なにやら子どもがお父さんの服を着たような有様になっている。

『く…っ』

 ほとほと困り果てるほどに可愛いこの子を、誰かどうにかしてくれないだろうか?
 一生懸命自分の力で着ようとしているのに、もちもちと手間取っている所など悶絶しそうなくらい可愛い。

 結局、根負けしたコンラートは無造作に自分の身体を拭いてしまうと、ベルト穴を増やしたり、裁縫道具で簡易的に裾あわせをしてどうにか見られる格好にしてやった。

 

*   *   *




『こういう服が普通の国って、どういう所なんだろ?』

 有利はコンラッドに着替えを手伝って貰いながら、手織りと思しき素朴な質感や、その形状の風変わりなことに小首を傾げていた。

『いやいや…それ以前に、チィはまだしもさっきの茨の森の中にいた化け物なんて、明らかに日本には…いや、俺の世界自体にいないだろう?』

 ずく…っと、突きつけられた事実に背筋が冷える。
 実際の所、それは馬上で揺られている間にもちらちらと掠めていたことだった。

 あんな化け物が生息しているのだとすれば、きっと何らかの形でテレビに出ていると思う。人を襲うわけだし、今までには実際に喰われた人だっていたはずだ。
 それが…どうして全く見覚えがないのか。

  《遺伝子操作で生み出された化け物が逃げ出した》…等と、ありがちなホラー映画設定で考えたりもするが、それは可能性が薄いように思う。何故なら、コンラッドがあの化け物に対する対処を知りすぎているように感じるからだ。

『だとしたら…俺……実は《地球の見たことがない場所》にいるわけじゃ無いんじゃないかな?』

 《異世界》…不意にそんな単語が脳裏を掠めた。
 ファンタジックなその響きは、ゲームやライトノベルの中には掃いて捨てるほど転がっているけれど、いざそれが自分の身に降りかかってくるとなると、そうそう受け入れられることではない。

『いやいや、落ち着け俺…まだ沢山人がいるところを見た訳じゃないだろ?』

 ここは有利が知らない国なのかも知れない。《物知らず》と常日頃から兄の罵倒を受けるおつむであるから、きっとテレビで報道されていても、すぐに野球のチャンネルに変えてしまってみていなかったのかも知れない。

 何処か大きな街に出れば、きっとテレビや電話の一台くらいあって、家に連絡をしたら 《ええ!?ゆーちゃん○○国にいるの!?》なんて、吃驚したり笑われたりするのだ。

 そうだ…きっとそうだ。
 そう思おうとするのに、色んな要素がそれを否定してくる。

 ああ…何とかして一刻も早く、《異世界》なんて言葉を否定する決定的な事物を確認したい。

『声…聞きたいな』

 家族の声が聞きたい。
 せめて、日本語が聞きたい。

 しょんぼりと肩を落としていたら、耳元に伸びやかな美声が響いた。

「ユーリ…」
「…っ!」

 目線を上げれば、コンラッドが覗き込んでいた。
 琥珀色の瞳に松明の灯が映り込んで美しい色合いを呈しており、よく見るとそこにはちらりと銀色の光彩が光っていた。

『綺麗…』

 見詰めていると、心がゆっくりと落ち着いてくる。
 名前を呼ばれた喜びも、安らぎに貢献しているような気がする。
 《ユーリ》…そう呼んでくれる人がいる…そのことが、こんなにも喜びを与えてくるなんて初めて知った。

『コンラッドが、呼んでくれる…』

 そうだ、有利はきっととてつもなく幸運だったのだ。
 もしかしたら…いや、かなりの確率で、コンラッドが現れなければあの化け物にぱくりとやられてしまい、異世界だのなんだのに頭を悩ませることなく咀嚼されていたはずなのだ。

 だったら何を悩むことがあるだろう?

『そうだよ。死ぬ気になったら、なんだって出来るよな!』

 失っていたかもしれないこの命で、どこまでできるのかやってみよう。
 コンラッドの傍にいられたら、きっと何とかなる気がするし。

『迷惑かもしんないけど…傍に、居させて貰えるかな?』

 暗闇に背中を押されるようにして、そそ…っとコンラッドの胸板に身を寄せていくと、彼は少し戸惑ったようだがそのまま腕を回して抱き寄せてくれた。
 きっと、有利の心細さを察してくれたのだと思う。

『コンラッドに会えて良かった…』

 しみじみとそう感じる有利だったが、タオルで身体を拭いただけの裸身に擦り寄っていることは、この上ない迷惑なのではないかと思い至ったのはその数分後のことであった。 

  

*   *   *  

  


 そっと寄り添う熱源に、コンラートは激しく動揺していた。
 華奢な少年の身体はすっかり安心しきって、コンラートに身を寄せているのだ。

 相手が、先程まで首を落とそうとしていたことなど全く知らずに…。

『俺を信頼しきっているのか…』

 胸の奥が…暖かさと冷たいものとが入り交じって、何とも不可解な感触をもたらす。
 いざとなったら最善の決断を下さねばならないのに、全てを《この子を護る》という方向に沿わせてしまいそうで、自分はどうかしてしまったのではないかと狼狽えた。

 硬直したコンラートに気付いたのか、ユーリの方から身体を離してくれたのは幸いだった。あのまま寄り添い続けていたら、何かおかしな衝動に駆られていたかも知れない。

 何か盛んに喋りながらわたわたとコンラートの荷物の方に走っていく。どうやら、全裸のコンラートに早く服を着て欲しいようだ。風邪をひくとでも心配しているのだろうか?
 その様子があんまり一生懸命なものだから、つい笑みを浮かべてしまう。

 コンラートは既に用意していた衣服を素早く身につけると、岩場の上に枯葉をかき集めてマントを被せ、横になるようユーリに促した。自分も同様の寝床を作って横たわる。
 勿論、洞窟の入り口には警戒用の簡易的な罠を取り付けているし、この洞窟は奥が細い抜け道になっている。

 ユーリはぽふりと横になったものの、なかなか寝付けないようだ。馬上でもうとうとしていたから眠いのは確かなのだが…一人だと心細いらしい。
 もじもじと寝返りを打ったりしていたが、結局そそ…っとコンラートに寄り添ってきた。

「……」

 拒絶するのもなんなのでそのままにしていたら、その内すぅすぅと健やかな寝息が響き始めた。やわらかい息が胸元にあたり、ユーリのものらしい体臭が心地よく芳る。なにやら、えらくくすぐったいような心地だ。
 不思議と同じような表情でキトラも丸まっているものだから、小動物二頭に懐かれているみたいで厳しい態度を取れない。
 
『…もっと、突き放した方が良いんだろうな…やっぱり』

 そうは思うのだが、すぐに《最初の夜くらい落ち着いて眠れるようにしてあげても良いのではないか》と、打ち消してくる声がする。
 
『明日から、厳しくしよう』

 減量を目指しつつもままならない婦女子のような言い訳をして、コンラートは瞼を閉じた。





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