第45話





 有利は端々まで細やかな心配りが為された、素敵な部屋に通された。
 押しつけるように豪奢なのではなく、質朴ながら造りの良い建材や調度品をあしらえており、ほっと息が付けるよう配慮されているのがよく分かる。

 ここは、有利を歓迎してくれる場所だ。

 それがよく分かるからこそ、有利は自分にがっかりしていた。

『あーあ…』

 ぎこちない態度を見せてしまったから、エリオルは変に思っていないだろうか?
 コンラートだって、きっと有利の表情が奇妙であったことに気付いた筈だ。

「ユーリ…」

 ベリッツァー家で貰った衣服や記念の品を、コンラートは有利に宛われた部屋に運び込んでくれた。そして気遣わしげに肩を抱いてくれるから…有利は堪えきれなくなって、ぽふんとコンラートの胸に顔を埋めた。

「ゴメンね…コンラッド……」
「謝るようなことをしたと思ってる?」

 少しだけ咎めるような声音だったが、微かな笑いも含んでいるように思えるのが救いだった。
 多少滑稽に思われたのだとしても、嫌われたりするよりはずっと良い。

『うん…。だって、嫉妬しちゃったのは本能的な反射だもん。ちゃんと反省してるって言ったら、コンラッドは赦してくれるよな?』

 そう判じると、有利は思いきって謝罪してみた。

「うん…。エリオルは良い子だって分かってるし、コンラッドが浮気とかする人じゃないってのも知ってるはずなのに…嫉妬したりしてゴメンなさい…。どうしても、俺以外の奴をひょいって抱っこしたりするのが嫌だったんだ」
「…は?」

 コンラートの声が微妙に調子はずれな気がする。
 まさか、この事には気付いていなかったのか?
 
『しまった…藪蛇か!?』

 慌てる有利だったが、コンラートは暫く呆気にとられていたかと思うと…《堪えきれない》という顔をしてくすくす笑い出してしまった。

「コンラッド…?」
「ああ…なんて可愛いんだろうね、ユーリ…」

 コンラートは勢いよく有利を抱き寄せたままくるりと反転し、自分が寝台に背をぶつける形で乗り上げた。

 ぼふぅん…っ!

 スプリングの効いた上等な寝台が悲鳴を上げるのも構わずに、コンラートはくるりと体勢を変えて有利をシーツの上に押し倒すと、愛おしげに唇を重ねてきたのであった。

「ん…」

 角度を変えて幾度か交わされたキスは、《はふ…》っと有利が息継ぎをした途端に更に深いものに変わる。
 初めて…有利の口腔内はコンラートの舌を受け止めたのである。

『はわわ…はうぅ…っっ!?』

『こ…これが噂に聞くディープキスっ!?』

 さようならピュアな子ども時代。
 初めまして大人の世界(有利基準)。

予想を超えるディープ・インパクトに、有利は思わず目を白黒させてしまう。
 薄くてさらりとした感触の舌は少し冷たくて、ぬるぬると絡みついてくるごとに不思議な感覚を呼び起こす。腰の方がむずむずするような…胸が苦しいような、そんな感じ。

 でも、決して不快ということはなく…寧ろ、コンラートと口で繋がれているという事を自覚して行くに従って、どんどん気持ちよくなっていく。

「んん…くむぅん……」

 あえやかに鼻声を漏らしながらシーツの上で泳ぐが、ゆるりと拘束された身体はとてものこと逃れられない。それに…本気で逃げたいのかと問われれば、《そういうわけではない》事をお互いに知ってしまっているのだ。

 暫くの間《はじめての(深)チュウ》を愉しんだコンラートは、瞳をとろりと溶かして横たわる有利の唇をもう一度舌先でなぞってから、名残惜しげに身を引いた。
 粘膜に感じるリアルな舌乳頭の質感が、まざまざと彼との行為を忍ばせて…有利は頬を真っ赤に染めてしまう。

「こ…コンラッド…」
「恋人のキスはどうだった?」
「すごくて…なんか、いっぱいいっぱいって感じ…」

 瞳を潤ませて眉根を寄せれば、コンラートはまたくすくすと笑って唇を寄せようとしたのだが…そもそものきっかけを思い出したのか、キスの代わりに頭を撫で撫でしてくれた。大きな乾いた掌が頭髪を掠める感触は、キスとはまた違った甘さで有利を溶かしてくれる。

「ふふ…本当にもう…。そんなに俺を誘惑しては駄目だよ?ミコさんとの約束を違(たが)えてしまいたくなる」
「え…?お、俺…そんなこと…」
「してるよ…無自覚にね?嫉妬なんて、俺の方ばかりしていると思ったのに、こんなに嬉しい不意打ちをしてくれるんだから!」

 ちゅ…っと目頭に強くキスをされると、思わず目を閉じてしまう。

「嘘…。嫉妬…って、コ…コンラッドが?」
「言っとくけど…俺は君に関してはかなり心が狭いみたいだからね。覚悟しておくんだよ?ユーリときたら、あんなに可愛らしい微笑みを惜しげもなくエリオルに注ぐんだもの…。危うく、不機嫌さが顔に出てしまうところだった」

 あの程度の微笑みなら御奉仕価格で大売り出し(100g36円)しているのに、実はその度に嫉妬してくれていたのだろうか?

「俺達って…ひょっとして、結構…嫉妬深いカップル?」
「そうかも。刃傷沙汰にならないように、お互い注意しようね?」

 コンラートが至って真面目な顔をしてそんなことを言うから、有利も思わず吹き出してしまった。

 寝台の上で転がりながらくすくすと笑い合う二人は、結局その夜は着の身着のまま抱き合って眠ってしまったのであった。



*  *  *  




 翌日になると、有利はコンラートと共にエリオルの部屋を訪ねた。改めて、お互いにエリオルに対して妙な気持ちは持っていないことを確認するためだけの訪問ではあったのだが、思いのほか会話は弾み、楽しいひとときを過ごすことが出来た。

 エリオルというのは、とても真面目な子だ。
 真面目であるがゆえに多少融通が利かなかったり、頑固な面もあるのだが…外見年齢でいえば中学生くらいにしか見えないのに、しっかりと《何のために生きるか》ということを考え続けている。

 兄のエオルザークに評されたとおり、彼はとても恩義を重んじる性質であるらしい。それは美徳として褒め称えられこそすれ、心配するようなものではないのでは…と思っていたのだが、暫く話し合う間に、コンラートはエオルザークの不安がどこから来ているものかを察した。

「カロリアの支援をしたい…そう思っているのかい?」
「はい」

 懸念を込めて眉根を寄せれば、エリオルの瞳にも影が落ちる。
 それがどんな意味を持つか、彼にもある程度は分かっているのだろう。

「ご家族は反対しておられるだろう?」
「はい…。ですが、何とか説得を続けたいと思っております。出来るだけ早急に船舶を用意し、食糧や暖かい衣服、医療品を運びたいと…」
「正面切ってやると君の誠意を尽くした物資は…小シマロンに渡るだけだよ?それに、眞魔国の貴族に援助を受けたとなれば、カロリアは今以上に人間社会から孤立することになる」
「…………そう…ですね…」

 エリオルは一つだけ残された瞳を眇めて、辛そうに唇を噛んだ。

 カロリアの被災状況については、ヴォルテール軍が駐屯していた期間中のことしか伝わっていないが…小シマロンは領主を僭称していたフリン・ギルビットを処罰しないかわりに、カロリアには何一つ救援の手を差し伸べることはないのだという。

 元々若い働き手を徴兵によって失っているカロリアでは、港が大きく破損している以上、被災者を救ったところでなんの利益にもならない。それくらいなら、改めて討伐などと大袈裟な方法を用いるよりも放置すべしという結論に達したらしい。

 幾らか不便な位置ではあっても、カロリア周辺には他にも港がある。わざわざ大規模工事を必要とするギルビット商業港を修繕するより、近隣港へと船舶出入りを変更する方が得だと考えたのだろう。

 今現在、ギルビット商業港は無惨に砕かれたまま放置されており、通商の他に大きな産業を持たないカロリアは貧窮の直中で寒期を迎えている。このまま何の手立ても講じないまま年明けを迎えれば…おそらく、春が来るまでに半数以上が凍死や餓死を免れないと考えられている。

 眞魔国から物資を運んだ船をつけるにはギルビット商業港の破損は大きすぎるから、どうしても近隣の港に赴かざるを得ない。そうなればどうしたって小シマロン、あるいは更に難癖を付けられ、物資は巻き上げられてしまうだろう。彼らは救援活動は行わなくとも、宗主国である権利は捨ててはいないのだから。

 その際、眞魔国軍の武力を当てにすることは出来ない。そんなことをすれば、大シマロンまでも巻き込んだ戦争のきっかけになりかねないからだ。

「………父や兄も、それを心配しておりました。無理…なのでしょうか?直接物資を携えて赴かねば、本当に必要としている人々には行き着かないのだとすれば、私は…また母を泣かせてしまうことになります」
「それでも、方法は他にないとなれば…君はやりたいんだね?」
「はい」

 苦渋に満ちた表情ながら、こくりと頷いたエリオルの表情には揺るがぬ決意が見て取れた。

「カロリアを援助しに行くことが、これまで愛し慈しんで下さった家族への、忠孝の恩義に背くものであることは分かっております。ですが…少なくともユーリ様やコンラート閣下のおかげで、私はもう鍵として使われる恐れはないのですから、我が身一つのことだけであれば…四面を敵に囲まれたあの状況下で、唯一庇って下さった方に報恩したいのです」
「エリオル、気持ちはよく分かるけれど…もう少し待てないだろうか?十貴族会議で、俺は十一貴族就任を認められることになりそうなんだ。そうなったら、俺も実効的な援助をしてあげられると思うよ?」
「閣下…!」

 伏せ目がちだったエリオルの瞳がぱっと輝いた。

「俺もあの未亡人の気っ風の良さには感心した口だからね。何らか、援助の手立てを捜そう。人間の国々には繋がりのある商人達が散在しているから、一人に大口の物資補給を頼むのではなく、複数の商人を使って目立たないよう、夜陰に紛れるようにして運ばせれば上手くいくと思う」
「はい…っ!」

 エリオルが涙を滲ませてコンラートの手を握ってくるから、少々心配してちらりと目線を有利に送ったのだが…何故だか、昨日のようには嫉妬している風がない。
それはそれで、ちょっと残念な気はする。

『どうしたのかな?』

 有利は何かを思うように、エリオルの部屋に掛けられたタペストリーの地図を眺めていたのだった。



*  *  *




 タペストリーの中に描かれた地図が、それぞれどこの国を示したものであるのか有利にはまだ理解できない。
 それでも、コンラート達の会話を聞いてからその地図を見れば、唯の図形としてではなく、住まう人々の息使いが伝わってくるように思える。

『眞魔国の他にも、ここには国があるんだよな…』

 考えても見れば、有利は眞魔国で過ごした時間よりも人間達の住む大陸で過ごした時間の方が遙かに長いのだ。

『そうだ…!親切にしてくれたあの村の人達、元気かなぁ…?《地の果て》のせいで、酷い目にあったりしてないかな?』

 有利はコンラートの大怪我と《地の果て》との闘いに気を取られていて殆ど覚えていないのだが、実験が行われた窪地は凄惨な有様であったという。周辺に住まう人間達は一体どのような暮らしをしているのだろう?

『ここの世界の人間と、眞魔国に住む魔族が折り合いが悪いとは聞いてたけど、災害時に救援活動が出来ないほど酷いんだ…』

 有利が暮らしている世界にだって戦争も貧困も差別も存在するけれど、それでも虐げられ、困難な環境下で喘ぐ人々を救いたいと願う勢力がある。
 時として、その国を救いに行ったはずのボランティアがテロ行為に巻き込ませて亡くなるという痛ましい事件も発生しているが、少なくとも送り出した国家からはその人が非難中傷されることはない。いや…それも《自己責任》と言われて咎められることはあるが、法的に締め上げを喰らうことはない。

 だが…この世界では、人道的援助を切望するエリオルやコンラートが国家的な処罰を覚悟しなくてはいけなかったり、彼らの名義であることが分かれば受け取りを拒否される可能性もあるのだ。

『やだな…。何か、そういうの…絶対ヤダ』

 文明が発達してきた過程が違うのだから、異なる世界の流儀を何でもかんでもこの国に押しつけようと思うわけではない。
 だが、それどもやはり…嫌なものは嫌だ。
 なんだって、こんなに心清く誠実な人々が辛い思いをしなくてはならないのだろう?
 
『そもそも、どうしてこんなに仲が悪いんだろ?眞王は4000年前、世界が滅ぶかも知れないって時に創主を封印したんだよな?確か、そのこと自体は人間だって感謝感激してたって聞いたけど…』

 それがどうしてこんなにも、種族が異なるというだけで災害時の救援すら拒まれる事態になっているのだろう?

『だってさ…こっちの世界の人間だって、あんなに良い人達がいたわけじゃん?何か…おかしいよ。絶対、どこかでボタンの掛け違えが起きてるんだよ…』

 果たして、何が要因となっているのだろう?
 有利はその日、昨日とは全く質を異にするもやもやの中で頭を捻っていた。



*  *  *




 ここで一時、有利達から眞魔国情勢に話を移す。

 《地の果て》が滅ぼされたという驚くべき報は、グウェンダルが指揮するヴォルテール軍の兵士達が主と共に王都入りしたところからどっと広まった。これは漏洩したというわけではなく、グウェンダルがあらゆる方面から積極的に流させたのである。

 市井から能動的に噂を広めていくことで、不当に貶められていたコンラートと有利が、《禁忌の箱》を開いて世界を闇に突き落とすどころか、その一つを完璧に昇華させてしまったことを眞魔国の隅々にまで喧伝せしめようと思ったのだ。

 当然、《シンニチ》などの広報誌にも詳細な情報をリークしているから、民は久方ぶりに《正確な事実に基づく、希望ある話題》に狂喜して飛びついた。

 愚かな大貴族の中には《またとない武器だったのに…》と惜しむ者もあったが、それを公然と口にすることは出来なかった。
 民や心ある貴族達の大半は、それが到底自分たちに使いこなせるような代物ではないことを知っていたし、《禁忌の箱》が開くとき、世界が滅びるとの予言を信じていたのだから、その一つが滅びたという事実…いや、叩きのめしたのではなく、大地の要素として《真の解放》を促されたのだという事実に沸き立つような喜びを感じていた。

「いやぁ…あんなに悪し様に言われてた双黒とウェラー卿が、こんな形で箱を《開放》するなんてねぇ…」

 王都の城下町で井戸の周辺に集まったおばさん達も、顔を合わせるなりそれぞれの思いを伝え合った。

「ちょっとあんた、呼び捨てなんて失礼じゃないの!双黒の君ってお呼びしなきゃ」
「あらあら、そうだわね。あら…でも、双黒の君はお二人おられるのよね?」
「双黒の大賢者様は、やはり猊下とお呼びすれば良いんじゃない?」

 そうなると有利の立場は《ムラケンズの眼鏡じゃない方》的な扱いになりそうだが、《素晴らしく愛らしい》と言われている有利への敬意を込めて、人々は《双黒の君》と呼び交わしていた。

「きっと、魔王様や十貴族の方々もこぞって双黒の君とウェラー卿を崇めることでしょうね?」
「ええ、ええ…きっとそうよ!」
「あの女も、きっと酷く罰せられることでしょうよ!」

 人々の声と表情には明らかな侮蔑の色があった。名前を口にするのも汚らわしいというように、ぺっと街路に唾を吐く者さえ居る。

 あの女とは、呪われた予言によってコンラートを窮地に追い込んだアルザス・フェスタリアである。

 コンラート達が大陸で《地の果て》を封じた後にも尚、《私の予見では、開かれた箱は《地の果て》だけではなかったわ!全ての箱が揃い、開かれていたもの…っ!》と言い張っていたフェスタリアを以前のように信奉する者は、減ってはいたがまだあの段階で幾らか存在していた。

 ところが、《地の果て》が完全に解放されたという報が王都に伝わる前にフェスタリアが姿をくらませてしまうと、これまでの支援者も怒りを込めて彼女を罵倒するようになった。

 下手をすれば、フェスタリアは姿を見つけられるなり袋だたきに合うかも知れないことを《予見》して、逃げ出したのかも知れないと噂された。

 ともかく、民の間には有利達を歓迎するムードが高まっており、おそらく国の施政者達の間でもそれは同様であろうと信じ切っていた。


 まさか…有利に対して《捕獲命令》が出ているなど、誰も思いつきはしなかったのである。



*  *  *

 


 グウェンダルは、《開いた口が塞がらない》とはこの事かと感じ入っていた。
 勿論、悪い意味で…である。

「ユーリの身柄を…眞王廟に引き渡せとはどういうことだ…!その功績を讃えるのではなく…ユーリ自身の精神は封じて、肉体を…眞王陛下の器として使うなど…!」

 ドォン…っと卓上に叩きつけられたグウェンダルの拳は、殷々とした響きを室内にもたらす。先程から水を打ったような冷たい静けさに満たされていた執務室は、とにもかくにも生気を取り戻した。
 とはいえ、《何か発言する》気になった程度であったが…。

「非道だ…あまりにも、非道に過ぎる…っ!」

 基本的に、眞王の名においてもたらされる勅令は提案ではなく、遙か上位からもたらされる絶対的な命令である。
 それは分かっているが…どうしても怒鳴らずにはいられなかった。

「私も…困惑しております」

 頬が痩せこけてしまった感のあるフォンシュピッツヴェーグ卿ロドレストは、グウェンダルの怒りを受けてますます肩を縮込ませた。
 拘束され、十貴族会議による処分を待っているシュトッフェルに代わり、ツェツィーリエから摂政代行を務めるよう依頼された彼は、度重なる心労で一気に老け込んでしまったようだ。

 かつて、《危急の際には摂政代行を務めるように》と示唆されたとき、彼は祝宴を開いて出世を祝ったと言うが…今は針の筵のような状況に青息吐息である。

 何しろ、ここ数日の間に事態が二転三転しているのだ。 

 シュトッフェルが失脚したものの、彼と密接に繋がっていたロドレストがそのまま正規の摂政位に就くことは考えられなかった。
 更に困ったことには、《地の果て》を滅ぼしたという栄光燦たるグウェンダル達が血盟城に乗り込んできたことで、不仲であったロドレストは益々自分の地位が下がることを予感した。

 そしてそして…追い打ちを掛けるように、眞王廟から《ユーリという名の双黒を、眞王陛下の器として眞王廟に捧げよ》との信じがたい命令が届いたのである。

 案の定、すっかり《双黒贔屓》になっていたグウェンダルは通達を耳にするなり烈火の如く怒り出した。

「眞王廟の巫女が今更、何を言い出すのか!国内が混迷の極みにあった折には、あれほど催促したにもかかわらず何の音沙汰も寄越さなかったくせに、《地の果て》が解放されるや否や、その功労者をよりにもよって器に使おうなど…馬鹿馬鹿しいにも程があるっ!」

 偉丈夫の大喝は臓腑にびりびりと伝わってくる。それでなくとも胃弱なロドレストには大きすぎる負荷であった。こうしている間にも、きりきりと胃が締め付けられてしまう…。

「私は、自分の責務を真っ当するだけです。会議に先立ち、十貴族当主に議題をお伝えするのは私の業務であって、そこに個人的感傷が入り込む余地はありません」
「《禁忌の箱》の暴走から眞魔国を救ったユーリに、何の感情も抱かぬと言うのか!?卿には…報恩という心情はないのか…っ!」
「何らかの感情があるとしても、摂政として、議長として…それを前面に押し出すことは出来ません」
「…く…っ…」

 ロドレストは機械的に事態を処理することで、自己の精神を護るつもりでいるらしい。
 腹立たしさは臓腑を灼く程であったが、それでもグウェンダルの語気が弱まったのは、怒声に怒声で応えるのではなく、表向きだけでも冷静な対応をされたからである。

「ともかく、お伝えはしました。後は当主陣の皆様の判断を仰ぎます…」


「フォンシュピッツヴェーグ卿ロドレスト…っ!」


 まるで他人事のように言い捨て、グウェンダルの視線から逃げるようにしてそっぽを向くロドレストに、獅子吼を思わせる大喝が与えられた。びりびりと、室内の壁も振動するほどの重低音だ。

 流石のロドレストもこれを無視しきることは出来なかったのか、名を呼んだまま黙然として凝視しているグウェンダルの方を見ないわけにはいかなかった。

 やけくそで睨み付けた瞳には、どうしたものか…嫌悪ではなく、挑むように燃え立つ焔があった。

「ロドレスト…卿は今、自分をさぞかし運の悪い男だと思っているのだろうな?」
「……何ともお答えしかねますな」
「太平の世であれば、宮廷術にのみ長けていれば幾らでも眞魔国という大樹から甘い蜜が吸えた。それが、自分の掌中に権限が転がり込んできたと思った途端に、酷く苦い果実を実らせるようになってしまった。落胆する気持ちは、私にも理解はできる」
「…フォンヴォルテール卿…」

 勿論、そのまま肩を抱いて《うんうん、分かる分かる》等といった同意を得られるはずもない。カ…っと目を見開いたグウェンダルは、強く訴えかけるように…ロドレストの心肝に響き渡れというように、熱く語り掛けてきたのである。

「だが…その実が苦くなったからと言って、お前は大樹を見捨てて生きることが出来るのか?」
「……っ!」
「実が苦いのは、大樹が病んでいる証拠ではないのか?そこから目を背けて、卿はどのような未来を子々孫々に残していくつもりだ」
「それは…」

 ロドレストはぐっと言い淀む。
 その反応から、グウェンダルは彼が自分でそう思おうと務めている程には、眞王の決定に心安良かではないことを読み取った。

 シュトッフェルの腰巾着としてしか宮廷人の記憶に留まることのない彼だが、グウェンダルは彼が決して無能な男ではないことを知っている。気質的には《良い人》の部類に入り、そうであるからこそなのか…優柔不断に陥りがちな面を持っている。 

 長い物に巻かれてしまう気質が災いしてシュトッフェルの言いなりになっていた男だが、この危急の際に摂政代行並びに、十貴族当主としての役割を担わされたことが吉と出るか凶と出るかは、あるいは眞魔国という国の今後を指し示すことになるかもしれない。

「どうか…頼む。今こそ真剣に考えて欲しいのだ。唯々諾々と従うことが、本当に道理と正義に叶っているのかどうかを…!」 
「………」

 ロドレストは黙り込んだまま顔を伏せてしまった。黙然とした視線は真っ直ぐに、自分の足の甲を灼くような勢いだ。

 そんなロドレストにグウェンダルは返事を強要しようとはしなかった。ただ…少し穏やかさを取り戻した声で語り掛けた。

「…一つ、頼まれてはくれないか?」
「何でしょう?」
「なんとしても、言賜巫女ウルリーケを十貴族会議に召還して頂きたい」
「それは…」

 ロドレストの眉根が己の度量を越えた提案に深い皺を寄せるが、グウェンダルは構わず続けた。

「巫女であっても、特例的に眞王廟を出ることは許されているはずだ。どうあっても実現して頂きたい。ここまで事態が混迷した一因は、明らかに眞王廟にある。このような重大事に於いて、眞王廟の真意が十分に伝わらない状況で判断を下すことは許されない。それでなくともここ近年の眞魔国は、あまりにも得体の知れない《噂》というものに踊らされ続けている…!」
「…分かりました」

 ロドレストは重々しく頷くと、了解の意を伝えた。
 確かに、ここに及んで浅薄な選択をすることは許されない。
 眞魔国の国家としての品格が、今回の事件で試されると理解したのだろう。

 一応の落ち着きを見せてグウェンダルは執務室を後にした。
 だが…その歩調は酷く重いものであった。





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