第46話 王都から特急赤鳩便によって伝えられた急報は、ウルヴァルト家に滞在していた有利たちを慄然とさせた。 鳩の足に取り付けられていた手紙を開封したエオルザークは、文面に目を通すなり喉が引きつれたように呻き、ようよう口にした文章によって呪いを受けたかのように俯いてしまった。 談話室に集まっていた人々も一様に息を呑み、暫くの間は誰一人口を開くことが出来なかった。そんな中…最初に口火を切ったのは村田だった。 「ふぅん…そういうことを言い出したか…」 火のような怒りを吹き上げるかに思われた村田は、何故か冷静に呟いた。 そういえば、エオルザークが文面を読み上げている間も村田だけは落ち着いていたような気がする。 「器って…やっぱ、俺が眞王に乗っ取られちゃうってこと?」 有利はぶるっと身体を震わせる。 仕立ての良いシャツとズボン、ベストを着こんだ有利は先程までぽちぽちと爆ぜる暖炉の前に座っていて熱いくらいだったのだが、体感温度が下がったことで、横に押しやっていた毛皮をもこもこと着こんだ。 コンラートも気遣わしげに肩を抱いてくるから、ちょっと気恥ずかしかったけど身を寄せてみた。そうでもしていないと、自分の足下が砂のように崩れていくような気がしたのだ。 大歓迎を予想していたわけではないけれど、もう少し暖かく迎えられると思っていたのだが…どうやら甘かったらしい。 「そうだよ。僕が最も恐れていたことなんだけど…ここにきて、ちょっと分からなくなってきたなぁ…」 村田の口調には、これまで感じられた眞王に対する徹底的な嫌悪感が少し薄れているように感じられた。どこか、迷っているようにも見える。 「なんで?めっちゃストレートに《身体寄越せや》って言われてると思うんだけど…」 「そこがおかしいのさ。一番怖いのは《お礼を申し上げたい》なんて言われて、のこのこ出かけていったところを捕まっちゃうことだ。向こうにしたって、それが一番楽なはずだろう?あいつらは僕が大賢者で、渋谷の味方だって事も知っているんだよ?どう考えたって、真っ向からこんな通達を出せば僕たちが抵抗してくるのは分かっている筈だ」 「我らを…試していると見るべきでしょうか?」 コンラートの言葉に、村田も頷いた。 「確かにね…。眞王への忠誠心を試しているとも取れる。あるいは…」 村田は考え込むように口元に握った指を押し当てると、暫くの間黙り込んでしまった。 静けさに耐えきれなくなったコンラートは、とにかく有利の保護を最優先させるような選択肢を提示した。 「こうなったら、上様をお呼びして地球に戻った方が…」 「それも選択の一つだね」 これもかなり意外な返答だ。今までの村田なら、引きずってでも有利を地球に返そうとしていたことだろう。 村田の瞳を見やると、彼もまた…じっと有利を見つめて様子を見守っている。 そしてゆっくりと席を立つと有利の両肩に手を置き、目線を合わせたままで問いかけてきたのだった。 「渋谷、君はどう思う?」 村田の問いかけに、有利はごくりと息を呑む。 『俺は…』 怖い。 自分の精神を封じられて、この身体を眞王に取られてしまうなんて耐え難い恐怖だ。 けれど、そもそもこちらの世界にやってきた理由…《禁忌の箱》のことを考えれば、いま地球に戻ることは何の解決にもならないのではないだろうか?自分たちだけが地球に逃れてそれなりの幸福を掴めたとしても、結局はこの世界の崩壊を先延ばしにするだけなのだ。 特に大シマロンにある《風の終わり》は問題だ。正統な鍵はコンラートの身に備わっているものの、コンラートの腕もまた極めて近い鍵であったのか、あの灼熱の土壌の中で変質することなく残されていたという。現在はグウェンダルが管理しているが、もしもこれが奪われれば、小シマロンによる《地の果て》開放実験と同様の惨劇が起こされることは必至だ。 『ここはコンラッドの、大切な世界だ』 こうして再び赴き触れ合う人々が増えるに連れて、有利にとっても大切な世界になり始めている。それを見捨てることなど出来るだろうか? それに有利への扱いに憤って、王都で活動してくれているグウェンダルのことも気になる。 『コンラッドとお兄さんを引き離すようなこと…出来ないよ』 ぐりり…っとコンラートの肩に額を押しつけながら、有利は鼻の奥がつぅんと痛むのを感じた。 やっと、コンラートとグウェンダルは不器用ながらも仲の良い兄弟として傍にいられるようになったのだ。有利のために、また寂しい思いをさせたりしたくない。 有利はコンラートを包む環境ごと、幸せにしたいのだ。 「村田…俺、《禁忌の箱》を全部始末しちゃいたいんだ。それが出来るまでは帰れない…帰りたくない…っ!」 迸るような声を上げれば、村田が諦観を湛えた瞳で頷き覚悟を決めてくれたのが分かった。 「分かった。では…僕は君が成し遂げたいと思うことを、全力で手伝おう。…そうなると、幾らか賭に出なくてはならないんだけど、良いかな?」 「賭って…」 村田は直接には説明せず、傍らで立ち竦んでいたエオルザークに声を掛けた。 「ねぇ、十貴族会議って今から出発しても間に合うよね?」 「ええ…」 眞魔国の暦では大晦日の5日前に当たるその日は、通常なら会議など行われるような時期ではない。眞魔国歴4000年最後の日を目前にした会議が、その後流れていく月日の中でどういう位置づけになるのかはまだ分からないが、少なからぬ影響を及ぼすであろう事は確かだった。 「僕と渋谷、ウェラー卿も参加できるかな?」 「…猊下、本気ですか?」 コンラートが眉根を寄せているのは、王都に赴くこと自体を危険と見なしているのだろう。 「僕も確証はないからね。君とフォンヴォルテール卿に手伝って貰って、最悪の場合の退路だけは確保しておく」 「危険性を認識しながらも、敢えて赴くべきだと猊下はお考えなのですか?」 「あるいは甘い、希望的観測であるのかもしれない。だけど、渋谷の願いを叶えるには眞魔国の援助は欠かせないからね。それに…グリエ・ヨザックの報告も気になる」 「ヨザが何か?」 ヨザックはこちらの世界にやってくるなり様々な方面に飛んで諜報活動を行っているようなのだが、グウェンダルだけではなく村田にも個人的に報告を寄せていたのだろうか? 「眞王廟から外部に向けて通達があったのは渋谷の扱いに関する一件だけで、それ以降は何の通達もないんだ。僕たちが渋谷を逃がしてしまうことを懸念しているのであれば、眞王廟護衛兵団か、十貴族軍のいずれかに命じて逃走を防ぐのが普通だろう?上様を使って地球に帰っちゃうことも想定しているんなら、魔力の強い兵を秘密裏に送り込んでくるはずだ。眞王の力だけでは上様を完全に止めることは出来ないはずだからね。だけど、眞王廟にはいずれの動きもないんだよ」 「逆に、猊下の思考展開を予測してそうしている可能性はないのですか?」 「痛いところを突くね…。確かに、その可能性もある」 コンラートの鋭い指摘に村田は眉根を寄せるが、それほど不快という顔でもない。全く予想の範疇外からの指摘をされたわけでもないのだろう。 おそらく、村田は幾つもの可能性を鑑みた上で、今回は直接王都に赴くことが得策だと考えているのだ。 ならば、有利としては親友の策に賭けたい。 「うん…行こう、王都に。俺も眞王や巫女さんが一体何を考えているのか、本当の事を知りたい」 「決まりだね」 「…了解しました」 こくりと頷くと、まだ不安げな表情を浮かべつつも、コンラートは迅速に動いて旅の準備を始めた。《王都に赴く以上、可能な限り会議までに友好的な十貴族とユーリを引きあせたい》とも言っていたから、最低限の荷物を纏めた段階で護衛のヴォルテール軍と共に王都を目指すことになるのだろう。 その間は、有利と村田は何もすることがなくなってしまう。とても悠々とお茶を飲んでいる気分ではないが、さりとて不慣れな彼らが荷作りを手伝おうとして邪魔になるのは明らかだった。そうなると、自然ともやもやとした疑問も湧いてくる。 「それにしても、眞王廟って確か箱から溢れた創主と一体化してにっちもさっちも行かなくなっていたんじゃなかったっけ?何で今頃になって巫女さんを派遣できたのかな?」 「そりゃあ《地の果て》の脅威が解消されたからだよ。見た感じ、あの箱が一番自由度の高い状況にあったんだ。渋谷と僕とで一度は封じたものの、やっぱり鍵がすぐ傍にあったのが大きいのかも知れない。それで極度に眞王が侵されていたんだろうが、今回のことで《地の果て》分の負荷が減ったんだ。おかげで眞王や巫女達が自由に動けるようになったんだろうね」 「ふぅん…。でもさあ…眞王にしても創主にしても、何をどのくらい備えておけば良いのが分からないから困るよな。地球にいた時だって所構わず襲ってきたんだから、こっちなら尚更危ないんじゃないかな?」 「いいや、それは多分違うと思う」 村田はここまでに生じた事件と過去の記憶から、《禁忌の箱》の特性について一つの推測を立てていた。村田が言うには、彼らの移動能力は今のところ、地球と違ってこちらの世界では制限が大きいらしい。 …というのは、地球にいるときには神出鬼没に見えた彼らも、こちらの世界では物理的な距離に左右されていたのだ。グウェンダルを手に入れるために、シュトッフェルを使って箱との距離を縮めさせたのがその証拠であろう。 おそらく、異次元間を繋ぐ通路と、同次元を繋ぐ通路とは別物なのだ。少なくとも今の創主には、後者の通路が存在するとしても、自由に使うことは出来ないのである。 そうであれば村田が密かに懸念していたような超長距離を突破しての攻撃は恐れなくても良いだろう。一定の距離まで近寄らなければ、コンラートや有利が眠っている間に奪われるといった事態は起こらないようだ。 ただし、箱が言葉巧みに魔族や人間を誑かす事も分かった。 シュトッフェルのように甘い言葉に騙されて、便宜を図ろうとする輩は今後も出てくるに違いない。 「何にせよ、情報が欲しい…」 村田は《はふぅ…っ》と重い息を吐くと、もどかしげに脚をばたつかせた。 「情報ばかりは、二千年前までの眞魔国しか知らない僕には限界がある。箱をどうにかするためには、少なからず眞魔国の協力が欲しいところだ。なにせ、残る二つの箱は行方が分からないんだからね。情報収集には現在の国家情報に詳しい連中に、大量に動いて貰わなきゃいけない。何とかして協力を得たいね」 「説得かぁ…できるかな?」 「その為に僕の頭脳があるんじゃないか」 大人びた微笑を浮かべる村田は、偉大な大賢者というよりは企み好きな悪戯儒子の顔をしていた。きっと、様々な思考と状況展開が頭蓋内を満たしているに違いない。 その想定の中には、確かな勝算もあるのだろう。 頼もしい友人の言葉に安堵すると、有利は明日への希望を繋ぐのだった。 * * * 数日の旅を経て、有利達一行は血盟城に辿り着いた。 雪のために難儀はしたが、どうにか会議が行われる日の朝方に到着することが出来た。 血盟城は荘厳な印象を持つ城であった。日本の城(しかも、大枠が後世造られたレプリカ)しか見たことのない有利にとっては、なかなかに印象深い佇まいであった。 四千年も昔に建造されたというのだが、何か不思議な力で結びついているかのように石壁は堅牢な佇まいを維持しており、苔むした様子さえ見られない。ぴったりと合わさった石と石の隙間には、砂利どころか小さな砂さえ見受けられないのだ。 大きな跳ね橋を渡って城門をくぐると、華麗な庭園が広がり、その向こうに威風堂々たる城がそびえたっている。恭しい態度で立派なお仕着せを身につけた侍従達に迎えられると、有利はかちんこちんに緊張しながら馬車を降りた。 ちなみに、現在の衣装は中世の王子様のような衣装である。カボチャパンツではなく、長衣をベルトでとめ、その下にはぴったりとしたズボンに膝下までのブーツであるのがせめてもの救いだ。 「大丈夫…緊張しないで?」 「う…うん」 白を基調とした美しい礼装軍服に身を包んだコンラートが、耳元に優しく囁いてくれたから、有利は精一杯胸を張って歩を進めていった。 すると…建物の中から、驚くほど艶やかな女性が飛び出してきた。 「コンラートぉ……っっ!」 「…母上…っ!」 内心、《えーっっ!?》と叫びそうになってしまう。 何しろ、漆黒の華麗なドレス…極めて露出度の高いボディコンシャスなお召し物を纏った女性は、コンラートとそれほど年が離れているようには見えなかったのである。しかも、行動も相当に大胆だ。加速をつけてコンラートに抱きついたかと思うと、その上体を胸に抱き込んでぎゅうぎゅうと谷間に押しつけるのである。かなり幸せな窒息死が出来そうだ。 信じられないが…この人がコンラート達の母親にして、第26代魔王ツェツィーリエなのだろう。 胸は上半分ほどが完全に露出しており、毛皮のコートを羽織ってはいるが、大きくスリットの入ったドレスから覗く下肢も生脚で、ちょっと品のない女性が身につけていれば娼婦にでも見えたかも知れない。だが、不思議とこの女性にはそういういやらしさのようなものがなかった。 色っぽさには健康的な印象があり、無知であることには少女めいた純粋さが感じられた。 兄のことに比べると、母親のことをコンラートが口にする機会はなかったが、今の表情を見ているとやはり愛おしい存在なのだと分かる。 「良かったわ…無事だったのね?私、あなたが帰ってきたって聞いて、馬車を駆け通しに駆けさせて王都に戻ってきたのよ?左腕も失ったと聞いたのだけど、ちゃんとついているのね!良かったわぁあ…」 「御心配をおかけしました」 「顔をもっとよく見せて頂戴?コンラート…まあ、随分やわらかい表情をするようになったのね…!」 涙ぐみながらコンラートの頬を撫でる表情はやはり母親のもので、息子の方もうっすらと瞳に水膜を浮かべている。 「ユーリのおかげです」 「まぁ…!」 促されて傍らを見やったツェツィーリエは、有利に気付くと飛び上がって喜んだ。むぎゅうっと勢いよく豊満な胸元へと引き寄せられた有利は、コンラートが補助してくれなければ本当に窒息死していたかも知れない。 「なんて可愛らしいのかしらっ!あなたがユーリちゃんね?うぅん…食べちゃいくらいに素敵な子!」 「あ…あの…はじめまして」 「ぁあん…っ!あどけない口調もやわらかいキャラメルみたいに素敵よぅ…っ!」 官能的に身悶えして、ツェツィーリエはますます強く有利を抱きしめる。 嬉しいが…肌理の細かな胸元に直接頬を押しつけていると、青少年として変なところが反応してしまいそうで困る。愛する人の母と複雑な関係になるのは嫌だ。 『あれ?』 ツェツィーリエの胸から逃れようと身じろぎしていたら、ふと視線を感じた。よく見ると、血盟城の棟を結ぶ渡り廊下から見下ろしている少年がいる。年頃は有利と同じくらいだろうか?(魔族年齢で言えば70〜80歳というところか)天使みたいに美しいけれど、その表情は随分と険しい。 だが、それは敵意とはまた違っているようだった。 どちらかというと、《もどかしい》という印象だ。この場にいる誰かが酷く気になるのだけど、声を掛けそびれている…そんなところだろうか。 「母上…そろそろ離してあげてください。青少年には刺激が強すぎるようですよ?」 「あらぁ…ご免なさいね?…と、そういえば……」 コンラートによって有利から引き離されたツェツィーリエは、何かを思い出したのか…不意に、ぶるるっと身を震わせた。 「そうだわ。今日の会議にはグウェンも来るのでしょう?ああ…私、恐ろしいわ…コンラート!グウェンったら、どうしてお兄様を捕まえてしまったのかしら!?お兄様は眞魔国のことを考えて、グウェンにちょっとしたお願い事をしただけだと聞いているのだけど…」 「母上…そのように聞いておられるのですか?」 先程まで喜びに輝いていたコンラートの顔に…暗い影が差し掛かる。 ああ…この人は、とても愛らしくて無邪気ではあるけれど…残念ながら、物事を把握する力に欠けているのだ。取り巻き連中か、シュトッフェルの追従者に言われるがままを信じてしまったのだろう。 有利たちと同じ馬車に乗っていた村田が降りてくるが、彼ら同様に痛ましげな眼差しを浮かべていた。 こんな人が長く眞魔国の頂点にあり、あのシュトッフェルが摂政として権勢を誇っていた。それがどれほど国にとっての痛手であったのか、それだけで推察することが出来た。 もしかすると、それこそが眞王のシナリオだったのかなとも思う。 如何にも無能な魔王と摂政とを自分の先代に据えておくことで、スムーズな権力委譲を可能にしようとしたのでは無かろうか…。 「兄上は、《地の果て》の鍵だったのですよ?ウルヴァルト卿エリオルのように、左目を奪われていたか…最悪の場合は、箱に取り込まれて《地の果て》に封じられた力を暴発させ、世界を滅ぼしてしまったかもしれない…。そうさせたのは、伯父上です。《地の果て》の甘言に乗り、その力を自分のために利用しようとして兄上を危険な砦に連れ出したのです…。伯父上の為さりようは、肉親として非常なだけでなく、卑しくも国家を預かる身としてあまりにも浅慮な行動とは思われませんか?」 「まぁ…そ、そうなのっ!?」 コンラートの言葉を耳にすると、ツェツィーリエは顔色を青くしておろおろと狼狽えてしまった。 「ご免なさい…私、何も知らなくて…」 「ご存じなかったのでしたら、仕方ありませんね…」 諦めたように微笑むコンラート…。 彼は今まで、何度このような微笑みを浮かべてきたのだろうか? 混血として不当に貶められ、遙かに劣る者から謂われ無き侮蔑を受けたときも…生還の可能性が乏しい作戦行動にかり出されたときにも、やはりこうして微笑んでいたのだろうか? 愛しい、母の胸を痛めない為に。 『でもそれは、ちっとも良い事なんかじゃないぞ?』 有利はむかむかと込みあげてくる怒りに耐えきれなくなって、思わず声を上げてしまった。 「しかたなくなんか、ないっ!」 「ユーリ…」 「知らないのは、わるい、だめっ!知らせようとしないのも、だめっ!いやなことは、ちゃんと言って、わかってもらうのっ!」 「まあ…」 蝶よ花よとちやほやされて育った女性に、真っ向からこんな事を言えば不快な顔をされるだろうと思っていたのだが…予想外に、ツェツィーリエは有利を止めようとするコンラートを制止した。 「ああ…このように寒い場所に足止めしてしまって申し訳ありません。どうぞ、こちらで暖かいお茶でも召し上がって下さいな」 ツェツィーリエは王族らしい優雅な礼を見せると、恭しく有利たちを導いた。 * * * 『ツェリ、お前は畏れ多くも眞王陛下の勅令により、第26代魔王に指名されたのだよ?』 両親にそう告げられたとき、ツェツィーリエはてっきり担がれているものだとばかり思って、けららっと朗らかな笑い声を上げた。 あまりに現実味のない話であったし、ツェツィーリエは自分なりに己の価値というものを知っていたから、そんなことがある筈がないと思ったのだ。 ツェツィーリエは誰からも賞賛される美貌と、無邪気で人から好かれる性質を気に入っていたが、同時に自分がどうしようもなく勉強のできない、政治に不向きな女であることも知っていた。 眞魔国では人間世界よりも女性の地位が高いから、望めば努力次第で博士にも大臣にもなれるけれど、ツェツィーリエがそんなものを望んだことはなかった。だから、自分が魔王になることが拒否できない事実なのだと知ると、堪らなく怖くなってしまった。 そんなツェツィーリエに両親は言ったものだ。 『ツェリ、お前は何も心配することはないのだよ?』 『難しいことは全てシュトッフェルに任せておくと良い』 『お前はただ、眞魔国の太陽としてにこにこと可愛らしく微笑んでいればいいのだよ』 両親の言葉は本当だった。 ツェツィーリエは難しい仕事など何もすることなく、ただ華麗に着飾って宴席に並び、笑っていれば良かったのだ。 けれど…そんなツェツィーリエが《本当に、私は何も知らなくて良いのかしら?》という局面に立たされたことがある。それは、コンラートが絶望的な戦局…アルノルドに赴かねばならなくなった時だ。 最初の内、ツェツィーリエはアルノルドが危険であることさえ知らされていなかった。その事実を教えられたのは執務室ではなく、宴の席であった。参加していた宴客から耳打ちされたのだ。 コンラートに恋をしていたその貴婦人は、ツェツィーリエを責めるような語調で真意を問いただしてきた。 『それはコンラート様だって軍人ですもの。危険な任務に就かれることは仕方ないですわ。でも…でも、今回のことはどうしても納得できませんの!だって、あれではまるで見せしめですわ…!軍行動が全体の作戦から出たものではなく、《混血者の忠誠心を確かめるため》だなんて…酷すぎますっ!』 酒が回っていたせいもあって、女性は激しくツェツィーリエに食ってかかった。そして…二度と宮廷に上がることはなかった。おそらく兄かツェツィーリエの崇拝者が手を回したのだと思う。 しかし、ツェツィーリエの心にはそれ以降も疑いの種が残されたのだった。 『私…本当に政治のことも戦争のことも、何も知らなくて良いの?』 不安になって兄に問いかけたが、急に怖い顔をした彼は、これまで耳にしたことがない様な厳しい言葉を掛けてきた。《何て馬鹿なことを聞いてくるのだ》…そう言われているように感じた。 『ツェリ、この戦争で多くの母親が息子達を戦地に送っている。国母たるお前が、自分の息子に限って出征を留めるなど許されることではないぞ?』 兄の言い様は尤もなように聞こえたし、それだけ厳しい状況なのだと教えられているようでもあった。 また、ツェツィーリエのように何も分かっていない女が、唐突に質問したりすればこんなに怖くて恥ずかしい思いをするのだとも悟った。 だから…ツェツィーリエは恐ろしくて、コンラートが向かう戦場がどのような有様であるのかにも目を背け、耳を塞ぐようにした。 そんな逃避を咎める者は、誰もいなかったから…。 『でも、この方は《それではいけない》と言われるのね?』 小柄で華奢な少年…三男のヴォルフラムと同じくらいの年だろうか?甘い顔立ちをしたあどけなさの残る子どもだというのに、ツェツィーリエと向き合ったときの有利には、直向きな強さを感じた。 豪奢な応接室に通された有利は出された茶菓子には手をつけず、礼儀程度にカップを口に寄せてから思い詰めたような表情で口を開いた。 「あの…はじめて会う、しつれい…ごめんなさい」 「良いのよ。思ったことを、そのまま語って頂戴?あなたはコンラートとグウェンの恩人なのでしょう?」 「ううん…コンラッドはおれのおんじん」 「では、恩人同士なのね?それなら余計に遠慮はいらないわ」 ふるる…っと首を振ったり、はにはにと一生懸命喋る様が愛らしくて、ツェツィーリエは腕を伸ばして有利の鼻先をつつく。 「う…あう。えと…お母さん…おねがい、あるです」 有利の語りは言葉を探しながらのものだったから、決して雄弁なわけでも流暢だったわけでもない。けれど、コンラートに対する深い愛情を感じさせる言葉の数々は少なからずツェツィーリエを感嘆させた。 有利は《魔王として》ではなく、《母として》何をして欲しいのかを訴えた。 そしてコンラートに対しても、思いは口にしないと伝わらないこともあるのだと、切々と訴えかけてきたのである。 十貴族会議の時間が差し迫っていたから、有利の語り自体はそう長いものであったわけではないが、ツェツィーリエの心に浅からぬ想いを与えたのであった。 |