第48話





 華麗な容貌をしていた筈のアルザス・フェスタリアは憔悴しきっており、蒼い大粒の瞳が落ちくぼんだ眼窩の中で光っていた。かつては傲慢そうに人を見下していた瞳には酷く追い詰められた色があり、色を失うほど唇を噛みしめている。

「一体何のつもりだ?ロドレスト。今更このような女を呼び出して、何が聞けるというのだ」
「私も…これまでの経緯がありますから、今朝方この巫女から面会の希望を受けたときには即座に断ろうと思いました。ですが…この巫女の予見に踊らされてしまったのだとしても、結局は私たち自身が選択し、ウェラー卿の処遇を決めたのです。あの決定を失敗であったと認めるのであれば、もう一度巫女と向き合っておくことも必要なのではないかと考えました」
「それで?その結果どのように向き合ったというのだ」

 ヴァルトラーナは明らかに苛立ちを隠せぬ様子で、盛んに卓上を長い人差し指で叩き続けている。何か、彼にとって嫌な結論が出てきそうで不愉快なのだろう。

「まずは、この巫女の弁をお聞き下さい」

 ロドレストに促されたアルザス・フェスタリアは礼をした。
 淑女の礼として、裾を摘みながら腰を屈めたのではない。

 額を地面に擦りつけるようにして…平伏したのだ。


「お詫びを、申し上げます…!」


 悲痛なまでの声音が、フェスタリアの喉から迸った。
 何故か…保身を考えて詫びているという感じではない。

『寧ろ、決然とした雄々しささえ感じる…』

 これまで八つ裂きにしても足りぬと言うほど深い怒りを抱いていたオーディルも、不思議な感銘を受けて少女を見つめた。



*  *  * 




「私は何かの利権や後ろ暗い感情から、ウェラー卿と双黒に関する予見をしたわけではありません。それだけは…揺るぎない真実です。ですが…結果的に、私が誤っていたことは確かです…!」

 顔を上げなくても、驚愕と侮蔑に満ちた眼差しが叩きつけられているのを痛いほどに感じる。肌がふつふつと粟立ち、いい知れない羞恥に全身が強張った。

 誰もがこの《お騒がせ》な巫女の言葉を、《また揉めさせるつもりか?》とでも思っているのだろう。

 誇り高いフェスタリアの矜持は血を噴きだす程に傷ついているが、ここで逃げるわけにはいかなかった。あの日から…ずっと考えて出した結論なのだから。

「これまで、私は予見を見誤ったことがありませんでした。全てが的中しておりましたから、愚かにも《絶対に外れるはずがない》と信じ切っていたのです。まさか、予見図が変わるなどと言うことが起こるなど…考えもしなかった…!」
「フェスタリア…では、今の予見図はどうなっているのですか?」

 ツェツィーリエが問いかけると、グ…っとフェスタリアの喉が鳴る。

「今は…見えません」
「え?」
「見えないのです。シュッピッツヴェーグ領の砦で、《地の果て》と戦われたユーリ様の絶大な魔力を感じた瞬間から、私の予見の力は全く発動しなくなってしまいました。焼き切れたように…何も未来のことが見えなくなりました。私が生きている今の、この瞬間のことしか分からなくなってしまったのです…!」

 《地の果て》が、フェスタリアの予見に現れたような形で解放されるのではなく、完全に世界と解け合う形で昇華されたのは、残された魔力でも十分すぎるほどに感じられた。もはやあの忌まわしい感触は土の要素に関しては微塵もなく、残されている禍々しさは水・火・風だけだ。

 その瞬間にフェスタリアは認めざるを得なかったのである。
 自分の予見が…よりにもよって国を揺るがすような大きな予見が、生まれて初めて外れたのだと。

 足下がガラガラと崩れて、奈落に落ちていくかのようだった。

 予見の力を失ったことも、間違ってしまったことも何もかもが辛くて苦しくて、いっそ死んでしまおうかとも思った。こんな恥ずかしい思いをしたまま、生きていくことなど出来ないと思ったのだ。

 だが…死のうと決めたその時に、無駄に死んでしまうことを辛いとも思った。
 せめて、何かを残さねば生まれてきた意味がない…。そう思い、迷ったフェスタリアはせめて今現在有利がどうしているのかを知ろうと、予見ならぬ現見の力を駆使し…そして、知ったのだ。

 あろうことか…有利が、眞王の器として用いられ、その精神は封殺されるのだということを。

 フェスタリアは声にならない叫びを上げて駆け出すと、着の身着のまま無我夢中で血盟城に向かっていた。

 門前払いされて当然、それでもしがみついてでも面会を願おうと思ったが、思いがけず十貴族会議議長であるロドレストは迷った末に同席を考えてくれた。《だが、あくまで会議の流れをみて、必要が有ると思えば呼ぼう。…呼ばぬ可能性の方が高いということは、弁えていてくれ》そう言われたのは仕方の無いことだと思う。あれだけ眞魔国を騒がせたフェスタリアを会議に召還するということは、ロドレストの品格をも疑われる可能性があったからだ。

 鼓動を髪の毛の先端から爪先まで強く感じながら待機していたフェスタリアは、会議室への入室を促されたとき、待ちわびていたはずなのに…その場から逃げ出したくなった。廊下を歩く一歩一歩が針の絨毯を踏むようで、どのような目で見られるのかと思ったら羞恥にくらくらと目眩がした。

 それでも、逃げたくはなかった。
 自分がしてしまったことの尻ぬぐいくらいは、成し遂げてから死にたいと思ったのだ。

『言うだけ言ったら、どこかでひっそりと死ぬもの…だから、恥なんてどれだけかいたって構わないわ…!』

 自分に言い聞かせながら、一歩一歩を強い精神力でもって進めてきた。

「私の予見では、四つの箱が全て揃い…箱は開かれておりました。創主の力が天地に溢れ、世界は恐るべき力に包まれて崩壊していった…。ですが、《地の果て》があのような形で昇華された今、私が誤っていたのは明らかです。あの瞬間…言葉にならぬ土の歓喜が聞こえました。これまで一度たりと感じたことのない、澄み渡った喜びの波動…それを生み出したのがユーリ様なのだと察したとき、私は…自分が取り返しのつかない過ちを犯したのだと知りました…っ!」

 上げた面に涙は無かった。
 その代わり、縋り付くような…血が迸るような、なりふり構わぬ懇願が為される。

「どうか…どうか……ユーリ様の精神を封殺することだけは、お止めください…っ!ユーリ様は眞魔国にとって…いいえ、この世界にとって、なくてはならない方です…っ!」

 しん…と会議室内は静まりかえった。
 この告白をどう捉えて良いのか分からないのだろうか。

 その中で口を開いたのは、ロドレストだった。

「私は迷っておりました。フォンヴォルテール卿…あなたの獅子吼を受けた瞬間から、激しい葛藤の中に在ったのです。今この時…私が真に為すべき行動は何なのだろうかと、おそらく…生まれて初めて真剣に懊悩したのです」

 ロドレストは緊張の極みにあるようだったが、それでも微かに震える手を握り締めると、驚きに目を見開いているグウェンダルに微笑みかけた。

「今も迷いは消えたわけではありません。本当にこれが正しい道であるのかどうか、確信は持てない。ですが…やはり、決めました。私は…」

 すぅ…っと息を吸い込んで、ロドレストは告げる。
 これまでシュトッフェルの腰巾着としてしか認識されていなかった男の顔に、深い叡智と誇りが見て取れた。


「私は、双黒の君の精神を尊重したいと思います」


 ダン…っ!!

 強い勢いで円形テーブルを叩いたのはヴァルトラーナだった。

「卿は何を言っているのか分かっているのか?この巫女とまみえたのであれば、もっと強く感じるべきは、このような者の言に信義をおくことがどれほど愚かしいかであろうがっ!」
「いいえ、ヴァルトラーナ閣下。私はこの巫女の予見は、あの時点では正しかったと思うからこそ、このように申し上げているのです」
「なんだと…?」

 ヴァルトラーナの声も眼光も、ロドレストを射抜くような鋭さだ。いま少し彼に理性というものが乏しければ、獣のように飛びかかって喉笛を咬み裂いていたことだろう。

「滅びに向かっていく運命…それを打ち砕いたのは、双黒の君の精神によるものなのではないかと私は思うのです」
「馬鹿なことを…。ただ単に予見を誤っただけではないのか?」
「そうなのだとしても、《地の果て》をあのような形で昇華なさったのはやはり、双黒の君の《想い》から出たものだとお聞きしております。そうであれば…私は、その《想い》を持つ方の精神を、生きながらにして殺めてしまう選択などできません…!」
「私も、そう思いますわ」

 口を開いた人物に、ヴァルトラーナは再び眉根を顰める。
 それは当代魔王陛下ではありながら、この場で何の意味ある言葉も求められてはいなかったツェツィーリエからもたらされたものだったのである。



*  *  * 




「失礼ですが、魔王陛下…この状況を本当に理解しておられるのですか?世迷い言を口にされるのもいい加減にして下さい…!」

 ヴァルトラーナが明確な侮蔑の色を浮かべて吐き捨てるように言う。もはや、精神動揺が激しすぎて言葉を取り繕う余裕もないのだろう。

「あなたったら本当に失礼ね。でも…珍しく分かっていてよ?だって、今日ほど真剣に、お話に集中したことはないもの。いつもは綺麗な男性を眺めて、残り時間を指折り数えていましたけどね」

 ほほ…と可憐に微笑むツェツィーリエだったが、その表情はいつものような浅薄なものではなかった。
 
「退位することに依存はありませんけど、まだ今の段階では私にも魔王としての発言権はあるはずよね?では…やはりロドレストの意見に全面的な賛成をするわ。これで十一貴族の得票数は6対5…魔王の賛同も得た、完全な決定ね?」
「後悔することになりますぞ?」

 侮蔑に満ちたヴァルトラーナの言葉も、ツェツィーリエを怯ませることはなかった。
 これまでは、会議の席では宴とはうってかわって縮こまっていたツェツィーリエも、堂々たる態度でヴァルトラーナに向かっていった。

「ええ…きっと私たちは間違えるし、上手くやっていけないのかも知れない。でも、だからといって私たちの世界のために、身を尽くしてくれた方を犠牲にしてまで上手くやっていくなんて、私は嫌です。絶対に…それだけは嫌!」

 もっと早く、そう言えば良かった。

 コンラートを危険な戦場に、混血に対する見せしめのような形で送り出すことを国母として《我慢する》のではなく、もっと積極的に意見して、無駄な戦闘自体を…戦場で失われていく命自体を減らすことが出来たのではないだろうか?

 そう思わせてくれたのは有利であり、そして…平伏したまま固まっているアルザス・フェスタリアであった。
 取り返しのつかない失敗をしながら、彼女は逃げなかった。

 言い訳しようのない失態をして、この一同の前に出てくることがどれほど勇気の必要な事であったのか、ツェツィーリエには痛いほど理解できる。
 自らの無能ゆえに、多くの父母に、子ども達に…耐え難い苦しみと哀しみを与えてきた事を自覚した今だからこそ、分かる。

「ウルリーケ、お聞きかしら?十一貴族会議の決定を、眞王陛下に伝えて下さる?」
「分かりました。ですが…お伝えするまでもありません。陛下は…ここにおいでですもの」

 その瞬間ウルリーケが浮かべた表情ときたら…先程まで薄氷で出来た結晶人形のようであったものが、ぱりんと割れて…ほわりと春の妖精が飛び出してきたかのように朗らかなものであった。

「…………え?」

 ウルリーケは袖の中から綺麗な布で作られた巾着を取り出すと、とすとすと歩いて円形卓に近寄り…ふわりと開いた。


「…………っっ!!」

 
 その場に溢れた驚愕は…変転に満ちたこの会議の中でも最大級のものであったろう。

 円形卓にちょこんと立っていたのは、血盟城の壁面に掛けられた絵画に残る…眞王陛下その人であったのである。
 ただし、スケール1/20サイズの…。

「しししししし…眞王陛下っ!?」
「んまぁ…なんてお可愛らしい…」
「ふむ。まだ三つ分の箱を押さえておかねばならないのでな。このような姿しかとれなんだ。それはさておき、ツェリ…お前も相変わらず可愛らしくて何よりだ。やはり美しい女というのは、それだけで俺の心を癒すな」

 蠱惑的な囁きに、人々の血液を沸騰させた緊張感はまたも変転してしまう。小人のような成りではあるが、発せられた声に底知れぬ威風が漂っていることに、誰もが気付かないわけにはいかなかったのである。

 流石のヴァルトラーナですら、この眞王に向かって《紛い物だ》と叫ぶ勇気は持てずにいるらしい。そのような言葉を発した瞬間、微笑みひとつで千々に切り裂かれる…そんな予感に四肢の緊張を強いられているのだ。

 それほどに、お人形さんのような成りをして気さくな口調で話すこの男は、恐るべき覇気を放っていたのである。

 一生分の気概を使い果たすような勢いで意思表明をしたロドレストなど、すっかり腰が抜けてその場にへたり込んでいる。おそらく…当分は自力で立ち上がることなど困難だろう。グウェンダルに支えられてどうにか着席した彼は、ぶるぶると震えながら眞王から視線を外した。

 どんな報復をされるかと気が気ではないのだろう。

 しかし、ツェツィーリエの瞳には…眞王は満足そうに笑っているように見えた。

「ふん…。我が眞魔国民も、漸く俺の手を離れて独り立ちする気になったようだ。重畳至極だな」
「へ…陛下…っ!我が忠誠には決して揺らぎはなく…っ!!」
「ああ、分かっているさフォンビーレフェルト卿…の、老けた方」

 《老けた方》呼ばわりされたヴァルトラーナはひくりと口角を引きつらせるが、忠誠を誓った舌の根も乾かないうちに文句など言えない。

「分かっている。分かっている…。お前が、まだ俺の手を離れられぬ乳飲み子だと言うことはな…。だが、そろそろ限度というものがある。いい加減、お前も乳離れをしろ。そのようにしつこくしゃぶられては、俺の乳首が草臥れるというものだ」

 眞王の動作に、双黒の大賢者が《ち○くりマンボ、ち○くりマンボ、ち○くりマンボでキュー…》と囁いていたのだが、ツェツィーリエに意味を汲み取るのは不可能であった。
 古(いにしえ)の儀式に関わる呪文か何かであろうか?

「な…なんと、仰せですか…っ!?」

 ヴァルトラーナは何を言われているのか判じかねると言いたげに舌を縺れさせ、信じがたい姿をした眞王を、初めて《得体の知れないもの》として認識したようだ。
 くすりと嗤う眞王の瞳には、明確な侮蔑があったからだ。

 眞王は知っているのだ。ヴァルトラーナの心に真摯な忠誠などなく、単に近視眼的な判断によって決断を下しただけなのだと言うことを…。

「今回のことは、俺にとっては想定外の事ばかりだった。何しろ、ユーリの魂を仕込むまでは…スザナ・ジュリアに話を持ちかけたときには、完全にユーリの肉体を我がものとして蘇る気でいたのだからな。だが…今思えば、あの女が笑いながら告げた言葉が気に掛かっていたのは事実だ」
「ジュリアは、なんと…なんと言っていたのですか…っ!?」

 儀礼など吹っ飛んだような勢いで尋ねるのはオーディルだ。愛娘の死の秘密を今日初めて知らされた彼は、縋り付いてでも知りたいに違いない。

「お前の娘に対して、俺は死ぬ時期は教えなかった。予見によって知ってはいたが、《知りたいか?》という俺の言葉を、《結構です》と一言で断りおった」
「では…ジュリアはあの戦争で命を落とすと、知っていたわけではないのですか…」

 ツェツィーリエには分かるような気がした。

 あのスザナ・ジュリアのことだ…。《充実した死は充実した生と一続きのものである》と確信していた、あのしなやかな少女のことだ。自分がいつ、どんな死に方をするかなど人に聞かされたくはなかったろうし、もしも教えられていたとして、怯むことなく戦場に向かったことだろう。

 見ている方が切なくなるくらいに、彼女は鮮やかな女性だった。

「そうだ。ただ、死後に貰い受ける魂に疵が入っては困るので、《後悔がないように生きろ》とだけは厳命しておいた。スザナ・ジュリアは《禁忌の箱》への危機感を理解した上で、《死後であれば好きに使って頂いて構いませんよ》と容認したが、こうも言っていた。《眞王陛下の眞魔国に対する愛情はとてもありがたいですけれど、全てを永遠に、御自分一人だけの力で動かされることには限界がありましてよ?》…あの女、飄々としてこの俺に忠告をしたのだ」
「は…それは、実に我が娘らしく…いやいや、た、大変失礼致しました…っ!」

 娘と良い勝負の性格を持つらしいオーディルは、つるりと滑ってしまった舌を慌てて縺れさせた。

「なに、お前が謝ることではない。更に、《どんなに取るに足らないと思われる者にも、自分自身として生きたいと願う心はありますのよ?その願いは、時としてどれほど偉大な方の力をも揺るがすことがあるものです》とも言っておったがな。いっぱしの予見者気取りかと、その時には失笑したものだ。なぁ…大賢者。俺に面と向かってあのような口を叩いた奴は、おそらくお前以来だぞ?」

 眞王は大賢者と呼ばれる少年に向かって闊達に笑って見せた。
 深い親しみと同時に、古馴染みに対する図々しさも感じられるその態度に、大賢者の方はかなり嫌そうな顔をした。

「そういう肩書きで、今も呼ばれ続けるってのは釈然としないね」
「ふん…随分と静かに眺めていると思ったのに、憎まれ口は相変わらずか?だが…随分と印象は変わったな」
「4000年も経てば、幾ら執念深い思い入れだって薄れるし、そもそも僕は大賢者の記憶はあっても、第一義の精神は村田健だ。それ以上でも以下でもない、唯一人の村田健なんだ」
「ユーリに影響されたという訳か」
「君だってそうだろう?」

 くすりと嗤う様子から、村田がこの展開をおおよそ読んでいたことが伺われる。
 だからこそ、彼は敢えて当主達の言葉に口を挟むことなく観察を続けていたのだろうか。

「ふん…違いない」

 眞王は苦笑するとウルリーケを促して掌の上に乗り、腕組みをして偉そうにふんぞり返った状態で有利の前までやってきた。けれどその表情に威嚇するような色はなく、何処か楽しそうに語り掛けてくる。

「なにもかも…お前から変わっていった」
「そ…そう?」
「そうだ。創主に浸食されながらも、俺は眞魔国を護るために様々な方策を立てたというのに…お前を基点として全てが変わっていったのだ。ウェラー卿も大賢者も、そして…俺自身もな」
「え…?」
「まあ、更に言えばそこな巫女…お前の横紙破りな行動も基点と言えば基点になっているのだ」

 フェスタリアは怯えたようにビク…っと震えるが、有利は立ち上がるととたとたと駆けて彼女の前に膝をついた。

「いじめないで…この子、もうたくさんあやまった。まちがっても、ちゃんとあやまった。だから…ゆるして?」

 アルザス・フェスタリアの瞳が驚愕に見開かれ…次いで、くたりと膝の力が抜けたようにしゃがみ込むと…ぽろぽろと涙を零した。緊張しきっていたところに優しくされたことで、何かがふつりと和らいでしまったらしい。
 有利は慌ててハンカチを出すと、やさしく頬を拭って遣った。

「何も苛めているわけではない。寧ろ、この巫女がウェラー卿を失脚させたからこそお前は自我を保つことが出来たのだぞ?お前の中の《上様》とやらが反乱を起こしたせいで、眞王廟に呼び込めなかったせいもあるが…ウェラー卿が赴かねば、サマナ大樹海に落ちたお前はスクルゥーに美味しく食べられていたことだろう。もし運良く逃れられたとしても、遅かれ早かれ人間に捕まって箱の鍵として使われるか、魔族に捕まって眞王廟に送られ、俺の器とされていたのだからな」
「あ…っ!」

 思いがけない発想の転換に、有利はフェスタリアの肩に置いた手を更にやさしいものにしていた。



*  *  * 




「本来なら、俺は大賢者を呼応させてもっと早くユーリを眞魔国に迎えるつもりでいた。しかし思いの外《禁忌の箱》から溢れ出た力が強く、最初の召還に失敗してしまった」

 《なるほど》…と村田は内心に呟く。
 有利を女子便所で溺死させるところであった事件は、不発であったらしい。

 その代わり、あの事件を機に村田はより深く有利に傾倒するようになり、今の関係性を結ぶことが出来たのだ。
 偶然とは、時として思いがけない果実をみのらせるものであるのだろうか。

「俺の意識が保てる時間は時を追うごとに短くなっていった。焦った俺は、俺としての意識がある間になんとしても思い通りに事を進めようと、様々な手だてを講じてきたのだが…その内、ユーリがもたらす影響について考えるようになった」
「お…おれの?」
「ユーリ、当初俺にとってのお前は、単なる肉の器に過ぎなかった。巨大な魔力を持っていてもそれは眞魔国に於ける資質であり、地球にいる間は何の取り柄もないちっぽけな子どもであったのだから、大した精神性も自我も磨かれぬと高を括っていたのだ」
「………きたいどおり、そだった?」

 散々な物言いにぷくっと有利の唇が尖るのを、珍しく眞王は《すまんすまん》と宥めていた。笑いながらではあったが…この男が曲がりなりにも詫びを入れるなど、初めて見たような気がする。

「眞魔国に呼び込むまではまさにそう思っていたさ。ところが、次々にお前は俺の予想を越えた動きを見せた。会う奴会う奴、全て味方に引き入れていくのだからな。その内、俺までがお前に期待を掛けるようになっていった。もしかしたら、お前なら…俺とは違う形で創主に向かい合うのではないかとな」

 この頑固なまでに責任感が強過ぎるワンマン男をして、そう思わせたのだ。

『やっぱり…君は凄いよ、渋谷…』

 自分のことのように嬉しくて、村田はにんまりと微笑んでしまう。

「だから金色の蝶で誘導し、お前を《地の果て》へと導いたのだ」
「あ…あれ、あんたの!?」

 眞王陛下を《あんた》呼ばわりした有利だったが、咎められはしなかった。

「そうだ。ただ…あれは少々危ういところだったがな…。おそらく、大賢者が同調してこなければ、お前はウェラー卿を傷つけられた衝撃によって怒りを統制できなくなり、逆に箱の暴走を許してしまったかも知れない…そうなれば、そこな巫女の予見の方が現実のものとなった可能性もある」
「う…っ…ご、ごめんなさい…」
「ま、謝ることもない。お前が信じ難いほどの強運を持っている証拠でもあるからな」

 鷹揚に頷くと、眞王はウルリーケの手から有利の掌へと移った。
 有利は小動物のように小さいのに、やたらと迫力がある眞王にびくびくしている。

「その運と、やたらと人に愛される性質を見込んで頼もう。ユーリ…残る《禁忌の箱》の始末を、お前に委ねても良いか?勿論、俺も出来る限りは協力してやるが、基本的に今の力では溢れてきた分を押さえているので手一杯だからな、あまり期待はするな」
「う…うん。おれ…がんばる!」

 こくこくと有利が頷くと、今度はフェスタリアに視線を向ける。
 
「お前もどうだ?眞王廟に帰らないか」
「私を…赦してくださるのですか…っ!?」
「俺は女には甘いんでな。厳しいお局はいるが…ま、我慢しろ。これだけの詫びが入れられるお前のことだ…生きていさえすれば、取り返しはつく」
「……っ!」

 フェスタリアは両眼に涙を溢れさせて、再び深々と平伏した。
 おそらく…この告白劇が終わったら死ぬ気でいたのだろう。そういうところに目が行くのは、流石に女好きとして知られた眞王の真骨頂であろうか。

 楚々と歩み寄ってきたウルリーケも、優しくフェスタリアに向かって手を差し伸べる。

「そうよ、フェスタリア。私達にもあなたの力が必要だわ」
「ウルリーケ様…ですが、私にはもう予見の力が…」
「先のことなんて不確定なものに頼りすぎない方が良い…それが今回の教訓ではなくて?」
「…はい…っ!」
「私もあなたに秘密を持ちすぎていた…。あなたのように真っ直ぐな子には、真実を教えた方が良かったのかも知れないわね」
「ウルリーケ様…どうか、ご指導くださいませ…っ!」
 
 フェスタリアはぼろぼろと涙を零しながら平伏を続けたが、その手を取って立たせたのはコンラートであった。
 彼女の予見によって最も大きな被害を受けたはずの青年は、涼やかな笑みを浮かべて加害者であるはずの少女を見つめている。その瞳には、一片の敵意もなかった。

「コンラート様…本当に、申し訳ありませんでした」

 唯の少女に戻ってしまったように、しゃくり上げながら詫び続けるフェスタリアにコンラートは優しく頷いた。
 ちょっぴり有利の唇が尖るが、それでも邪魔をしないのは成長した証だろうか?

「良いんだよ、フェスタリア…。眞王陛下に言われて分かったけれど、確かに俺がユーリに出会えたのは…特別な縁を結ぶことが出来たのは、君のおかげでもあるのかもしれない」

 全てを受け入れて微笑むコンラートに、もうフェスタリアの顔は涙でくしゃくしゃになっている。
 元々、物に感じ入りやすい素直な娘であるのかも知れない。

 眞王は満足そうにうんうんと頷くと、再び有利を見上げて気安く声を掛けた。



「さて、それではもう一つ頼もうか。ユーリ、お前ちょっと第27代魔王でもやってみないか?」






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