第40話




 
「おお…良く来たな、グウェンダルっ!ささ…こちらにかけなさい。頑固者のお前も、やっと外界の空気を吸う気になったようで重畳だ。軍団長職と当主位も本来の形態に戻したのであろう?」
「はい」

 相好を崩して歓待するシュトッフェルに対して、グウェンダルは仮面のような表情で対峙している。
 これでも譲歩している方なのだ。
 感情のままに振る舞っていれば、ふかふかの絨毯に向かって唾の一つも吐いたことだろう。

 血盟城内にある執務室は歴史ある風情を湛えており、重厚な調度品や天井まである本棚にびっしりと並べられた重々しい書籍の群れは、その部屋の主をそれなりに立派に見せる筈だが、この男がへらへらと笑っていると何故だか酷く滑稽に見える。

『こんな男が我が伯父にして、眞魔国随一の権威を持つ摂政だとはな…』

 皮肉なことだ。
 周囲からは最も高い尊崇を得ているグウェンダルや、知識量や冷静な判断力では世界有数の逸材として知られるギュンターが、この国では悉く要衝たる地位から遠ざけられているというのに…。

 これは何も、自己顕示欲や嫉妬のみから出てくる怒りではない。もっと平和な時代にあって、何の問題もなく世が進んでいるのであれば、グウェンダルとて苛立つ程度で済んだろう。

 だが…この男だけはいけない。
 自己の保身のためには、国の行く末を羽毛よりも軽く考える男だ。

『決して、この身もコンラートの腕も悪用させはしない…』

 改めて心に誓うが、それでも尚この伯父と直接会わなくてはならなかったのは、幾つかの書面に確実な署名を貰う必要があったからだ。

「伯父上、こちらが私の推薦するルッテンベルク師団長以下の人事と、今後の扱いに関する書類です。それから…こちらがウェラー領の管理者の推薦書です。署名をお願いしたい」
「いやぁ…それがな?やはりこういう事は十貴族会議の審議に掛けぬと…」
「決定はそうですが、その前に摂政閣下の承諾を頂いておかねばなりません。会議の席で掌を返されたのでは困りますからな」

 語尾が明らかに挑発的な語調になってしまったのは、まだグウェンダルも若いという証拠だろうか?内心の嫌悪を隠しきれなかったらしい。

 その点シュトッフェルの表情は表向き、穏やかな政治家のそれであった。

「はは…相変わらず口の悪いことだな。正直は美徳とはいえ、人の上に立つ者としてはあまり褒められた資質ではないぞ?」

 言っていることは目上の者として、年長者として尤もな内容なのだが…奥歯を噛みしめるような詫びの言葉が、抵抗感を帯びながら口に上る。

「…失礼しました」
「まあ良い。では、寄越しなさい」

 思いの外あっさりとシュトッフェルは署名をした。
 これで決定されるわけではないのだが、いわば、摂政の推薦書を貰ったようなものであり、十貴族会議に於いてもかなり優位に話を進めることが出来る。

 しかし、まだ安堵するわけにはいかない。
 グウェンダルはすぐさま背後の扉を開けると、驚くシュトッフェルの目の前で廊下で待機していた副官に預けた。

「…ほう?随分と慎重なことだな」
「一刻も早く伝えてやりたいのですよ。摂政閣下の後ろ盾があれば、寄る辺ない身の上で過ごしていたウェラー領の民やルッテンベルク師団の兵も安心しましょう」
「ふぅん…まあ良い。書類を副官に預けたと言うことは、今日はこの伯父と腹を割って話すつもりはあるのだろう?」
「勿論。久方ぶりのご挨拶ですからな」

 間もなく可愛らしいお仕着せをきた侍女がしずしずと茶器類を運び、香気溢れるお茶を注ぐと退室していった。  
 食い道楽の男だけあって、茶葉はグウェンダルをも満足させるだけの芳香を放っていた。

 少しだけ口に含んで、芳香と味に異常が無いことを確認するとそのまま飲み下した。
 グウェンダルは王族の常として、幼少の頃から舌を毒に慣らしているから危険度の高いものは大抵見分けられる。

「そう警戒するものではない。何も入ってはいないぞ」
「そのようなつもりでは…」

 どうも居心地が悪い。
 シュトッフェルは不思議なほど機嫌が良く、グウェンダルの警戒や準備を軽く受け流す余裕さえ見られるのだ。

 もしや、部屋の中に妙な香でも焚いているのでは…とも思ったが、密かに嗅覚を集中させても反応はない。
 
『…何のつもりなのだ?』

 あれほど強く北の塔から出ることを要求し、破格の条件としてルッテンベルク師団とウェラー領の安全を約束したのだ。それ相応の見返りを期待しているとしか思われないのだが…。

 その時、扉をノックする音が響いて侍女が来客を告げた。

「来客か…お邪魔ですかな?」
「よいよい。そのまま座っていなさいグウェンダル…久方ぶりに弟と対面できるのだから」

 《弟》という言葉にぎくりとするが、入室してきたのは二人とも鮮やかな金の巻き毛と碧眼を持つ男達…フォンビーレフェレルト卿ヴァルトラーナとヴォルフラムであった。

「兄上?」
「ヴォルフラム…」

 確かに弟には違いないのだが、何処かでコンラートを思い浮かべていたグウェンダルは肩すかしを食ったような気分になる。

「非常に重要な話があるのだよ、グウェンダル。眞魔国の行く末に関係する話だ…。眞魔国の未来を担うお前達に、しっかりと語っておきたい」
「それはそれは…大層僕たちを買ってくれているものですね」

 ヴォルフラムの口調と態度はグウェンダル同様に厳しい。この弟は父方の親族であるヴァルトラーナについては敬愛しているのだが、その同胞と見なされているシュトッフェルに対しては常にこのような態度だ。
 おそらく、ヴァルトラーナ自身もシュトッフェルに対して同胞という意識はなく、あくまで《同じ派閥》という程度の認識であるに違いない。

「実はな、お前達も知っての通り…眞王廟は現在、全く内部と連絡の取れない状況に陥っておる」
「…っ!」

 噂にはなっていたが、まさかそれがシュトッフェルの口から出てくるとは思わなかった。

「理由は分かっているのですか?」
「ああ…命からがら逃げ出してきた飯炊き女が教えてくれたのだよ。眞王廟の巫女達は今…眞王陛下と一体化して、どろどろとした不気味な怪物に成り果てているのだ」
「な…っ…!」

 不敬の極みとも取れる告発だ。
 だが…眞王を最大の後ろ盾とするシュトッフェルが、こんな嘘を付いてもしょうがない。彼の発言だからこそ、それは真実味を帯びて伝えられた。

 蒼白になるグウェンダルとヴォルフラムとは対照的に、ヴァルトラーナは平静な顔をしている。信頼関係は無いとはいえ、流石にこの辺りの事情では連携しているのだろう。

「戒厳令を引いたところで何時かは漏れる。こうなれば、事が表沙汰になる前に手を打たねばならん」
「その手段が、僕を第27代魔王に就任させることだというのですか?後は世襲制によって魔王職を引き継いでいくと…」
「そうだ」

 驚くべき発言にグウェンダルは眉根を寄せる。
 それは以前からビーレフェルト家が強く主張していた案だが、シュトッフェルは頑なに《新たなシュピッツヴェーグ家の嫡子を次代の陛下に》と望んでいたはずだ。それがここに来て折れたのは、何か見返りがあるからだろうか?

 しかし、シュトッフェルは更に重ねて驚くべき提案をしてきた。

「そしてグウェンダル…お前が、私に代わり摂政位につくのだ」
「…っ!」

 あまりにも甘い提案に、グウェンダルはその影に潜んでいるだろう苦みを推測して眉根を寄せた。

「後ろ盾には何を頼みにされるおつもりか?もしや…《地の果て》ですか?」
「おお、流石は知謀髄一と言われるグウェンダル。察しが良いことだ」

 なるほど、《地の果て》の鍵として最も高い可能性を持っているだろうグウェンダルを説得するための《餌》として、摂政職を使おうというのか。

 しかし何故だろう?てっきりもっと卑怯な手管を用いてグウェンダルを使うと想定していたのだが…。正直、このように手を明かした上で《説得》してくるなどとは想像していなかった。

「馬鹿なことを…!」

 叫んだのはヴォルフラムだった。

「《地の果て》の力を用いるなど…。先だって、大陸の愚かな人間達が甚大な被害をもたらしたばかりではありませんか…!大陸は巨大な裂隙によって引き裂かれ、人間達は怨嗟の声を上げながら屍の山を築いていると…。何とか救い出されたウルヴァルト卿エリオルも左目を失っているではありませんか。兄上をそのような目に遭わせるおつもりか!?」
「あれは誤った鍵を用いたせいだ。そもそも、奴らは考え違いをしている。《禁忌の箱》はあくまで我ら魔族の祖先が生み出ししもの…それを、人間如きが使いこなせるはずも無かろう?また、魔族が使うとしても正しい鍵が操るのでなければ制御不能になるのは当然だ」

 シュトッフェルの声は気持ちが悪いくらいの猫撫で声で、背筋がざわつくような嫌悪感を感じる。それなのに、聞かずにはおられない力をも持っていた。
 これが多くの人々の嫌悪を受けながらも、摂政としての地位を維持してきた男の能力なのだろうか?

「のぅ…ヴォルフラム、お前の兄であれば強い意志の力で《地の果て》も操れるとは思わぬか?ただ、私もそのように危険性なものを直接的な武器として用いようと考えているわけではない。《いざとなったら使えるのだ》という形で、他国への威嚇に用いたいのだよ」
「それは…」

 その会話で、漸くグウェンダルもシュトッフェルの思惑が飲み込めた。
 現状を考えると、シュトッフェルとしてはこれしか選択肢がなかったのだ。

 《地の果て》を後ろ盾にするためにはそれを好きなときに使えるよう制御しなければならない。少なくとも、制御できるのだという可能性を示さねばならない。
 だが、その鍵と目されているグウェンダルをその気にさせる為には、あらゆる《餌》を提示するしかない。
騙したり脅したりすれば逆襲される可能性が極めて高いからだ。
 
 そうであれば、今の内に恩を売れるだけ売っておいて、魔王と摂政の伯父として政界に影響力を留めようと考えたのだろう。幾ら嫌っているとはいえ、自ら摂政職を退いて譲る形を取られてしまうと、グウェンダルとしてもそう無碍には扱えなくなってしまう。
 義理堅さを見込まれてのことなのだろうが…何とも薄ら寒い話である。

『どうする?』

 色々と欠点はあるものの、ヴォルフラムは基本的には真っ直ぐな性根を持っており、摂政としてグウェンダルが補佐できれば良い王になるのではないかと思われる。
 だが…これは、親族内で政治や国家を私する談合ではなかろうか?
 それに、背景にまだ何かあるような気がしてならない。

 脳内では盛んに警報が鳴り響く。
 この男は信用に足る男ではない。知っている…知りすぎるほどに、知っているはずなのだ。

 …にも関わらず、提示された条件はグウェンダルにとって何と甘い響きを持つことだろう?

 《ふぅ……》重い息を吐き出して、グウェンダルは結局決断してしまった。

「…その話、お受けするためには条件が必要です」
「なんだ?遠慮無く言ってみなさい」
「《地の果て》の検分は行いますが、箱に入る等の実験は御免被ります。エリオルが反応を示している以上、近い鍵である可能性は高いですが、私が正しい鍵と決まったわけではないですからな。私もまた異なる鍵であった場合、確実に《地の果て》は暴走する…。私は、眞魔国の破壊者として名を残すことは避けたいです」
「うむ、そうだな。少し距離を置いて検分してくれるのなら問題なかろう。やはり、検分だけはどうしても必要だからな。一度もお前が傍に寄った事がないのに、如何にして鍵であると判明したか追求されては困る」

 シュトッフェルは機嫌良く頷くと、すっかり醒めてしまったお茶を侍女に命じて下げさせ、酒肴を運ばせて宴会を始めようとした。
 流石にそれは辞去して、ヴォルフラムと共に部屋を出る。ヴァルトラーナはシュトッフェルと何か話を詰めるつもりなのか、部屋の中に残った。

「ふ…」

 兄弟はどちらからともなく溜息をつく。
 何かこう…胸にもやもやとしたものが残る、嫌な会合であった。

「兄上…本当に、僕が王としてやっていけるとお思いですか?」
「教育次第だろう」

 慰めるように肩を叩くが、ヴォルフラムは物憂げな表情を消すことが出来ない。
 彼もまた、自分が《釣られている》のではないかという疑念が拭えないのだろう。

『眞王陛下を頼みに出来ない時代に入るのであれば、常に不安に晒されるのが当然なのだろうか?』

 考えても見れば、眞魔国の民は4000年もの長きにわたって眞王という絶対的な価値観の元、最終的な決定を下してきた。いや、下して《貰ってきた》と言っていい。
 その結果が良かろうが悪かろうが、眞王を否定する者には確実な罰が与えられたから、もはや眞王という価値観は魔族にとって絶対的なものとなっている。
 それが失われた世界とは、こんなにも不安感をもたらすものなのだろうか?

 グウェンダルとヴォルフラムは、重い沈黙を振り払うようにして血盟城を後にした。



*  *  * 




「グウェンダルは随分と警戒しているようだな」
「だが、承諾した。不快感や嫌悪を感じていようが、思うままに転がってくれればそれで良い…政治家としての面目躍如と言うところかな?」
「ふん…自画自賛か、卿らしいな。だがまあ…私にも意外だったよ。卿がここまで譲歩するとはな…」
「八方塞がりの状況で、全てが欲しいと念じたところで詮無いことだ。ならば最上ではなくとも、より良い選択をせねばならんだろう?」

 美酒に酔いしれるシュトッフェルは鷹揚に微笑む。
 その様子を見守りながら、付き合いの長いヴァルトラーナは奇妙な違和感を覚えていた。

『この男…何を考えているのだろう?』

 シュトッフェルの下した決断自体は盟友として問題のないものであったから、ヴァルトラーナとしては諸手をあげて許諾して良いはずなのだが、何が問題かと言えば…この遣りようがあまりに《シュトッフェルらしくない》ことであった。

 《盟友》と呼ぶにも躊躇するくらい、シュトッフェルという男は本来見苦しいほどに執着心の強い男なのだ。露骨すぎるくらいに、それは明確な印象であった。
 それが後ろ盾を得るためとはいえ、摂政職を天敵とも言えるグウェンダルに譲ろうという発想は、ヴァルトラーナの想定には皆無であった。

 理屈は通っているのに、《シュトッフェル》という存在に通りが悪い。そんな印象だ。

『油断無く、目を配ってやらねばいかんな…』

 ヴォルフラムとグウェンダルによる国政を敷いても、何らかの方法で奪回策を考えているとしか思えない。それが後々大きな禍根を残すものであれば、一時の欲に駆られて片棒を担ぐのは御免だ。

 特上の美酒であるはずなのに、口に含んだ葡萄酒はやけに苦みが強かった。



*  *  * 




 現在《地の果て》を安置しているのは、国境沿いにあるシュピッツヴェーグ領内の砦の中である。《私物化されるのでは》という懸念も搬送したヴォルテール軍内にはあったのだが、結局押し切られる形で安置されることになった。

 《箱だけあっても、鍵がなければ使えまい》と言われれば、確かに抗弁の余地はなかったのだ。

 その《地の果て》に今…鍵が近づこうとしている。
 年の暮れも押し迫ったこの時期、雪深いシュピッツヴェーグ領にグウェンダルは踏み込んでいったのだ。

 グウェンダルは万一を考えてヴォルテール軍と共にシュピッツヴェーグ領入りすることを希望したのだが、この要望は予想外にあっさりと許可された。威嚇の意味で軍規模を臨戦態勢にまで高めて入っても、なおシュトッフェルは鷹揚に振る舞っていた。

 ここまでくると、流石にグウェンダルも舌を巻くしかなかった。
 今回に限っては、伯父を評価すべきなのかも知れない。少なくとも、その腹の座り方についてはそうだ。

「ですが、油断召されるな…。あの古狸のこと、まだまだ何を考えているか分かりません」

 従軍してきたエオルザークは、グウェンダルの決断を聞いたときから強い懸念を示し続けている。それも当然のことで、あれほど強く《利用されてなるものか》と言っていたグウェンダルが言いくるめられてしまったことに、怒りに近い感情を持っているに違いない。

「分かっている。警戒を解くつもりはないし、私自身が直接《地の果て》に触れるつもりはない」
「そうだと良いのですが…上手いこと言われて、ひょいひょい箱の中に入ったりしないで下さいよ?」
「…入るか!全く…いつからその様に嫌みな男になったのだ?」

 ちくちくと横合いから嫌みを言い続けるエオルザークに、グウェンダルはいい加減辟易した様子であった。

「決まってます。それは、閣下の代行に疲れ果ててしまってからですよ。どうにも、私には過大に過ぎる責務です。やっとのことで権限をお返しできましたから、おそらく数年で毒出しを完了できますよ」
「私は毒漬けでも構わんと言うことか?ヴォルテール軍の統制どころか、眞魔国全体を背負わねばならないのだぞ?」
「ご自分で選ばれた道でしょう?」
「……」
 
 どうにも形勢不利と見て、グウェンダルは沈黙で答えた。
 気まずい間(ま)を解消してくれたのは、砦の厩番をしている老人だった。

「閣下、手綱を預かりましょう」
「うむ…」

 愛馬を厩番に任せると、グウェンダルはシュトッフェルに勧められるまま砦の内部に脚を踏み入れた。

 グウェンダルとしては、十分に警戒をしているつもりであった。
 だが…どれ程注意を払っていようが、何事にも限界というものがある。


 一体誰が、自分の踏みしめている大地が…突如として襲いかかってくるなどと予想できるだろうか?


 ゾロォオ…っ!!


 突如して足下がゲル状に歪んだかと思うと、じゅるじゅると伸び出す暗紫色の触手がグウェンダルの背丈を越えて取り囲み、瞬く間にその身を拘束する。

「く…っ!」
「閣下ーっっ!!」

 エオルザークが剣を振るって触手を断ち切り、他の兵士達も抜刀したが、次々に現れる触手はぐぅん…っとグウェンダルの身体を奪い取ると勢いよく大地を滑っていった。

 大柄なグウェンダルの体躯が、まるで馬に引っかけられた人形のように為す術もなく連れ去られていく…。

『見つけた…見つけたぞぉお…っ!』
『鍵だ鍵だ鍵だ……っ!!』
『これぞまさに、我が半身たる正統な鍵…っ!』
『礼を言うぞ魔族共…』
『正しき鍵の元に、我を運んでくれるとはな…!』

 ゲララララララ……っっ!! 

 歓喜を示す哄笑が、砦を取り巻く峡谷全体に響き渡った。

 

*  *  *

 


 エオルザークは慄然としながらグウェンダルを追いかけていくが、無数の触手に絡みつかれた主からはどんどん引き離されていく。
 なんと言うことだ…警戒していたはずなのに、何故こんな事になってしまったのか…!

「おのれ…おのれ、《地の果て》め…っ!」

 エオルザークははっと思いつくと、反転してシュトッフェルのもとに走った。このまま直線経路を辿っていたのでは絶対グウェンダルに追いつけるはずもない。ならば、誰よりも砦の構造を熟知しているシュトッフェルに、近道がないかどうか尋ねるつもりだったのだ。

 だが…どうしたものか、シュトッフェルは呆然としてへたり込んでいるではないか。
 寄っていけば、何故だかがくがくと震えて《馬鹿な…馬鹿な…》と繰り返している。よほど《地の果て》の具現化した姿が怖かったのだろうか?

 いや…よく見ると、グウェンダルが浚われるに際してシュトッフェルは触手によって腕を傷つけられていたらしい。血が滲む程度ではあったが、おそらく自分の身が鮮血で汚れることなど体験したことがないであろう彼にとっては、十分に恐るべき体験であったようだ。
シュトッフェルの声はどこか調子はずれで、先程までの余裕は一体何処に行ったのかと呆れてしまう。

 だが、エオルザークとしては落ち着くまでとても待ってはいられない。

「摂政閣下…《地の果て》を置いているのはどの部屋ですか?」
「馬鹿な…。何故だ…っ!?開放されれば、私の統率下に入るはずではなかったのか…。《あやつ》はそう約束してくれたのに…っ!」
「《あやつ》…一体誰のことです?」

 ぎくりと心臓が弾んだ。
 やはり…この男が妙に鷹揚な態度を取っていたのには、何か良からぬ裏付けがあったのだ。

「ち…《地の果て》だ…。他の三つの箱に先じて開放してくれれば、必ずや私に便宜を図ってくれると約束してくれたのに…。これでは、約束が違う…!」
「はぁあ…っ!?」

 思わずエオルザークの声が裏返ってしまう。

 何ともまあ…呪われた箱の言うことを信じて、あのような大盤振る舞いをしたというのか?《地の果て》に便宜を払うことで、気が向けばいつでも摂政職など取り戻せると思っていたのか…。

 今すぐ殴る蹴るの暴行で息の根を止めてやりたいところだが、そんなことをしている暇はエオルザークには無かった。

「誰かおらぬか…っ!この気狂いを捕らえろっ!!それから、《地の果て》の置き場所を知っている者は俺と共に来いっ!グウェンダル閣下をお救いするぞ!」

 エオルザークの意気に反して、砦の兵で積極的についてくる者はいなかった。
 困ったことだ…シュトッフェルはヴォルテール軍の兵士が拘束したものの、砦内部の構造はシュピッツヴェーグの者でなければ分からない。

『くそ…っ!こんなことなら、そのまま閣下を追跡するんだった…っ!』

 悔やんでいても仕方がない。
 エオルザークは苛立ちを込めてシュトッフェルの胸を一蹴りすると、覚悟を決めて砦の中に突入していった。





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